横浜そごう美術館で『111年目の中原淳一』展。
中原 淳一(なかはら じゅんいち、1913年(大正2年)2月16日 - 1983年(昭和58年)4月19日)は、日本の画家、ファッションデザイナー、編集者、イラストレーター、人形作家。
横浜での食事会の前に、少し時間があったのでみてきた。ほとんどが中年以降の女性だったが、一人だけ中原淳一のファンションそのままの女性をみかけた。会場につるしてある中原の言葉が素敵だった。女性の生き方も含めたファッションの提案者だ。
- 少女らしさということを主題にして女学生の生活の役に立っていきたい。
- ほんとうの意味で美しい暮らしを知る本を作りたい。
- よき女性の人生は、よき少女時代を送った人に与えられるものではないか。
- 知性に裏付けられた工夫。
中原 淳一(なかはら じゅんいち、1913年(大正2年)2月16日 - 1983年(昭和58年)4月19日)は、日本の画家、ファッションデザイナー、編集者、イラストレーター、人形作家。享年70。
昭和初期、少女雑誌「少女の友」の人気画家として一世を風靡。戦後1年目の1946年、独自の女性誌「それいゆ」を創刊、続いて「ひまわり」「ジュニアそれいゆ」などを発刊し、夢を忘れがちな時代の中で女性達に暮しもファッションも心も「美しくあれ」と幸せに生きる道筋を示してカリスマ的な憧れの存在となった。活躍の場は雑誌にとどまらず、日本のファッション、イラストレーション、ヘアメイク、ドールアート、インテリアなど幅広い分野で時代をリードし、先駆的な存在となる。そのセンスとメッセージは現代を生きる人たちの心を捉え、新たな人気を呼んでいる。「二宮金次郎が抒情家になったのではないか」(杉浦幸雄)と言われる画風だった。
- 「こんな時代を乗り切って美しく愉しくといふのは、結局知性を高め、工夫する精神と美しさをキャッチする眼を肥やすことであろう」
- 「「美」と感じることの極致は、結局清潔だということにつきてしまうもの」
- 幸福は一度手にとれば一生逃げてゆかないというようなものではなく、毎日の心掛けで少しずつ積み重ねてゆかねばならない。
- こんな時代を乗り切って美しく愉しくといふのは、結局知性を高め、工夫する精神と美しさをキャッチする眼を肥やすことであろう。
- いつまでも古くならないもの、それこそがむしろもっとも「新しい」ものだとはいえないでしょうか。
- [おしゃれな人」とは、どんな人でしょう? それは美しくありたいと思う心が、ことさらに強い人のことです。
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近著『実年期の肖像』でインタビューした「自分史」の河野初江さんから招待を受けて、横浜ベイシェラトンの中華レストランで会食。雑誌『イコール』、知研セミナー、、、、。ごちそう様でした!
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「名言との対話」12月1日。曲亭馬琴「世の中のやくをのがれてもとのまま かへるはあめとつちの人形」
曲亭 馬琴/滝沢馬琴(きょくてい ばきん/たきざわ ばきん、明和4年6月9日〈1767年7月4日〉- 嘉永元年11月6日〈1848年12月1日〉)は、江戸時代後期の読本作者。
江戸深川(江東区)出身。本名は滝沢興邦。曲亭馬琴は戯号(戯作者の雅号)。曲亭は『漢書』の「巴陵曲亭の陽に楽しむ」とある山の名。馬琴は『十訓抄』の小野篁の「才馬卿に非ずして、琴を弾くとも能はじ」から。この二つを組みあせて曲亭馬琴を名乗った。
俳諧、医術、儒学を学ぶ。24歳、山東京伝と親しくなり、戯作者として出発。版元の蔦屋重三郎の手代となる。27歳、履物商の未亡人の婿になる。その後、文筆業に打ち込んでいく。
30歳頃から執筆活動が本格的になる。1803年、『俳句歳時記』。1807年から刊行を開始した『椿説弓張月』などで名声を築く。馬琴が編著で葛飾北斎が画を描いた。28巻29冊の長編大作である。前編、後編、続編、拾遺、残編の5編で、前編・後編は源為朝の活躍を描き、以後は為朝伝説の一つである琉球王国の再建がテーマの物語だ。
代表作の『南総里見八犬伝』は、1814年から1841年の28年間にわたって執筆され。全98巻・106冊の大著で、日本古典文学史上最長の小説である。
ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできたに日本最初の著述家である。当時の江戸の庶民の平均年収は20-30両。馬琴は作家として一番脂がのっていた65歳頃でも稿料は35両程度だった。原稿料の仕組みは詳しくはわからないが、おそらく売上に応じた支払ではなく、原稿は買い取り方式だったのではないか。
馬琴は日記を書いていた。この日記をもとにしてできた芝居「滝沢家の内乱」を2011年に下北沢の本多劇場でみたことがある。馬琴は几帳面で規則正しい日課であった。体操を終え朝食。書斎で前日の日記を書く。その後は前日の原稿のチェック、校正を行う、そしてその日の著述にかかる。
ところが馬琴は67歳の時に右目に異常が起こり、74才では左目も衰え、失明し執筆は不可能となる。この時に息子・宗伯の嫁のお路は口述筆記を申し出る。しかしお路には学問がなく文字を知らない。馬琴は漢字が偏とつくりからできていることから教えながら、両者とも必死の共同作業で1月6日から8月20日までの7か月半を費やして、歴史的大著八犬伝が75歳で完結する。パンフレットにあるお路が書いた最初の文字と脱稿したときの最後の文字を比べてみると、まるで別人が書いたようだ。その落差に驚いた。
読んだ朝井まかて「眩」(新潮社)では印象的なシーンがあった。北斎と同時代の滝沢馬琴は、北斎とはいざこざが絶えなかった。しかし北斎が中風で倒れた時、突然現れて「葛飾北斎、いつまで養生しておるつもりぞっ」と噴くように言った。この敵の言葉に「養生はもう、飽いた」と絵筆をとった。この場面も見せ場だ。この後、70を越えて、代表作「富嶽三十六景」に取り組み、大評判をとる。
亡くなった11月6日は、「馬琴忌」。明治中期に来日したF・イーストレイクは馬琴を「日本のシェークスピア」と称賛した。
九段の多摩大サテライトから歩いて数分のところのマンションの入り口に馬琴が硯を洗った井戸の跡が残っている。馬琴は、大流行作家であると同時に日常生活の煩雑な現実に立ち向かい巧妙に問題を片づけてゆく能力があった。文学と現実の両方をこなす稀有の人であった。その馬琴は、「物はとかく時節をまたねば、願うことも成就せず、短慮は功をなさず」という。何ごとも実らせるには短慮を戒めて時節の到来まで待つべきだという至言を述べている。
82歳での死にあたって詠んだ辞世の歌は、「世の中のやくをのがれてもとのまま かへるはあめとつちの人形」であった。人間としての役目をやっと終えて、もとのとおりに、魂は天に昇り、肉体は土に還るのだ。大仕事を成した人の最後の感慨だろう。