12月の「名言との対話」の人選ーーどういう人に出会えるか愉しみ。共著の広告が日経新聞に掲載。

「名言との対話」。今年は「近代」をテーマとすることにした。近代とは、市民社会が現出した江戸後期の文化文政時代から敗戦までと考えている。

12月の人選。さて、来月はどういう人に出会えるか。愉しみだ。

曲亭馬琴。川崎正蔵沢村栄治・岩崎久弥。前原一誠箕作秋坪式守伊之助玉錦中島敦。モネ。島津久光グラッドストン大村益次郎佐野常民川上貞奴エンゲルス・スペンサー・山村慕鳥・山本権兵衛。コーネル・夏目漱石坂本龍馬・ノーベル・大山巌長岡半太郎中岡慎太郎中江兆民・青山胤通・小島烏水。ケロッグボールドウィン森田草平。カメハメハ3世。グリル・浅井忠・グラバー・近衛文麿。大石和三郎・モホロビッチ。アルツハイマー・藤山雷太。伊達宗城岸田劉生岩垂邦彦。パーキンソン。狩野享吉・西郷四郎東條英機板垣征四郎広田弘毅エロシェンコサッカレー高山樗牛・タウト・白石元治郎。大正天皇小山内薫シュリーマン・原田直次郎。鈴木ひで子。山本覚馬・安達峰一郎。ターナーリルケ南方熊楠。ロラン・横光利一。ダラス・寺田寅彦

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2023年に刊行した日本地域社会研究所から刊行した共著『人生は迷いと決断の協奏曲ー自分史に見る、10人それぞれの奇跡とセカンドステージ』(人生100年時代を輝かせる会=編)の広告が25日(土)の日経新聞に掲載された。

70歳が中心の1942年生まれから1955年生まれの男性が共著者で、インテリアデザインナー、土木エンジニア、プラントエンジニア、航空エンジニア、高校教員、大学教員、貿易従事者、団体職員の10人。

私は、「千仞の谷を跳んだ人生最大の決断」というタイトルで書きました。

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「名言との対話」11月27日。西郷菊次郎「おはんたちの命を大切にして、家族ともども親に孝養を尽くせ」

西郷 菊次郎(さいごう きくじろう、1861年2月11日万延2年1月2日) - 1928年昭和3年)11月27日)は、日本政治家外交官

西郷隆盛と愛加奈の長男として奄美大島で誕生。9歳で鹿児島の西郷家に引き取られる。12歳、アメリカ留学。2年半の後に帰国。17歳、西南戦争に薩摩軍に参戦し、負傷しひざ下を切断。隆盛の弟の従道のもとに投稿。

23歳、外務省に入省。1887年にアメリカのジョンズ・ホプキンス大学に在学するが、留学を断念し帰国。1895年、台湾の基隆支庁長、宜蘭庁長官。帰国後は、京都市長として活躍する。

1895年、34歳で台湾総督府に赴任。2年後に台湾北東部の宜蘭庁の初代長官(県知事)に就任。この地は長年にわたり河川の氾濫で苦しんでいた。西郷は巨費を投じ、全長1.7キロの堤防を1年5カ月の工事で完成させ、その後洪水は起きなくなった。この堤防は「西郷堤防」と呼ばれ、現在は感謝のしるしとして徳政碑が建っている。また西郷は、農地拡大、道路整備、樟脳産業の発展、農産物の収穫増加、土匪の反乱鎮圧、教育の普及などをに取り組んでいる。

拓殖大学の福田勝幸理事長は2019年尾「日台学術交流会」の講演で、西郷菊次郎について触れている。拓大は1900年に創設された台湾協会学校から出発し、その後、朝鮮、中国、南洋を視界におさめながら東洋協会となり、拓殖大学へと発展した。菊次郎の三男の隆秀は拓大を卒業し、1955年から10年間、拓大理事長であった。

1904年からの京都市長時代の6年間では、「京都100年の大計」として京都産第j業を推進した。「第二琵琶湖疏水の開削」「上水道整備」「道路拡築・市電敷設」という土木事業を行った。これらはまさに100年の大計であり、100年後の21世紀の今、京都市民に大いなる恩恵をもたらしている。

日本初の植民地・台湾においては、東洋一のダムを建設した八田與一などを代表に、上下水道の整備など土木事業を推進した日本人が多い。西郷菊次郎は、台湾においても、京都においても土木事業に功績があった。この人は「土木偉人」の一人であった。

ところで、西郷菊次郎の写真をみると、大西郷と呼ばれた西郷隆盛の目が大きな風貌を思いだす。また、菊次郎は隆盛に似た性格の持ち主だったそうだ。冒頭の、命を大切にして親に孝養を尽くせとは、西南戦争で負傷した菊次郎を含む兵たちに隆盛が語った言葉である。大西郷の人柄をあらわす言葉だと思う。菊次郎は7男7女をもうけているところをみると、家庭を大切にした人だったのでないかと想像する。菊次郎も偉い人であったのだ。