力士とは:栃錦「力のある紳士」。若乃花「代表的な日本人」

NHKラジオアーカイブスで栃錦若乃花の計4回の放送を聴いた。

大相撲の栃若時代を創った主役の二人である。小学校に時だったか、郷里中津に大相撲の巡業があり、この二人の取り組みをみたことがある。若乃花のファンであった。激しいぶつかりあいがあり、若乃花が勝った。

相撲中継(栃若時代) | 懐古趣味親爺のブログ

さて、栃錦。優勝10回の名横綱であり、引退後は日本相撲協会理事長として現在の両国の国技館を完成させた相撲の近代化に貢献した。「技の栃錦」といわれ、人の3倍の稽古を重ね、横綱になった時に師匠から「桜の花の散る如く引退せよ」と言われた。若い頃に神々しい姿と態度の双葉山をみたこともあり、理事長時代のテーマは形、内容、礼儀などが整った「美しい土俵」だった。「力士とは力のある紳士」と定義した。それ若乃花「代表的な日本人」が春日野理事長の相撲道だった。

次に若乃花。優勝10回。若乃花は「土俵の鬼」と呼ばれた。「稽古」という言葉が何度もでてくる。「経験と勘と、稽古」が強くなる秘訣という。二子山理事長として、豊かになって骨抜きになった若人を鍛え、50年、100年後も大相撲を存在できるように、礼に始まり礼に終わる「みせる土俵」を標榜していた。「代表的な日本人」を育てようとした。それが「相撲道」だった。

栃若という一時代を築いたライバルであり、ともに日本相撲協会の背負って立った両雄は伝統文国技である大相撲を通じて、「代表的日本人」のモデルを育て、日本国民に示そうとしたのだろう。

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朝:ヨガ1時間

電話:松尾(博多)。内尾・藤田(中津)。横野(仙台)。

夕:14日目に琴の若が霧島を破った。

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「名言との対話」1月27 日。永井路子「『万葉集』は、愛と恋の聖書」

永井 路子(ながい みちこ、1925年3月31日 - 2023年1月27日)は、日本歴史小説家。享年97。

 東京生まれ。東京女子大学国語専攻部を卒業。戦後は東京大学で経済史を学ぶ。歴史学者となる黒板伸夫と結婚。1949年小学館入社、『女学生の友』や『マドモアゼル』等の編集に従事。1961年、『マドモアゼル』の副編集長で退社して文筆に専念する。

1964年、39歳で『炎環』で直木賞を受賞する。1984年、中世を題材にした作品で歴史小説に新風をもたらしたとして、菊池寛賞を受賞。

1998年、寄贈した蔵書を中核資料とした「古河文学館」開館。2003年、幼少時を過ごした旧居永井路子旧宅を修復し古河文学館の別館として公開。古河文学館から北へ500mほど離れており、江戸町通りに面している。19世紀初頭に初代・永井八郎治が葉茶屋「永井屋」を開業し、のちには陶漆器・砂糖も扱い、質屋も営んだという。永井家は江戸時代からの古い商家で、土蔵造り・2階建ての店蔵が残されている。

 永井路子『万葉恋歌』(光文社文庫)を読んだ。永井は万葉集を「日本の古典の中で、もっとも若々しい古典である」と述べ、「愛と恋の聖書」と呼ぶ。「日本人の心のかたち、愛のかたちがどんなものか。いわば愛の原型といったものを考えるとき、『万葉集』を抜きにしては、何も考えられない」が結論だ。

奈良時代。牛乳を飲み、チーズの味も知っていた。女はスカートと上着のツーピースを着て、腕や髪にアクセサリーをつけていた。ロングスカート、ロングストール。椅子の生活。ベッドで寝た。上流階級の生活は現代と同じだったのだ。

多摩川に晒す手づくりさらさらに何ぞこの子のここだ愛しき」は、208年に万葉歌碑の旅をライワークとしている私の母と狛江の多摩川沿いに建つ玉川碑を訪ね、その意味を教えてもらった。歌碑は多摩川のかつての六郷用水の取水口に近い民家の庭先に立っていた。万葉当時文字を持たなかった日本人が、中国から伝えられたばかりの漢字を使って使っている日本語を何とか表わそうと努力して、音を漢字にあてはめた万葉仮名で書き表わされている。訳は「多摩川にさらさらとさらす手づくりの布のように、さらさらにどうしてこの娘がこんなに可愛いのだろう」。この碑は、刻まれた文字が江戸幕府の老中として活躍した松平定信の筆になる。また渋沢栄一が撰文した裏面の撰文の玉川碑陰記には、この碑のできた由来を述べた後、「そもそも微なことでも、(大事なことは)世に紹介し、幽なことでも(大事なことは)闡明にしていくことが、孔子が著したとも言われる「春秋」(という歴史書)の志であった。」という言葉がある。公益活動に熱心だった渋沢栄一の志がみえる気がする言葉である。

「たらちねの母が手離れかうばかりすべなき事はいまだせなくに」は、「私たち女性すべての初恋の姿でもある」と永井は説明している。

オーディブルの「講演・エンターテイメント」の女性の講演録を聞いたことがある。文藝春秋社の文化講演会での講演録で、それぞれ1時間弱の中身の濃い講演だった。母系社会という視点での連続講演だ。それぞれ有名な作家達であり、山崎朋子上坂冬子山崎豊子宮尾登美子は太平洋戦争に翻弄されており、「戦争」というテーマをそれぞれの立場から深掘りしており、心を打つ。

山崎朋子「アジアの女・アジアの声」は、「帝国海軍の伊号潜水艦長であった父を喪った経験。朝鮮人青年との恋愛。アジア各地に散った底辺女性や満州花嫁の悲劇のエピソード。個人の幸せと国家の真の姿を見つめる」。上坂冬子「繁栄日本の陰に」は、「奄美大島の民謡に隠された長崎原爆の被爆者たちの知られざる人生。アメリカ在住の広島からの原爆の被害者たち。ノンフィクションというものがよくわかる」。山崎豊子大地の子と私」は、「日中戦争最大の犠牲者・戦争孤児。同じ日本人なら最後の一人まで捜し出すのが人間じゃないか。「私たちを三度も捨てないでください」という言葉の衝撃」。「宮尾登美子「いま女はさまざまに生きる」は、「満州難民収容所。空腹で子供とひとつの饅頭との交換を考えた。引き揚げ後の肺結核。赤ん坊だった娘に収容所経験を書き残したかった。そこから始まった作家人生」。杉本苑子「万葉の女たち娘たち」は、天皇・貴族・庶民・奴隷まで、あらゆる層の人々が本音を吐露する万葉集の歌は現代人の胸を打つ」。平岩弓枝「秘話かわせみ」は、「御宿かわせみ」の執筆秘話。師匠・長谷川伸と兄弟弟子たちとの濃密な修行の日々」。

そして永井路子「歴史をさわがせた女たち」は、「平安以前は女系家族。女帝が多くその官僚としての女官の存在など、女の時代であった。新しい日本史のヒーロー像。裏声で語るオンナの物語」だった。永井路子の講演からは、日本の古代は実は女性上位の時代だったことがよくわかった。

万葉集は愛と恋の聖書」とはよく言ったものだ。永井路子は本日で96歳。青年期(25-50)、壮年期(50-65)、実年期(65-80)、熟年期(80-95)を終えて、大人期(95-110)に入っている。

以上は、2021年の「名言との対話」である。まだ存命だった。その2年後に97歳の「大人期」で亡くなった。

その後、NHKラジオアーカイブスで、2回の「永井路子」編(11月20日。11月27日)を聴いた。解説はノンフィクション作家の保阪正康。学生時代から作家を目指すまでのこと、鎌倉時代の理解の仕方、面白さを語っている。

永井路子」編で語る鎌倉時代の人物像の内容が面白かったので、早速直木賞を受賞した『炎環』を読了。『吾妻鏡が底本。NHK大河ドラマ草燃える』の原作の一つにもなった傑作。

対象は武士政権の鎌倉幕府の、誕生から基礎固めの期間。4つの連作中編による立体構成がユニークだ。事実は一つでも、それぞれの立場から見ると違う様相が現れる。

「悪禅師」では阿野全成(頼朝の弟の一人)、「黒雪賦」では梶原景時(頼朝政権の重臣)、「いもうと」では北条保子北条政子の妹、全成の妻)、「覇樹」では北条義時(四郎)をそれぞれ主人公としている。 

阿野全成(今若):源義経の同母兄、源頼朝の異母弟。頼朝の妻・北条政子の妹である阿波局と結婚頼朝の次男千幡(後の実朝)の乳母となった。頼朝死去後に、謀反の疑いで忙殺される。
梶原景時義経の器量に心酔。優柔にふるまう頼朝の本心に沿って、憎まれ役を果たす。
北条政子の妹・保子:おしゃべりで情報通。景時の失脚など様々の事件を引き起こす。

北条義時:頼朝亡き後の政権を非情に見えるやり方で断行。時代の歯車を動かし、東国武士政権の基礎を固める。

京都中心の公家社会から、東国の武家社会への変革の時代。古代から中世への転換。東国武士団は組織力で勝利する。植民地が先進国に立ち向かった物語。頼朝は見事な無色透明のロボットであった。「御恩と奉公」、泥をかぶる上司、必ず恩賞を与え報いる上司とそれを軸に働く部下、という構図。これは後の軍隊組織につながる。

『炎環』の「炎」はそれぞれの人間の「権力」への欲望。「環」は事件を中心にした人の輪。

源頼朝自身ではなく、周辺の4人の人物の目を通して、武士政権の誕生の過程を立体的に浮かび上がらせる描き方は冴えている。