今週と今日のテーマは「鎌倉」ーーラジオ「永井路子」。小説『炎環』。東慶寺・長谷寺・大仏。

今日のテーマは「鎌倉」。ラジオ「永井路子」。『炎環』。散策。

先週、NHKラジオアーカイブスで、2回の「永井路子」編(11月20日。11月27日)を聴いた。解説はノンフィクション作家の保阪正康。学生時代から作家を目指すまでのこと、鎌倉時代の理解の仕方、面白さを語っている。

永井路子は 東京文京区生まれ。東京女子大学国語専攻部を卒業。戦後は東京大学で経済史を学ぶ。歴史学者となる黒板伸夫と結婚。1949年小学館入社、『女学生の友』や『マドモアゼル』等の編集者。1961年、『マドモアゼル』の副編集長で退社して文筆に専念する。1964年、39歳で『炎環』で直木賞を受賞する。1984年、中世を題材にした作品で歴史小説に新風をもたらしたとして、59歳で菊池寛賞を受賞。

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永井路子」編で語る鎌倉時代の人物像の内容が面白かったので、早速直木賞を受賞した『炎環』を読了。『吾妻鏡が底本。NHK大河ドラマ草燃える』の原作の一つにもなった傑作。

対象は武士政権の鎌倉幕府の、誕生から基礎固めの期間。4つの連作中編による立体構成がユニークだ。事実は一つでも、それぞれの立場から見ると違う様相が現れる。

「悪禅師」では阿野全成(頼朝の弟の一人)、「黒雪賦」では梶原景時(頼朝政権の重臣)、「いもうと」では北条保子北条政子の妹、全成の妻)、「覇樹」では北条義時(四郎)をそれぞれ主人公としている。 

阿野全成(今若):源義経の同母兄、源頼朝の異母弟。頼朝の妻・北条政子の妹である阿波局と結婚頼朝の次男千幡(後の実朝)の乳母となった。頼朝死去後に、謀反の疑いで忙殺される。
梶原景時義経の器量に心酔。優柔にふるまう頼朝の本心に沿って、憎まれ役を果たす。
北条政子の妹・保子:おしゃべりで情報通。景時の失脚など様々の事件を引き起こす。

北条義時:頼朝亡き後の政権を非情に見えるやり方で断行。時代の歯車を動かし、東国武士政権の基礎を固める。

京都中心の公家社会から、東国の武家社会への変革の時代。古代から中世への転換。東国武士団は組織力で勝利する。植民地が先進国に立ち向かった物語。頼朝は見事な無色透明のロボットであった。「御恩と奉公」、泥をかぶる上司、必ず恩賞を与え報いる上司とそれを軸に働く部下、という構図。これは後の軍隊組織につながる。

『炎環』の「炎」はそれぞれの人間の「権力」への欲望。「環」は事件を中心にした人の輪。

源頼朝自身ではなく、周辺の4人の人物の目を通して、武士政権の誕生の過程を立体的に浮かび上がらせる描き方は冴えている。

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本日は夫婦で鎌倉で息子夫婦と孫娘と会う。

北鎌倉の東慶寺を見学。鈴木大拙西田幾多郎岩波茂雄和辻哲郎安倍能成高見順小林秀雄の墓がある。鈴木大拙の拠点となった松ヶ岡文庫がここにあった。

 

長谷で昼食。「WITH」。
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長谷寺

 

鎌倉大仏。「美男におわす」。浄土宗の高徳院の本尊の阿弥陀如来坐像。日本三大仏の一つ。東大寺方広寺

与謝野晶子の歌碑。この大仏は釈迦牟尼ではなく、阿弥陀如来だった。

歌碑:「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」

後に「かまくらやみほとけなれど御姿の美男におわす夏木立かな」と詠み直した

 

喫茶「Bergfeld」

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「名言との対話」12月2日。沢村栄治「わしはまっすぐが好きや」

沢村 栄治(さわむら えいじ、旧字体澤村 榮治1917年大正6年〉2月1日 - 1944年昭和19年〉12月2日)は、三重県出身のプロ野球選手投手)。不滅の大投手。三度の応召を経て1944年戦死。享年27。

三重県伊勢市出身。巨人軍の初代エースで、職業野球の1936年の初優勝に貢献、1937年委は史上初の投手5冠で初代最高殊勲選手。史上最多の3回のノーヒットノーランをらっ制した。先発86試合で、63勝22敗。防御率1.74。先発完投型の代表であった

アメリメジャーリーグ選抜の1934年の来日時、沢村の好投による「完封負け」の危機から全米軍を救ったのがゲーリッグのソロ本塁打による1点だった。ベーブ・ルースも手玉にとられたのである。

死後にの1947年に沢村賞が創設される。日本プロ野球で最も活躍した完投先発投手を対象として贈られる特別賞の一つだ。2024年からメジャーリーグに移る山本由比伸が2021年から2023年まで3年連続で受賞。15勝以上。防御率1点台。3年連続の受賞は金田正一以来二人目。

野球殿堂」は、日本の野球の発展に大きく貢献した人々の功績を永久に讃え、顕彰するために1959年に創設された。表彰レリーフ(ブロンズ製胸像額)を、野球殿堂博物館内の殿堂ホールに掲額し、永久にその名誉を讃えている。競技者表彰と特別表彰がある。001は正力松太郎日米野球を成功させ巨人を創設」。第1回の特別表彰で、沢村栄治は「初期プロ野球界不滅の大投手」という功績での特別表彰だった。安倍磯雄「学生野球の父」。スタルヒンプロ野球初の300勝投手」。1959年の金杯と副賞として賞金300万円が贈られる。

沢村栄治の球速は何キロだったのか。球速については、スピードガンが無い時代なので、はっきりしないが、145キロ、150キロ後半、175キロなどさまざまの説がある。対戦した打者たちは「打者の膝元でホップ」「浮き上がってくるのでバットにあたらない」と表現している。落合博光が「一番すごかったのは江川」と言い、審判の一人も浮がってくると印象を述べている。江川のストレートは140キロ後半だったようだが、打者は震撼している。沢村と同じ球筋だったのはないか。

「わしはまっすぐが好きや」が口ぐせだった沢村栄治は、3回にわたって軍隊に召集されている。現役は5年しかなかった。ピークは1937年(春・秋)で通算33勝6敗である。完封は10回。三振は325個。四球は生涯で5つというコントロールの良さだった。江川もまっすぐとカーブだけでという球種で戦った。沢村栄治は1938年から1939年にかけては軍隊生活で登板できなかった。3回目の招集で戦死しているのは、日本のプロ野球界にとって大きな損失であった。