「旧中島家住宅」(中島知久平記念館)ーー中島知久平は中島飛行機製作所の創業者。

先日の群馬の旅で、思いがけず、中島知久平のことを深く知る機会があった。

2日目に訪れた太田市の史跡「金山城址」で、新田神社への途中の中島公園銅像があった。中島飛行機の創業者の中島知久平だった。

中島 知久平(なかじま ちくへい、1884年明治17年)1月1日 - 1949年(昭和24年)10月29日)は、日本の海軍軍人、実業家、政治家である。中島飛行機製作所の創業者である。

3日目に地図で目に入った旧中島家住宅を訪ねると、そこは中島知久平の旧宅だった。1万坪の敷地に建つ大規模住宅。同時代に大阪城の復興天守の建設費の47万に対し、100万円の建設費だったというからその壮大さがわかる。車寄せから入る応接室、客室部、居間部が中庭を取り囲むように設計されている。この家からは利根川の河川敷に設置された滑走路が見えたそうだ。今は、句指定重要文化財になっている。

 

 

 

海軍兵学校出身の豊田穣『中島知久平伝 日本の飛行機王の生涯』(光人社NF文庫)を読んだことがある。今回、この二つをみることができ、理解が深まった。

中島知久平は群馬県太田市出身。海軍機関学校に入学し、飛行機に関心を持つ。任官後もその重要性を主張して、航空機関係の職務を歴任した。

1917年、海軍を大尉で退官し、郷里の群馬県太田市に飛行機研究所を設立した。この研究所は、中島飛行機株式会社に改組される。名機といわれる九一式戦闘機、有名な「隼」や「紫電改」をはじめ126種の飛行機を開発し、太平洋戦争終結までに約2万6000機を生産した巨大な航空機メーカーとなった。
1930年、中島は衆院議員に当選し、政友会の幹部となる。第1次近衛内閣では鉄道相、東久邇内閣で軍需相(のち商工相)に就任した。戦後はA級戦犯に指定されたが、のちに解除された。

中島は大艦巨砲主義を時代遅れとし、空軍独立などを唱えたが、容れられないとみると、自身の手で飛行機を開発する挙にでて成功している。中島の考えは、以下の通りだ。

・貧乏国日本が列強並みに建艦競争をつづけるのは、国費のムダづかい。そんなことをしていてはやがて行き詰る。
・能率的軍備に発想を切り替え、二艦隊(軍艦八隻)をつくる費用で、八万機の航空機を作るべし。

・米軍の大型爆撃機が量産に入れば日本は焼け野原になる

・経済的に貧しい日本の国防は航空機中心にすべきであり、世界の水準に追いつくには民間航空産業を興さねばならない。

「不肖、爰(ここ)に大いに決するところあり・・・海軍における自己の既得並びに将来の地位名望を捨てて野に下り、飛行機工業民営起立を劃(かく)し、以ってこれが進歩発達に尽くす」

中島知久平をあらわす言葉は、この本の中に散りばめられている。不羈奔放。気宇壮大。巨視的で先見の明がある。雄大な構想を持つ愛国者。決断と断行。異才。大器。飛行機王。予言者。リアリスト。ロマンチスト。統率力とバイタリティ。、、、、

中島飛行機の創業者・中島知久平は、戦後は大型旅客機をつくり平和に貢献したい、と語っていたが、その時間は与えられなかった。またアメリカと同じように自動車の時代がくると予言し、自動車工業を盛んにすべきだと説いている。中島飛行機の技術と人材は、富士産業、富士重工業、そして現在のSUBARUにつながり、今日の自動車産業の隆盛に一役買っているのである。

日本は焼け野原となったが、日本の科学技術は欧米に劣るものではなく、「日本の復興は意外に早いと思う」と予言している。「何よりも大切なこちは、精神的にまいらないことだ」。心理的敗北感をいつまでも持たないで、精神的にまいらずに、気持ちを復興させることを提言している。

2023年現在の日本は1990年代初頭からの30年間で、デジタル時代に対応できず、経済のみならず、精神的にもまいっている状態になっている。中島のいうとおり、「精神の復興」から始めよう。

中島知久平伝―日本の飛行機王の生涯 (光人社NF文庫)

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「名言との対話」3月23日。山川均「しかし最後に笑うものがよく笑うものだ」

山川 均(やまかわ ひとし、1880年明治13年)12月20日 - 1958年昭和33年)3月23日)は、在野の経済学者で、社会主義者社会運動家思想家評論家

岡山県倉敷生まれ。同志社に学ぶ。堺利彦荒畑寒村らと1927年昭和2年)に『労農』を創刊し、共同戦線党論を展開した、労農派マルクス主義の指導的理論家であった。山川は向坂逸郎らと共に社会主義協会において非武装中立論を説き、日本社会党に強い影響を与えた。山川は復興時非武装中立論を説いたのであり、ソ連の脅威を十分に認識した上での将来的な武装を認めていた。

社会主義運動の中心人物の一人であった本人が「青年時代の大部分を獄中で過ごした」というように、20歳から51歳で第一線の運動から引退するまで、常に監獄に入っている。そして30代後半からの論文などの著述も多い。波乱万丈の生涯だったとみえるが、本人は単調で変化のない生活であり、通りいっぺんの凡人の歩んだ平凡な道であるといい、自伝には「ある凡人の記録」というタイトルを用いている。

不敬罪巣鴨の監獄に入るまでは無軌道で思い上がっていた。監獄の独房生活で、自分は危ない岐路にたっている無知で無能な一青年に過ぎないと気がつく。社会主義も胃の腑の問題であり、経済の問題であるとわかり、経済学史から始めて代表的な書物を年代順に読み進む。監獄は勉強にいい。本人にとっては3年半の刑期は短かすぎたそうだ。

36歳での再婚の相手は、10歳年下の山川菊枝である。日本における婦人解放運動の思想的原点となった女性である片山内閣の初代婦人少年局長。夫・山川均没後22年生きて活躍した。『覚書 幕末の水戸藩』で大佛次郎賞受賞。死去の翌年に山川菊枝賞が設立され2014年まで続いた。その菊枝は『山川均自伝』の「あとがき」で次のように均を描写している。

「無口で、気むつかしく、ウイットに冨み、鋭利な皮肉を、うっかりしていると気づかずにすむほどさりげない、デリケートないいまわしでいったりする」「堺君はタタミの上で死にたくないというが、僕はタタミの上でも死にたくないよ、とよくいったくらい、英雄的ではありませんでした」「寸鉄殺人的な彼の舌の動きは、、、名人芸」

自伝の中には思想家、実践家が多数登場する。その人物論も興味深い。幸徳秋水は、鋭いキリが柔らかなもので包まれていた。堺利彦は、崇拝の対象とするには不向きな人だった。大杉栄は、非凡であった。説よりも人物が人をひきつけた。、、、。1908年の金曜会事件下獄記念で撮影した、28歳の山川、36歳の堺、23歳の大杉の3人の写真をみると、それぞれ一廉の人物であったことがわかる風貌だ。

山川均は言う。「最後の勝利をうるまでは、おそらくわれわれは何度も負けるだろう。あるいは負け続けるかもしれない。なぜならば、われわれが負けなくなった時は、われわれが最終的に勝つ時だから。われわれは負けることによっても強くなることができる」、そして「しかし最後に笑うものがよく笑うものだ」と。

山川均自伝―ある凡人の記録・その他 (1961年)