渡辺柳山・川柳句集『憩いのひととき』。『川柳まつど』の私(吐鳳)の句。

渡辺柳山さんの令和川柳選書『憩いのひととき』(新葉館出版)をいただいた。

渡辺さんは、私を松戸川柳会に導いていただいた方。まだ日が浅いのに、この会の幹事の役を担っている。月刊の『川柳まつど』では、毎月たくさんの句が選ばれており、また最近では選者もしている。

ビジネス、時事、家庭、旅、テレワーク、定年後、コロナ、政治、、、など、多彩な題材を上手に切り取った句が楽しい。柳山さんの日常や心持がよくわかる句が多い。

  • 「昇進し身体が先にえらくなる」「偉い人銅像建てて錆ていく」「テレワーク決済ボタンを猫が押す」「香典の収支がとれぬ長寿かな」「優待も配当もないコロナ株」「婚活にワクチン接種証明書」「おーいお茶自分で煎れてお茶濁す」「追伸に脈ありサイン忍ばせる」「子育ての失敗作が幅利かす」「ゴミ出し日教えて妻は里帰り」「長電話切れて用件思い出す」「テラバイト寺のバイトと勘違い」「災害が多すぎ多忙ボランティア」「ノーマスク思い出せない元の顔「任せたぞ言ってはみたが口は出す」「頭角を現し髪が薄くなる」、、、
  • 古稀迎え自分探しの旅に出る」。こういった心境とそれを実行する姿が目に浮かぶ。柳山さんはフェイスブックの紹介では「企業ビジネスマン。趣味:フルート演奏、サックス演奏、クラリネット演奏、ゴルフ、映像作家(日本アマチュア映像作家連盟会員)、将棋(アマ4段)、川柳作家(柳山) 、美術鑑賞」と実に多彩な活動家であることがわかる。まさに「定年後多様な趣味の花が咲く」といったところだろう。

「川柳」の先輩の渡辺柳山さんが、川柳を題材にした句をあげてみよう。川柳を創るときの、心構え、技術論、喜び、コツ、交友、良句、、、などが参考になった。「先達はあらまほしきは何事も」か。

「川柳の投句をひねる至福時」「思い出しクスっと笑う良き川柳」「川柳会おそらくどこも高齢化」「遺伝子に川柳の種組み込まれ」「うろ覚え人の投句に呼名する」「没の句を仕立て直して三才に」「良き川柳ほろりと泣かせチクリ刺す」「柳友とほろ酔い吟の縄のれん」「川柳で大いに増える脳のシワ」「川柳の創句に欠かせぬ電子辞書」「古新聞時事川柳も旬を過ぎ」「没の句にユンケル飲ませ再投句」「時事川柳先に見てからニュース読む」「寝言まで五七五の達吟家」「川柳の粋な一句でプロポーズ」「川柳で心の憂さを解き放つ」。

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同世代の柳山さんに誘われて私も『川柳まつど』に投句を始めた。柳号は「吐鳳」だ。以下、最近採られた句。

453号(4月号)「深呼吸次の舞台へ新呼吸」「暴走と妄想やめて奔走を」「人間の生老病死フルコース」「経験でなく体験こそが授業料」

454号(5月号)「五十肩昔はたしか四十肩」「冷やメシも喰い方ありと人の言う」「成仏を逃した人の未練顔」「異次元って最低限のことですか」

455号(6月号)「死ぬ気でも死んだ人なし本気出せ」「ペイペイをやっと使えたドーダ感」「ふさわしい器になって手に栄誉」「ふさわしい器になって手に栄誉」(地)

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「名言との対話」6月30日。川合玉堂「日曜も絵を描くし、遊ぼうと思えばやはり絵を描く」

川合 玉堂(かわい ぎょくどう、1873年明治6年)11月24日 - 1957年昭和32年)6月30日)は、日本の明治から昭和にかけて活躍した日本画家

愛知県一宮市出身。筆墨紙商の長男。14歳で京都の四条派・望月玉泉の門に入る。3年後に円山派・幸野楳嶺の画塾「大成義会」に入る。第3回国内勧業博覧会で入選。17歳で「玉堂」と改号。

23歳、上京し橋本雅邦に師事。岡倉天心創立の日本美術院には当初から参加した。1907年、文展審査員。1915年、東京美術学校教授。1917年、帝室技芸員。フランス政府、ドイツ政府から勲章を授与される。日本画壇の中心人物の一人となった。67歳、文化勲章

戦時中は東京都西多摩御岳に疎開。その住居を「寓庵」、画室を「随軒」命名していた。日本の四季の山河と、人間や動物の姿を美しい墨線と彩色で描いた。

2008年、御岳(みたけ)にある「玉堂美術館」を訪問した。この美術館は死後4年後の1961年に開館している。到着したとき、突然の豪雨に襲われた。「滝のような雨」という表現があるが、まさにそのとおりの雨が降ってきた。美術館の近くにあるレストランで食事を摂ろうとするが、雨宿り組が多く時間がかかりそうなので、日傘をさしながら美術館まで走る。すぐそばを走る多摩川上流の渓谷に水があふれて激流となって流れている。枯山水の庭に雨が降り注ぐ。閃光と落雷の轟音が鳴り響く。この景色も玉堂は何度も目にしたのだろうと思いながら、雨に煙る庭と林とその先に見える川の流れを眺める。

川合玉堂は19歳ほど年下の国民的作家・吉川英治とも親しかったそうだ。玉堂は横山大観と並び国民的画家といわれた。この奥多摩には同時期に吉川英治青梅市)も住んでいた。国民的作家と国民的画家が住んでいたことになる。

玉堂は書も、俳句、短歌も巧みであった。「河かりに孫のひろひしこの小石 すずりになりぬ歌かきて見し」。これは孫が拾った石を硯にして、座右の珍としたときの歌である。

武蔵小金井」という駅名にひっかけて、「あの剣豪の宮本武蔵には子供があったかね」と尋ねていたという。玉堂はしゃれの名人でもあった。

冒頭の言葉は晩年のインタビューで「先生、日曜日はどうしていらっしゃいますか、絵をお描きにならないときは何をしていらっしゃいますか」と聞かれたときの玉堂の答えだった。1年365日、絵のことを考え、ひたすら絵を描くという一直線の生涯であった。