妻と神奈川近代文学館で「小津安二郎」展。2023年は生誕120年、没後60年だ。1903年12月12日ー1963年12月12日。誕生日に死去。
小津安二郎の言葉。
- 僕の映画がね、まあ、外国人にも、いつか判るよ。(2012年「東京物語」が世界の映画史上で、映画監督による投票で1位、批評家投票で3位)
- 「日本的なもの」が「一番世界的に通用する」(北大路魯山人「今に諸外国の人間が日本に来ることは、日本の刺身が食いたいためである、と言われるまでに至るであろうことが想像される」(1960年)。
- 芸に携はる人間は――少なくとも芸だーー何より、自分の個性に、自分の気質に、従順であり度い。そしてその上で最善を尽くす可きだ。このことが、日本映画をよくする唯一のものだ。
- 今年は大酒を慎まう。いい仕事をすべし。映画も大いに見よう。あまり欲を出さぬこと。 身体を大事にすること。(1953年1月1日。この年『東京物語を製作。50歳)
- 余命いくばくもなしと知るべし。酒は緩慢なる自殺と知るべし。(1961年の年頭所感)
- 僕の生活条件として、なんでもないことは流行に従う、重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従うから、どうにもならないものはどうにもならないんだ。
- ボクは自らトウフ屋の看板をかかげているんですよ。
- 俺は豆腐屋だ。がんもどきや油揚げはつくるが、西洋料理はつくらないよ。
小津安二郎の世代は、複数の戦争とその間の平和の時代だった。松竹入社の翌年に1年の兵役。監督5年目の満州事変で33歳の老兵の兵役で1年10カ月。太平洋戦争で陸軍報道部の国策映画担当でいくつかが制作中止。
24歳での監督第一作「懺悔の刃」から、年間数本の多作。
帰国時は42歳になっていた。45歳から映画を発表していく。50歳「東京物語」。53歳、松竹と年1本制作の再契約。「早春」「東京暮色」「彼岸花」「お早う」「浮草」「秋日和」「小早川家の秋」「秋刀魚の味」。代表作はこの時期の作品。30代半ばから40代半ばの、働き盛りに戦争に巻き込まれて、遅咲きにならざるを得なかった人だ。その期間は短かった。60歳で死去。
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昼食は、「ロシェ」。
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ユーチューブ「遅咲き偉人伝」の録画。
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「名言との対話」4月16日。小杉放庵「東洋にとって古いものは、西洋や世界にとっては新しい」
小杉 放庵(こすぎ ほうあん、1881年(明治14年)12月30日 - 1964年(昭和39年)4月16日)は明治・大正・昭和時代の洋画家。享年82。
2008年に日光東照宮の近くにある小杉放庵日光美術館を訪問した。樹木や建物が周囲の景観と一体化した立派な美術館だった。鉄骨の構造を視覚的に生かした大屋根は優れた音響効果を発揮するため、季節ごとに室内音楽のコンサートも開催できる空間を持っている。市が出資している財団法人となっている。
日光の二荒山神社の神官の父は平田派の国学者だった。幼名国太郎は尋常中学校1年で退学し、日光の五百城文哉の内弟子となり絵を学ぶ。そして後に小山正太郎の不同学舎に入学する。ここで同窓だった萩原守衛は「天下の俊才は青木(繁二郎)と君(国太郎)と僕ばかりだった」と述べているように、国太郎の才能はずば抜けていたらしい。
20歳となった国太郎は、小杉未醒(みせい)と名前を変え、油を志す。彼はとても器用で、漫画家、挿絵画家などでも活躍するが、交友範囲も広い。国木田独歩、横山大観という年上の大家とも対等の関係を保持していたし、田山花袋などとも親交があった。山口昌男は「時代精神が最も望ましい形で現れるネットワークを形成する力」があったと言っている。
小杉は文展で活躍するが、夏目漱石からも朝日新聞紙上で絶賛されている。また友人の芥川龍之介は「何時も妙に寂しそうな薄ら寒い影がまとはっている」と評していた。
32歳で洋画修行のため渡欧し、ピカソやマチスに傾倒する。しかし、「西洋画は体質にあわない」として日本画へ転向する。そして帰国後は二科会と日本 美術院の再興運動に参加し、日本美術院の洋画部を主宰する。しかしそのいずれからも脱退し、春陽会を結成しその中心になる。ここでは中川一政、萬鉄五郎、岸田劉生、梅原龍三郎らと親交を深めている。
昭和以降はもっぱら日本語を描くようになり、放庵と名を改める。そして風景から花鳥、道釈を対象とする。この道釈とは、良寛など有名な人物を描くことをさしている。
放庵は、写生は重視したが、「自己の想像的自然を創造しなくては画にならないのである」と述べている。
明治・大正・昭和という時代の流れの中で、常に美術界の中心にて、洋画と日本画の狭間で独自の境地を拓いた。洋画と邦画の二筋の道を歩いた。この人物は、短歌、随筆、批評もこなすなど、一筋の道を歩むにはあまりに興味が広く、またそれをこなす才能が備わっていたのであろう。
東大安田講堂の壁画が小杉の描いた代表作のひとつで、「動意」「静意」「湧泉」「彩果」などがある。絵を見てまわったが、洋画にも和風の味がある。風景や動植物は人物画もいい。
以上は2017年12月30日の放菴の誕生日に書いた記事だ。以下、加筆する。私の友人の松田俊秀君が放菴の孫の画家・小杉小二郎さんと親しいこともあり、誘いを受けて、 2020年2月22日に四谷三丁目の美術愛住館で「甦る日々 静かに時は流れ 小杉小二郎展」をみた。友人の日経新聞文化部の中澤義則編集委員のインタビューで小杉画伯に迫る対談も楽しんだ。「恐れないで新しいことにトライしています」「これからもずっと今のペースで続けていきたい」「なにゆえに描くのか。自分の知らない自分探しというところがある」。
その後、松田君から贈ってもらった『耶馬渓紀行』(田山花袋著、小杉放菴画)を読了した。画家の小杉放菴を連れとして、文豪の田山花袋が語る旅行記である。私の故郷・中津から耶馬渓を中心に、ふる里の名勝について、目を開かされた本だ。
中津ではヤバケイクラブ、自性寺、大雅堂、福澤氏邸址、倉の中、中津城址、忘言亭、などが載っている。八面山、山国川、青の洞門、競秀峰、羅漢寺、猿飛、指月庵、三ヶ月池、うるわし谷、それから豊後森、湯布院、飯田高原、別府なども登場する。文中では「好いね」というだけを発言する小杉放菴が描いた絵も掲載されている。
頼山陽、伊藤博文、禅海和尚、平田吉胤、吉田初三郎、朝吹英二、後藤又兵衛、雲華上人、広瀬淡窓、村上姑南、国府犀東、油屋熊八、、、、。
田山花袋は生涯で6度も耶馬渓を訪れている。浅い谷、平凡な水の瀬、少ない樹木、深山の趣のなさ、世離れた感じ、などをは失望することはないという。1916年には日本新三景に選ばれている。
渓流、白亜の土蔵、田舎、トンネル、飛瀑、奇岩というように、文人画の絵巻をひも解くようにだんだんと現れてくるさまは、天下の名山水だという。耶馬渓は、秋、そして春がよい。
青の洞門、羅漢寺、柿坂のような村落、五龍の渓、鮎返りの瀑、帯岩、津民谷、、、などすべて単独で考えてはいけない。耶馬渓は全体として面白い。耶馬渓は人煙近いところに展開されている。人家あり、宿駅あり、街道あり、炊煙ありというところに独特の山水絵巻がひらけている。
田山花袋自身が、鳥瞰図絵師となった吉田初三郎の「天下無二 耶馬渓全渓の交通図絵」で描いたように、深耶馬、裏耶馬、奥耶馬と連なる耶馬渓という山水画の中に入り込み、点描された人物となる感覚を味わったのだ。これこそ、山水画の本質だ。「もり谷の奥に滝ありもみちあり いさゆき見ませわれしるへせん」という花袋の歌碑は玖珠町の三島公園にある。
1926年、約100年前にこの地を訪れた文豪と画伯のたどった道を旅したい気分になってくる。歴史と地理を睨んだ素晴らしい書籍だ。こういう本が「名著リバイバル」として九州福岡ののぶ工房という出版社から出ているのは素晴らしい。この本を紹介してくれた耶馬渓出身の松田俊秀君に改めて感謝する。
時間的に古いものは現代に於いては新しい感覚にあふれている、ということがよくある。異質の空間の接触においては、古いものを新しいと感じることがよくある。相手の文化にないものは自分たちには古くても相手に変化を与えてくれる。時間の流れと空間の広がりの中で、対象と筆法を変化させていく、それが芸術の醍醐味だろう。芸術は進化しない、ただ変化するだけだ。