浮川和宣『私の履歴書 文字を超える』を知研読書会で紹介。

浮川和宣『私の履歴書 文字を超える』(日本経済新聞出版社)を読了。浮川さんは、29歳でジャストシステムを創業し、日本語ソフト「一太郎」を大ヒットさせた人である。60歳でMetaMojiを起業し、今までと同様に初子専務と軌道に乗せて活躍中である。

旧知の浮川初子専務から贈ってもらった本が昨日届いたので、さっそく読んだ。本日、知研読書会があったので、メモをつくって紹介した。

  • 2022年3月に日経新聞私の履歴書」の連載。2022年9月に映像版・2023年10月に単行本。新聞連載時に、初子専務は毎日ブログで記事の背景をアップ。(戦略的だ)
  • 「どうせ生きるなら思い切ってこの川の流れに飛び込んでやろう」。川は吉野川。流れとはコンピュータ。誰もがコンピュータを当たり前のように使うような時代になるだろう。「いつも隣に初子がいる」「初子の存在は特別だ」
  • 「踊るあほうに見るあほう 同じアホなら踊らにゃソンソン」。傍観者でなく勇気をもって飛び込もう。「泳ぎのうまさは問題ではない。木でも流れてくるだろう。しがみついて、またがって自分の手で漕いでやろう。流れよりももっと速く進めるだろう」
  • 29歳でジャストシステムを創業。日本人の生産性を高めよう。「日本一を目指そう」。日本語ワープロの「一太郎」を開発。MSの「ワード」に破れ退卒業。(「世界一」と言っておけば、、、)
  • 60歳で「MetaMoji」(メタモジ)を創業。文字を超える。世の中の人が喜ぶに違いないアイデアを。100年後の人が「あのときあの人たちのおかげで」。iPad向けの手書き文字入力のアプリ「MetaMoji Note」の開発。建設業、教育業界で喜ばれている。
  • 29歳からの「青年期」「壮年期」はジャストシステムを創業し「一太郎」は日本一になった。60歳からの「実年期」は「MetaMoji」を創業。夏は長野・蓼科、春と秋は東京、冬は宮古島。全国にいる社員たちとはリモートで仕事。新しいライフスタイル。
  • 「人とコンピュータが寄り添う社会の実現」を目指して、ひとつずつ形に。「生涯現役」で「この流れに身を置いて夢中で漕ぎ続けていきたい」。(熟年期・大人期・仙人期)

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知研読書会。以上のメモを持って、20字からの読書会に参加した。以下、参加者の紹介した本を都築さんがまとめてくれた。

■2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智博士のエッセイ・自叙伝・インタビュー等。大村智ストックホルムへの廻り道 私の履歴書日本経済新聞出版社(2017年)。 日本経済新聞朝刊に2016年8月1日~31日に連載された「私の履歴書」を大幅に加筆改稿した。大村智「人間の旬」毎日新聞出版(2016年)。 ノーベル賞受賞にあたり、受賞前後の話とそれまでに書かれたエッセイ集からの抜粋。大村智「人をつくる言葉」毎日新聞出版(2016年)。 思い浮かんだ言葉や名言を「腹中有書」と名付けた備忘録にメモしていた、その中から抜き出し編集したもの。大村智「縁尋機妙」致知出版社(2023年)。 インタビューや講演などをまとめたもの。
■松岡俊行「マジカルフレーズ」アスコム(2023)
著者は眼科医。スマホなどを見続ける時間が長くなって、眼球を動かすことが少なくなっている現代人。眼球を動かす筋肉の衰えを回復するため、名言をわざとZの形にしたりらせん状にしたりして眼球を動かして読むようになっている。
■後藤武士「読むだけですっきりわかる日本史」宝島社文庫(2008)
2016年4月版ですでに135万人が読んだという超ベストセラー。小学生から大人までマンガを読むように楽しめる日本史の本。例えば鎌倉新仏教の所では浄土真宗の「善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」の意味が分かりやすく書かれている。
■公益財団法人山陽放送文化財団「慈愛と福祉 岡山の先駆者たち1」
岡山の偉人たちが紹介されている。1は石井十次、大原孫三郎、留岡幸助、笠井信一。この中から石井十次の生き方が紹介された。様々な職に就いて医者になったが、「医者になる人は他にもいるが、貧しくあわれな子供を救済しようとする者はいない。」と言って医者を辞め孤児院を開き、のべ3000人の子供を預かった。
ナポレオン・ヒル「思考は現実化する」
毎日、Youtubeを使って様々な本を紹介している参加者の一人が、最も薦めたい本。「目標を設定することが大切」「イメージできたものは実現可能」というのがたいへん重要。
■前野博之「成功する人はよくねている 最高の睡眠に変える食習慣」講談社α文庫(2020年)
現代人は睡眠不足。一つの解決法として朝起きる時間を休日も同じにする。食習慣も大切で、糖質の摂り過ぎはよくない、など健康を守るために必要な睡眠と食事について書かれている。
■浮川和宣「文字を超える 私の履歴書日本経済新聞出版社(2023)
日本経済新聞朝刊「私の履歴書」に2022年3月に連載された記事を加筆改稿した。吉野川の流れを見て、流れに身を任せようとこピュータの世界に入った。29歳の時にジャストシステムを創業。「一太郎」を世に出した。その後ジャストシステムを離れ60歳で「MetaMoJi」を起業。社員はほぼ全員がリモートで浮川氏も長野・沖縄。東京と季節ごとに移り住む新しいライフスタイル。なお、紹介者の久恒氏とは2004年に「図解マスター」創作以来のつながりで「縁を大切に」ということが強調されていた。また、本を読む際に、書いてあることと同時に、自分なりに分析する仕組みをもっていることが大切ということも学んだ。
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あなた、深谷康雄
 
 

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「名言との対話」10月26日。伊藤博文「不断にあらず、容易に断ぜずなり」

伊藤 博文(天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、政治家。享年67。

位階勲等爵位従一位大勲位公爵。幼名は利助、後に松下村塾で師の吉田松陰から俊英の俊を与えられ俊輔と名乗る。大日本帝国憲法の起草の中心となる。初代(44歳。史上最年少)・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監を歴任した。内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、外交では日清戦争の勝利に伴う日清講和条約の起草・調印により清國から朝鮮を独立させた。1909年、ハルビン朝鮮民族主義活動家の安重根に暗殺された。

師の吉田松陰の無残な死骸を江戸回向院で引き取る体験は、死生観に大きな影響を与えた。

慶喜に生涯仕えた渋沢栄一は、明治34年頃に伊藤博文との交わした会話を記している。伊藤は、「今にして始めて其非凡なるをし知れり」といい、慶喜公に「維新の初に公が尊王大義を重んぜられしは、如何なる動機に出で給ひしかと問い試みたり」、「唯庭訓を守り氏ひに過ぎず。、、、朝廷に対し奉りて弓引くことあるべくもあらず、こは義公以来の遺訓なれば、ゆめゆめわすること勿れ、万一の為に諭し置くなりと教えられき、、」。慶喜の行動はこのような教えに基づいていたならば理解できる気もする。慶喜水戸藩の後継者だったのである。

山口県萩市伊藤博文旧居は伊藤は14歳から28歳までの14年間を本拠とした家。萱葺きで7室。89.52へーべ。典型的な下級武士の家。出生石。伊藤別邸は、土地1309.76へーべ。荏原郡大井村、今の品川区にあった家を移築したもの。因みに伊藤が明治天皇から下賜された恩賜館が憲法記念館となり、現在の明治記念館となった。

伊藤は吉田松陰高杉晋作大久保利通等の薫陶を得ながら、明治国家の建設に関わる数々の仕事をこなしていった。自分がものごとを容易に決めないのは、決断力がないということではないのだ。政治には熟慮が必要であり、血気の中にものごとを簡単に断定してはならないのだ。冒頭の伊藤の言葉には、決断に細心の注意を払った姿がある。師と仕事に恵まれ、時代とともに成長を続け、明治日本の大立て者になった伊藤は、熟慮断行の人であった。

以下、私が出会った伊藤博文をめぐるエピソードなどを記す。

  • アーネスト・サトウ「伊藤(博文)には、英語が話せるという大きな利点があった。これは、当時の日本人、ことに政治運動に関係している人間の場合にはきわめてまれにしか見られなかった教養であった」(長州ファイブといわれていた伊藤博文井上馨が、急遽ヨーロッパ留学から日本に戻る時には、サトウが長州まで送り届けた)。この辺りのことは、現在日経新聞朝刊の連載小説で陸奥宗光を描いている「陥穽」で詳しく書いている。
  • 1879年伊藤は「教育議」で学問は実用が大切で、科学技術に専念すべきと主張。近代化が急務だったからだ。
  • 1885年、伊藤は清国の李鴻章が相互撤廃条項など武力衝突を避ける天津条約を締結。
  • 2007年に山口県萩市の松下村塾を訪問した。学んだ人物たちの生年と没年は、維新で活躍した人物たちの位置関係がわかる。久坂玄瑞(1840-64年)高杉晋作(1839-67年)木戸孝充(1833-77年)前原一誠(1834-76年)山県有朋(1838-1922年)品川弥二郎(1843−1900年)山田顕義(1844-1892年)。伊藤博文(1841-1909年)は、高杉より2つ下で、山県の一つ上である。
  • 2007年に山口県下関市高杉晋作記念館には高杉の影響を受けた伊藤博文撰文の最初の言葉が階段の壁に高杉の写真とともに大きな垂れ幕として飾ってあった。「動 如 雷電 発 如 風雨」「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目蓋然として敢えて正視するもの莫(な)し。これ、我が東行高杉君に非ずや」。東行は高杉の号。
  • 伊藤博文大隈重信板垣退助は、「憲政の三巨人」と呼ばれた。
  • 1885年に『今日新聞』(現「東京新聞」)い各界を代表する人物の投票結果で、「日本十傑」が載っている。10位が榎本武揚、6位が中村正直、5位が渋沢栄一、4位が鳩山和夫、3位が伊藤博文、2位が福地源一郎、1位は福沢諭吉であった。
  • 1900年11月25日の日本経済新聞の「日本の政治家10傑」が掲示されている。識者へのアンケート結果によると、10位:田中角栄、9位:三木武夫、8位:石橋湛山、7位:山縣有朋、6位:浜口雄幸、5位:池田勇人、4位:西園寺公望、3位:伊藤博文、2位:吉田茂、1位:原敬
  • 2020年に岡義武『近代日本の政治家』(岩波現代文庫)を読んだ。1960年に刊行された古典的名著との評価の高い本で、「彼らの政治的生涯を辿りながら、嘗ての日の彼らの面影を再現」しようとした。それによれば、伊藤博文大隈重信は、どちらも親分肌ではなく派閥をつくらなかった。山県との違いである。反目した伊藤と山県は対照的だった。「藤公は冬日の如く愛すべし、隈公は夏日の如く畏るべし」。「酔って枕す美人の膝、覚めては握る天下の権」を生きた名誉欲の塊・伊藤博文

伊藤博文 1000円札 に対する画像結果