出版社で大型企画の打ち合わせ。追い込み段階の本2冊

本日都心の出版社を訪問した。来年早々に刊行を予定している大型企画の打ち合わせ。それまでのスケジュールを確認。長くかかっているプロジェクトだが、もう一息だ。

昨年の「名言との対話」をまとめた『名言の暦 明治誕生日編』の編集作業が佳境に入っている。12月18日の人選を間違えたので、追加で書き加えなければならない。「野白金一」を取り上げることにした。

実年期にある5人にインタビューした本が完成に近づいている。原稿は完成しているので、後は気合の入った「前書き」の執筆と、写真、略歴の確認。

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年末に深呼吸学部の仲間たちが刊行した本の合同出版パーティがあるので、整理して資料を送る必要がある。

  • 「図解コミュニケーション全集」第6巻・第7巻。
  • 「人生は迷いと決断の協奏曲」(共著)。
  • 「戒語川柳」1・2・3。

以上はこの半年。これに今後の刊行本が加わる。

  • 「名言の暦 明治誕生日編」。
  • 「実年期の肖像」。
  • 「野田一夫の大いなる晩年」
  • 「図解コミュニケーション全集」第8巻。
  • 「戒語川柳」4・5。

全部できるかどうかわからないが、2023年は随分と仕事をしたことになりそうだ。

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「名言との対話」7月20日岩倉具視「時日と忍耐とは扶桑をして絨毯に変ぜしむ」

岩倉 具視(いわくら ともみ、旧字体岩倉具󠄁視󠄁1825年10月26日文政8年9月15日)- 1883年明治16年)7月20日)は、日本公家政治家

2009年に京都市左京区岩倉上蔵町にある維新の史蹟・岩倉具視幽棲旧邸を訪問する機会があった。この旧邸は財団法人岩倉公旧蹟保存会が管理している。

「鄭雲軒」という額のある日本間の障子はガラス障子という当時としては珍しいものだった。お手植えの松も庭にあるが、全体としては粗末な家だった。この家は200年近くになる家屋である。

2棟が続く家屋を回ると、「対岳文庫」に出る。今は資料館として使われている。この文庫の岩倉具視関係資料は1011点が重要文化財の指定を受けている。比叡山と対峙する岩倉村にいるという意味で自らの雅号を「対岳」と称していたのだ。

岩倉具視は、皇女和宮の将軍(家茂)家降嫁など公武合体を掲げて尽力したが、倒幕急進派の誤解を受け弾劾され、官職を辞し剃髪のうえ洛中より追放され、11代前から縁のあったこの地に幽棲する。1862年から1867年まで実に5年余を過している。

「終日掃除ノ処古家ニシテ実ニ住居ナシ難し、兎ニ角落涙ノ外ナシ」と日記にあるように、男盛りの38歳から43歳までを過ごした場所である。ここには、大久保利通中岡慎太郎坂本龍馬明治維新の志士たちが訪問し、王政復古に向けて密議を行った。明治維新がなったのは1868年、岩倉が43歳のときである。

維新の英傑の中で公家の中心として活躍した岩倉具視は新政府において参与、議定、大納言、右大臣等をつとめている。1871年には特命全権大使として大使節団を率い欧米を約1年10か月にわたって視察する。帰国後は征韓論を主張する西郷隆盛らを退ける。敗れ下野した高知県士族武市熊吉ら9人が、征韓論論争を主導した右大臣・岩倉を襲った赤坂喰違事件で重傷を負い一命をとりとめたときの衣服・携帯品が展示されている。眉の下と左腰に負傷したが、皇居の四ツ谷濠に転落し襲撃者たちが姿を見失ったため、一命を取り留めた。岩倉は命をはって維新の大業を断行したのである。

文箱、下駄、水筒、、、。岩倉具視直衣姿の写真は教科書などでよくみた正装の写真だ。「岩倉公実記」。「米欧回覧実記」(久米邦武:1839-1931年・久米美術館)には、「観」と「光」の大きな文字が書かれてあった。
明治天皇岩倉公邸親臨之図という絵がある。この親臨の翌朝岩倉は59歳で死去、国葬となった。

手に入れた「国際舞台への日独登場 岩倉使節団--日独交流史展」という小冊子には5代目の子孫で岩倉公爵旧蹟保存会会長の岩倉具忠氏(京都外国語大学教授)のインタビューが載っている。この具忠氏の貴族風の風貌の写真をみてJAL時代に出会った二人の岩倉さんを思い出した。一人は新入社員時代の上司であった具二氏。もう一人はロンドン時代に4年ほど先輩だった人でこの人も「具」という字がついていた記憶がある。

「わが国小なりといえども誠によく上下同心その目的を一にし、務めて国力を培養せば、宇内に雄飛し万国に対立するの大業甚だ難しきにあらざるべし 」と抱負を語った岩倉具視の伝記と、『米欧回覧実記』を読みたいと思い、品川区大崎にある久米美術が、この久米邦武の資料と画家であった長男の桂一郎の絵を保存しているという情報を得て、東京に戻っすぐに久米美術館を訪問した。

岩倉使節団随行し、帰国後『米欧回覧実記』を書いた久米邦武と、その長子で画家の久米桂一郎の絵を紹介する美術館だ。京都の岩倉具視旧宅を訪ねた時に興味を持った人物が久米邦武である。68歳で亡くなった息子と、92歳で逝った父親の、死亡年が3年しか違わないのに驚いた。「史学の眼鏡で浮世の景を 久米邦武」(高田誠二)、「美の人・学の人 久米桂一郎」(神吉貞一)、「岩倉使節団 米欧回覧実記」(田中彰)を購入した。

男盛りの5年余の幽棲をじっと耐えてその後に大輪の花を咲かせる岩倉は、冒頭の言葉を吐いている。長い年月の忍耐は、人間を大きく飛躍させるということを、自身の強烈な体験から一般化したのだ。その岩倉が言うから説得力がある。不遇の時期をどう過ごすか、それが問題だ。

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