漱石の手紙ーー妻・鏡子へ「学問。大丈夫。大主眼。大活眼」

漱石山房記念館だより」第12号が届いた。

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新宿の「漱石山房記念館」。2017年に新宿区立漱石山房記念館が開館した。私は夏目漱石には大きな影響を受けており、東京に記念館がないのを不思議に思ってたので創立時に10万円の寄付をしたこともあり、館内のプレートに名前が載っている。

12号は「漱石の手紙」についての論考が載っている。漱石は手紙魔であり、手紙文の名人だった。小説にはあらわれない人生観、処世術などが書かれているので興味深い。漱石(金之助)がロンドン留学中に妻・鏡子に宛てた「学問」についての考察がいい。

以下を中川越(手紙文化研究家)らの文章からピックアップ。

  • 君方は新時代の作家になる積でしょう。僕も其積であなた方の将来を見てゐます。どうぞ偉くなって下さい。然し無暗にあせっては不可めせん。ただ牛のやうに図々しく進んで行くのが大事です。(49歳の漱石が24歳の芥川龍之介久米正雄に宛てた手紙から)
  • 君が虚子から小言をいはれるのは君に取って結構な事だと思ふ。君と虚子の間に立て切ってある障子一枚をあけ放って見よ。春風は自在に吹かん。妄言多罪。(門下生の野村伝四への手紙)
  • 学問は智識を増す丈の道具ではない。性を矯めて真の大丈夫になるのが大主眼である。真の大丈夫とは自分の事ばかり考へないで人の為世の為に働くといふ大な志のある人をいう。然し志許あっても何が人の為になるか日本の現在ではどんな事が急務か夫々塾考して深思せねば容易にわからない。是が智識の必要なる点である。大丈夫の人格を備へて又知識より得たる大活眼を有する底の男にならなければ人に向って威張れない。いよいよ細心に今から其方向へ進行あらん事を希望します。今の内の一挙一動は皆将来実となって出てくる。決してゆるかせにしてはいかぬ。人間大体の価値は十八九二十の間にきまる。慎み給へ励み給へ。其許もよく気をつけて二女を養育あるべく候、、、(金之助 鏡子どの。明治36年1902年3月10日付)

寺田寅彦漱石が亡くなった時に書いた文章から。

  • 色々な不幸の為に心が重くなったときに、先生に会って話をして居ると心の重荷がいつの間にか軽くなって居た。不平や煩悶の為に心の暗くなった時に先生と相対して居ると、さういふ心の風雲が綺麗に吹き払はれ、新しい気分で自分の仕事に全力を注ぐことが出来た。先生といふものの存在そのものが心の糧となり医薬となるのであった。

この記念館(月曜休館)から徒歩10分で早稲田大学国際文学館「村上春樹ライブラリー」(水曜休館)がある。開催中の「漱石修善寺の大患と主治医・森成鱗造」展を訪問しよう。

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「名言との対話」4月15日。大黒屋光太夫「エトチュア(これなに)?」

大黒屋 光太夫(だいこくや こうだゆう、宝暦元年(1751年) - 文政11年4月15日1828年5月28日))は、江戸時代後期の伊勢国奄芸郡白子(現在の三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭。享年76?

太夫は石積神昌丸の船長として16人で江戸に出航し、遠州灘で大きな時化に襲われ、太平洋を7カ月にわたって漂流し、アリューシャン列島の小島に漂着。4年後、カムチャッカに移る。その2年後、ロシアの政庁のあったイルクーツクに移る。このとき、仲間は6人となっていた。1768年創立の日本語学校の教師となるように説得され、2人は受け入れている。ここで帝室科学アカデミーの会員である博物学者キリル・ラクスマンに出会う。ラクスマンの師匠は5代将軍綱吉とも面談し、1972年に『日本誌』を書いたケンペルだった。

首都ペテルブルグで当時の女帝・エカテリーナ2世に謁見し、帰国を許可された。キリルの次男アダム・ラクスマンが派遣され、光太夫ら3人が9年半ぶりに日本に帰着した。光太夫ら2人は江戸番町で30年余の軟禁生活を余儀なくされる。鎖国していた日本国内への影響を心配したのだ。光太夫は当時の知識人たちとも交流している。11代将軍徳川家斉の治世で、当時の老中・松平定信桂川甫州に聞き取りをさせ、北槎聞略著し蘭学発展に寄与する。

この数奇な運命に翻弄された大黒屋光太夫の生涯は、1968年の井上靖おろしや国酔夢譚』、2003年の吉村昭『大黒屋光太夫』で紹介された。また、光太夫は映画、ル歩、漫画、舞台、オペラ、浪曲などで多く取り上げられた。

みなもと太郎風雲児たち 大黒屋光太夫』(漫画)を下敷きにしたユーチュブの映像をみた。マイナス50度にもなる極寒と飢えに耐えて、ユーラシア大陸を横断し日本へ戻る物語で、波乱に満ちた大冒険の生涯の一端が理解できた。2005年に鈴鹿市に大黒屋光太夫記念館が開館している。

この動画の中で、光太夫がロシア語を学ぶ様子が描かれている。最初に覚えたのは「エトチュア」であった。「これ何?」の意味だ。探検家が海外で異言語に接するときは、物を指して「これ何?」と問い、答えを覚えていく方法が早く覚える道だという。毎日繰り返し数百の単語を知れば日常生活に問題はなくなるのだ。同じく漂流民であった高田屋嘉兵衛、ジョン万次郎らも同様であり、子どもが言葉を覚えていく道と同じのようだ。探検家でもある梅棹忠夫は、外国語なんて簡単だという。この方式で覚えて、帰国するとすぐに忘れてしまう。それでいいという。

太夫や万次郎らは、もともと知性が高く、そういったやり方を続けることで、外国の社会の構造、政治の仕組み、物産、人情などについて深く分け入ったのだろう。同じ漂流民でも、知的好奇心のない場合は、体験が知識にまで昇華せず、参考にならないケースも江戸時代には報告されている。

新しい事件、事態、物品、そして国や民族、流行などについて、「これ何?」という好奇心を持ち続けたいものだ。大黒屋光太夫からはこのことを学んだ。吉村昭『大黒屋光太夫』(新潮文庫)を読んでみよう。