本日の「幸福塾」のテーマは「ネットワーカー」。

「幸福塾」のテーマは「ネットワーカー」

・山本勝彦『ネットワーキングの方法』『脱(ポスト)・ビジネスマンの挑戦』の「キーパーソン・リスト」を紹介。

・サラリーマン勉強会の時代の「勉強会」の紹介

・ネットワーカーである勉強会の主宰者:青木匡一・下村澄・吉田博邦・阪本亮一


以下、塾生の学び。

  • 久恒先生、みなさま、本日もありがとうございました。今回は、5人のネットワーカー(山本冬彦氏、青木匡光氏、下村澄氏、吉田博邦氏、阪本亮一氏)についてご紹介いただきました。いずれも自分の勉強会を持ち、そこから独自に人脈を広げていったとのこと。当時の勉強会とはサラリーマン勉強会のことで、バブル景気の経済成長期にあった時代(1980年頃から)に、経営者が公人として立ち上げたものではなく、個人として集まる社会人の勉強会がいくつも設立されたそうです。現代のSNSのような手段が未発達だったころですから、リアルに会って情報交換することが中心だった時代です。ということは、多様な分野の人と交流したり、より広い知識や情報を得たりするためには、出会いのきっかけを増やすことや、人と人とをつなぐ役目の人の存在がポイントになります。今回紹介いただいた5人の方は、社会や経済などを鳥瞰してキーマンを探し、その人たちをつないだり育てたりする活動を続けた結果、より深く広い人的ネットワークを構築し、今もなお書籍などを通して多くの人に影響を与えています。 人生100年時代」が到来し、今後増えていくと思われるのが「個人」として生きる時間。今回のお話を伺って思ったのは、「個人」として生きるうえで重要なことは、必要な情報をいかに選ぶか(得るか)ということで、そのためにはまず、誰とつながって生きるかということが大切なことだということでした。SNSのおかげで大量の情報が流れていますが、信頼できる人とつながってこそ、そこから得る情報を信じることができ、選ぶことができ、それによって安心して生きることができると思いました。次回はネットワーカーでありライフワーカーの方がテーマとのこと。楽しみにしていますので、よろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、皆様、本日は幸福塾ありがとうございました。今日は人と人とを結びつけるネットワーカーの5人の方の紹介がありました。中でも興味深かったのは、山本冬彦氏の戦略的なネットワーカーとしての活動です。自分の年齢から上下10歳位の人を中心に、興味のある分野のキーパーソンを、人脈マップとしてピックアップし、積極的にネットワークを築いていく、というものでした。「キーパーソンはキーパーソンを知っている」「本業しか知らない人は、本業もダメになる」という氏の言葉は印象的です。キーパーソンの先に繋がるキーパーソンを意識することや、本業以外の視点を持たないことへの危機意識など、ハッとさせられる言葉でした。また、どのようしてキーパーソンへアプローチするか、といったことや、将来育っていきそうな人にも着目する、など、ネットワーカーの奥深いところを知ることにも繋がりました。普段の行動に少しでも活かしていければと思います。ありがとうございました。
  • 本日もありがとうございました。山本冬彦さんのお話。自分の歳前後10歳の注目する人たちを一覧表にまとめたものを見せていただきました。いろいろな分野の方々がいて、会える可能性が高くなるというのは、本当なのだろうなぁと思いました。全国のネットワーカーを地図に書いていて、鳥瞰して構造的に計画的に考えていらっしゃるのだろうと思いました。無名の人の作品を買い、その方がどう育つのかが楽しみ。というのも良いなぁと感じました。また、サラリーマン勉強会を開き、キーパーソンはキーパーソンとつながっている。のも成程と思いました。また、青木国光さんの人間接着剤。肩書が良いですね。人がよさそうなお写真でした。顔に出ますね。笑顔でいたいなと思いました。また雑用をなんでも引き受ける。曼陀羅志向。などなどキーワードがたくさん出てきて、少しでも真似していこうと思いました。
    来年からの代表的日本人もよいですね。次回はネットワーカーの続きですね。どうぞよろしくお願いいたします。
  • 今日もありがとうございました。今日の中心は「ネットワーカーとしての山本冬彦氏」でした。自分の前後10歳ほどの,様々な界で注目すべき人、会いたい人を綿密なマトリックスにして、「ここに書いた人には必ず会える。」と確信してネットワーカーとして活躍されました。そもそも、ネットワーカーになろうという強い意識をもっていた所から普通の人とは違います。「キーパーソンはキーパーソンを知っている」とはまさにその通りだと思います。バブル期からバブルが弾けた1990年代、多くの勉強会が立ち上がり盛んに活動を行っていました。私自身も当時学校現場を離れて教育行政に移り転職したくなるほど仕事が嫌で仕方なかった時代、何かを求めて知研をはじめ、そこから派生したセミナーや親睦の会に参加していました。振り返ると、仕事はきつかったけど外の世界とつながりをもってきたために現在の自分があるのだと思います。「幹事になること」「身銭を切ること」「忙しい時ほど外の世界に」「know how よりKnow  who」といった、大切なことも思い出させてくれました。次回はネットワーカーでありながらライフワークとなった人ということで、楽しみにしております
  • 11月の幸福塾に参加させていただきました。久恒先生、皆様ありがとうございました。今回は、人脈のネットワーク作りの達人の方が紹介されました。①ネットワーカーとしてのアートソムリエの山本冬彦さん、②大阪のトップ・ネットワーカーと呼ばれる阪本亮一さん、③驚異の人脈王と呼ばれる下村澄さん、④人間接着業と呼ばれる青木匡光さん、⑤子供の目のおじさんと呼ばれる吉田宏邦さんの5名が紹介されました。特に印象に残った方は、①山本冬彦さんの戦略的にネットワークを築き、自分の興味や関心に基づいて様々な分野の人と交流することで自分の人生を豊かにし、アートソムリエとして自分の推薦する無名の若手作家を育てて、人のためにも貢献していることです。山本さんは、自分のネットワークの人を分野別に表に書き出し、分析されていることもすごいと思いました。 今回の幸福塾で5名の方から学んだことは、キーパーソンとつながることが大切で幹事役をやったり、様々な雑用など積極的に行うことが大切である。また身銭を切ってでも自分の好きなことに投資することが重要であるということがわかりました。その他にも忙しいときこそ勉強会などに出ることが大切で、本業しか知らない人は本業もだめになり、本業がだめになったときに人脈がないと困るということがわかりました。また自分の時間を有効に使って、多様な人との関係を築くことが必要であることがわかりました。今回紹介された方のように真似はできませんが、私も限られた時間の中で人とのつながりを大切にして、学び合い、成長しあう関係を築いて生きたいと思いました。また興味ある分野や様々な分野の知識や趣味などの世界を広げたり、深めて、人生を豊かに生きたいと思いました。本日はありがとうございました。次回も楽しみにしております。
  • 久恒先生、皆様、おつかれさまです。幸福塾。本日と12月は「ネットワーカー」をテーマに久恒先生よりご講義頂きます。1.山本冬彦氏(本名・山本勝彦1948年石川県小松市生まれ):ネット検索すると、約40年にわたるサラリーマン生活のかたわら毎週末趣味で画廊を巡り、給与所得で集めたコレクションは1000点を超え…という絵画蒐集の話題がほどんどですが、『ネットワーカー』としての側面のすごさを堪能しました。①山本さん著述のビジネス本2冊について、一つは1988年(40歳)、もう一つは1990年(42歳)の時に出版。当時日本はバブル絶頂期へ向かっていた時代、サラリーマンは皆忙しく会社業績はどこも上り調子だった。②「サラリーマン勉強会」が当時全国的に流行、その頃既に山本さんの「勉強会人脈の広さ」「評論のウマさ」は誰もが一目置く存在。③著作に記された『私のキーマン・リスト』は圧巻、面識の有無は関係なく「政治家・役人」「学者・研究者」「ビジネス専門家」「サラリーマン「作家・芸能」と様々なジャンルで「当時の山本さんが注目した30~50歳の人物」の氏名がびっしりと書き込まれ、『彼らを眺めながら自らの励みにする』目的で作成されたとの事。そして表に書き入れると必ず会えるという超ポジティブマインドを実践。表には当時JAL勤務時代の久恒先生や、松下政経塾出身の高市早苗代議士といった、まだ無名だった頃の『オオモノ』達が何人も登場。④さらには、北海道から九州まで各地に点在していた『勉強会』をくまなく書き込んだ日本地図まで登場!。つまり、『勉強会』を通じて様々なジャンル・年齢層を生きる『キーパーソン』とのコミュニケーションを通じて学びを吸収・練磨し自らの視座を高める、より高い視座を目指し更なるオオモノとの交流は発展し氏名リストは拡大、気が付けば日本全国規模まで展開され…。会議システムやSNSの恩恵を享受できる現在ならまだしも、自分の足を頼りに金と時間を掛けてひとつひとつこれらを作り上げていった山本さんの行動力・継続力に大いに驚きました。また、自らの成長を信じ拡充し続けた『氏名リスト』のマトリクスは、以前幸福塾で学んだ大リーグ大谷翔平選手が少年野球時代に作ったといわれる『曼荼羅チャート』(目標達成シート)にどこか似ているなと感じました。遥かな高みを目指し自らを中心に短期~長期にわたる行動計画を明確な言葉で表し、実践する姿を常に俯瞰する事で自らを励まし続けるという目的において両者の共通性を改めて認識した次第です。 2.『サラリーマン勉強会』からの心得:①『幹事役』は買って出る→キーパーソンは活動を通じて関連する別のキーパーソンと繋がる(高い視座、役得)。②身銭切って参加すべし→会社の経費では他人ごとで終わる。③『忙しい時』こそ実践すべし→時間の捻出(No残業)=業務効率化。④『人脈が身を助ける』→本業しか知らないとそのうち本業もダメになる(柔軟性、適応性)。⑤『Know HowよりもKnow Who』(自主性重視)。 3.『ネットワーカー』群像:①青木匡光(あおきまさみつ1933~)良い人間関係作り指南の走り、『EQ』(=心の知能指数) ②下村澄 (しもむらきよむ1929~2009) 人脈、軽いフットワーク、広く深いネットワーク ③ 吉田博邦 ④阪本亮一(さかもとりょういち1937~)生保のトップセールスマン、10円玉の名刺(何かあたら電話ください)…高い視座への志、それを支えるパワー、変化を受け止める素直さと柔軟性…『外的世界の拡充は 内的世界を深める 』の心で今後も外界思考を心掛けて行きたいと感じたことが本日の学びとなりました。おしまいに去る11月1日図解塾で学習した『元寇』(モンゴル帝国による2度にわたる日本侵攻:13世紀)に関連した新聞記事が有りましたのでご紹介します。東京新聞10月24日付け朝刊によると、「弘安の役」(1281年5~7月)で襲来した元寇と推定される沈没船(3隻目)が長崎県松浦市鷹島(たかしま)で発見されたというもの。①船は多重の外壁および隔壁を持つ船体構造を持ち堅牢であった、②全長は20メートル超の大型船であったなど、先日学習した遥か昔の出来事に関わった当時の実物が現実の世界に現れたという事実に「歴史は確実に現在と繋がっているのだ」と、リアリティをもって実感させられ大変興味深かったのでご紹介いたします。有難うございました、次回も宜しくお願い致します。

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「名言との対話」11月8日。大森房吉「次の起こるべき大地震はここですよ」

大森 房吉(おおもり ふさきち1868年10月30日明治元年9月15日) - 1923年大正12年)11月8日)は、日本地震学者地球科学者。

上山明博関東大震災を予知した二人の男』(産経新聞出版)を読んだ。関東大震災を予知できなかった男と予知した男と記録された二人の地震学者の信念に光を当てた優れたノンフィクションだ。2011年の東日本大震災の2年後、関東大震災から90年にあたる年に上梓した作品である。

今村明恒は1905年に、今後50年以内に東京での大地震が発生すること、その場合には圧死者3000人、火災が発生すると死者10万人以上と警告し、震災対策をせまる記事を雑誌『太陽』に寄稿した。今村の上司の大森房吉教授は、関東大震災が起こるとすれば、相模湾震源と予知していたが、世間が動揺することを恐れ、これを浮説として否定したため、今村は「ほら吹き」と批判される。大森はノーベル賞がほぼ内定していた学者で、「地震学の父」と呼ばれていた。一方の今村は二つ年下で、無給の助教授に甘んじていた。

 大森がシドニーに滞在していた時、東京で大地震が発生する。「来た! つに来た!」と今村は快哉する。安政の大地震以来68年ぶりの大地震だ。5万2千人余が焼死した。本所横綱町の被服廠跡では、火災旋風で3万8千人が焼死している。帝大教授の寺田寅彦が「天災は忘れたころにやってくる」という名言を吐いたのもこの時だ。

大森はシドニーから戻った死の間際に、山本権兵衛総理と帝都復興院総裁の後藤新平に提案する。復旧では再び壊滅的な損壊を被るから復興が大事だ。消防用水の確保、耐震基準の強化、道路拡幅と公園の整備、防災意識の啓蒙。後藤の復興政策は大森の献策が基礎になっていたのだ。大森は帰国後、一カ月で亡くなっている。

1891年に濃尾地震が起こる。M8.0 で日本最大規模の直下型地震だった。愛知県と岐阜県を中心に14万棟の家が全壊、7000人以上が死亡した大惨事となった。貴族院議員であった菊池大麓は帝国議会へ震災予防研究の必要性を説く建議案を提出。この時、菊池は有名な演説を行っている。あれだけの地震があったのにあの時に於てなぜ地震の事に就いて十分なる取調をしてなかったのであるか、あのときに幾分か取調べて置いたならば今回の震災は是程でもなかったらと言って我々を責めるでありませう」。

1892年6月、文部省所管の震災予防調査会が勅令により発足。菊池は委員となって、震災予防事業のために尽力し、明治・大正期を代表する地震学者の関谷清景や大森房吉らの研究を献身的にバックアップしている。

大森房吉は日本における地震学の創始者のひとりで、初期微動継続時間から震央を求める大森公式大森式地震計などを考案した大森房吉はノーベル賞物理学賞の有力候補だった。外村彰(日立製作所)はノーベル物理学賞の有力候補にあげられ続けていたのだが、寿命が届かず70歳で亡くなっている。ニュートリノの戸塚洋二もそうだ。戸塚洋二はノーベル賞に最も近い日本人と言われていたが、2008年に不帰の客となった。ノーベル賞の受賞は寿命との競争という面がある。

上山明博は、ある学術雑誌で大森房吉の論文を発見する。東京での大地震震源域は相模湾沖であることを示唆する地図が掲載されていたことを突き止めている。「地震学をつくった男」「地震の生き神さま」「地震学の祖」は、関東大震災を予知していたのだ。その対策をなぜ当時の政府はとらなかったのだろう。このあたりのことは、再度この本を読んで確かめたい。