牧野富太郎ーー植物学にかける「大志」と「決意」に感銘を受ける。

東京都立大学牧野標本館の企画展。

植物標本に囲まれた若き牧野富太郎

「普く四方に告ぐ」という通信。

小生畢生の事業として日夜我日本所産の植物を調査考察致して居り吾死する迄の間に於て多少其成功の好果を収めて帝国の植物学に貢献致し度もの花晨にも花を観ず月夕にも月を賞せず只巻其事のみに焦慮仕り居り候それ故公に在りては大日本植物志の編纂に力め私に在りては新撰日本植物図説、、、、に筆を執り候て可成我目的の地に達せん事に尽力致し居り候積りに御座候、、、、、、。

貧乏で時には薪や水を買うお金にも困る状なので調査の資金がない。

重複標本があれば分けてください。お礼にその植物の名称を教えます。標本はお名前とともに将来開設すべき中央標本館の所蔵にします。方言を添えてください。

赭鞭一撻」(しゃべんいったつ)これは年少(18歳から20歳)のころに、植物学を志すにあたり、記した15項目の心構えだ。赭鞭は古代中国の伝説の帝王・神農が赤い鞭で草をうちはらい、それをなめて役に立つ植物か確かめたことに由来する(中国の晋の時代の『捜神記』)。志とは、漠然としたイメージではなく、こういう具体的な書き付けをいうのだろう。「結網子」は好んで使った号。植物学者の網の目の結節点たらんとしたのだろう。

1・忍耐を要す。2・精密を要す。3・草木の博覧を要す。4・書籍の博覧を要す。5・植物に関係する学科は皆学を要す。6・洋書を講ずるを要す。7・当に画図を引くを学ぶべし。8・宜く師を要すべし。9・吝財者は植物学者たるを得ず。10・跋渉の労を厭うなかれ。11・植物園を有するを要す。12・博く交を同志に結ぶべし。13・迩言(じげん)を察するを要す。14・書を家とせずして友とすべし。15・造物主あるを信ずるなかれ

 

日本植物学の父。北は北海道から南は屋久島までの植物採集。徒歩、馬車。水平的人間関係。ファン。

牧野標本館のタイプ標本は国内トップレベル。データベース化は2割。

60年以上にわたり、同じ場所で同じ植物種の標本を採集。近年のDNA解析で地球温暖化の影響が明らかになった。標本は時がたつほど価値があがってくる。

ヤマトグサ(アカネ科)

ビデオでの解説は村上哲朗教授。日本植物分類学会会長。この学会はノンプロ(愛好家)も多い。この人も植物が好きで好きでたまらないという語り口だった。牧野富太郎の志を継いでいる人だ。標本館は牧野富太郎の聖地。

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目黒で橘川さんと昼食。今後のいくつかのプロジェクトについて。

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「名言との対話」7月18日。西郷従道「過ちを改るに、自ら過ったとさえ思い付かば、それにてよし」
西郷 従道(さいごう じゅうどう / つぐみち[1]、旧字体: 西鄕 從道󠄁、1843年6月1日(天保14年5月4日) - 1902年(明治35年)7月18日)は、日本の軍人、政治家。
鹿児島出身。長兄の西郷隆盛の影響で尊王攘夷運動に参加。戊辰戦争に従軍後、新政府に入る。1874年陸軍中将として台湾出兵を指揮した。西南戦争では隆盛側につかず、政府に残留している。文部卿、陸軍卿、農商務卿を歴任した。内閣制度が創設されると、第1次伊藤博文内閣の海軍大臣に就任し、日清戦争での戦功を認められ侯爵に叙位される。元帥にもなっている。海軍大臣在任は通算10年に及んだ。その間、日本海軍の整備、改革に尽力した。
西郷隆盛は、本来は 隆永(たかなが)であったが、薩摩弁でうまく伝わらず、「隆盛」と記述された。西郷は、それならそれでいいと隆盛ということになった。同じように、従道は本来は 隆道(りゅうどう)だったが、「じゅうどう」と聞き間違えらて、従道となったとのことである。豪放磊落な兄弟であったことを示すエピソードだ。
隆盛を長兄とする西郷兄弟を調べると、幕末から明治にかけて三男の従道だけが生き延びていることに驚いた。長男の隆盛は、明治10年西南戦争で死んだ。隆盛より6歳下の吉二郎は期待された人材だったが、戊辰戦争で死んでいる。20歳下の四男の小兵衛は面影や性格は隆盛に似ていたそうだが西南戦争で戦死している。
従兄で1歳下の大山巌は、陸軍に入り日露戦争でも司令官として、大砲で戦闘が始まっているときに、騒がしいのは何でごわすかと言ったという悠揚迫らぬ器で、部下が心酔したと司馬遼太郎坂の上の雲』で目にした。海軍で活躍し、海軍大将になった従道も同じタイプだった。海軍大臣時にも山本権兵衛に任せて縦横に腕を振るわせた。細かいことは部下に任せてるという日本的リーダー像そのものであった。従道は、四升の酒を飲む酒豪で、体型は達磨体型で愛嬌があった。「資性磊落、且つ機智に富み、激しい聴かぬ気の英傑だった」「私は彼を聡明な、魅力に富んだ人で、頭のさきから足の裏まで武人であると思った」との人物評がある。

冒頭の名言「過ちを改るに、自ら過ったとさえ思い付かば、それにてよし」の後には「その事をば棄て顧みず、すぐに一歩踏み出すべし。過ちを悔しく思い、取繕はんと心配するは、たとえば茶碗を割り、そのかけらを集め合せ見るも同じにて、詮なきこと也」が続く。

経歴からみると、総理大臣になってないのが不思議な感じがするが、「兄が逆賊だったから、俺がトップになったら民衆が納得しない」といって、再三の要請も断っている。そういう意味では、出処進退はきれいだったといえる。小西郷と呼ばれ、兄弟でひとり残った従道は、大西郷・隆盛の志を継ごうとしていたのであろう。