中村彝アトリエ美術館ーー「力なきに非ず。見ざるなり。見ざるにあらず、明らかに見ざるなり」

中村彝アトリエ美術館。図録「中村彝 下落合の画室(アトリエ)」を購入。

中村彝(つね。1887年―1919年)は、新宿中村屋の支援を受け、後に新宿下落合にアトリエを構えた。日本洋画の基礎を築いた画家の一人。このアトリエ美術館は、2013年に復元された。

17歳で肺を患い、37歳で逝った。中村は女性像に優れた人物画が多く、男性像の肖像画には傑作がある。

軍人志望を断念し画家の道へ進む。新宿中村屋の画室に住み、相馬夫妻の娘・俊子に恋をするが、病人に娘を託すことはできないと反対され挫折。新宿にアトリエをつくり、病の進行とも闘いながら「エロシェンコ氏の像」など優れた肖像画を生み出す。1923年の関東大震災を契機に強い創作意欲に駆られ、翌年の死まで新たな芸術を生み出していった。

  • 常に完成と全治に向かいつつある大いなる力。
  • 力なきに非ず。見ざるなり。見ざるにあらず、明らかに見ざるなり。
  • (俊子)はほんとうの馬鹿正直な(純過ぎて)女ですから、思ひ込んだが最後中々手紙位でその心持を覆すことは出来ません。

今日の収穫

NHKラジオ深夜便「人生手帖」(4月29日)から。寺島実郎(75歳)「戦後世代として、そして世界をまわったものとして、みたものを体系化し理論化して残し伝える使命がある。まだまだ、緒についたばかり。より本気でギアを入れ直していく。それが本音です」。

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「名言との対話」。5月3日。伊沢修二「優勝劣敗の世界において、各国互に相戦ふ武器は教育より外にない」

 伊沢 修二(いさわ しゅうじ、旧字体伊澤、1851年(嘉永4年)6月29日ー 1917年大正6年)5月3日)は明治時代日本教育者文部官僚。近代日本の音楽教育吃音矯正の第一人者。

信州高遠藩の下級武士の家に生まれた伊沢は出郷にあたって「万難千苦を嘗め尽くし、業若し成らずんば、異郷に客死するもうらむべきにあらず」と志を父に向かって述べている。そしてその志のとおりの軌跡を歩んだ。一人の人が生涯においてなし得る限界に挑戦したともいえる。まさに万難千苦をなめ尽くした。

伊沢は明治初年の「師範教育、音楽教育、体操教育、聾唖教育、植民教育、国家教育、吃音矯正等」、各種教育事業のすべてを単独で創立したか、深く関係しているという、独創的な教育実践家であった。 東京高等師範学校校長。体操伝習所主幹。東京音楽学校初代校長。文部省編纂局長。東京聾唖学校校長。国家教育社社長。台湾総督府民政局学務部長。貴族院議員。楽石社社長。こういう経歴をあげてみると、一人のとは思えないほどの領域で創業にあたったことに驚きを覚える。5年間にわたって師範教育の開拓者であり、ブルドーザーであった伊沢は、師範教育の目的を知識の獲得と知識の伝達にあると考えて、組織を改変している。

「智戦力闘の処世に要用なる、あたかも車の両輪の如く」不可欠であり、体育は「全国の元気を振作せんことをこいねが」い、体操伝習所を設立した。

音楽教育の面では、「君が代」、蛍の光」、「蝶々」などの唱歌を定めた。「てふてふ、菜のはなにとまれ、、、」で始まる「蝶々」については歌詞にも関与している。音楽は児童の身体の健康と徳育上の効果が大きいことを強調し、音楽教育を独力でもって設計し、構築した。31歳で文部省に戻った伊沢は森有礼大臣のもとで標準的な教科書の編纂にあたる。聾唖教育に関与した伊沢は、研究を重ね、聾唖者の矯正に成功し、神業と言われる。

文部省内の意見不統一を公開の席であばいたという理由で非職となった伊沢は、国家教育者として時流をつくっていく。「優勝劣敗の世界において、各国互に相戦ふ武器は教育より外にない」とした。

清国から割譲された台湾において伊沢は「外形を征服すると同時に、別に其精神を征服し、、、、日本化せしめるべからず」とし、国家教育を輸出する。台湾における教育は日本語によっておこなうという基本原則を採用した。台湾の日本化は、「教育者が万斛の精神を費し、数千の骨を埋めて、始めて其実効を奏すべき」とし、土匪の脅威に立ち向かっていく。混和主義による弾力的な現実主義であった。命がけの仕事であった。台湾では日本語がいまなお盛んであるのも、伊沢修二の計画と実践の賜物だったのである。台湾に記念館があり私も訪問している。

伊沢は再び東京高師の勅任校長となるが、激務の中で病に倒れ、やむなく辞職する。時に50歳。貴族院議員になった伊沢は、67歳で没するまで20年間を廟議の人として過ごす。学制研究会を組織し、清国賠償金から教育費として1千万円を獲得する。
「凡そ天地間に無用の者を助けて置く理由は無い。、、然らば生きてをるといふには其れだけ任務、則ち大命といふものがある筈である。、、唯此大命に従って生活すべし」として伊沢は信仰の人となった。
その伊沢は吃音矯正事業に取り組み楽石社を設立する。没した翌年に開かれた創立15周年記念会では、矯正者総数は5367名に及んだと報告されている。中国での事業も成功し、「神か仙かほとんど人に非ず」とまで激賞された。

伊沢は教育に関するパイオニアではあったが、性格が強く、対立を起こし、途中で後任に仕事を託し、自らは新しい課題に挑戦していった。後に大臣にも大学総長にもならなかったのは性格の故だった。

私は2013年に渋谷の塙保己一史料館(社団法人温故学会)を訪問している。7歳で失明した塙保己一は、36歳から41年かけて『群書類従』670冊(25部門)を刊行した人だ。3重苦のヘレンケラーが1937年に来館していた。視覚障害者教育に携わっていたグラハム・ベル博士から塙保己一のことを聴いて頑張ったという逸話があった。ヘレンは「子どもの頃母親から塙保己一先生をお手本にしなさいと励まされた」と述懐している。2023年の塙保己一記念館訪問で塙保己一のことをベルに伝えたのは文部省の役人であった伊沢修二であったという記述を発見した。伊沢は植民地時代の台湾の日本語教育に功績のあった人であるが、障碍者教育にも熱心だった人だった。こういうつながりの発見も「人物記念館の旅」の愉しみの一つだ。

台湾総督府で教育活動に当たった山口喜一郎を調べていて、伊沢と山口は接点があるのではないかという手がかりが浮かんだ。伊沢修二は明治時代の教育者であり、1894年の日清戦争で清から割譲を受けた台湾の総督府民生局学務部長だった。1895年に地元の子弟対象の学校をつくるなど、精神の日本化を推進した。「優勝劣敗の世界において、各国互に相戦う武器は教育より外にない」。台湾における教育は日本語によって行うとして、人材を募集した。その一人が山口喜一郎であったようだ。山口は伊沢より19歳年少。伊沢は1897年に貴族院議員となる。後は山口に託した。台湾の日本化について、伊沢は「教育者が万斛の精神を費し、数千の骨を埋めて、始めて其実効を奏すべき」とし、土匪の脅威に立ち向かっていく。混和主義による弾力的な現実主義であった。命がけの仕事であった。台湾では日本語がいまなお盛んであるのも、伊沢修二の計画と実践の賜物だったのである。その実践にあたったのが山口だった。

伊沢修二は強靭な体力、不屈の意志、異常な才幹、緻密な頭脳の独創の人であった。台湾総督をつとめた弟の多喜男は「精力絶倫の兄は、ほとんど3−4時間しか睡眠をとらず、次から次へと前人未到の境地を切り拓いて行った」とその超人ぶりを語っている。「万難千苦を嘗め尽くし、業若し成らずんば、異郷に客死するもうらむべきにあらず」との志のとおりに生き、67歳で没した伊沢の葬儀には2000人の会葬者があった。67歳で没した伊沢の葬儀には2000人の会葬者があった。

「優勝劣敗の世界において、各国互に相戦ふ武器は教育より外にない」という伊沢修二の言葉を噛みしめたい。