世田谷文学館コレクション展の、椎名麟三と「あさって会」。

世田谷文学館コレクション展の椎名麟三と「あさって会」。

1911年ー1973年。家庭の問題で家出し、旧制中学を退学。様々な職業を転々とし、貧困生活をなめて、労働運動に参加。2年間近くの獄中でニーチェを知る。投獄されて転向。出所し鉄工会社につとめる。ドストエフスキー『悪霊』に出会い、作家を志す。代表作『英永遠なる序章』など。

草稿や講演メモが展示されていた。細かな文字が端正に並んでいて驚く。拡大鏡が備えてあったのはそのためだ。「俺はガリ版の筆耕屋をやっていたからこんな字が書けるんだ」と埴谷雄高が回想している。

「私の求めたのは、何であったか。ほんとうの自由であり、ほんとうの救いであったのであります」。永遠のテーマであった。世田谷在住の1950年、キリスト教に入信する。

「あさっての会」という戦後派作家の交友会をつくる。親友の梅崎春生、そして武田泰淳中村真一郎野間宏堀田善衛埴谷雄高らがメンバーであった。

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Bingとの対話

「神保町のレストラン」「見どころ」「人物記念館」。

学士会館加藤弘之)。神保町シアタ-(林芙美子壺井栄).

十分な情報をもらった。他の情報と突き合わせる必要なし。情報源のURLがあり詳細を知ることができる。ピンポイントでアドバイスをしてくれるので実に便利だ。外出や旅行の時に役に立つ。

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「名言との対話」4月27日。前島密縁の下の力持ちになることを厭うな。人のためによかれと願う心を常に持てよ 」

前島 密(まえじま ひそか、1835年2月4日天保6年1月7日〉 - 1919年大正8年〉4月27日)は、日本官僚政治家華族。「日本近代郵便の父」。享年84。

新潟県越後市出身。江戸で医学、蘭学、英語を学ぶ。1858年、航海術を学ぶ。1862年、長崎で宣教師のチャニング・ウィリアムズ(立教大学創設者)、古別記から英学を学ぶ。1864年、私塾「倍社」を開く。1865年、薩摩藩の洋学校・開成所の蘭学講師。1866年、幕府の開成所の数学教授。1866年、「漢字御廃止之議」を徳川慶喜に提出。1868年、大久保利通の大阪遷都論を読み、遷都は江戸にすべきと大久保に提言。1870年、大隈重信に鉄道建設の計画案「鉄道憶測」を提出。

1871年、駅逓頭。郵便事業を発議し、東京大阪間で官営の郵便事業が開始。新聞雑誌の低良送達の道をひらく。1872年、郵便報知新聞(後の報知新聞)創刊に関与。定飛脚問屋に陸運元会社(後の日本通運)を設立させる。日本帝国郵便蒸気船会社が誕生、1875年には岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社(後の日本郵船)を補助する。1873年、新聞原稿の送料を無料とする。同年、まいにちひらがなしんぶんを創刊。1875年、郵便為替を開始。同年に東京と大阪で郵便貯金を始める。

1876年、視覚障碍者のための訓盲院の設立に努力し1879年に完成。

1877年、駅逓局長。前島の主張に沿って、第一回勧業博覧会が開催される。1880年日本海員救済会を発足させた。1878年元老院議官を兼任。1879年、内務省駅逓総監。1881年明治14年の政変で下野し、大隈重信らと立憲改進党を創立。

1882年に創立された東京専門学校(後の早稲田大学)に参画、1887年には大隈重信の後を受けて校長に就任。関西鉄道会社社長。

1888年逓信次官となり、1890年に官営の電話交換業務を開始する。1894年、北越鉄道社長。1902年、男爵。1904年、貴族院議員。

以上、目まぐるしい生涯を送っている。明治の国家建設に必要な新しい事業を手掛け、実現させている。構想家、建議魔、立案家という印象を受ける。その手腕は尋常ではない。

少年の頃、ある俳句の会で詠んだ句が称賛されたことを母に報告した。「幼い頃、人に褒められ自分の才能におぼれてしまい大成しなかった人が多い」と戒めたという。密の自叙伝には「余が生涯の訓戒と為したる所なり」と記して、生涯胸に刻んだ。

2014年に岡山の坂野記念館を訪問したことがある。課長時代に広範囲の改革を行った人が、郵便中興の恩人と言われる坂野鉄次郎だった。郵便の父前島密と並ぶ郵便界の巨人だ。
年賀葉書の特別扱い、鉄道郵便車、郵便路線図、、、などの改革を断行したアイデアマン。40歳で西部逓信局長、42歳で退官し、実業界へ転身する。狼煙や声から始まり、奈良時代以降の駅制、伝令、江戸時代の飛脚、そして明治の郵便へとつながる歴史や、郵便ポストなどの変遷も楽しい。郵政関係のOBとおぼしき館長さんから詳しく聞く。「郵便は薄利多売主義を守れ」とは坂野の言葉である。前島密の事業を発展させた人だ。

2023年の群馬の旅で、上毛新聞の新聞小説をみつけた著者は『江戸を建てる』で直木賞作家となったの門井慶喜だ83回目は、郵便の父となる房五郎だ。漢籍、仏典、王朝和歌の注釈書、庄屋の日記を写す仕事も行う。蘭学、コーヒー、人体、兵学、、。手で読む仕事で知識を身につけていく。書物は最高の師であった。84回目は、嘉永6年の1853年、ペリーの久里浜に上陸だった。。アメリカ大統領フィルモアの親書を渡し翌春の回答を要求した。房五郎は、西洋人の実物、軍艦の現品が見たい、と行動し、現場に房五郎が立ち会う。この房五郎が後の前島密である。この連載が本になればぜひ読みたい。前島密については、童門冬二、加来耕三らが伝記を書いている。もっと知られてもいい人物だと思う。

「縁の下の力持ちになることを厭うな。人のためによかれと願う心を常に持てよ」という言葉どおり、明治国家建設の大立者の大久保利通大隈重信から重く用いられたのはうなづける。表に立って号令をかけるという役柄ではなく、着想と構想と計画と実施のすべてをこなせる珍しい実際家、仕事魔だったようだ。1947年から発行された1円切手は、現在まで変わることなく、前島密の肖像である。なるほど、「郵便の父」としてこういう形で顕彰されているのも、縁の下の力持ちの前島密らしいと納得した。