2024年の方向感ーー橘川さん。NPO知研。

新宿で橘川幸夫さんと2024年のミーティング:Vチューバー。外国人。地域。雑誌学、リアル、、、、、

昼食は西武池袋線の地下街の「十勝豚 ゆうたく」で豚丼

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スンガリ(ロシア料理)も見かけた。

帰りに南大沢で散髪。

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知研幹部会で2024年の活動原案を説明:コロナ禍の数年間を経て方向がみえてきた。道は選ぶものではなく見えてくるものらしい。理事・幹事の増員。知研「イコール」(図解マガジン)。セミナーのゲストのラインナップ。共著「旅」4月刊行。、、

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今日の収穫:五木寛之「対談は修羅場。真剣勝負。メッキがはがれる。耳学問」(「流されゆく日々」)

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「名言との対話」12月21日。額田六福「師事する」

額田 六福(ぬかだ ろっぷく、明治23年(1890年10月2日 - 昭和23年(1948年12月21日)は、日本の劇作家大衆小説作家。

岡山県出身。17歳で右手首を失う。脊髄カリエスも病む。劇作家・岡本綺堂に入門し、添削指導を受ける。26歳、上京し綺堂の近くに住み早稲田大学文学部英文科に編入学。「新演芸」誌の懸賞で坪内逍遥の評価が高く当選、歌舞伎座で上演された。新富座沢田正二郎新国劇で「暴風雨」が取り上げられ、沢田と親しくなる。1926年委は沢田の「白野弁十郎」が大当たり当たり狂言となった。これはシラノ・ド・ベルジュラックの翻訳だった。1930年には綺堂監修の月刊誌「舞台」の創刊を担う。綺堂没後は中心となった。

額田六福は創作・脚色・翻案した台本は「白野弁十郎」など88篇は舞台上演され、「天一坊と伊賀亮」などが映画化され、ラジオ・ドラマにもなっており劇作家として成功をおさめた。

額田六福の生涯を眺めると、新聞記者と劇作家の二刀流でもあった、傑作「半七捕物帳」の岡本綺堂に師事したことが大きなウエートを占めていることがわかる。劇作の脚本の指導はもちろんだが、綺堂の養嗣子となる岡本経一を紹介している。経一は綺堂の最後の弟子であり、青蛙房という出版社を創業し、綺堂の作品や江戸文化を広めていった。綺堂にとっても額田は得難い弟子でもあったのだ。2020年には故郷岡山の「勝央美術館」で「岡本綺堂誕生130周年、岡本経一没後10年」の企画展が開かれている。テーマは「大衆とともに」だった。

「師事する」という言葉は最近はあまり聞かなくなった。直接指導を受けるという意味で、英語では「study under」という表現になる。ひそかに尊敬するという意味の私淑とは違う。年が近い場合は「兄事」だろう。

死語と化している「師事する」を取り上げてみたい。このブログで2年間で「師事」という言葉を探してみた。

岸田劉生黒田清輝に師事。大江健三郎渡辺一夫に師事。樋口一葉半井桃水上村松園竹内栖鳳佐久間象山佐藤一斎菊池寛上田敏川合玉堂は橋本雅邦。宮城道雄は中島検校。田中芳男は伊藤圭介。堀辰雄室生犀星佐伯祐三藤島武二中谷宇吉郎寺田寅彦。松本良順はポンペ。木川田一隆は松永安左ェ門。勝海舟は佐久間造山。三橋鷹女は与謝野晶子安倍能成夏目漱石茅誠司は本多光太郎。志賀潔北里柴三郎植芝盛平中村天風。橋本陽子は明石朴景。杉山寧は松岡瑛丘。水原秋桜子は窪田穂。宇都宮徳馬河上肇。清水みのるはサトーハチロー。浅田常三郎は長岡半太郎。八田一郎は高浜虚子。杉浦非水は斎藤茂吉斎藤茂吉は伊藤佐千夫。大塚久雄内村鑑三横光利一菊池寛東畑精一はシュンペンター。、、、、、

中津出身の剣客で勝海舟の剣道の師でもあった島田虎之助は「強い者には師事する。弱い者には教えてあげる」と言っている。私の場合はどうだろう。師事は野田一夫、兄事は寺島実郎ということになろか。「師事」という言葉は、豊かな鉱脈を持っているように感じた。さらに掘り進めてみよう。