「万歩計」でなく「千歩計」。「陽のあたる 坂道避けて 夏木立」。

今年は狂暑であったので、この夏は少しウォーキングが少なかった。最近、木陰を選んで歩くコースをいくつか発見したのでまた増えてきた。なんとか平均で7000歩を越えている。秋から冬にかけて増やすことにしよう。

「万歩運動」は福沢諭吉が祖であるという説がある。福沢は毎朝、ドラで書生たちを起こし、一緒に6キロを歩いていた。「散歩党」と称していた。それがのちの「万歩計」につながっていく。1万歩は大変だ。まして平均となると、雨の日などもあり容易ではない。だから未達成感に襲われ、挫折感が残ることになる。「千歩計」と名前を変えたらどうか。この名前だと増えていくことを楽しむ感覚になれそうだ。

妻の影響で植物に目がいくようになった。毎朝のNHK「らんまん」の影響もある。今まで興味がなかったが、最近は散歩の最中に、草花や木々の変化を見て、「生命」の息吹、神秘、感動、健気さなどを感じることが増えてきた。若干ではあるが、人間らしくなってきたかも。

散歩中に、「川柳」を思いつくことがある。傑作だと気負いこみ、帰宅後に記そうと考えるが、そのときにはもう思いだせない。今日の句は最後は「夏木立」だったが、前の「五・七」を忘れてしまった。傑作ではなかったということだろう。

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  • 幸福塾の準備。「晩成力」をキーワードに現存の人を中心に講義予定。
  • 野田先生の奥様と電話で話す。『野田一夫の大いなる晩年』を4冊送る。
  • 共著の一部「人物記念館の旅」の原稿書き。
  • 歴史上の人物の「人生鳥瞰図」にトライ。

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「名言との対話」9月12日。塙保己一「さてさて目あきというのは不自由なものじゃ」

塙 保己一はなわ ほきいち、延享3年5月5日1746年6月23日) - 文政4年9月12日1821年10月7日))は、江戸時代国学者。『群書類従』『続群書類従』の編纂者である。総検校。贈正四位
埼玉県出身。7歳の時に失明。1760年、江戸に出て当道座という盲人の一座に入る。保己一は不器用で針灸、按摩などは上達しなかったが文章を覚えるという特技があった。師の雨富検校は、3年間は養うからやりたいことがあればやりなさいと励ました。

「千日の間、一日に百巻の本を読む」ことを誓い、18歳で衆分になっている。賀茂真淵国学を学ぶ。般若心経百巻を千日間読誦するという願をかけ、1775年に師の後押しもあって勾当に昇進する。当時の盲人の出世には大金が必要だった。師や友人の太田南畝らが工面したようだ。このとき師の本姓の塙と改名している。さらに検校を目指し二千日を祈願した。

当時の盲人社会には位があり、初心、打掛、座頭・衆分、勾当、検校・別当、十老、総検校と細かく分けると73の段階があった。

保己一は38歳で検校に昇進。1800年、「ここまで来たからには、総検校になってみたい」と言ったとおり、55歳で検校の最上位、たった一人の総晴の検校に昇進し位人身をきわめた。また師や上役にも可愛がられ、有力な友人も力を貸してくれ、1793年に和学講談所をつくった。門人も多く輩出している。世事にもたけ、人間としての交際もうまくこなしたのであろう。

1779年、34歳「世のため、後のため」に一大叢書『群書類従』の編纂を決意する。般若心経百万遍の読誦の実行し成就を祈願した。この事業は各地の散財する貴重な書物を集め、版木を起こし出版するという一大事業であった。そして、1819年、ついに『群書類従』670冊の刊行は終了する。1821年、最高位の総検校に任命される。この年76歳で死去する。戒名は「和学院殿心眼智光大居士」である。「成らぬのはせぬからだ」との考えのとおり、年少の頃、「おら、おっかあ、心の目が見える大人になる」との志を実現したのだ。まさに「心眼」で「和学」を修め、国学者として大成した。

36歳から41年かけて「群書類従」670冊(25部門)を刊行。群書類従の完成によって貴重な書物の散逸がまぬがれたから功績は大きい。塙保己一史料館(社団法人温故学会)にある桜の版木は17.244枚に及ぶ。彫師・刷師、、。「群書類従」は塙保己一の死後200余年も事業が継続しており既に蒐集は70万冊に及ぶ。温故学会は塙保己一の遺志を継承して大成することを目的として1909年公益法人化した。渋沢栄一は発起人の一人で、この立派な温故学会会館の設立にも同郷の渋沢栄一の援助をしている。

塙保己一は本を人に読んでもらってそれをすべて覚えていたという。15歳で江戸に出て、衆分、29歳勾当、37歳検校、75歳総検校に進む。盲目でこのような事業を完成させたことに感銘を受ける。塙保己一は、身の不幸を嘆き自殺を考えたこともあったが、命の限り励めば、出来ないことはないと思い直し、盲目の身でハンディをものともせず大事業を完成させたのである。

夜の源氏物語の講義中に、風によって灯火が消えた時に皆が慌てふためいたとき講義をしているときに「目あきというのは不自由なものじゃ」と言ったいいう逸話も残っている。

群書類従』の作成にあたり、20字X20行の400字詰に統一していた。これが400字詰め原稿用紙になった。「番町に過ぎたるもの二つあり、佐野の桜と塙検校」と川柳に詠まれた。塙検校とは保己一のことである。

塙保己一史料館(社団法人温故学会)を3重苦のヘレンケラーが1937年に来館。視覚障害者教育に携わっていたグラハム・ベル博士(電話の発明者)から塙保己一のことを聴いて頑張ったという逸話がある。ヘレンは「子どもの頃母親から塙保己一先生をお手本にしなさいと励まされた」と述懐している。保己一の像に手を触れて涙を流した。

1冊でも頒布している。私は2013年に渋谷の塙保己一史料館(社団法人温故学会)を訪問している。7歳で失明した塙保己一は、36歳から41年かけて『群書類従』670冊(25部門)を刊行した人だ。3重苦のヘレンケラーが1937年に来館していた。視覚障害者教育に携わっていたグラハム・ベル博士から塙保己一のことを聴いて頑張ったという逸話があった。ヘレンは「子どもの頃母親から塙保己一先生をお手本にしなさいと励まされた」と述懐している。

2023年に埼玉県本庄市塙保己一記念館を訪問。近年建て替えた重厚な外観を持つ記念館だ。埼玉の塙保己一記念館訪問で塙保己一のことをベルに伝えたのは文部省の役人であった伊沢修二であったという記述を発見した。伊沢は植民地時代の台湾の日本語教育に功績のあった人であるが、障碍者教育にも熱心だった人だった。こういうつながりの発見も「人物記念館の旅」の愉しみの一つだ。

日本初の女医・荻野吟子は、埼玉出塙保己一が復元した「令義解」(養老律令の公的注釈書)に、「女医は官有の賎民で十五歳以上、二十五歳以下の意識が優れている者三十人を選んで別所に安置しなさい」とあるのを発見する。兵部省高官の石黒、衛生局長長長与専斉に直訴。33歳、ようやく受験が許され前期試験に合格、翌年後期試験合格。女医第一号。ようやく鉄の扉が開く。

塙保己一の生きた1746年から1821年の76年間は、青年期・壮年期は松平定信寛政の改革、晩年期は文化文政の時代で町人文化が栄えた時代である。盲目の身で国学者として大成し、『群書類従』を完成させるという途方もない大事業をやってのけたことに感動する。

現世では組織の中で最高位にまで昇りつめ、後のために学校を起業し人材を養い、長く後世に残るライフワークを40年以上かけて完遂する。この人の生涯自体が稀にみる大事業であったのだ。「さてさて目あきというのは不自由なものじゃ」、しかもこの人は盲人であったのだ。