寺島実郎の「世界を知る力」対談篇(白井小百合・真壁昭夫)ーー金融危機? 植田日銀? 日本の資本主義?

 

寺島実郎の「世界を知る力」対談篇。先週日曜日の東京MXテレビのまとめ。白井小百合(慶應義塾大学教授)と真壁昭夫(多摩大学特別招聘教授)とのエコノミスト鼎談。

寺島:3月のアメリカのシリコンバレー」銀行の破綻、ヨーロッパのクレディスイス銀行の吸収合併、、、。低金利時代から、コロナの3年、ウクライナ危機で政策金利が5%にまで上昇。そのバックファイヤーで取り付け騒ぎ。銀行は表面的には自己資本比率流動性などでは健全だが、実際の内部は構造が悪化していた。

真壁:いつか来た道だ。カネは株、不動産、コモディディティ(暗号資産など)。このバブルは3-5年で限界になり損失が発生し、銀行の不良債権化する。

白井:金融不安はいつも違った形でやってくる。規制の問題ではドットフランク法を骨抜きにしてしまった。監督の問題では政府がすぐに対応しなかった。国債の問題ではバーゼル規制はあるが、自己資本比率、満期保有国債は不計上など優遇されていた。

寺島:盤石と思われていたクレディスイス銀がわずか4300億円で買われた。劣後債(AT1債)を無価値と評価された。9.25%の金利というハイリスク・ハイリターンの未了に誘い込まれた。

白井:クレディスイスのAT1債は破綻時は、逆に株主よりも先にAT1債は無価値になるという条件だった。重大な欠陥。

真壁:クレディスイス銀はここ数十年で体質が変わった。守秘義務から開示義務が強化された。このためカネがタックスヘブンなどに逃げていったことからリスクをとるようになった。スキャンダルまみれになった。スイス政府当局の反応は早かった。

寺島:ミルケン、ソロスなどの登場で金融は複雑化し、肥大化した。のどかな産業金融から、為替や天候までもリスクとするリスクマネジメントが発達し、新しい金融工学に時代になった。影の銀行ノンバンクを掌握はできない。激震が走るのではないか。」

白井:次の危機は年金基金、ファンドなどノンバンクか。規制ができていない。しかし銀行とノンバンクはつながっている。危機は思わぬところで起きる。アメリカのドルに世界は左右される。

真壁:商業用不動産ファンドの状況など金融危機の兆候はすでにある。

  • 植田日銀の政策はどうなるか?

寺島:黒田日銀の10年は調整インフレ政策だった。異次元の金融緩和でカネは株に流れた。財政出動赤字国債の発行で国債の半分を日銀が引き受けししまう。政府の景気刺激策のプロモーターになってしまった。雨地下5%、日本マイナス金利の大きなギャップ。正常化をどうするのか。ソフトランディング。ハードランディングでは日本の埋没に拍車。曖昧作戦。

白井:1998年の新日銀法で「物価の安定」が日銀の役割。2%達成ができなかった。この5年で需要拡大、賃金上昇を伴って達成するというメッセージ。副作用にも手を打つが大幅な正常化はやらない。どうするのかわからないので市場は混乱。内需が弱い、供給側でもイノベーションが起こらない。

真壁:植田総裁の真意はどこにあるのか。潜在成長率05-0.6%程度の成長の半生。弊害が出ている。企業の主要株主は日銀というコオではうまくいくはずがない。

  • 世界の中での日本の資本主義はどうなる?

白井:あまりにも内需が弱い。政府に期待せざるを得ない。国債は90%が国内消化、しかしいつまでも続かない。ESG投資は先進国の話だ。途上国、新興国には余裕がない。中央銀行が住群介入するのはモラルハザード

真壁:純粋資本主義ではない。20年以上にわたり変えて来なかったしくみを変えなければならない。G7は有名無実化。

寺島:SDGs的世界観もあるが、新しい国際ルールの形成に日本も関与すべきだ、マネーゲームで稼いだカネから投網をかけるように広く薄く税をかけ責任を共有するなど。共通善に向けて新しいルールづくりに踏み込もう。

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「名言との対話」4月30日。荘田平五郎「丸の内、買い取らるべし」

荘田 平五郎(しょうだ へいごろう、1847年11月8日弘化4年10月1日 - 1922年大正11年)4月30日)は、明治・大正期の三菱財閥実業家教育者。

大分県臼杵市出身。藩校・学古館、江戸で学んだ後、薩摩藩の開成所、洋学所で仕事をし、慶應義塾で教える。儒学、洋学に造詣が深く、経済にも明るい和魂洋才の人であった。

1875年に三菱商会に入る。簿記法を定め従来の大福帳経営から、複式簿記の近代経営に転換させていった三菱社の本社支配人として、損保、生保、銀行、倉庫など様々の分野に進出した。キリン麦酒の「麒麟」の名づけ親でもある。

1889年、ロンドン出張中に、陸軍の丸の内練兵場が売りに出たが買い手がいないとのニュースを知る。荘田はロンドンのシティを念頭に、三菱二代目の岩崎弥之助にあてて「丸の内、買い取らるべし」との電報を打ち、三菱が手にした。値段は当時の東京市の予算の3倍の150万円だった。

荘田はその後も、長崎造船所長として大型船建造の道をひらく。弥太郎、弥之助、久弥の三代に「大番頭」として仕え、労務管理制度の確立、自前の学校での職工の養成、原価管理概念の導入など、三菱だけでなく、日本の経済界の近代化に大きな貢献をしている。そして野人の多かった明治の経済人の中では珍しい紳士だった。

丸の内は当時は原野であり三菱ケ原と呼ばれたが、初のオフィスビル三菱一号館の竣工を皮切りに、赤レンガ街が誕生し、「一丁倫敦」と呼ばれるようになっていく。今では丸の内には、三菱グループの主要な企業が数多く存在している。私が30代半ばから勤務したJAL本社に入っていた東京ビルもこの一角にあり、銀行、重工、損保などの三菱のビルを身近に感じて10年以上過ごした。

荘田平五郎は日本経済の近代化に多大な功績をした経済人だが、何といっても先見の明をもって、「丸の内、買い取らるべし」と打電したことが最大の功績だろう。