お宮参りーー「すくすく、清く、直く、よい人柄、友だち、よく学び、よく遊び、病気なく、、」

北鎌倉の神社で、息子の娘(つまり孫)のお宮参りに参加。比較的涼しかったことと、朝早かったので、無事に終了。

神主さんの祝詞がわかりやすく、そして心に響いた。要するに「幸せに生きる」って、こういうことなんだろうと納得する。

「掛けまくも畏き〇〇神社の大前に恐み恐みも白さく、【住所】に住める【父母名】が真名子【子供】い、平成 年 月 日に生まれ出でしより【日数】日の今日の善き日に初宮詣仕へ奉らくと、今し大前に参来詣でて、玉串を捧げ奉りて拝み奉る状を平らけく安らけく聞し食して、すくすくと生ひ立ち栄えしめ給へと恐み恐みも白す」

その後は、清く直く。人柄のいい友だちをもち。よく学びよく遊び。病気なく。、、、。



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「名言との対話」7月21日。犬田卯「『橋のない川』は犬田の腕となって書いた私の作品」

犬田 卯(いぬた しげる1891年明治24年)8月23日 - 1957年昭和32年)7月21日)は、日本小説家、農民運動家。

茨城県牛久市出身。農家に生まれ高等小学校卒業後、兵役を終えた後に農業に従事。小川芋銭の引き合わせで、俳誌の編集を手伝う中から、博文館の編集者となる。1914年に雑誌「少女世界」の編集にあたるうちに住井すゑと知り合う。

文学による農民開放を唱える。1919年、博文館を退社。雑誌「農業世界」に農地解放の評論で筆禍事件を起こす。住井すゑと結婚し、2人で「農民文学研究会に参加し、「土からの文学」を主張。1932年、主宰する「農民」が発禁処分を受ける。1935年に喘息の療養のため家族とともに郷里の牛久に帰る。1957年に住井すゑに看取られて死去。

著書は「土に生まれて」(上・中・下。「土にあえぐ」(第1巻。2・3・4)。「村に闘うふ」(1・2)。「土にひそむ」(1巻・2・3・4)。連作が多い。短編集としては「太田卯短編集」(1巻・2)がある。また翻訳もゴーリキー、ゾラ、バルザック、ノリスなど多い。

2022年に日本近代文学館で「住井すゑ、九十五年の軌跡」展を見る機会があった。このとき、犬田と住井すゑの出会いとその後の二人の格闘を知った。

すゑは55歳で夫が亡くなった後、56歳から書き出す。それが『橋のない川』になったのだ。70歳過ぎまでの15、6年間で5000枚の原稿になっている。

天皇制と戦争と部落がテーマであった『橋のない川』は1部から7部まで刊行されたが、第8部は表題のみを残し作者のすゑが死去している。全編を通じて部落差別の理不尽さ並びに陰湿さが書かれており、水平社宣言をもって締めとしている。1969年 - 1970年と1992年の2度にわたって映画化された。野坂昭如日本書紀古事記もウソだということが、わかった。『橋のない川』が本当だ」と評価している。

天皇制批判であるから、書いているうちに殺されることも自覚していた住井すゑ本人は2000年時点で500万部売れていた『橋のない川』は長い未来にわたって千万冊は売れると予言している。2018年現在で既に800万部を超えている。住井すゑは歴史を知る上で日本人には読む責任があると語っている。この予言もあたりそうだ。

犬田卯は時代と病魔によってその才能を十分に開花させることは叶わなかったが、妻であり同志であった住井すゑが「橋のない川」を書いたことで大輪の花を咲かせたといってもいいかもしれない。住井すゑは「犬田の腕となって書いた私の作品」と語った。この大作は二人の共作だったのである。