「図解塾」は、『梅棹忠夫著作集』第7巻「日本研究」ーー近代が始まった化政時代から200年。前島密の偉業。

「図解塾」は、『梅棹忠夫著作集』第7巻「日本研究」。

  • 「教育による革命」「情報網の建設者」「化政150年」「日本文明論ノート」の図解の発表と講義。
  • 本題に入る前の近況報告を全員にやってもらった後、私も報告している。「美術館」「川柳講座」「外部研修会」「学会」「三越(三井越後屋)」などの活動を聞く。毎回楽しみにしている。
  • 私の近況:ジェネレーターの知図展。漱石は手紙魔『書簡集』。『イコール』のクラファン。二宮尊徳:「キュウリ」。坂本龍馬:既成概念を破る。Jパウル:一冊の書物。漱石の金蘭の友:菅虎雄。シューベルト「次」31歳「歌曲の王」。トルストイ:「幸福」。吉田松陰:「読書の要約」

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以下、塾生の学びから。

  • 本日もお疲れ様でした。前半は、ここ1週間の先生のできことの圧倒的な量に、おなかいっぱいになりました。ブログにまとめあげているのはものすごいですね。梅棹文明学は、「教育による革命」「情報網の建設者」「化政150年」「日本文明論ノート」でした。19c初頭の文化文政時代から近代までの流れがそれぞれまとめられていました。いわゆる高等教育の藩校から、18cには私立の寺子屋、19c初頭には公立の郷学となり庶民教育に広がっていった。前島密は郵便のシステムを作り、今まで飛脚で偉い人のものだった通信を、郵便局をつくり全国つつうらうらに届けるようになったこと。また、前島密は海軍・電信・新聞・鉄道・教育・保険もつくり、ものすごい人だった。化政150年のうち、1930~1955年の25年間は陥没の時代だったが、150年の間の文明史は上向きだった。 日本文明における江戸時代の意味として、鎖国が近代化にプラスとなり、地方同士の経営戦争となって文明が熟成された。面白かったのは、また鎖国したら、食料は自給できるのでは?金属とエネルギーについては資金があればOKなのでは?と言っていたというのが面白かったです。文化文政時代というのはよくわかっていないのですが、なんだか前向きな明るい時代だったのでは?と興味を持ちました。日本研究も、あと1回の講義となりますね。次回もよろしくお願いいたします。
  • 本日もありがとうございました。前半の、久恒先生の1週間のフィールドワークに改めて感嘆しました。名言との対話も、どんどん深まっているような気がします。今日の「日本研究」の中で学んだことが大きく3つあります。一つは、前島密の創始した事業の多さ。これらがみな明治日本の近代化をつくってきて、しかも現代にまでつながっていることに驚き、前島密の偉大さを知りました。一つは、日本の庶民の文化に注目したとき、明治維新ではなく化政時代を出発点とするという考え方。あと一つは、化成から始まって現代まで連続しているが、1930年頃から敗戦までの時代は例外的に凹んでいる時代で、そこを除けばほとんどのものがつながっているということ。戦前がすべて暗黒の時代であったという印象を拭い去る必要があると思いました。今年いっぱいで一区切りつきます。来年からのも楽しみにしております。
  • 本日もありがとうございました。前半の、久恒先生の1週間のフィールドワークに改めて感嘆しました。名言との対話も、どんどん深まっているような気がします。今日の「日本研究」の中で学んだことが大きく3つあります。一つは、前島密の創始した事業の多さ。これらがみな明治日本の近代化をつくってきて、しかも現代にまでつながっていることに驚き、前島密の偉大さを知りました。一つは、日本の庶民の文化に注目したとき、明治維新ではなく化政時代を出発点とするという考え方。あと一つは、化成から始まって現代まで連続しているが、1930年頃から敗戦までの時代は例外的に凹んでいる時代で、そこを除けばほとんどのものがつながっているということ。戦前がすべて暗黒の時代であったという印象を拭い去る必要があると思いました。今年いっぱいで一区切りつきます。来年からのも楽しみにしております。久恒先生、皆様、おつかれさまです。本日、図解塾。先ずは久恒先生ブログ話題で肩慣らし。①『ジェネレータ』たちの知図展:ジェネレータとは「生成する人」、「雑情報」を「知」へ変換する人。「フィールドワーク」を通じ「5感」を使い情報を「集め」→「想像しながら」→「組合せ」→「気づきの物語にして」→「伝え共感する」という「6進法」のメソッドを提唱する展示の主催者は、梅棹忠夫先生の活動引き継ぐ志の持ち主。自ら考え、まとめ、伝えるという一連のプロセスを定型化し、継続・蓄積して行くと、スゴイ情報曼荼羅が描けそうな期待でワクワクしました。②『夏目漱石書簡集』を読む:大学入試にも登場するあまりにも有名な日本を代表する文豪は、実は「手紙魔」だった!?発見されただけでも2500通に上るとか、遠隔なコミュニケーションには手紙しか手段がなかった時代、さぞかし不便だったでしょう。本当は建築家を志していたとか…、その手紙は120年後の現代に若かりし頃の文豪の瑞々しい素顔を伝える非常に貴重な情報となり現代に残った。紙は偉大なり。③雑誌「イコール」創刊号絶賛準備中:シェア書店、地域活性化、宇宙人…様々な分野から集めた話題のオムニバス。ワクワク感!④寺島先生の『世界を知る力』:ユダヤイスラエル問題。アメリカの中東プレゼンス変化、シリアはじめ周辺国の勢力増強、ユダヤ人ロビーストによるアメリカ議会への影響、ロシア革命に端を発する「シオニズムの歴史」…様々な背景の中、日本人として肝心なことは「戦争拒否の勇気と構想」…リーダーは自信を持て!⑤『菅虎雄金蘭の友』高校~大学のアオハルを共に過ごした親友夏目漱石との関係、金をも断ち切る共有する志の硬さと薫り高い蘭のごとく美しい友情。はばかることなくここまで言えちゃうスゴさ、まさに無二の親友、得難し。⑥『ジャン・パウルのコトバ』:人生を一冊の書物に例える、一度の体験を深く味わい教訓をくみ出し次へ備え…嗚呼やはりそれだけだと息が詰まりそう…あれこれつまみ食い(読み)もしたい、ホンネとの折り合い。⑦坂本龍馬『既成概念を破るのが真の仕事』身につまされる思い、仕事の困りごと、一気に解決したいが様々な抵抗勢力につい萎縮…自信をもって取り組め!(おっつ、さっきも出たフレーズ)。⑧二宮尊徳:最近銅像が見られなくなった、江戸時代最強のコンサル、財政再建を成功させた突破力は「倹約の精神」から、サポートする弟子たちとの総合力も大いに寄与と推察。⑨シューベルト:31歳で早世、しかし今に残る名曲の数々、さぞかし貪欲でストイックな仕事ぶりだったろう。それができるのはやはり天才。➉吉田松陰:30歳の若さで刑死、安政の大獄。志は当時20代の弟子たちに引き継がれ、維新後の新生日本の礎となり…その弟子たちとの関わりは僅か2年!強烈な熱量を感じる。⑪トルストイ:多くの日本インテリに支持されるスゴイ文学者、一方80歳で家を追われるという人間臭い一面も持つ、はかなさ。…とてつもない怒涛の前半肩慣らしでした。さて本題、梅棹忠夫文学全集第7巻「日本研究」「変革の情報史観」の3回目。本日も久恒先生お手書き図メモを塾生が文字起こし~解説、本日も4本。1)『教育による革命』:日本の高レベルな識字率は文化文政年間に発達した寺子屋による初等教育(全国に2万校)がベースとなっており後の明治維新後の「教育平準化」と殖産興業の要求に答えるべく自然科学の発達がレベルアップを後押しした。戦いを忘れた300余年を過ごし醸成された江戸文化のスゴサを改めて実感。2)『情報網の建設者:前島密』:切手、郵貯、手紙、為替…システムのみならず「ネーミング」も自ら生み出した海運、新聞、鉄道、大学…現代でも存在する有力企業・団体の多くの発足を手掛けた。「通信は血液、駅は血管」日本有数の名プロデューサ。3)『化成150年』:文化文政の世から維新を経て第一次大戦までの日本は民衆の生活レベルは右肩上がりの向上を維持し昭和初期にはテレビを除くすべての便利製品が存在していた。一方第二次大戦前~終戦・戦後の25年間は「陥没」、その後驚異の回復・経済成長を遂げ長い目で見ると「レベル向上を維持」し続けた構図となっている。先人の勤勉と努力の結晶。次代へ引き継げるよう貢献せねば。4)『日本文明ノート』:江戸の昔に封建制度が確立し「地方自治」の世の中を形成。功罪様々。功⇒地方同士の切磋琢磨で地場産業が発展。罪⇒鎖国を敷いた影響で帝国主義が成立せず、逆に江戸末期より現在に至るまで他国からの侵略の脅威に翻弄される歴史に悩まされ今後も悩んでいく。梅棹先生は「再びの鎖国化」を提唱したとか。食料・エネルギ自給の観点で現実的か?…。4つの図解からは、現在に繋がる社会のしくみ、有力企業、生活レベル向上は「江戸の昔」から継続しているという点に改めて気付かされたことが本日最大の気付きとなりました。梅棹忠夫文学全集第7巻「日本研究」「変革の情報史観」はいよいよ大詰め、大変ワクワク致します。一方、寺島先生の「世界を知る力」で紹介された「ユダヤイスラエル問題」においては、歴史のみならずアメリカはじめ世界各国個々の情勢や世界に点在するユダヤ民族の影響力等様々な因子が関連し合って非常に複雑なため理解に苦しみますが、テレビ放映された中東地域の地図パネルを自分なりに模写すると、地中海~紅海~ペルシャ湾という大海の狭間で幾つもの国々が複雑に位置しお互いを干渉し合っている構図を俯瞰・理解する事が出来ました。同時に、このような交通の要衝を平和利用しお互いの産業発展に寄与できる環境を自らが否定・破壊するという極めて残念で悲しい歴史は一刻も早く終わりにしなければならないと強く感じた次第です。次回も宜しくお願い致します、有難うございました。
  • 久恒先生、皆様、本日の図解塾ありがとうございました。今日は、「教育による革命」「情報網の建設者」「化政の時代」「日本文明論ノート」の、4枚の図解で、梅棹先生の日本文明論の続きを学びました。全体を通して印象深かったのは「近代は文化文政の時代を起点にしている」という見方です。「近代は明治から」という印象が強いですが、実は文化文政の時代にすでに近代日本の衣食住や社会生活スタイル、教育体系が生まれていて、それが、明治、大正へと右肩上がりで連続して引き継がれ、第二次世界大戦前後の25年間は一時的に「陥没」するものの、戦後は再びその延長線上に戻り発展している、という見方で、とても面白く感じました。文化文政の時代は大衆文化が花開き江戸末期の熟成の時代といわれますが、幕末明治に比べ、実はあまり良く知らない時代でもあり、当時の文化人・教育者などについても、もっと知りたいという気持ちになりました。また、前半部分の久恒生生の「名言との対話」の紹介の中で、ジャンパウルの言葉に「人生は1冊の書物に似ている・・  ・賢い人間は念入りにそれを読む」とありましたが、この言葉も味わい深く、人生と書物の読み方が重なり、とても印象に残りました。ありがとうございました。次回は梅棹忠夫「日本文明論」の最終回ということで、楽しみです。
  • 11月の図解塾に参加させていただきました。久恒先生、皆様ありがとうございました。今回は、梅棹忠夫先生の著書「日本研究」の⑧「教育による革命」⑨「情報網の建設者・前島密」⑩「化政150年」⑪「日本文明論ノート」を図解で内容を共有しました。私は、⑪「日本文明論ノート」を担当しました。特に印象に残った内容は、私は、日本の近代化は明治維新から開花したと思っていたのですが、文化文政(1804年から1830年)の時代から、⑧「教育の革命」によってはじまっていたことがよく理解できました。官立の藩校や私立の寺子屋や公立の郷学が数多く開設されたことが影響して1868年に明治維新につながったことがよく理解できました。渋沢栄一の名前は知っていましたが、郵便の父と言われ様々な事業を起こした⑨「前島密」が日本の近代化に大きく貢献されたことは知りませんでした。 ⑩「化政150年」の図解では、文化文政の時代から、現代社会に向かって近世の日本の文明曲線が描かれていて、今まで第二次世界大戦で民衆の生活(衣食住)が大きく変わったと思っていましたが、文化文政から続く連続的な右肩上がりの曲線になっている事がよくわかりました。⑪「日本文明論ノート」では、地方自治が13世紀の荘園制の崩壊から始まり、封建制の成立し、江戸時代の幕藩体制へとつながり地方自治になっていたことを知り、地方自治の歴史を感じました。また、鎖国に対して閉鎖的で良いイメージを持っていませんでしたが、文明が熟成され近代化にはプラスになったという見方は興味深かったです。もう一度鎖国したら自立経済システムができるのではないかという考えも興味深かったです。次回も楽しみにしております。ありがとうございました。
  • 久恒先生、みなさま、本日もありがとうございました。今回は、梅棹忠夫著作集第7巻「日本研究」の中の「⑧教育による改革」「⑨情報網の建設者」「⑩化政の時代」「⑪日本文明論ノート」について、4枚の図解で解説がありました。このうち、「⑧教育による改革」「⑩化政の時代」「⑪日本文明論ノート」に共通して書かれていたのは、いわゆる近代の始まりは明治ではなく、1820年頃の文化・文政時代であるということ。明治になっていきなり文明が発達したのではなく、鎖国していた江戸時代に既に動きがあったからこそ、明治の改革が進んだということ。梅棹先生の解説は、日本全体の動きを見ながら、時代の流れを捉えておられるので、そんなつながりがあったんだ、そんな捉え方をするんだとただただ驚くばかりでした。また、「⑨情報網の建設者」では前島密氏について書かれていて、郵便以外にも、海運・電信・新聞・鉄道など幅広く活躍されていて、それらが現代に大いに役立っていることを初めて知りました。 現在では当たり前になっている生活の基礎が、実は江戸時代から始まっていて、さらに発展させたのが明治期の一人の人物だったということをどれだけの人が知っているのでしょうか。日本の近代史について、学生時代にもっと学ぶ機会があったならと思いました。次回は日本研究の最終回になりますが、引き続き新たな学びを期待していますので、よろしくお願いいたします。
     
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    深谷康雄
     
     
 
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「名言との対話」11月22日。徳川慶喜予を殺す者は薩長の徒ではなく、幕臣どもの日なた臭い幕臣意識だ」

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ/よしひさ、旧字体德川 慶喜)は、江戸時代末期(幕末)の江戸幕府第15代将軍(在職:1867年1月10日慶応2年12月5日〉- 1868年1月3日〈慶応3年12月9日〉)、明治時代日本政治家華族

常陸水戸藩徳川斉昭の7男。母は徳川吉子(貞芳院)。一橋家をつぎ将軍後見職として徳川家茂を補佐。英邁さから「権現様の再来」といわれる。家茂の死後に将軍となり幕政の改革をはかるが、大政を奉還し将軍職を辞任。鳥羽・伏見の戦いで敗れ、江戸開城後は水戸ついで駿府で謹慎した。以後表舞台にはたたずなかった。76歳で死去。260年以上続いた江戸幕府の最後の第15代将軍。

2006年に私が静岡で泊まったホテルは「浮月楼」という庭園の隣だった。この庭園は江戸幕府の最後の将軍・徳川慶喜が悠々自適、20年にわたって過ごした地である。徳川幕府の代官屋敷であった駿府の地を、水戸で恭順謹慎していた前将軍徳川慶喜が手に入れた。当時日本一と言われた京都の庭師・小川治兵衛がつくった庭園である。その後、浮月亭という料理屋ができる。明治の大火、昭和の大火で現在は建物は消滅したが、庭園は生き残った。その間、伊藤博文井上馨、西園寺などの元勲が愛した。

この庭園を観るために、懐石・吟醸桟敷の「浮殿」というギャラリー館で夕食を摂った。池の周りの木々の緑が美しい。春はさくら、夏は青葉、秋は紅葉で彩られ、野鳥の鳴声を聞ける東海の名園として有名である。食事前にこの庭園をひとまわりする。ホテルの近くに渋沢栄一がつくった商会所跡の石碑があった。渋沢は慶喜の従者として静岡でも活躍した。この商会所はその後渋沢が全国につくったの商工会議所の前身だろう。

2008年に水戸の弘道館を訪問した。傑物・斉昭が熱心に教育した慶喜は、退勢覆うべくもない状況下で将軍となる。英邁と言われた将軍であったが、薩長の官軍に対してあっけなく大政奉還を行い、歴史を回転させたあとは、ひたすら静かに暮らした。一時水戸で謹慎してりいたが、駿府(静岡)で晩年というにはあまりに若く隠棲してしまう。32歳であった。慶喜東海道開通による喧騒を避けて、転居している。

後の徳川慶喜が一橋家に入った際、父親の徳川斉昭慶喜に過失があったときにいさめる役割の臣下が必要と考え、藤田東湖に人選を依頼した。平岡円四郎の才能を認めていた川路聖謨藤田東湖から推薦され、仕えることとなった。徳川慶喜の前半生は、この平岡が右腕となって支えた。将軍継嗣問題での慶喜擁立運動、将軍後見職時代の改革、朝廷参与時代の薩摩藩との暗闘、禁裏守衛総督への就任などで辣腕をふるった。歴史に登場するのはわずか6年であったか。この辺りのことは、NHK大河ドラマの「青天を衝け」でみた。

慶喜駿府に隠居しても最後まで渋沢栄一はに忠誠を尽くした。明治政府から出て来いと言われても行こうとしなかった。しかし徳川慶喜から行って仕事をしろと言われて行く。青森県の三沢というところに、渋沢公園がある。渋沢家で修業をした人が営んだ大ホテルの経営者が作った公園だ。ここに慶喜の伝記があった。1911年に慶喜が没した後、渋沢は1918年の78歳のときに「徳川慶喜公伝」を刊行している。

「天下を取ることほど、気骨が折れることはない」

「家康公は日本統治するために幕府を開かれた 私は、その幕府を葬り去るために将軍になったのだ」

「この世をばしばしの夢と聞きたれど おもへば長き月日なりけり」

32歳で静岡駿府に移住し隠遁生活では、恭順しなかった榎本武揚など旧幕臣にとは関わり合いを拒否している。それから76歳まで44年間あった。自転車のサイクリング、写真撮影、釣り、油絵、刺繍、囲碁、猟銃、鷹狩、鵜飼、投網、謡曲、能、講談、、、、。一時期に集中するというやり方だった。結果的に多趣味となった。10男11女をもうけている。

徳川慶喜に関する同時代の人物評をみよう。木戸孝允「胆略、決して侮るべからず」。伊藤博文「実に偉い人だ」。大隈重信「幕府の終局を完結して、維新の昌運を開かれた」。渋沢栄一「何の言い訳もされなかった」。

最後の将軍として維新後の評価は低かったが、明治維新最大の功労者と再評価する向きもある。江戸城無血開城によって、第二の関ケ原を避け、また外国の介入を防いだとの評価である。

予を殺す者は薩長の徒ではなく、幕臣どもの日なた臭い幕臣意識だ」と語っていたという。慶喜に生涯仕えた渋沢栄一は、後に伊藤博文との交わした会話を記している。伊藤は、「今にして始めて其非凡なるをし知れり」といい、慶喜公に「維新の初に公が尊王大義を重んぜられしは、如何なる動機に出で給ひしかと問い試みたり」、「唯庭訓を守り氏ひに過ぎず。、、、朝廷に対し奉りて弓引くことあるべくもあらず、こは義公以来の遺訓なれば、ゆめゆめわすること勿れ、万一の為に諭し置くなりと教えられき、、」と答えている。

慶喜の行動はこのような教えに基づいていたならば理解できる気もする。幕府の内情、実態をよく知っていて、政権を放棄したのだろう。

徳川慶喜徳川幕府の後継者ではなく、実は水戸藩の後継者だったのである。