「時間」について考えた日ーー兄弟会。上から横から。70年代。

池波正太郎『おもしろくて、ありがたい』(PHP文庫)から。

  • 「余裕をもって生きるという事は、時間の余裕を絶えずつくっておくということに他ならない。一日の流れ、一月の流れ、一年の流れを前もって考え、自分に合わせて、わかっていることはすべて予定を書き入れて余分な時間を生み出す、、、そうすることが、つまり人生の余裕をつくることなんだよ。それをしないから、いざというときになって泡をくらっちゃうことになる、たいていの人は。(『男の作法』)
  • 「時間がいかに貴重なものかということを知っていれば、他人の時間の上において迷惑をかけることは非常に恥ずべきことなんだ。」(『男の作法』)

時間について考えている。

40歳を越えた頃、私は冨田勲先生と仕事で知り合って、夕刻の16時ころから、飲むことが何度かあった。新橋の飲み屋の二階が我々が気に入っている席だった。この角の席に陣取ると、道を通る人の姿が眼下にみえる。飲みながら眺めていると、しだいに暗くなっていく夕暮れの中で、いろいろな人が歩いていく姿が目に入る。周囲の灯りもともり始める。上から眺めていると人生の時間を想うことになる。人生の歩みを感じる眺めだった。そういう感慨を交換しながら、日本酒を飲む時間を我々は好んでいた。

今日の午後、あるカフェでコーヒーを飲んだ。一人で窓際の外がみえる席に座った。老若男女が歩く姿が、真横から見える。体型、足の運び、目線、荷物の背負い方、さまざまな人がどこかへ歩いている。若い人から、青年、壮年、老年と並べてみようとすると、人間の一生をみている感じになる。そこには一人の進化と退化のストーリーがある。それは人間の時間の経過でもある。人生の歩みを感じた時間だった。

考えて見れば、正面から人と向きあう場合は、一人かせいぜい数人である。互いに観察しながら話をすることになる。しかし、上から、横から、無防備な姿の人々の流れをみることは、人生の有限な時間を感じさせる。

人びとは荷物をもって、どこかへ歩いている。荷物の中身は何だろう、そしてどこへ向かっているのだろう。

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昼食は、横浜で兄弟会。弟と妹の3人。今日も、涙が出るほど笑った。共通の思い出の深さがあり、子ども時代から今までの歴史が積み重なって、深い共感の思いを確認した時間となった。この3人は同志だ。こういう濃密な時間はこの3人でしか味わえない。

夜は、橘川さんの70年代プロジェクトに参加することになった。指定されたアメリカ映画をみたうえで感想を述べ合うという趣旨なのだが、それを知らずに、見ないままに参加。

山形、京都、東京などからの若い参加者の話を聞いた。アメリカ、ベトナム戦争、ロック、ヒッピー、イージーライダー、、、。私と同年の橘川さんは、この状況の中で、映画や音楽をつくる側になろうとして活動していたのだ。

途中で、70年のはじめはどうだったかという質問が私に飛んできた。そういう流れ、つまり学生運動サブカルチャーとは離れた場で、自分をつくろうと必死に動き回っていた自分、不本意ながら就職で資本主義に飲み込まれることになる姿を語ってみた。

最後に参加者の女性から、2人の70年代は全く違う、という感想をもらった。ひとくくりにはできない、あの時代にもいろいろな青春があったのだ。

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「名言との対話」9月15日。町田久成明治の博物館の父

町田 久成(まちだ ひさなり / ひさすみ、1838年1月27日(天保9年1月2日) - 1897年(明治30年)9月15 )は、明治時代日本の官僚僧侶

鹿児島市出身。昌平坂学問所。薩英戦争に参戦。薩摩藩開成所の設立に参加。禁門の変に参戦。薩摩藩留学生を引いて英国に留学。

1867年、パリ万国博覧会に参加。1870年、パリ万博に参加した田中芳男と再会し日本初の博物館創設企画が始動。1871年、文部省博物局を設置し、「古器旧物保存方」、「集古館」の建設を提言。1872年、湯島聖堂博覧会を開催。1874年、フィラデルフィア万博事務局長。1882年、東京帝室博物館(後の東京国立博物館)初代館長に就任。同年辞職。1883年、授戒。元老院技官を経て、1890年、光浄院住職。193年シカゴ万博、万国宗教会議に参加。

こういった経歴をながめると、万国博覧会が生涯のテーマだったことがわかる。

田中芳男という博物学者とは、パリ万博で知り合って、博物館をつくる夢を一緒に追った。田中は町田久成の後任として二代目の博物館長に就任している。田中は博物館の普及に功績があり、「日本の博物館の父」と呼ばれるようになった。町田には「明治の博物館の父」と呼ばれた。

万国博覧会、1900年のパリ万博にまつわる人を追ってみよう。

佐野常民は1867年のパリ万博では佐賀藩を率いて参加している。そこで赤十字アンリ・デュナンとの運命的な出会いをし日本赤十字をつくる。1873年のウイーン万博では多数の技術者を率いてわたり、膨大は報告書を提出し、それが近代化の指針となった。「博覧会男」の異名がある。「日本博覧会の父」とも呼ばれている。

松方幸次郎は、1900年のパリ万博では日本側事務官長だった。

秋山真之は、1900年パリ万博で、軍人仲間とエッフェル塔に登る。そして「日本のインテリは狭い意味での小専門家」と述べている。

日本画家・渡辺省亭は、パリ万博に出品している。

ジャーナリストのルイ・フルエニは、1900年の万博の目玉はマダム貞奴だったと最大級の賛辞を送っている。

ミュシャは、1900年のパリ万博ではボスニア・ヘルツェゴビナ館の室内装飾を移植された。スラブ文化を紹介する唯一の建物だった。

岡山の磯崎眠亀(い草を使った花筵の発明者)の子の磯崎高三郎(1869-1944)は、1900年のパリ万博、1904年のセントルイス万博、そして1915年のサンフランシスコで開催されたパナマパシフィック世界博でも、すべて金牌を受賞している。

フランスの工芸家ルネ・ラリック(1860-1945年)は、1900年のパリ万博に100点以上の作品を出店し、成功を収めた。そしてラリック社を創業した。

夏目漱石は、33歳で英国留学を命じられた時も、1900年のパリ万博で美術をじっくりと観賞している。

オルセー美術館展。1900年のパリ万博を見越して鉄道が延長され、セーヌ河畔にホテルを併設する駅が建設された。旧式となって廃止された駅舎を美術館として変容させるという構想が1986年に実り、19世紀半ばから20世紀初頭までの美術をカバーする美の殿堂となった。

森鷗外森林太郎」は、第2代の勅任帝室博物館の総長だった。

万国博覧会は、その時代のあらゆる物産、技術、美術、工芸、、などの「博物」を一堂に展示するから、未来に関心のある人たちが訪れて刺激を受ける一大イベントだ。それが博物館につながっていく。

1900年のパリ万博が、後の東京国立博物館をつくる契機になったし、近年では、1970年の大阪万博が契機になって、渋沢敬三らの博物館構想が、国立民族学博物館へ結実したことは記憶に新しい。

「博物館」という語は、幕末維新の官吏で漢学者・国学者の市川清流(1822年生)の訳語である。文久遣欧使節の一員としての見聞記『尾蠅欧行漫録』の中で、British Museumの訪問を「今日御三使博物館ニ行カル」と記した。「博物館」というテーマを追うだけでも、日本近代・現代の大人物が次々と登場することになる。渋沢敬三梅棹忠夫もその流れにある。