知研セミナー:「実年期の肖像」シリーズの第一弾ーー「川柳」を学ぶ。

知研セミナーは、「実年期の肖像」シリーズの第一弾。

川柳作家の渡辺和博さんがゲスト。「川柳」をテーマに楽しい時間を過ごした。大阪、岡山、福岡を含めて12人が参加。笑いと納得の1時間半。

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以下、渡辺柳山さんの講義のキーワードから。

笑い飛ばす精神。新しい体験を楽しむ。スマホでメモ。ほろ酔い吟。方言川柳。大阪弁津軽弁。宿題。席題。自由吟。呼名。俳句の川柳化。中心は80代。70代は若手。265年の伝統。文芸。人間諷詠。生きた証として残す。友達が増える。認知症にならない。猫と犬。推敲を楽しむ。公募もたくさん。脳トレ。差別はNG。インターネット投稿。金がかからない趣味。川柳作家になろう。恋愛句。2B。新葉館。三才・五客・秀句・没。孫の成長。NH川柳講座。川柳記念会館プロジェクト。3億円。300の句会・数千人・7万人。蔵前が起源。一本の組織。高齢化。巨人ファン。老人会青年部。松戸。自慢。家族が基本。脱・引退ムード。月100句。月刊「川柳マガジン」。「川柳マガジン年鑑」

以下、参加者の感想から。

  • 知研セミナー「実年期(65歳-80歳)の過ごし方」ありがとうございました。ゲストの渡辺さんから「実年期」の充実した過ごし方のひとつとして「川柳作家」をお勧めいただき、川柳の魅力をたっぷり伺うことができました。以下は渡辺さんから伺った川柳の魅力のうち、印象に残ったところです。・俳句は自然を詠むが川柳は人を詠む。(相手の立場からの見方ができる)・気軽に楽しむ。友達ができる。・利用するのは空き時間。費用もそれほどかからない。 ・ユーモアで笑い飛ばせる。プライドが抜ける。・一句作れば川柳作家。認知症にはなりにくい。・毎月100句。句集出版のハードルは低い。・初めての川柳はNHKの川柳講座。・インターネットで投句できる。・慣れてきたところで句会デビュー。他にも、句会の楽しみ方や川柳界の話題など盛りだくさんで、川柳への興味が倍増しました。ありがとうございました。
  • 10月の知研セミナーに参加させていただきました。今回は、実年期(65歳―80歳)の過ごし方~ 実年期を生き生きと過ごしている人々からお話を聞くシリーズの1回目として、渡辺和博氏から、ご自身の現在の活動についてご講演がありました。趣味として大きく3つあって、楽器の演奏、映像を作ること、そして川柳をつくること。楽器の演奏としては、フルートアンサンブルなど3つの団体に所属し、定期演奏会に参加するなど学生時代から楽しんでおられるそうです。次に、川柳の活動ですが、定年退職後に始められ、毎日川柳を読んで、毎年、年間千くらい作っていて、川柳作家として地元の川柳会を中心に活動しながら、いくつもの賞を受賞し、ご自身の作品を集めた本「憩いのひととき」を川柳専門の出版社から出版されています。 今回の講演では、全国にある川柳会の活動のことや出版物についていくつか紹介があり、私の地元である大阪は活発な地域のようで、大阪弁の川柳も数多くあるとのことでした。また、「川柳を1句でも作った人は川柳作家と言ってもいいです。」「どんどん作って、川柳会に入ったり、投稿してみてください。」「友達できやすいですよ。」など、川柳へのお誘いの言葉もいただきました。私は川柳の作品を読んで楽しむ側ですが、今日の参加者の中に川柳を作ったことがある方が複数おられたり、渡辺さんの熱い想いに刺激を受けましたので、作品作りにチャレンジしてみようかと少し思えました。楽しい講演をどうもありがとうございました。
  • 65歳から80歳は人生100年時代においては「実年期」。この実年期ををどう生きるか、といった問題は、非常に多くの方が迷い悩んでいるテーマではないでしょうか。久恒啓一理事長は先日「実年期の肖像」という5人の人へのインタビューをまとめた本を出しました。今日の「知研セミナー」はこの65歳から80歳を生き生きと楽しんでいらっしゃる渡辺さんから、川柳の楽しみについて語っていただきました。川柳は、俳句などに比べると多くの人にとってたいへんハードルが低く、多くの句会があってすぐにでも投句できる。そして川柳をやっている人同士はすぐに仲良くなれる、という経験を話してくださいました。ご自身のつくられた句もいくつか紹介されましたが、一斉に笑いが起こり全員がなごませられたセミナーでした。今日のセミナーを聞いて誰もが、やってみようかな、という気持ちになりました。きっかけがNHKの通信講座だったそうです。生きがいを見つけるのに友人の誘いという場合もあると思いますが、このようにNHKの講座なども役立つということを改めて知りました。どうもありがとうございました。
  • 10月の知研セミナーに参加させていただき、大変有意義な時間を過ごすことができ、ありがとうございました。講師の渡辺和博さんのお話は、楽器演奏家、川柳作家、映像作家としての経験を通じて、非常に興味深い内容でした。特に印象に残ったのは、渡辺さんが定年後に趣味で始められた川柳のお話です。私自身、川柳は初めての経験でしたが、その魅力を知り、川柳に対する興味が深まりました。川柳が265年も前から始まったという事実は、私にとって新たな発見でした。また、多くの川柳の雑誌が出版されていることも驚きました。川柳は季語がないため自由に作ることができるという点や、お金をかけずに仲間作りや出版が可能であるという点は、趣味として最適だと感じました。また、気分転換や心身の活性化、認知機能の予防にも寄与し、人々との交流を促進することで日々の生活が充実することを実感しました。川柳を作るコツは思いついた時にすぐにメモを取ることであるというアドバイスは、非常に参考になりました。また、川柳を2Bの鉛筆で書く必要があることや雅号を名乗るなどのルールも初めて知りました。 今回のセミナーを通じて、日常生活や感情を笑い飛ばして楽しく生きるための新たな手段として川柳を知ることができました。これまであまり知らなかった新しい分野を学ぶことで視野が広がりました。このような貴重な経験を提供していただきありがとうございました。次回も楽しみにしております。
  • 昨日のセミナーは、自分の今後を考える良い参考になりました。柳人の響きがとても気に入りました。難しく考えずに思い浮かぶ事から始めてみます。俳句の様に季語とかの制約が少ないので、取っ付き易いです。ダジャレしかでないので、川柳を作れる柔らか頭を目指します。昨晩は、楽しい笑いのある時間を過ごせました。有難うございました。

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「秋深し 案山子は何を する人ぞ」

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「名言との対話」10月19日。魯迅「地上にもともと道はない。歩く人が多くなればそれが道になる 」

魯 迅(ろ じん、ルー・シュン、繁体字魯迅簡体字鲁迅拼音Lǔ Xùnウェード式Lu Hsün 1881年9月25日 - 1936年10月19日)は、中国小説家翻訳家思想家。

魯迅の本名は周樹人である。筆名の「魯」は、母の苗字。1902年から1909年まで魯迅は日本で暮らす。何をしたらいいかわからないことを悩んだ末、船で外国に行こうと決心する。公費留学で、弘文館で新知識と日本文化を学ぶが、講道館牛込分場修行者にも周樹人という名前がのっている。仙台医学専門学校での1年次の成績表によると、倫理だけが80点台であとはギリギリの60点が多く、平均点は65.5点。142人中の68位と冴えない。医学にはあまり熱心になれない姿が浮かぶ。

「藤野先生」という作品で知られる藤野厳九郎という人物がいる。仙台医専の先生で魯迅が終生、その恩義を語った人だ。生まれ故郷の紹興魯迅記念館には周樹人が日本語でとったノートが展示されていている。関節の授業のようで、骨の絵が描かれている。そこに藤野先生が赤字で直している。このシーンも「藤野先生」に出てきて、周樹人は感激する。中国の教科書に載っているいるので、中国人は知っている。日中友好のエピソードだ。

以下、私の魯迅体験を記す。

1998年。江沢民来日時、1998年11月30日の河北新報の記事。ーー晩秋の仙台 魯迅をたどる  中国江主席 碑前に「友好の梅」 「魯迅の席には中国の人は必ず座りたがります」

2005年2月12日に「青葉城。正宗・晩翠・藤村・魯迅・次郎」というタイトルでブログを書いている。仙台の青葉城のあたりを散策したときのことを書いたのだが、その中で魯迅碑について4行ほど説明している。この説明について、2001年9月17日付で「楽天ブログ」の方に「日中友好協会宮城県連」から間違いの指摘があった。「詳細は『仙台における魯迅の記録』(平凡社)参照のこと」という付記がついていた。

さっそく、この厚い本を取り寄せて本日ほぼ読み終わった。魯迅の碑は、1960年12月4日に青葉城三の丸跡の仙台市立博物館の前庭に建立された。魯迅記念碑建設委員会が各方面から浄財を集めて建立したものである。「魯迅の碑」の文字は、郭沫若の書である。碑文では「中国の文豪魯迅は、、、仙台医学専門学校に学んだ。しかし 故国の危機に心をいため 民族の魂を救うことが急務であるのを知り 文学に志すようになった、、、、、」とある。
1961年の除幕式では中国婦人代表団団長として来日した許広平女史が挨拶をしている。その挨拶の中で「魯迅の晩年は日本に再遊したい希望を持っていた。日本の景色の美しさをよく思い出し、もう一度日本へ行きたいというのが私のずっと考えていることですと言っている。」と述べている。

さて、この「仙台における魯迅の記録」は実に興味深い書物だった。「仙台における魯迅の記録を調べる会」の綿密な調査が行われたことがわかる労作である。特に後の魯迅、周樹人の仙台での生活と、彼に影響を与えた「藤野先生」に関して詳しく知ることができる。

後の魯迅、周樹人についての級友たちの印象。

  • おとなしくて、おちついたまじめな人だった。
  • ま、しっかりしたひとだたでしたな。
  • おとなしくまじめな青年
  • きちんとした端正な学生さん

周樹人の下宿「佐藤屋」は広瀬川沿いの高台にあり、このとき私も訪ねた。

魯迅は作品「藤野先生」の中で、藤野先生はノートをあずかり2、3日後に反してくれた。そのノートを開いた時の感動を書いている。
「なんと、私のノートははじめからしまいまで、全部朱筆で添削されてあり、多くの脱落した部分が書き加えられてあるばかりか、文法の誤りまで、一一訂正してあった」。
「彼の写真だけは、今なお北京のわが寓居の東の壁に、机に面してかけてある。夜ごと、仕事に倦んでなまけたくなるとき、仰いで灯火のなかに、彼の黒い、痩せた、今にも抑揚のひどい口調で語り出しそうな顔を眺めやると、たちまち私は良心を発し、かつ勇気を加えられる」

「幻灯事件」。
級友たちの回想によると、周樹人は日露戦争の時に支那人が銃殺される場面を見て同胞が笑っていた姿を幻灯で見た時に、民族の魂を救うことが先決だと悟った。その幻灯は、授業の後に時間があるときに階段教室6号教室で見たとのことだ。

藤野厳九郎が「謹んで周樹人様を憶ふ」で亡くなった魯迅を追憶している。(「文学案内」昭和12年3月号。)

  • 私は時間が終はると居残って周さんのノートを見て上げて、あの人が聞き違ひしたり誤ってゐる処を訂正補筆したのでした。
  • 私は少年の頃、福井藩校を出て来た野坂と云ふ先生に漢文を教えて貰らひましたので、とにかく支那の先賢を尊敬すると同時に、彼の国の人を大切にしなければならないと云ふ気持ちがありましたので、これが周さんに特に親切だとか有難いという風に考へられたのでせう。
  • 僅かの親切をそれ程までに恩誼として感激してゐてくれた周さんの霊を厚く弔ふ、、。

魯迅の「藤野先生」は、福井出身で愛知医学校を卒業しており、27歳で仙台医学専門学校に赴任する。3年後に教授となり、その直後に23歳の周樹人が入学してくる。藤野先生は30歳の若さだった。
河北新報に、清国官費留学生二人(周樹人を含む)の二高入学許可の記事と、「清国留学生と医学校」というタイトルで、「当仙台医学専門学校にては清国留学生(官費)周樹人に9月11日より入学を許可したり、、」との記事が載った。この記事は見たことがある。
その後、仙台医専東北帝国大学医学専門部となり、そして医学専門部は東北帝大医科大学に昇格する。この斎、学歴上資格がないという理由で辞職せざるをえなくなる。外国留学経験があるか、東京、京都両帝国大学出身者のしか医科大学の教授にはなれなかったのだ。このとき藤野は41歳。

藤野厳九郎は、42歳で東京神田和泉橋の三井慈善病院耳鼻科に入局。43歳、郷里の福井で開業している。44歳、「北京医大」の教授に招かれたが「今さら、、」ということで断る。61歳、「魯迅選集」を手に取る。62歳、「謹んで周樹人様を憶ふ」が「文学案内」に掲載される。71歳、永眠。福井市に1961年に藤野厳九郎記念碑は建立される。その碑文には、「先生は世には無名の人 己には極めて偉大の人」という魯迅の言葉が刻まれている。無名だが立派な日本人がいた。その人が中国革命に大きな影響を与えた。今後。福井の藤野厳九郎記念館を訪問すること。太宰治の小説「惜別」を読むこと。

 

2005年。数年前、北京の魯迅博物館を訪問したことがある。その時は、博物館は休日で、旧居も閉まっていて見ることはできなかった。今回、中国最初の名人博物館(個人記念館)を再訪する。1881年生まれの魯迅は、本名は周樹人である。筆名の「魯」は、母の苗字だったのだ。母方の姓を使うアイデアだ。1902年から1909年まで魯迅は日本で暮らす。何をしたらいいかわからないことを悩んだ末、船で外国に行こうと決心する。公費留学で、弘文館で新知識と日本文化を学ぶが、講道館牛込分場修行者にも周樹人という名前がのっている。

仙台時代の資料が興味をひいた。仙台医学専門学校での1年次の成績表が掲示してある。これによると倫理だけが80点台であとはギリギリの60点が多く、平均点は65,5点。142人中の68位と冴えない。医学にはあまり熱心になれない姿が浮かぶ。

「藤野先生」という作品で知られる藤野厳九郎という人物がいる。仙台医専門の先生で魯迅が終生、その恩義を語った人だ。周樹人が日本語でとったノートが展示されていている。関節の授業のようで、骨の絵が描かれている。そこに藤野先生が赤字で直している。このシーンも「藤野先生」に出てきて、周樹人は感激するのだが、そのノートを見ることができた。

「謹んで周樹人様を憶ふ」という藤野弦九郎の手稿があり、「古いことで記憶がハッキリして居りません。」から始まる思い出が書いてある。藤野先生が書いた履歴書も展示されている。「福井県越前、、、、。平民 医師   明治34年2月  日」「右之通り毛頭相違無御座候也」「明治7年7月 日生まれ」。魯迅故居も見る。中庭を囲み奉公人の部屋、書斎、台所などが配置されている。中庭から続く庭もある。

 

2006年の「魯迅展」で河北新報の記事が目にとまった。魯迅は仙台に留学している。仙台留学時の河北新報の記事が目にとまった。:・明治37年7月12日 清国人の二高入学許可・明治37年7月15日 清国留学生と医学校・明治37年9月10日 医専新人の支那留学生。     支那料理する下宿なきため大いに困却「同氏は近頃来朝せいしにも拘はらず           巧みに日本語を操り却却快活なる人物なりしといふ」・魯迅死亡時の河北新報の記事:・魯迅氏 支那の文豪 ・魯迅氏逝く 支那文豪の巨像

 

2006年。杭州から車で1時間半の紹興。人口は430万。紹興酒の街、水郷、名士の街として有名な観光地である。ここも変化が激しいようで、中国人ドライバーも「ちょっと来ない間にこの街もすっかり変わった」との感想を漏らしていた。

市街地の中心街に「魯迅古里」(Luxon native place)という一角がある。魯迅中路を挟んで、魯迅祖居、魯迅故居、魯迅記念館などが並んでいる。この歩行者専用道路は水郷の地を髣髴とさせる運河が入り込んでいる。子どもの頃遊んだ百草園も保存されている。

この街に入って最初に目につくのは「民族脊梁」という大きな石碑である。民族の背骨、柱をしっかり建てろという意味で、魯迅が残した言葉だ。今の日本にもこの言葉は痛切に響く。祖居は魯迅一族が住んでいた大きな屋敷、故居は魯迅の自宅、三昧書屋は魯迅の私塾である。祖父は役人、父の代で没落する。魯迅1881年--1936年。55歳で没)は13歳の時に無財となって親戚に預けられている。

魯迅記念館は最近建ったようで、大型の本格的な記念館である。白亜の石づくり。水のある庭も持っている。写真、映画・ビデオ、そして人形など様々なメディアで魯迅の生涯を展示している。また魯迅の全書籍も展示されていた。日本語の訳がないのが残念だ。1898年から1936年までに使った筆名が掲示してあったが、物凄い数だった。

恩師・藤野先生と仙台時代の魯迅(周樹人)の人形が展示されていて、魯迅の勉強のエピソードを知らせている。日中関係史上、このエピソード(藤野先生が毎回、周樹人の解剖学のノートに赤文字を入れてくれた。後に魯迅はこのノートをみるといつも奮起できた。詳細は魯迅「藤野先生」。)があることが大変に大きな意味を持っているのだと改めて感じた。昔はこのような立派な市井の日本人がたくさんいたのだと思う。

紹興は、日本に3つの姉妹都市を持っている。一つは、兵庫県西宮で、名酒の産地同士の縁である。もう一つは、富山県福光町(現在の南栃市)で、この町は政治家として日中友好に大きな業績を残し、周恩来首相(この紹興の出身)とも親しかった松村謙三の故郷である。他の一つは芦原町(現在の福井県芦原市)で、藤野巌九郎の故郷である。

 

2010年。上海の魯迅記念館。中国では魯迅、ルーシュンの存在感は大きい。彷徨、狂人日記新青年阿Q正伝。祝福、故郷、一件小事、故事新編、、、。読書には3つの味があるという意味の「三味書屋」という書がかかっているレプリカあり。
1904年の仙台医学校での藤野先生が赤入れをしたノートの実物が展示してあった。また魯迅の「藤野先生」の原稿もみた。「惜別 藤野 謹呈 周君」と書いた色紙もある。これは藤野巌九郎(1874−1945)が若き周、後の魯迅に与えたものだ。1933年頃には魯迅の全作品は発売をきんしされ、このためもあって魯迅は40以上の筆名で申報や自由談に書いている。
魯迅を囲む青年たちの写真をもとに製作された蝋人形がある。魯迅の息づかい、青年たちの目の輝きなどが表現されている。この人形たちと私は写真をとった。これを許した守衛が仲間に批判されるという事態になった。魯迅は短髪、口髭で中国服。男らしい風貌である。青年達はわらっていたり、身を乗り出したりしている。

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魯迅を助けた日本人、内山完造のコーナーがあった。内山は魯迅より4つ下の1885年のうまれ。岡山県出身。1917年に上海で書店を開業、1927年に魯迅と知り合う。1931年魯迅をかくまう。1948年に帰国し、中国漫談で全国行脚。1950年に日中友好協会を設立し初代理事長。1959年に訪中し、北京で死去。74歳。「師弟問答集」を共著で書いた増田渉、山本実彦、、。

魯迅著作は多くの国で翻訳されている。その筆頭はロシア37、日本35。後はアメリカや応酬で少しづつ翻訳されている「民族魂」という魯迅の書は見事だった。1998年に仙台を訪れた江沢民魯迅の石碑に献花する写真も展示してある。魯迅の全著作と他の国での翻訳書が壁一面に飾ってある。竹内好、尾𥔎ほ秀樹と並んで私の郷里の恩師、横松宗先生の「魯迅 民族の教師」も展示されていたので感激。

魯迅故居。歩いて近くの魯迅が死去まで過ごした家を訪問。3階建てのマンション形式。以下気は食堂と応接間。2階はベッドルームともの入れ。3階は息子の居宅。この息子は現在は80才になるが北京で暮らしている。

内山書店の後は表通りに面したいい場所だが、現在は中国工商銀行になっている。この2階に内山書店記念室があるのだが、土曜日でやっていなかった。上海市記念地である。進歩的知識人の集う場だった。

魯迅は大英帝国時代の清国の官僚の顔を「奴顔」と呼んだ。精神のなまくらさを指摘した言葉である。今の日本の指導者たちの顔は、どうだろうか。

以下、魯迅の言葉から。

 むかし景気のよかったものは、復古を主張し、いま景気がよいものは、現状維持を主張し、まだ景気のよくないものは、革命を主張する。

 墨で書かれたタワごとは血で書かれた事実を隠しきれない。

 自己満足しない人間の多くは永遠に前進し、永遠に希望を持つ。

 目的はただ一つしかない。それは前進すること。

 うしろをふり向く必要はない。あなたの前には、いくらでも道があるのだから。

 天才なんていない。僕は他人が休んでいる時間も仕事をしていただけだ。

 いばらの道を行くもよし。行かずに済めばもっとよし

魯迅の名言の中では「地上にもともと道はない。歩く人が多くなればそれが道になる 」を採りたい。道というものは最初からあったわけではない。最初の人が歩いて、その後を多くの人が踏み固めて、それがいつか小さな小道となって皆が歩いた。何事も最初に歩いた人が偉い。井戸を掘った人に感謝するという言葉が中国にあるが、初めに何かに挑戦し、切り拓いた人がいたために、後世の人は恩恵を受けている。人の拓いた道ではなく、自分の道を歩け。この言葉は勇気を与えてくれる。