秋晴れの貴重な一日、調布の深大寺を10数年ぶりに訪問しました。
この寺は1300年の歴史を持った天台宗の名刹です。また著名な俳人や歌人の碑が存在する珍しいお寺です。お参りし、名物の蕎麦を堪能しました。
そして『深大寺碑探勝』ちう小冊子を手に入れました。句碑や歌碑と、作者の経歴、この寺にある理由などをまとめられています。
師弟碑がいくつかある。
極めつきは、皆吉爽雨の「春惜しむ 深大寺そば 一すすり」。
- 高濱虚子「遠山に 日の当りたる 枯野哉」(虚子は調布に住む。この句は虚子が終生好んでた染筆した。「多摩の横山」を美しいと気に入っていた。享年85)
- 中村草田男「萬緑の中や 吾子の歯 生え初むる」(人間探求派の代表句)
- 石田波郷「吹起る 秋風鶴を 歩ましむ」(11月21日は「波郷忌」。
- 皆吉爽雨「春惜しむ 深大寺 そば 一すり」(「深大寺百句」)
- 松尾芭蕉「象潟や 雨に西施が ねぶの花」(偶然の重なりで秋田の海底から)
- 石坂泉泣子「菩提樹や 生涯つきぬ 寺清水」(ハケから滲みだした流れ)
- 星野麦丘人「草や木や 十一月の 深大寺」(波郷碑。師弟碑)
- 清水比庵「門前の 蕎麦はうましと 誰もいふ この環境の みほとけありがたや」
- 林光雄「この寺に 遊ぶしばしを 清やかに あらしめんとや 梅さき澄める」
- 金原省吾「みほとけの 眼のかたち 思ひつつ 心は親し 憶くに似たり」(奈良の「白鳳仏」を詠んだ歌)
鬼太郎茶屋で、水木しげるさんと写る。
昼食は元祖・蕎麦屋で、夫婦で蕎麦と酒を楽しんだ。
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「実年期の肖像」の書評が11月8日にアップされていました。本質を突いたいい書評です。
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「名言との対話」11月9日。齋藤秀三郎「俺の研究は戦争だ」
斎藤 秀三郎(さいとう ひでさぶろう、1866年2月16日(慶応2年1月2日) - 1929年(昭和4年)11月9日)は、日本の英語学者・教育者。
宮城県仙台出身。1874年宮城英語学校に入り、14歳のとき上京、工部大学校に進む。語教師ディクソンの影響をうけ、英語の勉学に情熱をかたむけ、英語教師となり、1887年二高助教授。1889年に一高教授となる。同年に後年の組織的な英文法研究を思わせる処女作『英会話文法』を出版。つづいて『実用英文典』『高等英語教程』『前置詞研究』『英語慣用語法学』『英語基本動詞研究』を出し、いわゆる斎藤流の「英語慣用語法学」を樹立した。1896年、神田に正則英語学校を設立、ここを中心として英文法研究にその全力をかたむけた。
「辞書は自らの研究の集大成であり、最後に取り組むべきもの」という考えのもとに著した『熟語本位英和中辞典』や『斎藤和英大辞典』のほか著作は200冊を超える。
英語の鬼には、英語研究の絶対の自信を持っていたことをうかがわせる人間的なエピソードが多い。
・図書館の英書は全て読み、大英百科事典は2度読んだ。
・帝劇の英国シェークスピア劇団のの公演中に「甘えらの英語はなっちゃいねぇ!」と詠義でヤジをとばし退去させられた。
・英語教員の資格試験を受験するように求めっらえ、「誰が私を試験するのですか」と言い放って辞職。
学生に対する指導は厳しく、怒鳴り続けていたという。仙台で教えていたとき、吉野作造という後に東大教授になった大秀才がいたが、あまりの癇癪にあきれすぐにやめてしまった。また教え子の詩人・土井晩翠は斎藤の影響でバイロンの詩を訳している。
「俺の研究は戦争だ」との言葉通り、斎藤家では「斎藤の勉強を邪魔しない」というルールがあった。子どもたちは、斎藤の勉強の妨げにならないようにしつけられた。戦時体制であった。その次男は音楽家の斎藤秀雄である。