先生(藤野)は世には無名の人 己(魯迅)には極めて偉大な人

2005年2月12日に「青葉城。正宗・晩翠・藤村・魯迅・次郎」というタイトルでブログを書いている。仙台の青葉城のあたりを散策したときのことを書いたのだが、その中で魯迅碑について4行ほど説明している。

この説明について、2001年9月17日付で「楽天ブログ」の方に「日中友好協会宮城県連」から間違いの指摘があった。「詳細は『仙台における魯迅の記録』(平凡社)参照のこと」という付記がついていた。

さっそく、この厚い本を取り寄せて本日ほぼ読み終わった。
魯迅の碑は、1960年12月4日に青葉城三の丸跡の仙台市立博物館の前庭に建立された。魯迅記念碑建設委員会が各方面から浄財を集めて建立したものである。「魯迅の碑」の文字は、郭沫若の書である。碑文では「中国の文豪魯迅は、、、仙台医学専門学校に学んだ。しかし 故国の危機に心をいため 民族の魂を救うことが急務であるのを知り 文学に志すようになった、、、、、」とある。
1961年の除幕式では中国婦人代表団団長として来日した許広平女史が挨拶をしている。その挨拶の中で「魯迅の晩年は日本に再遊したい希望を持っていた。日本の景色の美しさをよく思い出し、もう一度日本へ行きたいというのが私のずっと考えていることですと言っている。」と述べている。

さて、この「仙台における魯迅の記録」は実に興味深い書物だった。「仙台における魯迅の記録を調べる会」の綿密な調査が行われたことがわかる労作である。特に後の魯迅、周樹人の仙台での生活と、彼に影響を与えた「藤野先生」に関して詳しく知ることができる。

後の魯迅、周樹人についての級友たちの印象。

  • おとなしくて、おちついたまじめな人だった。
  • ま、しっかりしたひとだたでしたな。
  • おとなしくまじめな青年
  • きちんとした端正な学生さん

周樹人の下宿「佐藤屋」は広瀬川沿いの高台にあり、このとき私も訪ねた。

魯迅は作品「藤野先生」の中で、藤野先生はノートをあずかり2、3日後に反してくれた。そのノートを開いた時の感動を書いている。
「なんと、私のノートははじめからしまいまで、全部朱筆で添削されてあり、多くの脱落した部分が書き加えられてあるばかりか、文法の誤りまで、一一訂正してあった」。
「彼の写真だけは、今なお北京のわが寓居の東の壁に、机に面してかけてある。夜ごと、仕事に倦んでなまけたくなるとき、仰いで灯火のなかに、彼の黒い、痩せた、今にも抑揚のひどい口調で語り出しそうな顔を眺めやると、たちまち私は良心を発し、かつ勇気を加えられる」

「幻灯事件」。
級友たちの回想によると、周樹人は日露戦争の時に支那人が銃殺される場面を見て同胞が笑っていた姿を幻灯で見た時に、民族の魂を救うことが先決だと悟った。その幻灯は、授業の後に時間があるときに階段教室6号教室で見たとのことだ。

藤野厳九郎が「謹んで周樹人様を憶ふ」で亡くなった魯迅を追憶している。(「文学案内」昭和12年3月号。)

  • 私は時間が終はると居残って周さんのノートを見て上げて、あの人が聞き違ひしたり誤ってゐる処を訂正補筆したのでした。
  • 私は少年の頃、福井藩校を出て来た野坂と云ふ先生に漢文を教えて貰らひましたので、とにかく支那の先賢を尊敬すると同時に、彼の国の人を大切にしなければならないと云ふ気持ちがありましたので、これが周さんに特に親切だとか有難いという風に考へられたのでせう。
  • 僅かの親切をそれ程までに恩誼として感激してゐてくれた周さんの霊を厚く弔ふ、、。

魯迅の「藤野先生」は、福井出身で愛知医学校を卒業しており、27歳で仙台医学専門学校に赴任する。3年後に教授となり、その直後に23歳の周樹人が入学してくる。藤野先生は30歳の若さだった。
河北新報に、清国官費留学生二人(周樹人を含む)の二高入学許可の記事と、「清国留学生と医学校」というタイトルで、「当仙台医学専門学校にては清国留学生(官費)周樹人に9月11日より入学を許可したり、、」との記事が載った。この記事は見たことがある。
その後、仙台医専東北帝国大学医学専門部となり、そして医学専門部は東北帝大医科大学に昇格する。この斎、学歴上資格がないという理由で辞職せざるをえなくなる。外国留学経験があるか、東京、京都両帝国大学出身者のしか医科大学の教授にはなれなかったのだ。このとき藤野は41歳。

藤野厳九郎は、42歳で東京神田和泉橋の三井慈善病院耳鼻科に入局。43歳、郷里の福井で開業している。44歳、「北京医大」の教授に招かれたが「今さら、、」ということで断る。61歳、「魯迅選集」を手に取る。62歳、「謹んで周樹人様を憶ふ」が「文学案内」に掲載される。71歳、永眠。

福井市に1961年に藤野厳九郎記念碑は建立される。その碑文には、「先生は世には無名の人 己には極めて偉大の人」という魯迅の言葉が刻まれている。

無名だが立派な日本人がいた。その人が中国革命に大きな影響を与えた。

今後。

  • 福井の藤野厳九郎記念館を訪問すること。
  • 太宰治の小説「惜別」を読むこと。