「図解塾」ーーテーマは文明学

図解塾6期⑱。今回は「文明学」の構築のための梅棹忠夫の素描を部分の図解講義。人文学の分野とされていた「文明」という対象を科学として構築しよう、文明批評、文明論の先に、法則を見出そうという試みだ。

「難しかった」という感想が多かったが、これは相当な分量のページを一枚の図にしたこともあり、説明がこなれていなかった面もあるかもしれない。次回はさらにそれぞれの部分の情報を追加して解説してみよう。

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以下、塾生の学び。

  • 本日もありがとうございました。まずは本題に入る前の、牧野標本館の特別展のお話、知らなかったエピソードがいろいろと聞けました。東京都の名誉都民第1号という経緯で東京都立大学が標本を引き受けたという経緯も知りませんでした。南大沢にはそのうち行かなければと思います。寺島実郎さんの「世界を知る力」。後からYoutubeで視聴しましたがいつものことながら一般の報道番組では得られない、深堀りした見方や考え方ができ、たいへん役に立っています。国際情勢についてもともすれば欧米対中ロの二極対立の構図でしか見られないようになってしまっていますが、縦(日中関係の歴史軸)と横(米中対立は経済とは別、また前回語られたインドをはじめとするグローバルサウスの存在など)の両方の軸でしっかり見ることを忘れてはいけないと思いました。 そして本題の文化と文明です。たいへん難しい内容でした。文明と文化の違いについて、都市の風景は大きく見れば同じように見えそれが文明とすると、それを運転する人々の考え方、街中の人々の暮らしや日々の会話、風俗習慣などが文化だという例えに納得できました。ベネディクトも和辻哲郎も、文化人類学もごく部分的なもの、と相対化し論を乗り越えた文明学を成立させようというのには何となく納得がいくような気がします。しかし、具体的な文明学の内容、現代においてどのような方々が継承しているかなどについてはよく分かりません。いずれにせよ、今後さらに深めていくのが楽しみです。
  • 久恒先生、みなさま、本日は図解塾ありがとうございました。今日は梅棹忠夫先生の『比較文明学研究』の中の「東南アジア及び東アジア諸文明の形成」「文明の科学」「文化と文明」「生態系から文明系」の4つを、久恒先生の図解で学びました。 「文明の科学」 以下では、  ひと口に「文明」といっても、歴史や地理、考古学、地誌、文明論、文明批評など、様々な切り口からのアプローチがあり、これら全要素をひとつの図柄にまとめ上げる「文明学」を作り上げようという壮大な着想で、難しい内容でした。「文明学」を構築するうえでは、各要素の構造や関係性をつかみ、全体的、統合的に捉えていくことが求められる、ということで、それは「図解」そのものであるという話があり、なるほどと思いました。何か興味があるものに出会うと、つい細かい部分に入って行きたくなりますが、それだけではなくて、立体的に他の物との関係性を探ったり、大きな枠組みで捉えるといったことで見えてくるものがある。が、普段あまりそこまでしていない(=考えていない)ということにも気付かされました。また文化と文明の違いや関係性、生態系から文明を捉える見方など、梅棹先生の縦横無尽なものの見方に改めて驚きました。次回、次々回と文明学と日本学、日本文明へと繋がっていくとのことで、楽しみです。
  • 久恒先生、皆様、おつかれさまです。本日、図解塾。梅棹忠夫著作集の図解講義、先週に引き続き『東南アジア』について久恒先生より4つの図をレクチュア頂きました。今回は「解ったつもりがなかなか難しい2時間」でした。①『東南アジアおよび東アジア諸文明の形成』(前回のおさらい):中国文明は南方(タイ・ベトナムビルマ)および東方(朝鮮・日本)へと大陸上を伝播していった(シナ化)日本へは荒れる日本海を超える必要があった、『隔離の海』。しかしこのフィルタにより大きな侵略もなく日本は固有の文明を醸成していく。一方インド文明は穏やかなベンガル湾を通じて南方(タイ・カンボジア・ビルマ)へ伝播。『結合の海』により「民俗混在」の東南アジア文明が隆盛して行く。双方の文明は互いに移動する民族によって伝播されていくが、ここでは地理的要因が深く関与している点が大変興味深かったです。②『文明の科学』:科学とは「法則性を見つける」学問であり生態学歴史学・地理学といった個々の独立した領域をそれ自身が超える事は無く、また地誌(特定地域に関する説明・研究)、風土(直観的・価値観)も同じく統合されていない情報ファイルに過ぎず、理解できなければ受け継ぐ事が出来ない。ここで要素全てをまとめ、全体構造と部分因子同士の関係性を示す事が出来れば誰にでも移共有可能な物こそ『文明の科学』と呼ぶべきだろう。フィールドワークに見られる、現地へ赴き識者との交わりを通じながら歴史的背景を把握し、仮設を科学的な見地で立証といった多角的に学ぶ姿勢や成果物がこれに該当すると考えました。③『文化と文明』:文明とは人間が作り出した装置/制度と共に形成される統合体(システム)であり、だれもが扱い利便性を享受できる。一方文化は精神にある価値、抽象概念。文明は便利だが画一的。文化はその価値観が理解できさえすれば精神的な満足感が味わえる。これらの両立(例えば新幹線で京都巡りに出かける)を目指しているのが我々の姿なのではないかと、そういう姿を客観視する事が大事と考えました。④『生態系から文明系へ』:地球上で食物連鎖の頂点に立ち、天然資源を浪費するような生き方から、温暖化や食料枯渇あるいは戦争といった「持続可能な生存」を脅かすリスクを、諸因子同士の関係性や全体構造から誰にでも等しく、歪曲することなく正しく理解できる情報可視化や対策提案ができる環境創りこそが、『文明学構築』に即した姿勢ではないかと考えました。地球温暖化問題において、深刻な気象変化を目の当たりにしつつも、大胆なエネルギー転換が打てないばかりか、戦争がさらにその足かせとなってしまうような現状に対し、地球規模での意思統一、合意形成が図れる流れこそが今必要な『文明』ではないかと考え至りました。ホントに今回殊更難しい。個人では手に負えない代物、多くの人々との協力で成し遂げられる貴重な物、これが本日実感した事です。有難うございました、次回も宜しくお願い致します。
  • 7月の図解塾に参加させていただきました。久恒先生、皆様ありがとうございました。印象に残ったことは、東京都立大学の「牧野富太郎展」の等身大パネルの元気のよい明るい笑顔の表情です。苦労されて植物の難しい研究をされているのに、元気のよいさわやかな笑顔から、本当に好きな研究に打ち込まれて心から楽しまれて研究された様子が伺えました。寺島実郎さんの番組の「世界を知る力」の説明で日本の100歳以上の高齢者が9万人を超えたという話は、これからの日本について考えさせられました。100歳以上の割合としては世界一で52年間過去最多で大変驚いています。(世界の100歳以上の高齢者が、69万人)。 今日のテーマは、「東アジアにおける律令国家群」(前回の復習)と①「文明の科学」と②「文化と文明」③「生態系から文明系へ」についてでした。いずれも図解によりわかりやすく説明していただきました。特に印象に残った内容は、地誌や地理学や考古学、文化の型、風土、人間関係地域ファイルなど多角的、重層的にとりいれ、単なる文明論を乗り越えた文明学を成立させることが大事だということがわかりました。今まで文明は世界の四大文明くらいが存在することくらいしか、わかっていませんでしたが、その構造や共通点など知ることができました。また、文化のとの比較についても知ることができました。ギリシャ文明とローマ文明が時代を超えてまじりあった様に、巨大文明同士が衝突すると、さまざまな摩擦が発生し、新しい文化や文明を引き起こすかもと思いました。今回も、とても興味深い内容ばかりでした。次回も楽しみにしております。
  • 本日もありがとうございました。最初のお話のあった、都立大の牧野標本館の企画展に行ってみたいと思いました。標本の実物が見られるのはすごいですね。寺島先生の世界を知る力、毎回先生の説明、1度目の図メモに2回目の視聴で聞き逃した数字などを追記し、それを文章に変換するのがよくわかりました。梅棹文明の生態史観について、本日は、前回タイトル変更の「東アジア諸文明の形成」の復習からでした。地図を見せていただけたので地理的要因と重ね合わせて説明を聞くことができました。「文明の科学」では、いろいろな文明論について、構造と関係が足りていないことをズバッと言い、「文明と文化」で文明は骨格で、そこに後天的、社会的、人間の精神的なものである文化がある。人類の文明は人間も要素となったエコシステムだ。といっている。そこに自然なものを加えたお話「生態系から文明系へ」では、自然なもの、生態系人間は、文明学の構築について学問の記述方法を探しているということ。というお話でした。構造と関係を明確にするには図解ですね。 とても難しく。本日の文明論の3枚の図解を、もう一度順を追って見直してみると、つながりが見えてきましたが、わからない箇所も多く。また見直してみます。次回も先へ先へ進みますね。よろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、皆様、おつかれさまです。本日、図解塾。梅棹忠夫著作集の図解講義、先週に引き続き『東南アジア』について久恒先生より4つの図をレクチュア頂きました。今回は「解ったつもりがなかなか難しい2時間」でした。①『東南アジアおよび東アジア諸文明の形成』(前回のおさらい):中国文明は南方(タイ・ベトナムビルマ)および東方(朝鮮・日本)へと大陸上を伝播していった(シナ化)日本へは荒れる日本海を超える必要があった、『隔離の海』。しかしこのフィルタにより大きな侵略もなく日本は固有の文明を醸成していく。一方インド文明は穏やかなベンガル湾を通じて南方(タイ・カンボジア・ビルマ)へ伝播。『結合の海』により「民俗混在」の東南アジア文明が隆盛して行く。双方の文明は互いに移動する民族によって伝播されていくが、ここでは地理的要因が深く関与している点が大変興味深かったです。②『文明の科学』:科学とは「法則性を見つける」学問であり生態学歴史学・地理学といった個々の独立した領域をそれ自身が超える事は無く、また地誌(特定地域に関する説明・研究)、風土(直観的・価値観)も同じく統合されていない情報ファイルに過ぎず、理解できなければ受け継ぐ事が出来ない。ここで要素全てをまとめ、全体構造と部分因子同士の関係性を示す事が出来れば誰にでも移共有可能な物こそ『文明の科学』と呼ぶべきだろう。フィールドワークに見られる、現地へ赴き識者との交わりを通じながら歴史的背景を把握し、仮設を科学的な見地で立証といった多角的に学ぶ姿勢や成果物がこれに該当すると考えました。③『文化と文明』:文明とは人間が作り出した装置/制度と共に形成される統合体(システム)であり、だれもが扱い利便性を享受できる。一方文化は精神にある価値、抽象概念。文明は便利だが画一的。文化はその価値観が理解できさえすれば精神的な満足感が味わえる。これらの両立(例えば新幹線で京都巡りに出かける)を目指しているのが我々の姿なのではないかと、そういう姿を客観視する事が大事と考えました。④『生態系から文明系へ』:地球上で食物連鎖の頂点に立ち、天然資源を浪費するような生き方から、温暖化や食料枯渇あるいは戦争といった「持続可能な生存」を脅かすリスクを、諸因子同士の関係性や全体構造から誰にでも等しく、歪曲することなく正しく理解できる情報可視化や対策提案ができる環境創りこそが、『文明学構築』に即した姿勢ではないかと考えました。地球温暖化問題において、深刻な気象変化を目の当たりにしつつも、大胆なエネルギー転換が打てないばかりか、戦争がさらにその足かせとなってしまうような現状に対し、地球規模での意思統一、合意形成が図れる流れこそが今必要な『文明』ではないかと考え至りました。ホントに今回殊更難しい。個人では手に負えない代物、多くの人々との協力で成し遂げられる貴重な物、これが本日実感した事です。有難うございました、次回も宜しくお願い致します。
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    たまらんな カラスも行水 炎暑かな

     
     

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「名言との対話」7月19日。山岡鉄舟「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」

山岡 鉄舟(やまおか てっしゅう、旧字体山岡 鐵舟天保7年6月10日1836年7月23日〉- 明治21年〈1888年7月19日)は、日本幕末幕臣剣術家明治期官僚政治家の達人。

 江戸生まれ。武術に天賦の才能をもち「無刀流」の開祖となった。身長6尺2寸(188cm)、体重28貫(105kg)の巨漢であった。勝海舟高橋泥舟とあわせて、幕末の三舟と呼ばれた豪傑である。

この人のエピソードにはことかかない。それは南條範夫山岡鉄舟』、津本陽『春風無刀流』、神渡良平『春風を斬るーー小説・山岡鉄舟』、山本兼一『命もいらず名もいらず』などに取り上げられていることでわかる。また映画、漫画、アニメ、テレビなどでも紹介されている。

ここでは、山岡鉄舟の行った一大事業を取り上げよう。幕末の官軍による江戸総攻撃の直前に、勝海舟の前払いとして徳川慶喜の命を受けて、命の危険を顧みず単身新政府軍に乗り込んで、西郷隆盛と面会する。江戸無血開城のために西郷が出した条件の最後の「将軍慶喜備前藩に預ける」だけは鉄舟は拒否する、その赤誠に打たれた西郷は撤回する。後に西郷隆盛は、この鉄舟を念頭に「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」と評したのである。この有名な言葉は、山岡鉄舟のことだったのだ。

もののふ(武士)というものは、出処進退を明らかにし、確固として自己の意志を決した以上は、至誠をもって一貫するのが、真の武士でまた武士道である」「道は千載不滅だよ。いかなる大敵も、道には勝てぬ」「人は至誠をもって四恩の鴻徳を奉答し、誠をもって私を殺して万機に接すれば。天下敵なきものにして、これが武士道である」、こういった武士道の実践者が天下の偉業を成し遂げたのである。武士道とは人道のことであろう。

2017年に静岡市清水区清水次郎長の跡を訪ねた時に鉄舟のことを知った。鉄舟は次郎長と意気投合し、大きな影響を与えている。やくざの大親分であった次郎長は49歳で明治維新を迎え生き方を180度転換している。晩年は美保、日本平、富士裾野の開墾をはじめ、社会公益事業にかかわった清水の恩人である。

山岡鉄舟の薦めで次郎長は富士裾野の開墾に着手する。県令に助成金と静岡監獄の囚人(模範囚)を使う許可を得た次郎長は、現場では囚人の腰縄を外し、家族との面会を自由にした。そして自ら汗を流し、大政や天田五郎ものちに監督作業にあたった。開墾は17年間におよび、耕した土地は76ヘクタールに達した。

山岡鉄舟の義弟、石岡周造が遠州相良の油田を開発。 鉄舟の依頼により次郎長は、石坂を助けて相良株式会社の株券を募集して、石油開発に協力した。現在でも この場所の近くにくみ上げられる油井がある。

精神満腹会の石碑には「底光りのする人格者。清水の今日の端を開いた先覚者。鉄舟とは知音の間柄。剛者にして仁人。大俗にして聖者。信条は正義・意気。男の中の男」と書かれている。鉄舟は次郎長に大きな影響を与えている。

以下、鉄舟の言葉。

・およそ大凡人たるものは、誠忠が肝要である。ゆえに時変に接しては死を見ること帰するがごとき確固たる心胆を動かさぬように鍛練が第一である。

・人にはすべて能不能あり、いちがいに人をすて、或はわらふ可らず。

・善きところはどしどし取って、これを食い、かつこれを消化して、わが物とせよ。もしわが日本国体には、食中毒とみたなら、我が国の領海に着かない中に、航海中に海に斬り捨てよ。

・晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は 変わらざりけり

山岡鉄舟については、よく目にするが、西郷隆盛に「命もいらぬ、、、」という名言を吐かせた人物として記憶することにしよう。