寺島実郎の「世界を知る力」の11月版「ユダヤ・イスラエル問題の深層」。

寺島実郎の「世界を知る力」の11月版「ユダヤイスラエル問題の深層」(東京MXテレビ11月19日放映)。

以下、最後の日本について。

不必要な戦争を拒否する勇気と構想。

  • 9・11とイラク戦争の結末、、、、そして日本の埋没(米国とともに迷走、埋没する日本)
  • 吉田茂「外交は技術ではなく経世家としての経綸」ーーー構想力。

日本が迷い込んだ世界

  • 「対米協力」という名の下の米国の戦争への後方支援。そして「日米同盟の双務性」という意識からの集団的自衛権への踏み込み。
  • 自主防衛力強化の誘惑

21世紀日本の重い課題:民主主義国家・日本を守る構想力。

 

以下、番組で示された資料の一部。

f:id:k-hisatune:20231121233031j:image
f:id:k-hisatune:20231121233035j:image
f:id:k-hisatune:20231121233044j:image
f:id:k-hisatune:20231121233041j:image
f:id:k-hisatune:20231121233054j:image
f:id:k-hisatune:20231121233051j:image
f:id:k-hisatune:20231121233025j:image
f:id:k-hisatune:20231121233038j:image
f:id:k-hisatune:20231121233048j:image
f:id:k-hisatune:20231121233028j:image

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」11月21日。吉田松陰「凡そ人一日この世にあれば、一日の食を喰らい、一日の衣を着、一日の家に居る。なんぞ一日の学問、一日の事業を励まざらんや」

吉田 松陰(よしだ しょういん、1830年9月20日〈文政13年8月4日〉- 1859年11月21日〈安政6年10月27日)は、江戸時代後期の日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。

幕末の勤王家・思想家・教育者。長州生。江戸に出て、安積艮斎、山鹿素水、佐久間象山らに学ぶ。安政元年下田の米艦に搭乗を計り失敗、投獄ののち生家に幽閉されるが、ここで松下村塾を開く。討幕論を唱え、老中間部詮勝暗殺を画策して投獄され、安政の大獄により獄中で刑死した。安政6年(1859)歿、享年30。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」が有名な辞世の句だ。

司馬史観によれば、大革命というものは、最初に思想家(吉田松陰)があらわれ非業の死を遂げ、戦略家(高杉晋作)の時代に入り、そして技術者(村田蔵六)の時代になり完成する。予言者、実行家、そして権力者(山県有朋)が順番にあらわれると同時に革命の腐敗が始まるのだ。

松陰の松下村塾で学んだ人物たちをあげる。久坂玄瑞(1840-64年)。高杉晋作(1839-67年)。木戸孝充(1833-77年)。前原一誠(1834-76年)。伊藤博文(1841-1909年)。山県有朋(1838-1922年)。品川弥二郎(1843−1900年)。山田顕義(1844-1892年)、、。わずか2年でこういう人物を指導し、感銘を与え、発憤を促したことは驚くほかはない。

  • 松下村塾の双璧とうたわれた高杉晋作久坂玄瑞。「高杉の識、久坂の才」。高杉は「鼻輪を通さない放れ牛(束縛されない人)」といわれ、久坂は堂々たる政治家であるといわれた。師の吉田松陰は、晋作は俊邁の才を持つが、頑質にわざわいされて、その優れた有識の天分がおおいかくされているとみた松蔭は、久坂玄瑞に対する競争心へと転化させた。
  • 前原一誠。「一誠は勇あり智あり、誠実人に過ぐ。、、其の才は玄瑞に及ばず、その識は高杉に及ばず、しかれども其人物の完全なる、二子も亦八十に及ばざること遠し、、」
  • 伊藤博文は、師の吉田松陰から周旋の才を認められ、俊英の俊を与えられ俊輔と名乗った。

以下、折に触れて集めた松陰の言葉。

  • 「至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり」
  • 「志専らならずんば、業盛なること能はず」
  • 「徳を成し、材を達するには、師恩友益おおきに居る」
  • 「夢なき人に理想無し、理想なき人に計画なし、計画なき人に実行なし、実行なき人に成功なし、ゆえに夢なき人に成功なし」
  • 「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。僕が所見にては生死は度外に措きて唯言うべきことを言うのみ」
  • 「吾れの得失、当に蓋棺の後を待ちて議すべきのみ 」
  • 「人の一生は長くても百年 ほんの一瞬である」「君たちはどうか徒に時を過ごすことのないように」
  • 「人は、たとえ六十、七十であろうと、二十五六であろうと、春夏秋冬というのがあるのだ。悔ゆることはない」
  • 「万巻の書を読むに非ざるよりはいずくんぞ千秋の人たるを得ん。一己の労を軽んずるに非ざるよりはいずくんぞ兆民の安きを致すを得ん」(2017年に秋田県大館の松下村塾で収集)

松陰は「歴史を読んで賢人や豪傑の言動を知り、それによって志気を激発するのが最高である」とした。学問は志を養うためにあるというのが松下村塾の精神であった。

2007年に萩を訪問した。吉田松陰松下村塾、8畳(講義室)と後に増築した10 畳半(宿舎)という狭い空間で一年間の教育だった。最盛期は70-80人。時に松蔭は27歳。塾生が多くなり場所が無くなると松陰先生は中二階の狭いところで本を読んでいたそうだ。「親思う心にまさる親ごころ 今日のおとずれ何ときくらん」

次に吉田松陰歴史館。松蔭は日本中を歩き当代の一流の人物に会って学んだ。長崎、平戸、北九州各地、東北諸国。東北では藩の通行証の発行を待ちきれず、脱藩するまでしている。平戸では橋本佐内、熊本では宮部鼎三と会う。

「凡そ生まれて人たらば宜しく禽獣に異なる所以を知るべし」と言い、学問を「飛耳長目」のへ道と考えた松陰は、「読書しつつ、要点を一々抄録する」という勉強法で、平戸では80冊、長崎では26冊を読んだ。そして獄中にあっても経学と史学に没頭し1年2ヶ月で492冊を読破している。

「凡そ人一日この世にあれば、一日の食を喰らい、一日の衣を着、一日の家に居る。なんぞ一日の学問、一日の事業を励まざらんや」との心構えで、日々精進を重ねる短い生涯を送ったのである。その松陰の勉強法は、「読書しつつ、要点を一一抄録する」ことであった。様々の論者の主張同士の関係を自分の頭で考え抜き、その中から独自の思想の体系を築いていったのである。「関係」である。「フィールドワークと文献」で得た輻輳した知識同士の関係を紡ぎながら、大なる学問体系に仕上げていき、その主張に従って後進を育て、そして自らは思想と主張に殉じるという事業に殉じたのである。松陰のこの志は、感化を受けた弟子たちによって、明治維新という大事業に結実していった。教育の力を感じる。