福岡市美術館に「松永記念館室」がある。

5月30日に福岡市美術館の「松永記念室」を訪問した。

松永安左ェ門は、「電力の鬼」と呼ばれた実業家としての活動と、60歳から耳庵と号した茶の湯の達人としても有名だ。

2010年に小田原の松永記念館を訪問したことがある。松永が72歳から住んだ居宅は、前面に欅(けやき)の見事な巨木がありそれに因んで老欅荘と呼んでいる。そこを見学する。松永記念館本館・別館に面した庭には、奈良・平安時代の石造物が点在し見所が多い。この庭は「日本の歴史公園100選」にも選ばれている名庭園である。この記念館は小田原市郷土文化館分館となっている。

松永の収集した古美術品の主要な249件を一括して福岡市美術館に寄贈された。松永は福岡市と縁が深い。重要文化財19件、重要美術品11件が含まれている。この美術館が「松永記念館室」という専用展示室を設け、「松永コレクション」として常設展示している。

松永は60歳から、耳庵という号を持って、茶の湯に情熱を傾ける。孔子の「五十にして天命を知る 六十にして耳順う」からこの号を採用している。そして政財界の重鎮を招いて茶会を催す。茶を通じて交流した人の名をあげる。杉山茂丸、福沢桃介、益田鈍翁根津嘉一郎(青山)、原山渓(富太郎)、小林逸翁(一三)、高橋箒庵(義雄)、野崎幻庵(広太)、畠山逸翁(一清)、、、。

松永の64歳にときに益田鈍翁没。67歳では野崎幻庵没。70歳では山下亀三郎没。83歳で小林逸翁没。85歳では五島慶太没。97歳という長寿の間に見送った友人の数は計り知れない。その都度、松永は何を思っただろう。

過去に松永安左エ門に関する書物を読んできて下記の5冊を読了している。この人物が立体的に見えてきたが、これにまた『松永コレクション』が加わった。

松永安左エ門『電力の鬼』(毎日ワンズ)。新井恵美子『七十歳からの挑戦』(北辰堂出版)。『松永安左エ門 自叙伝』(日本図書センター)。『芸術新潮 最後の大茶人松永耳庵 荒ぶる侘び』。『茶の湯交遊録 小林一三松永安左エ門』(思文閣出版)。

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「名言との対話」6月22日。田中芳男「人の人たる道は、この世に生まれたからには自分相応の事をして世用を為さねばならない」

田中 芳男(たなか よしお、天保9年8月9日1838年9月27日) - 大正5年(1916年6月22日)は、幕末から明治期博物学者動物学者植物学者農学者園芸学者物産学者錦鶏間祗候男爵

長野県飯田市出身。文明開化期の時代に教育・殖産の発展に貢献した。1856年伊藤圭介に師事して医学・博物学を学ぶ。1862年蕃書調所に出仕後、1866年パリでの万国博覧会に出品のため渡仏。明治新政府でも、1873年のウィーン万博、次のフィラデルフィア万博に派遣されるなどの活躍をしている。1878年創立の駒場農学校(東大農学部の前身)や上野の山に博物館と動物園を創設し、田中久成の後任として二代目の博物館長に就任している。1890年に貴族院議員、1893に日本園芸会副会長、1915年には男爵を叙爵。蔵書約6000冊は東京大学に田中文庫として保存されている。

「博物館」という語は、幕末維新の官吏で漢学者・国学者の市川清流(1822年生)の訳語である。文久遣欧使節の一員としての見聞記『尾蠅欧行漫録』の中で、British Museumの訪問を「今日御三使博物館ニ行カル」と記した。田中は薩摩出身の町田久成1838年生)とともに、博物館を普及させた。東京国立博物の初代館長は町田であるが、半年後に辞任し出家したため、田中芳男が後を継いだ。この町田久成も興味深い人物なので、没した9月15日に取り上げることにしたい。「博物館」というテーマを追うだけでも、日本近代・現代の大人物が登場することになるだろう。渋沢敬三梅棹忠夫もその流れにある。

「人の人たる道は、この世に生まれたからには自分相応の事をして世用を為さねばならない」は、田中芳男本人の言葉ではない。医師であり、漢学に詳しい父・隆三が芳男に教え諭した言葉である。博物館の普及に功績があり、「日本の博物館の父」と呼ばれるようになったのであるから、「自分相応の事」を為したと言えるだろう。