名言にも「B面」がある。

後姿探検隊。

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「名言との対話」のトップで取り上げた言葉以外にも、胸を打つ言葉がある。それを「B面」と呼んで、時折記していこうか。次点である。まずは、『命日』編の1月分から。

  • コンラッドヒルトン「ベルボーイが成功してホテル王になったんじゃない。ホテル王がベルボーイから始めたんだ」
  • 安藤百福「社長とは権力ではない。責任の所在を示している」
  • 岡本太郎「他人が笑おうが笑うまいが、自分の歌を歌えばいいんだよ」「やろうとしないかたやれないんだ。それだけのことだ」「ぼくはこうしなさいとか、こうすべきだなんていうつもりはない。ぼくだったらこうする、というだけだ。それに共感する人、反発する人、それはご自由だ」
  • 堀越二郎「実物、実績、事実、現実」
  • 立石一真「最もよく人を幸せにする人が最もよく幸せになる」
  • 牧野富太郎「日本の植物を、日本人の手で研究した成果を外国に知らしめる」
  • 新島襄「時は金よりも尊し」
  • 小林一三「サラリーマンとして成功したければ、まずサラリーマン根性を捨てることだ」「金がないから何もできないという人間は、金があっても何もできない人間である」
  • 藤沢周平「普通の生活を続けていくことの方が、よっぽど難しいことなんだよ」
  • 本多静六「人生の幸福は、現在の生活程度自体よりはむしろその生活の方向が上り坂か下り坂か、上を向くかで決定されるものである。つまり、人の幸福は、出発点の高下によるものでなく、出発後の方向いかんによるものだ」
  • ガンジー「明日死ぬつもりでいきなさい。永遠に生きるつもりで学びなさい」

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「大全」の執筆。

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「名言との対話」12月3日。前原一誠「吾今国の為に死す、死すとも君恩に背かず。人事通塞あり、乾坤我が魂を弔さん」

前原 一誠 (まえばら いっせい。1834年4月28日‐1876年12月3日)は、 日本 の 武士 ( 長州 藩士 )。 享年42。

山口県萩市出身。一誠は「至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり」(誠心誠意向き合えば、必ず人の心を動かすことができる)との孟子の言葉に感銘を受けて命名した。1862年久坂玄瑞らと「公武合体」を唱える長井雅楽の暗殺計画に参加。1863年、八月八日の政変では都落ちした三条実美らに随行1864年の下関での四カ国連合艦隊との戦い以降は、高杉晋作と行動を共にしている。第二次長州征伐での大軍であった小倉藩の降伏に尽力。戊辰戦争では北越征討総督府参謀として活躍。

維新新政府の参議となった。暗殺された大村益次郎を継ぎ、兵部大輔に就任した。維新の十傑 の一人とされた。西郷隆盛大久保利通木戸孝允の「維新の三傑に加えて、薩摩藩小松帯刀長州藩大村益次郎前原一誠広沢真臣肥前藩江藤新平肥後藩横井小楠公家岩倉具視。10のうち7人までが暗殺、刑死、自決などの異常死を遂げている。幕末の争乱を乗り切って維新後に活躍した人たち。長州4人、薩州3人、肥前1人、肥後1人、公家1人。

新政府では木戸、山県らが推進する国民皆兵に反対し、参議を辞職して帰郷する。三条実美岩倉具視の説得には応じなかった。

地租改正や秩禄処分、高官の私利私欲による不正など、新政府の過ちを糺そうとしていた。1874年の佐賀の乱には呼応しなかった。1876年10月24日の熊本の神風連の乱、10月27日の福岡県の秋月の乱の勃発の報に接し、10月28日に200名を糾合し殉国軍を組織し挙兵した。萩の乱である。

当初は10月26日に決行予定だったが事前に漏洩したため、明治天皇への直訴に切り替え、東上を始めたがすぐに敗れ斬首される。「事に臨みて渋滞多いといえども、ついに義にはそむかざるなり」と言う松陰の言葉通りの行動となった。萩の乱の数か月後には、西郷隆盛西南戦争が勃発する。

松陰の人物評は「勇気もあり、賢い。その誠実さは誰よりも勝る。木綿や布、粟や米のように欠かせない男である」。

その上で「その才、久坂玄瑞及ばず。その識、高杉晋作に及ばず。しかしその人物の完全なること、二子また八十前原一誠)に及ばざること遠し」(才ならば久坂、見識では高杉が上である。しかし、「人間の完成度」としては二人は前原にはとても及ばない)

と評した。才は素質、識は本質を見抜く力である。才識と一緒に使うことが多い。人物は人格と理解しておこう。素質は久坂、本質を見抜くのは高杉、人格は前原といいうことになる。

松陰が捕らえられたのは、一誠が長州藩主の行列に待ち伏せし、説得し、天皇に幕府の過ちを改めるよう直訴する計画を漏らしたからである。松陰は村塾の塾生と絶交を言い渡すが、一誠はこのたびのことは自分の責任だから、他の塾生は」今までどおりにして欲しいと説得するなど、誠心誠意謝罪している。

辞世は「吾今国の為に死す、死すとも君恩に背かず。人事通塞あり、乾坤我が魂を弔さん」である。自分は国のために死んでいくが、天皇の恩に背くものではない。人の世は、前途が開けることもあり、閉ざされることもある。乾坤(天地)が自分の魂を悼んでくれるだろう。前原一誠らしい辞世の言葉である。

 前原一誠は高杉より5歳年長、久坂より6歳年長、木戸より1歳年少、山県より4歳年長、大村より9歳年少、という立ち位置だ。幕末には久坂、高杉という傑物に同調したが、最後は自身がリーダーとなって萩の乱を起こした。経緯をみると周到な準備をせずに、勝算なく決起した感じがする。この辺りのことは、調べたい。