未完の長編『橋のない川』を生涯書き続けた「住井すゑ」の勇気と気概に打たれた。

住井 すゑ(すみい すえ、1902年1月7日 - 1997年6月16日)は、奈良県出身の小説家。享年95。以下、2018年に書いた文章。

講談社の婦人記者を経て文筆活動に入り、小説・児童文学などを執筆する。小学館児童文化賞第1回受賞者。農民作家犬田卯との結婚後は、ともに農民文学運動を展開した。被差別部落の問題を描いた、未完の長編『橋のない川』が代表作である。

1944年の秋、住井すゑは「戦争には負ける」「降伏は遅くとも来年の初夏あたりだ」「天皇はラジオ放送で降伏を国民に告げる」「その後間もなく農地解放が行われる」とと予言し、頭の固まっている男達は反論したが、その予言通りに歴史が進行した。

・教育の要諦は「嘘を教えない、嘘をつかせないこと」

・ものを書くのは40歳からだ。人間は一年増しに賢くなる。知恵は自分から生まれ出るものだ。

・定年制は資本主義の落とし子であり、それを認めるから老後になってしまう。人間の天職は人間であることであり、人間ひとすじに生きている場合は、人間という思想を持っているから、生涯、現役なのだ。

・自分の一生は一番よかったと、自分で思えるように、毎日を人間らしく精一杯生きていきたい。

・芸能の中で最高のものが落語。能や歌舞伎は権力の側についている太鼓持ち的な芸。

6歳、小学2年生のときに『古事記』を読んで、「いつか新古事記をかいてやる」と決意する。それから50年間、材料をあたため、55歳で夫が亡くなった後、56歳から書き出す。それが『橋のない川』になったのだ。70歳過ぎまでの15、6年間で5000枚の原稿になっている。

橋のない川』は1部から7部まで刊行されたが、第8部は表題のみを残し作者のすゑが死去している。全編を通じて部落差別の理不尽さ並びに陰湿さが書かれており、水平社宣言をもって締めとしている。1969年 - 1970年と1992年の2度にわたって映画化された。野坂昭如日本書紀古事記もウソだということが、わかった。『橋のない川』が本当だ」と評価していいる。

天皇制批判であるから、書いているうちに殺されることも自覚していた住井すゑ本人は2000年時点で500万部売れていた『橋のない川』は長い未来にわたって千万冊は売れると予言している。2018年現在で既に800万部を超えている。住井すゑは歴史を知る上で日本人には読む責任があると語っている。この予言もあたりそうだ。これは読まねばならない。

56歳からライフワークに本格的に取り組んだ住井すゑは、書くのが面白くて朝は寝ていられずに書きまくった。その時間が青春のときであった。長い準備期期間を過ごした後に、創造の喜びを手にし、古事記にかわる歴史を完成させたのだ。その勇気と気概に敬服する。 

住井すゑ 生きるとは創造すること (人生のエッセイ)

9月30日に日本近代文学館「生誕120年 住井すゑ、九十五年の軌跡ーー金輪際いっぽんきりの曼殊沙華」展を訪ねた。住井すゑの生涯がよく理解できる企画展だった。日英同盟締結の1902年から、消費税が5%に改定された1997年まで、95年の偉大な生涯だ。

第1部「奈良から東京へーー投稿少女から長編「相剋」の作者へ」。

第2部「東京・思想のるつぼへ」

第3部「牛久沼のほとりでーー書き、耕し、育む日々」

第4部「「橋のない川」に橋をかける」: 1「橋のない川」とともにある犬田卯 2 創作メモと原稿(第5部以降) 「橋のない川」劇化と映画化

第5部「対話の時空ーー拠点としての「抱樸舎」

橋のない川』の刊行は3期に分けられる。62歳で第4部刊行直後から拒食症になり入院。その後3年間は文章がかけなくなる。70代、80代は、多忙を極め、続編を書いていない。90歳で第7部を刊行。1992年の日本武道館での講演会で幸徳秋水を描く第8部を書くと約束した。しかし第8部は原稿用紙に「第八部」と表題を書くにとどまった。

住井すゑは95歳で足が立たなくなるまで、年齢を重ねるごとに大きな存在となっていった遅咲きの人である。

第1期:57歳:「橋のない川」第1部を雑誌「部落」(部落問題研究所)に連載。59歳:第1部を刊行。第2部を刊行。 61歳:第3部を刊行。 62歳:第4部を刊行。

第2期:68歳:第5部を刊行。71歳:第6部を刊行

第3期:90歳:第7部を刊行

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「名言との対話」10月2日。円地文子「私は、ひとつ所にとどまるのが嫌なんです」

円地 文子(えんち ふみこ、1905年明治38年)10月2日 - 1986年昭和61年)11月14日)は、日本小説家

東京浅草生まれ。高名な言語学者上田万年(東京帝大教授)の次女として育つ。父母、祖父母から江戸時代の歌舞伎、浄瑠璃、草双紙の世界を教えられる。英語、フランス語、漢文などは個人教授で学ぶ。小山内薫の影響で10代後半から演劇に関心をもち戯曲を書き、23歳で劇作家として世に出る。24歳で新聞記者の円地与四松と結婚。

1936年から小説に方向転換するが、雌伏の時代を迎える。1953年、「ひもじい月日」で女流文学賞。以後、「朱を奪うもの」、「女坂」、「妖」、「女面」、「花散里」、「傷ある翼」、「小町変相」、「なまみこ物語」などを発表し、文壇での地位を確保する。

代表作である「女坂」は、母方の祖母をモデルに、家や夫に縛られ過ごした女の一生を、坂を登り続ける苦しみにたとえて描いた作品である。1949年から8年の歳月をかけた長編である。この作品は野上弥栄子「迷路」、三島由紀夫金閣寺」、谷崎潤一郎「鍵」、吉川英治「新・平家物語」という有力候補を破って、野間文芸賞を受賞している。円地文子の作風は、女の業、執念、老醜、そして妖性、神秘性を描くところにある。

1958年、女流文学者の会長となり、18年間その職にあった。1967年、61歳から「源氏物語」の現代語訳にかかり、5年半をかけて完成する。「円地文子源氏物語」全10巻を刊行。円地は60代、70代も小説を書き続ける。1970年、日本芸術院会員。1978年、「円地文子全集」全16巻が完成。1985年、女流作家として野上弥生子に続く2人目の文化勲章

華やかな経歴にみえるが、その間、32歳での乳房切断以降、病気も多く、自分との戦いであったと述懐している。

NHK人物録では、「私は、ひとつ所にとどまるのが嫌なんです」と語っている姿をみた。この人は、作家としての女坂を、登り続けた人である。山本周五郎の自伝的作品の長編「長い坂」を思いだした。同様に周五郎も坂を登り続けたのである。あるスタイルを確立したら、そこを掘っていくのではなく、次の高みに挑んでいく。その挑戦的な姿は参考にしたいものだ。

円地文子の生涯をながめると、環境というものを考えざるを得ない。知的で文学的で、江戸情緒を深く吸い込むにいたった幼少の頃の家庭環境の影響である。それは生涯を通じて、作品に投影している。

そして、「源氏物語」である。円地文子は脂の乗り切った60代の5年半をかけて現代語訳を完成したのであるが、著名な作家たちは、日本文学の最高峰たる「源氏物語」の現代語訳に挑む人が多い。与謝野晶子谷崎潤一郎円地文子田辺聖子橋本治瀬戸内寂聴林望角田光代などの、それぞれの「源氏」がある。歌人の窪田空穂、尾崎佐永子なども挑戦している。こういった系譜を追うのも面白いだろう。