「知研読書会」ーー今日のテーマは「人間」か。私は『私の死亡記事』(文芸春秋)を紹介した。

知研読書会は、はや9回目になる。

今日の読書会もいろいろな本を紹介してもらって楽しかった。「行動経済学」「幸せ」「無意識」「死」などの解説を聞いたが、すべてテーマは「人間」であった。聞きながら二つのことを感じた。

  • 「人間とは何か」をさまざまな方向から論じている。
  • 「人間とは、、、である」という一般化はできないのではないだろうか。

そして、この4冊の本は、「自分はどう生きるべきか」という問いに収斂していく。

私は『私の死亡記事』(文芸春秋)を紹介した。ネクロロジー(死亡記事、物故者略伝)というのだそうだ。どういう死に方をするかを、自分で書いくという前代未聞の企画だ。発刊は2000年。死因と何歳で死ぬかという享年が面白い。

「死因」:熊に食われる。モチ窒息死。ゴルフ中。梅干しの種がのどに詰まる。首吊り。旅先。心臓麻痺。安楽死。バナナの皮ですべって脳挫傷。射殺。天寿。ケンカ。ゴルフ中に谷に転落。ヒットマンによる射殺。喘息発作。腹上死。、、、

「享年」:ほとんどの人は実際の死の年齢に近い年齢をあげているが、何人かは違う。人間の限界と言われる120歳が数人いた。そしてシニアオリンピック130歳超の部で参加3回という剛の者もいる。

西部邁(評論家)は「78歳で自死」と書いてあったが、それから17年後に実際に多摩川で78歳で自裁している。60歳ではすでに死に方と時期も決めてあったのだ。「死に方は生き方の総仕上げだ」との考えだった。「生の最後を他人に命令されたりいじり回されたくない」と、右派の論客らしいことも書いてある。この人の生き方、死に方には感銘を受けた。

岩見隆夫(政治評論家)は、桜前線に合わせて徒歩で日本列島を北上、そして夏祭りをたどりながら南下し、各地の銘酒を訪ね歩く、と書いてある。私も春の桜前線と秋の紅葉前線をたどりながら、日本全国を北上、南下の旅をするのがいつか果たしたい夢であるので、共感した。

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「名言との対話」10月29日。井伊直弼「一期一会」

井伊 直弼(いい なおすけ。文化12年10月29日(1815年11月29日)-安政7年3月3日(1860年3月24日))は、幕末譜代大名近江彦根藩の第13代藩主。幕末期の江戸幕府にて大老

直弼は17歳で300俵のあてがい扶持をもらい北の御屋敷に住む。ここを埋木舎(うもれぎのや)と名付け、15年間の部屋住み時代を過ごす。この時代に、禅、居合い、兵学、茶道、国学、歌道、古学などの教養を積んだ。藩主の死去によって36歳で彦根藩主とななり幕閣で頭角をあらわす。13代将軍家定の継嗣問題で幕府は揺れたが、1858年に直弼は大老に就任し家茂を将軍と決定し、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、反幕府運動を徹底的に弾圧する。大政委任を受けた幕府が「臨時の権道」をとるのは当然であり、「重罪は甘んじて我等一人に受候決意」だった。不忠の臣とも、開国の恩人ともいわれ、時代によって評価には振幅がある。

「井伊の赤鬼」と恐れられたし、明治政府からすれば大罪人ということになり厳しい評価にさらされているのだが、NHK大河ドラマの初回「花の生涯」で描かれたように第一級の教養人であった。「一期一会」は井伊直弼の『茶湯一會集』の巻頭に出てくる井伊直弼の造語として知られているが、もともと千利休の弟子山上宗二の著書にあったものだ。それを井伊直弼は自分の茶道の心得とし、井伊の言葉が広まったと言われている。

世に埋もれている時期も、そして幕府の要職をつとめる時も、「人は上なるも下なるも楽しむ心がなくては一日も世を渡ることは難しい」という心持ちで過ごしたのである。「一生に一度」の決意でものごとに当たる心構えの井伊直弼は暗殺で斃れることはもとより覚悟の上であった。「一期一会」は厳しい言葉であると改めて思う。