SOMPO美術館「ゴッホと静物画」展。神保町の「神田古本まつり」

新宿のSOMPO美術館で開催中の「ゴッホ静物画ーー伝統から革新へ」展を夫婦で訪問。


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ゴッホの志は「人物画」にあった。そのための修行として、色彩、タッチ、技法を磨くために「静物画」を描いた。「ひまわり」はその静物画の傑作である。

最初に展示してあった帽子のある絵が印象に残った。この企画展は、花をセザンヌゴーギャン、マネなどの巨匠と並べてゴッホの絵を鑑賞できるように配置してある。同じモチーフをどう描いたかを比較できるので楽しめた。


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神保町:本日から始まった第63回「神田古本まつり」を見物。

靖国通りの歩道500mに「本の回廊」が出現。100万冊が展示されている。


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昼食は、2人で「新世界菜館」。

以下の2冊を購入。合わせて1000円。貴重な写真集だ。いずれも石黒敬章(1941年生まれ)という写真収集家の手になるものだ。私にとっては掘り出し物。

「遣欧使節」(福沢諭吉ら)「オランダ留学生」(榎本武揚ら)「天皇・皇族・公家」(明治天皇ら)「将軍家・藩主」(徳川慶喜ら)「幕末・明治の動乱期を生きた人物群」(坂本龍馬ら)「明治政府の中枢にいた人物群」(大久保利通ら)「明治の文化を担った人物群」(中村正直ら)。

この写真集は「森有礼旧蔵アルバム」という副題がついているように、300余名刺版写真集を集めて所蔵していた。「写真が語る英米留学の日々」「日本人留学生とアメリカの人々」「古い日本、新しい日本」「西欧への眼差し、教育への「視想」」。

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私は立川に向かいオステオパシー。だいぶ体を痛めていたようで整えてもらった。

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山東京伝の画像、名言、年表、子孫を徹底紹介 | 江戸ガイド

「名言との対話」10月27日。山東京伝「身はかろく 持つこそよけれ 軽業の綱の上なる人の世わたり」

山東 京伝山東 京傳、さんとう きょうでん、宝暦11年8月15日1761年9月13日) - 文化13年9月7日1816年10月27日))は、江戸時代後期の浮世絵師戯作者。

江戸深川の出身。商いと同時に、戯作を書くなど活躍した。18歳で黄表紙を初めて描く。2年後に山東京伝ので、描いた作品が太田南ぼに認められ出世作となった。京伝は黄表紙の中心作者となっていく。また、狂歌絵本にも華麗な絵筆を振った。そして洒落本に進出する。若い頃の遊里生活体験の豊富な知識や、独自の鋭い洞察、繊細な美意識で、洒落本界の第一人者となっていく。
寛政の改革では、心学の流行に乗っかった教訓的な作品も書いたが、筆禍を得て手鎖50日の刑を受けることになった。これをきっかけに、読本作者としての新境地を開いた。そして近世の時代考証的な仕事や風俗絵巻も残している。

作品:「水辺にほととぎすを聞く人びと」 。「当世艶風拾形」 。「当世美人色竸」 。「吉原傾城 美人合自筆鏡」 。「青楼名君自筆集 瀧川 花扇」。「助六図」 。「桜下美人図」 。「助六図」。「料亭四季庵図」。「遊女と禿図」 。「江戸風俗図巻」。『江戸生艶気樺焼』 。『吾妻曲(あずまぶり)狂歌文庫』。『古今狂歌袋』 。

江戸時代後期には、文化が隆盛を誇り、現代でいう小説のような娯楽作品が多く生まれた。これを少し整理してみたい。いずれも、京伝が得意とした分野である。

  • 黄表紙:一種の絵本、幼稚な草双紙ではなく、大人向けの読物。表紙は黄色だった。絵のセリフには、ストーリーとは関係ない時事ネタやダジャレが散りばめられる。
  • 洒落本:一種の絵本であるが、遊里での遊女とお客との会話などが中心。「通」や「洒落」などを重んじる美意識に彩られた。
  • 読本:京伝は滝沢馬琴と並んで人気者となった。馬琴は京伝の伝記を書いている。
  • 合巻:草双紙のいくつかを1冊にした最終形。古典を下敷きに洒落、滑稽、諧謔を交えて、風俗や世相を風刺的に描いた。
  • 滑稽本:日常の庶民の生活のおかしみを描いたもの。「浮世もの」などに引き継がれた。
  • 考証随筆:伝承や風俗に関する精緻な考証を行い、独自の見解を述べるエッセイ。

その他にも、図案集、美人画集がある。広範囲な作品を残した京伝の影響は大きく、その影響は「東海道中膝栗毛」の十返舎一九式亭三馬為永春水らにも及んでいる

京伝は割り勘(ワリカン)の祖でもある。「京伝勘定」と呼ばれた。これは金銭による仲間とのもつれを嫌ったためである。
京伝は原稿料を始めてもらった人でもある。それまではヒット作が出れば版元が作者を遊里で接待するという習慣であったようだ。
遊び人らしく、前妻と後妻のどちらも新吉原の花魁あがりだった。

交遊は、版元の蔦屋重三郎、役者の市川団十郎(5代目)、同業の滝沢馬琴などと親しかった。

「耳もそこね あしくもくじけてもろともに 世にふる机 なれも老いたり」。これは京伝の作である。体はガタガタになっている、私が世話になった机も古びてきたなあ、という老いの実感でを詠んだものだ。

「身はかろく 持つこそよけれ 軽業の綱の上なる人の世わたり」は、身世間を渡る身のこなしを軽やかにやっても、綱から落ちることもある。身に重いものをつけないで、あの軽業師のよ綱渡りのように時代の流れにあわせて変化していくのがいいという処世訓だ。そういった濁流のような世間のなかで浮き沈みをする人間を山東京伝は愛し、その姿を絵や文で面白おかしく書き続けたのだ。当時の人々にとっては人生の書だったのだろう。