牧野(富太郎)記念公園の見学ツアー(知研主催)ーー7名の参加があった楽しい会。

午後:14時から牧野記念公園の見学ツアー(知研主催)参加者は7名。食事会もふくめてとても楽しい時間を過ごしました。世話役の都築さん、ありがとうございます!

鈴木さん(大阪から)。柴田さん。力丸さん。小林さん。牧野富太郎先生。久恒。富山さん。都築さん。


f:id:k-hisatune:20230723052517j:image

f:id:k-hisatune:20230723052514j:image

f:id:k-hisatune:20230723052520j:image

f:id:k-hisatune:20230723052745j:image

記念館などで採集した言葉。

 頭脳の中 仕入れが草木数知れず 幾ら売っても品切れはせず

 花あればこそ吾もあり 93歳

 九九に四ツ年を迎へし吾なれど 若き学者と轡を並べむ 八十有吾

 何時までも生きて仕事にいそしまん また生まれ来ぬこの世なりせば

 何よりも貴とき宝もつ身には 富も誉れも願わざりけり

 わが姿たとえ翁と見ゆるとも 心はいつも花の真盛り


f:id:k-hisatune:20230723052621j:image

f:id:k-hisatune:20230723052617j:image

f:id:k-hisatune:20230723052614j:image

蔵書は4万5千冊。結網学人。94歳で永眠。

1927年に博士号をもらった時の言葉は「平凡になった」。

ーー

牧野富太郎自叙伝」(長嶋書房 1956(昭和31)年12月)より。

  • 妻は昭和三年に五十五歳で病歿、生まれた子供は十三人、現在六人生存、他は病歿、私には後妻はない。
  • 赤黄紫さまざま咲いてどれも可愛い恋の主年をとっても浮気は止まぬ。恋し草木のある限り。恋の草木を両手に持ちて劣り優りのないながめ。朝な夕なに草木を友にすればさびしいひまもない。
  • 私は凡人だから凡人並みの信条を持っている。その中で私として最も大いなる信条は、わが日本の植物各種を極めて綿密に且つ正確に記載し、これを公刊して書物となし、世界の各国へ出し、大いに日本人の手腕を示して、日本の学術を弘く顕揚し、且つ学界へ対して極めて重要な貢献をなし得べきものを準備するにある。つまり各国人をアットいわせる誇りあるものを作りたいのだ。そして日本人はこの位仕事をするぞと誇示するに足るものを作らねばらん
  • 私のような学風と、また私のような天才(自分にそう言うのはオカシイけれど)とは、私の死とともに消滅してふたたび同じ型の人を得る事は恐らく出来ないという事です。
  • 希望の無い人間は動いていても死んでいらア。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この牧野記念公園には2008年7月20日に訪れたことがある。以下、その時のブログ。

世界的植物学者・牧野富太郎博士(1862年ー1957年)については、子供のころ伝記を読んだ記憶がかすかにある。学校に行かずに植物学を極めた大変偉い人という印象を持っていた。この名前は、朝倉文夫昭和天皇などの記念館で何度か目にしたていたから、遅かれ早かれ訪問する予定だった。
牧野富太郎が65歳で移り住んで天寿を全うするまで32年間にわたって研究を続けた自宅は、西武池袋線大泉学園駅から徒歩5分の地にあった。今は牧野記念庭園となっており、2189へーべの広さで、340種類の草木類が植栽されている。暑い日だったが、この庭園の木陰に入ると実に涼しい。
保存するために鞘堂に収められている書斎と書庫は8畳間と4畳間である。シーボルトの弟子であった伊藤圭介(1803-1901年)の命名した「よう條書屋」と名付けられた書斎で、牧野は一日中過ごし万巻の書を読みふけった。うず高く積まれた書物の間で本を読み調べものをする晩年の写真が飾ってある。その上に「学問は底の知れざる技芸也」という牧野の座右の銘と思しき言葉が木片に書かれていている。
となりの資料記念館陳列室では博士が探し求めた植物の押葉や竹の標本、植物に関する書物、そして博士愛用の日常品が展示されている。流れているビデオの映像を見ていると、逝去のときの新聞記事があり、「牧野博士 ついに死去す」とあった。「ついに」とはどういう意味だろうか。あの熱心研究に没頭していた博士がとうとうというような愛を感じるがどうだろう。この地は日本の植物学の聖地である。
博士は小学校を1年生で辞めている。後は独学で植物学を学び、ついに世界的学者になった。日本や世界中から集めた標本は比較する必要があるため、常に新しい文献が必要であり、東京に出た牧野は一番充実している東大に出入りする。そして「日本植物志図篇」という雑誌を創刊している。このとき牧野は26歳だった。「日本の植物を、日本人の手で研究した成果を外国に知らしめる」ことが発刊の趣旨だった。その後、東大の助手、そして50歳を過ぎて講師になり、大学で自由に研究ができる環境を得る。
77歳のときには「書斎を離れるのは食事の時と寝る時だけで、私は早朝から深夜1時過ぎまで本の中で生活している。書斎に居る時が一番生き甲斐を感じる」と述べている。まさに植物の研究に没頭した人生だった。博士は生涯において1600種類以上の新種を命名している。これはリンネに次ぐ業績である。
「花在ればこそ 吾も在り」
「楽しさや押し葉を庭の木で作り」
「我が庭に咲きしフヨウの花見れば老いの心も若やぎにけり」。
「植物に親しむことは、生命を愛する心を養う」と博士は言ったが、「私は草木の精である」という極めつけの言葉も残している。ここまで来ると何も言うことはない。ただうらやましく、そして尊敬するだけだ。


f:id:k-hisatune:20230723052856j:image

f:id:k-hisatune:20230723052906j:image

f:id:k-hisatune:20230723052902j:image

f:id:k-hisatune:20230723052511j:image

 

夕方からは、池袋での食事会。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今日はフル回転。

朝:1時間ほど、ヨガで体と心を整える。

昼:大泉学園の「梅の花」で大阪からみえた鈴木さんと昼食を摂りながら歓談。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」7月22日。高峰譲吉「Try Try Again! 何度でも挑戦しよう!」

高峰 譲吉(たかみね じょうきち、嘉永7年11月3日1854年12月22日) - 大正11年(1922年7月22日)は、日本科学者実業家工学博士及び薬学博士

タカジアスターゼアドレナリンを発見し、アメリカ合衆国で巨万の財を成した理化学研究所の設立者の一人でもある。

富山県高岡市出身。父は漢方医、母は造り酒屋の娘。長崎留学生として英語を学び、京都で兵学、大坂適塾蘭学を学び、後に医学、化学を学ぶ。1874年にのちの工部大学校一期生として化学科を首席卒業。

26歳から英国グラスゴー大学に3年留学。帰国後は農商務省に入省。1886年に東京人造肥料会社(後の日産化学)を設立。1890年に渡米。33歳の時に知り合ったキャロラインと結婚。46歳、消化酵素・タカジアスターゼを発見。58歳、アドレナリンの抽出に成功。59歳、三共の初代社長に就任。65歳、東洋アルミニウムを設立。その関連で黒部鉄道、黒部温泉(株)、黒部水力(株)も立ち上げに関与する。当時の移民法によってアメリカ市民権は得られなかった。

広範な分野の勉強をし、数々の歴史にのこる大発見を行い、多くの事業を立ち上げ巨万の富を得て、その富を次の時代のために生かした人である。偉業をなした人だ。隆盛を誇った日本初の総合研究所・理化学研究所理研)が国民科学研究所設立の構想をぶち上げ、渋沢栄一が設立委員長として奔走し、ようやく理化学研究所が設立される。化学に加えて物理も入った研究所である。渋沢栄一は副総裁として財政を後押しした理研は63社、121工場もの企業群を擁するコンツェルンを形成した。この理研は人材輩出の面で素晴らしい業績をあげている。

以上のよう経歴をながめると、順風満帆のように見えるが、本人は「これまでも何かを成し遂げようとして簡単に成功したことは一度としてありません」と断言している。

2000年10月23日の朝日新聞で、この1000年で最も傑出した科学者は誰かという面白い企画があり、読者の人気投票を行っている。1.野口英世 2.湯川秀樹 3.平賀源内 4.杉田玄白 5.北里柴三郎6.中谷宇吉郎 7.華岡青洲 8.南方熊楠 9.江崎レオナ 10.利根川進 11.鈴木梅太郎 11.西澤潤一 13.高峰譲吉 14.寺田寅彦 15.志賀潔 16.関考和 。科学者としての業績には素晴らしいものがある。

「発明研究は、学理に基礎を置いて、しかしてそれが経済上に利あるものでなければならない。」「日本は決して模倣だけの国ではない。模倣の上に数々の創造を重ねている。」「模倣的であることは、独創的であることの先駆に他ならない」」。近年、ベンチャー企業の立ち上げの先駆者として、高く再評価されていることにも頷くことができる。

「私が渡米以来トントン拍子に成功しつつ来たかのごとく見られる人もあるか知りませんが、ここまでにするには、いくつも失敗に失敗を重ね、困難に困難を積み、数え切れぬほどの辛苦をなめて、やっとここまでこぎつけたのです。」とも語っている。高峰譲吉にして、失敗の連続の先の成功だったのだろう。

「Try Try Again! 何度でも挑戦しよう!」は、優れた科学者であり、稀にみる有能な事業の創造者であった裏には、こういった苦難の歴史があったという教訓を忘れてはならない。