「図解塾」第6期スタートーー今期のテーマは梅棹忠夫「文明の生態史観」

「図解塾」第6期がスタートしました。文明学者・梅棹忠夫先生の「梅棹忠夫著作集」の図解化に挑戦する大プロジェクトを進めています。

昨期は梅棹忠夫「文明の情報史観」を取り上げました。私の描いた手描き図を塾生がパワーポイントで清書し、それを私が解説し、図解をさらに磨いていくという趣向でした。

今期のテーマは梅棹忠夫「文明の生態史観」です。私の講義を聴きながら、塾生は私がつくったパワーポンとの図解に補足説明を加える。そして知っている知識や調べた情報を加味し、自分の図解を創造していく、というスタイルに挑みます。

以下、塾生の学び。

  • 久恒先生、みなさま、本日は図解塾ありがとうございました。今日から第6期、梅棹忠夫先生の「文明の生態史観」を図解で読み解くプロジェクトの初回でした。久恒先生の描かれた「東と西のあいだ」「文明の生態史観①」「文明の生態史観②」という3枚の図解を見ながら解説を聴きましたが、これまであまり触れたことのない発想や視点から世界を俯瞰でき、興味深く伺いました。例えば「日本と西洋は似ている」「インドやパキスタンは東洋でも西洋でもなく『中洋』と呼ぶべきところ。磐のごとき大磐石」「日本はよく回転しているコマ」といった話がありましたが、世界各地を実際に「探検」することで得られた梅棹先生の肌感覚のものの見方だと感じました。また西洋と日本は封建制であったことでブルジョアジーが育ち、「個人の自覚」が促され、高度の近代文明へ導かれた、といった話も新鮮でした。久恒先生からの「図解を見ながら説明を聴き、自分なりに補足をしていくことで、新たな創造(学説)が生まれる」という話も印象に残りました。大作の「文明の生態史観」、読み進めていくのが楽しみです。
  • 久恒先生、皆様、おつかれさまです。本日図解塾はいよいよ第6期の1回目を迎えました。2020年9月第1期開始からマル2年が経過。本年4月からの第5期では「梅棹文明学」「第14巻:文明の情報史観」における久恒先生による手書きの図解を塾生がパワポ化しそれを使って説明するという、新たな図の学びに挑戦し全49テーマの取り組みが完了しましたが、今期は更に「第5巻:文明の生態史観」をはじめとする新たな分野へコマを進める事となりました。課題のスタイルが変わり、半完成状態のパワポ図に、久恒先生のレクチュアよりキーワードを書き込み、マルで囲み関連するものを線で結ぶ、必要個所は自分で調べ追補する…。骨格形成⇒肉付け⇒血流化というプロセスより、『俺の図』をひとつひとつ作っていくという、益々手の抜けない趣向で、今回早速「西洋、中洋、東洋」「文明の生態史観」「同、①&②」と、都合4枚の素材と対峙し脳汗カクひと時を過ごしました。地政学や歴史上の背景を踏まえ、「日本はアジアではない」「むしろ西欧州と類似」とか、乾燥(砂漠:暴力発生源)地帯をはさみ「東西両端に西欧州と日本が夫々位置する」とか、温暖気候と個人の自覚を助長する社会気質を土壌とする「先進的な民族性」といった仮説や裏付けとなる背景を作業を通じて理解する事が出来、「極東のちっぽけな島国」といった、かつて学校の授業で学んだ固定観念が崩れ去り、改めて日本の価値を再認識する事が出来たことが本日の学びとなりました。今後地理/歴史に基づくキーワードの意味や互いの関連性を更に掘り下げたり、宗教といった新たな視点からの考察を加えることで、より深く背景を理解する事も出来そう。一方「情報編」においては、50年以上前の著作にもかかわらず、今でいう「メタバース」をはじめとする今日の先端分野を予測的中させてきている「梅棹学」から、埋没する今の日本には何が足りなかったのか、今後への布石が隠れているかもしれず、こちらもワクワク致します。気持ち新たに取り組んでいきたいです。今後とも宜しくお願い致します。有難うございました。
  • 6期の1回目。お疲れ様でございました。内容がとてもこく、難しかったですが、図を追って聞いていると、特に西欧と日本の似ているところが知れてなるほどと思いました。やはり学校では日本中心の授業だったように思いますので、この空から俯瞰的な考え方はとても新鮮でした。「東の西のあいだ」の図では、中洋の近代化に日本はお手本にならないことがよく分かりました。日本が高速で回っているコマで、インドが巌のごとき大磐石というのがよく分かるたとえで、さすが梅棹先生と思いました。日本はまねているのではなく、お手本にし学び自国にあう形に進化させ、それが独特なんだというお話はうれしく思いました。文明の生態史観②の図は、上に情報が追加され、西欧と日本は、地理や歴史的環境が似ている点が立体的にあらわされ、むずかしかったですが興味深く聞きました。これらの図が50枚あるのですね。もっと難しくなりそうな予感ですが、どうぞよろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、本日もありがとうございました。2020年9月にスタートした図解塾が、今回から第6期に入りました。講義は第5期と同じく梅棹忠夫著作集を図解で読み解くというものですが、今期は、先生が作成された第5巻「文明の生態史観」の図解を先生ご自身が解説し、 塾生はその図解にそれぞれ追記していくという形で進められることになりました。 第1回目の今回は3枚の図解「東と西のあいだ」・「文明の生態史観①」・「文明の生態史観②」について解説があり、その中に、世界の捉え方として「西洋と東洋と中洋がある」とか、「第一地域として日本と西ヨーロッパ、第二地域はそれ以外」というお話がありました。これらの考え方は初めて聞くもので、かつ、分ける要因については地理、思想、社会制度など範囲が広く深いものでしたので、恐らく、著作集を読んだだけでは(文字を読み進めただけでは)頭の中で内容を組み立てられず、疑問だけが残って終わってしまっただろうと思いました。けれど、今回図解を見ながら解説を聞いたので、関係性が捉えやすく、梅棹先生のお考えを「なるほどなぁ」とほんの少し理解できたように思えましたし、未だに世界のあちこちで紛争が絶えない理由が見えた気がしました。世界は多民族国家が多いから、国単位で考えるのではなく、民族などで考えるべきだということですから、今後の解説も楽しみです。よろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、図解塾第6期の第一講ありがとうございました。講義に先立って、久恒先生と梅棹先生との面談での話で、「学問はモデルづくり、モデルは図解」と梅棹先生よりコメントいただいたという話は印象深かったです。「文明の生態史観」の図解では、旧大陸を砂漠地帯を中心として、トルコ、ソ連、インド、中国の大国の争いを避けていたのが、西洋と日本であり、共通点が多いという見方は大変面白かったです。世界を国でみるのではなく、民族や文化の視点で見るべきというのもわかっているようで、忘れていた視点でした。次回もどうぞよろしくお願いします。
  • 本日は、第6期の第一回目の講義、久恒先生と図解塾の皆様に大変お世話になりありがとうございました。まだ二回しか参加したことがなく、内容を全く知らなかったのですが、梅棹先生の考え方を要約した図解によるメンバーの方の分かりやすい説明で、日本の農業、工業、情報産業の内容や流れがよく理解できました。梅棹先生が60年以上も前に日本のすべての産業が情報化されることを予言されており、大変感銘を受けました。梅棹先生の西洋、中洋、東洋の考え方は、今まで考えたこともなかく、新たな発見、気づきを得ることができました。 「文明の生態史観」では、乾燥の砂漠地帯が真ん中にあり、その両端が西欧と日本であるけれども、個人主義の考え方など西欧と日本が似た点があることがわかり、とても興味深かったです。私は、西欧の建築物や都市やデザイン、考え方など先進的なものを感じることが多かったので、日本に自信持てるような気になりました。また宗教や民俗の重要性に改めて気づかされました。今まであたりまえに感じていた日本の多民族や多言語でないことが世界の中では、大変まれなこともわかり、その貴重さと日本に対して新しい価値を発見しました。 梅棹先生の第6期の「文明の生態史観」の図解塾、楽しみにしています。今後ともどうぞよろしくお願いたします。
  • 新シリーズ、「文明の生態史観」が始まりました。おそらくそれまで誰も注目しなかったであろう日本と西欧の共通性、中洋の存在という壮大なアイディアに驚くばかりでした。日本に住む私たちから見て、たしかに西欧は情報が多いということもありますが親和性を感じるところがあるのに対して、中東や中洋はよく分からないところが多いことを改めて知りました。インドは近い将来、人口で最大の国になるし、おそらく科学技術や産業も発展する伸びしろが大きいと思うので、注目する必要があると思いました。これからの講義が楽しみです。また、ただ聴いて教養をつけるだけでなく、世界史や現在の国際問題などと結び付けて考えられたら、と思いました。
     
     
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「名言との対話」10月5日。佐々木喜善「「どうせ食えないのだ。ならば書きたいことを書いてから死にたい。わたしは小説を書く。儂ァ話者じゃない、作家だ」
佐々木 喜善(ささき きぜん、1886年10月5日 - 1933年9月29日)は、日本民俗学者作家文学者、文学研究者、民話伝説習俗口承文学の収集家、研究家。
岩手県遠野市出身。名うての昔話の語り部であった祖父から、遠野に伝わる民話、妖怪の話を聞いて育つ。
文学を志し、東京の哲学館(井上円了の妖怪学に興味)、早稲田に学ぶ。1908年、日本民俗学の樹立に邁進する柳田国男に紹介され、遠野の民話などを話して聞かせる。その話をもとに、柳田が記したのが、画期的作品「遠野物語」となった。
1910年に遠野に帰り、民話、伝説の収集活動を行う。1925年から3年半ほど、村長をつとめるが、その重圧と借金を背負い、仙台に移る。
キリスト教徒、神道の神主、そして京都亀岡の大本教出口王仁三郎を訪ね、支部も設立している。思想も遍歴もあった。
遠野には私も訪問したことがある。柳田国男が滞在した宿、河童伝説のある川、神社などを見て回った。その時、佐々木喜善記念館で佐々木の資料をみている。
三好京三『遠野夢詩人 佐々木喜善柳田国男』(PHP)を読んだ。
この本は、佐々木喜善が1904年から1933年まで書き続けた日記を重要な資料として使っている。佐々木は死の前日まで書いている。息子の佐佐木広吉が原稿用紙に移し替えたところ、2762枚あった。
貧窮と創作の間で揺れ続ける心境が吐露されている。柳田国男については、借金のほかに朝日新聞の嘱託への世話を頼んだら、そっけない手紙で断られたことも記してある。
仙台では常盤木学園の講師の口もあったが、やっと実現の運びとなった頃には体調を崩していた。河北新報での連載も持ったが、予定の半分で打ち切られてしまった。
佐々木は、幸、不幸の分かれ道のとき、「惟神幸倍也」という言葉を口ずさんでいる。これは「かむながらたまちはへませ」と発音し、すべてをおまかせする神さまのおかげで、幸いを倍にしてください、という大本教の祈りの言葉である。亀岡で私も意味を教えてもらったものだ。
「どうせ食えないのだ。ならば書きたいことを書いてから死にたい。わたしは小説を書く。儂ァ話者じゃない、作家だ」と決心する。そして、昔話を小説にしたて、「新しい切り口からえぐりこむ。素材は無限だ」と語り、突き進もうとした。
その矢先、共通の関心であるエスペラントで親交もあった宮沢賢治が亡くなって呆然とする。岩手日報は「詩人宮澤賢治氏 きのふ永眠す 日本詩壇の輝しい巨星墜つ 葬儀はあす執行」という見出しで、賢治の業績が語られていた。黒枠の写真もある二段抜きの記事だった。
賢治の死から一週間後に、佐々木も亡くなる。岩手日報は「土俗学の権威 佐々木喜善氏逝く」と伝えた。河北新報は顔写真も掲載し、民俗学的業績を列記し、人格をたたえて死をいたんだ。佐々木喜善は、46歳という、志半ばの死であった。400編以上の昔話の収集によって日本民俗学研究に功績があり、言語学者金田一京介は「日本のグリム」と呼んでいる。
文学を志し上京した青年は、偶然によって話者として民俗学に貢献して名を残すことになった。しかし、本音は小説家、作家たらんとしたのである。それは叶わなかった。
 
 
 
 
 
 
 
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