午後:「浦安市民まつり」。夜:「遅咲き偉人伝」の録画(原田マハ・タモリ)。

午後:新浦安の「浦安市民まつり」の「ステージパフォーマンス リターンズ!」に参加。片道2時間。

  • 浦安在住の妹と私たち夫婦で昼食。
  • 娘が出演した「ステージパフォーマンス リターンズ!」でのゴスペルを聞く。
  • 終了後、妹宅で、妹夫婦、娘の家族(夫婦、子ども2人)、私たち夫婦で歓談。

夜:20時からユーチューブ「遅咲き偉人伝」の録画。どちらもらも今からが楽しみな現役人。

  • 原田マハ(小説家):美術館勤務等を経て、43歳で小説家デビュー。50歳『楽園のカンヴァス』で山本周五郎賞直木賞候補。アート小説という新ジャンルを開拓中。最新作『原田マハ、アートの達人に会いにいく』は9年間の美術関係者へのインタビューのまとめ。現在61歳。
  • タモリ(お笑いタレント):お笑いビッグ3の一角。赤塚不二夫との出会い。長寿番組の司会という特徴。『笑っていいとも』(31年半)・『タモリ倶楽部』(41年)・『ミュージック・ステーション』(1987年から継続中)。2008年からNHKブラタモリ』(2023年7月1日「木曽三川で240回目)で新教養番組。現在77歳。

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「名言との対話」6月18日。矢野龍渓「私は社会主義者である」

矢野 龍渓(やの りゅうけい、1851年1月2日嘉永3年12月1日) - 1931年昭和6年)6月18日)は、幕末佐伯藩士明治時代官吏著作家ジャーナリスト政治家太政官大書記官兼統計院幹事、『郵便報知新聞』社長、宮内省式部官清国駐箚特命全権公使大阪毎日新聞社副社長を歴任。

以上の経歴が示すように、何でもできる才人であった。大分県佐伯市出身。藩校・四教堂で儒教。鉄砲所で砲術。祖父から儒教的訓練。父から西洋学。上京し古学派の漢学。慶応義塾英米憲法史。要するに和・漢・洋を学んだということだ。明治時代に活躍した人物の特色は、和学・漢学・洋学の知識を身につけていた教養人であった。矢野はその一人だった。

矢野の驚くべき多彩な経歴をかいつまんで記す。慶応義塾講師、大阪分校校長、徳島分校校長。太政官内務省、大蔵省のの官吏。私擬憲法を起草。郵便報知新聞社社長。東京専門学校の設立に関与。立憲改進党に参加。新聞事情視察で欧州に外遊。郵便報知新聞の改革。内務省で侍従、御用掛などを経て式部官。日清戦争に際し清国特命全権公使として2年間北京に駐在。社会問題研究会を設立し社会主義者を名乗る。大阪毎日新聞副社長。

著作も多い。『西洋偉人言行録』、『西洋君主言行記略』、『ハンニバル』、『安田善次郎伝』。以上は人物論。

経国美談』は政治小説古代ギリシャの歴史に取材し、ペロビダスエパミノンダスの2人を主人公にテーベ勃興の一部始終を描写する。前編はテーベの士たちが国に民政を回復するまでを描き、後編はスパルタの侵略を退けてテーベがギリシャの盟主となる過程を描く。この代表作は、自由民権運動の壮士が愛唱して評判となり、これで得た資金で欧州を外遊している。

『浮城物語』はSF海洋冒険小説。「人を悦ばしむる」「日本の盛衰存亡」「海外の風土、尋常、物産」「理科学の貴むべき」「偉人傑士の風采」が大事とした。論争に巻き込まれ続編(アラビア、南アメリカ、南極などを舞台とした大長編)は取りやめたのは惜しまれる。

森鴎外は「龍渓先生は行ふ人なり。思ふ人にあらず。世或は一朝思量を事とするを怪しむならん。然れどもショウペンハウエル曰く。思ふも亦行ふなり」と評価し、『浮城物語』は『ロビンソン・クルーソー』に並ぶ傑作という。

矢野龍渓は最後は「私は社会主義者である」と宣言しているなど、つかみどころのがい。旺盛なエネルギーの持ち主だったのだろう。

和・漢・洋の幅広い学問の習得、幕末における砲術の体得、福沢諭吉大隈重信に可愛がられる識見、官吏から新聞経営者、政治家。外交官などをこなす能力。そして有名な著作家でもあった。尋常ならざる傑物である。