「原町田まつり」ーー「きんじょの本棚」をテーマに「文学館」「版画館」を周遊

町田で同時開催されている4つのまつりのうち、「文学館まつり」と「版画美術館まつり」を夫婦で楽しんだ。

本を通じた交流をテーマにした「きんじょの本棚」は、町田市内を中心に200を越える「本棚」が設置されていると知り、興味を持って見にきた。話題の「シェア書店」に連なるコンセプトだ。誰もが自分の本を詰めた棚を路上に出して売りながら交流を図るという趣向だ。こういった流れは、本や読書を中心とした「参加と交流」がテーマとなってブームになっていく新しい流れである。

町田文学館の「文学館まつり」のイベントロードには、「ヨリドコ小野路家」「わさび座」「お風呂で読む本」「自費出版でつくった短歌集」「絵本の専門店」「小説」「漫画」「太陽の光で色が変わるグッズ」、、、、などの本棚が出展されており、楽しい空間となっている。

「文学館まつり」は、「きんじょの本棚」以外にも、映画上映会、寄席、飲食ブース、野菜販売、和太鼓演奏、パネル展示などが企画されている。

この界隈は「町田文学館」の各種イベントの一部として開催されているようだ。50円、100円が中心の値付けで、棚主とお客の交流も活発な様子。

#きんじょの本棚 - Instagram | ハッシュタグ

 

「町田文学館・ことばらんど」の「生誕100年 遠藤周作展」は、まつり当日の本日は無料だった。図録『遠藤周作とPaul Endo 母なるものへの旅』とエッセイ集『人生を抱きしめる』(河出書房出版社)を購入。

遠藤周作は町田の「狐狸庵」に長く住んでいた。ここで人生を描く小説や、生活を描くユーモア本を量産したのだ。

「文学館まつい」と同時開催の「町田市立版画美術館」イベント「ゆうゆう版画美術館まつり」。

「町田市立版画美術館」の「楊州周延ー明治を描き尽くした浮世絵師」展を覗く。江戸の武士から、明治の浮世絵画家として明治時代を描き尽くした楊州周延(1838-1912)の企画展。この人は高田藩士で戊辰戦争、函館戦争で刀を握り、維新後は40歳から絵筆に持ちかえて時代の風俗などの浮世絵を量産した。下の写真の主人公は明治天皇。描いた作品は約2000点で、美人画が得意だったそのうち、300点をみた。こってりした色合いの絵である。「懐古と開化」がこの人のテーマだった。

他にも、町田時代まつり、生涯学習センターまつり、など原町田地区では4つのお祭りが同時開催されている。

ーーーーーーーーーーー

日曜美術館」の棚田康司(平櫛田中賞受賞者)の一木造りはよかった。一本の老木から、その木にふさわしい人物を掘り出すという方法。確かに掘り出された木彫の人物は、その木の本質のような感じがする。この彫刻家に注目しよう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」10月22日。伊庭貞剛「事業の進歩発展に最も害するものは、青年の過失ではなくて、老人の跋扈である」

伊庭 貞剛(いば ていごう、1847年2月19日弘化4年1月5日) - 1926年大正15年)10月22日)は、第二代住友総理事である。号は「幽翁」。

滋賀県近江八幡市出身。刑法官として出発し、権大巡察、司法少検事、副判事を経て、大阪上等裁判所に勤務。33歳で官界に失望し辞職。住友総領事であった叔父の広瀬平からすすめられ、住友に入社。

大阪商業講習所(後の大阪市立大学)の創設、大阪紡績株式会社(後の東洋紡)の設立や大阪商船の設立にも参画した。1890年の第1回衆議院議員総選挙で当選するが、住友家の家督相続問題が起こり、辞職して紛争を解決した。

住友が開発した別子銅山の開発で荒れた山々に「旧のあおあおとした姿にしてこれを大自然にかえさねばならない」として植林事業を展開した。その山林の管理会社が後の住友林業である。足尾銅山の公害を追及していた田中正造は、別子銅山を「我が国銅山の模範」と評した。「別子銅山中興の祖」と言われ、「東の足尾、西の別子」と言われた、住友新居浜精錬所の煙害問題の解決にあたった。植林など環境復元にも心血を注ぎ、企業の社会的責任の先駆者とも言われている。

1895年には重役会議の議長をつとめ、経営の近代化を断行。住友銀行を創設。1897年、総理事心得。1900年、総理事。1904年に58歳で引退。1926年、79歳で逝去。

私は2010年に泉屋博古館(住友コレクション)を訪問した。住友家は四国愛媛の別子銅山から生まれた財閥であるが、この分館は別子銅山開抗300年の記念事業で、住友の名前を冠にした企業19社が協賛している美術館である。以下、その時のメモ。ここで伊庭貞剛のことを知った。

  • 初代正友(1585-1652年)は商売の心得書「文殊院旨意書」を遺している。
  • 初代総理事・広瀬宰平(1828-1914年)は、9歳で別子銅山に入り38歳で支配人になった。住友の事業精神をつくった人だ。「信用を重んじ、確実を旨とする。浮利に走らず」
  • 伊庭貞剛(1847-1526年)は、広瀬の甥で裁判官から住友入りした。総理事。「事業の進歩発展に最も害するものは、青年の過失ではなくて、老人の跋扈である」
  • 7代・古田俊之助(1896-1953年)は、住友金属のエンジニアで20万人を率いた。1946年の財閥解体による住友本社解散にあたって「住友の各事業は兄弟であり精神的に提携してやって頂きたい」と訓示した。

佐高信『こんな日本に誰がした』(講談社文庫)には、「新・代表的日本人」10人が挙げられている。「反骨精神」をキーワードとした選び方である。伊庭貞剛、出口王仁三郎幸徳秋水松永安左エ門与謝野晶子石橋湛山、尾崎放哉、嵐寛寿郎本田宗一郎、佐橋慈。この中で、私の「名言の暦」に登場していないのは伊庭だけであり、正対することにした。

英文学者で評論の冴えに定評のあった中野好夫が伊庭貞剛についての書を書いている。この書には「奇妙な注文が飛び込んできたものである」と書いている。奇妙な取り合わせである。中野は「高風な財界人」と評している。

伊庭貞剛は『実業之日本』に「少壮と老成」を書き、勇退した時に、この中で、「事業の進歩発展に最も害するものは、青年の過失ではなくて、老人の跋扈である」と喝破したのである。見事な出処進退であった。松永、本田と並び、伊庭は辛口の佐高信の眼鏡にかなった財界人である。