「偉い人とは影響力の大きい人である」ーー野田先生のハガキ通信「ラポール」と私のブログ「今日も生涯の一日なり」

「偉い人」とは影響力の大きい人である。

私は野田先生から様々の、そして多くの影響を受けているが、今日は先生が毎週出して続けた「ラポール」というハガキ通信について語りたい。

1999年発刊の『時の運 人の縁』(浩気社)の時点で、10年続いているとある。1994年からの5年間の253編から「人」に絞ったもの103編を編んだものだ。この「ラポール」は、ワンテーマ主義で、先生の友人たちの高い知的レベルの読者が5000人いた。毎回750字で、この葉書を読んでいると野田先生の活動や考えていることがわかるから、とてもありがたかった。

1994年というと私が野田先生に初めて会った年だ。大学への誘いがあり、そこからまったく違った人生の扉を開くことになった。宮城大学開学まで、毎週、「ラポール」を読んでいた。宮城大学開学からの4年間、私は学長室の隣の部屋を与えれ、毎日朝から夜まで先生の薫陶を受けながら、疾風怒濤の日々を送った。野田先生は4年間の宮城大学の初代学長の任期を終えたが、その後4年間は仙台に居を構えられた。

私は1999年に図解ウェブを立ち上げ、2005年5月からメルマガ「久恒啓一のビジネスマン教授日記」を毎週発行した。このとき、先生の「ラポール」を意識していたように思う。インターネット時代のやり方を模索していたのだ。このメルマガが「久恒啓一の学びの軌跡」と名前を変えて、今日まで1340号続いている。

2005年から楽天イーグルズが仙台に本拠を構えることになり、私は楽天ブログを書くことにした。このブログは毎日書き続けることになった。2004年9月28日には「デジタル日記」を宣言している。翌29日は「著名人に会う日」となっている。夕食は赤坂のカナダ大使館のシティ・クラブ・オブ・トーキョーで野田先生と摂っている。このとき、先生の親友の日本IBMの椎名武雄最高顧問があらわれた。

それから、このブログ日記は「はてなブログ」に変えながら、毎日書き続け、今日で6557日目となっている。

野田先生の「ラポール」は、1989年あたりから一時の中断を含め、2017年7月6日の971号「予想外の卒寿の宴」まで続いているとある。しかし、『多摩大学の1000日』(野田一夫・中村秀一郎)の「はじめに」によれば、多摩大学創設の1989年4月から3年間のハガキ通信TIMISというハガキ通信を出している。そしてその前の多摩大学設立準備の多忙な時期に往復ハガキ通信「ラポール」をだして、関係者とのコミュニケーションをとっている。

こうやってひも解いてみると、野田先生は多摩大学を創設にかかわった60歳あたりから90歳までの30年間にわたって、毎週ハガキ通信を出し続けていたことがわかった。

「人によって異なるはずだが、僕の場合には、60歳代になってようやく、人生が自分の納得できるものになってきたという気持ちを抱けるようになり、70歳代半ばになってからからは、”少年の夢”を喪失して以降、ひたすら漠然と望み続けてきた”納得できる人生”がやっと現実化したという自信が心中に漲るようになった。そして、80歳代半ばの今は、視覚的に表現すると「人生が豁然と開けた」とでも言おうか、気分はいつも実に爽快で、肉体までが何か若返ったような独特な活力を感じつつ充実した日々を送っている」。

つまり、ハガキ通信「ラポール」は人生が納得できるものになってきた60代から、納得できる人生を歩んでいるという自信を持つようになった70代半ば、そして人生が豁然と開けた感のある充実した80代半ば以降、90歳の卒寿までの貴重な記録なのだ。

野田先生のハガキ通信「ラポール」に大きな影響を受けて、私の今日の「図解ウェブ」が成り立っていることを、改めて知ることになった。そして私も小さな影響を人にも与えるようになっている。野田先生の影響力の大きさは、多くの人が語っていくだろうが、その一つの例として私のこのブログがあるということになるのだ。

 

最高顧問 野田 一夫 | 一般財団法人 日本教育推進財団

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「名言との対話」9月11日。清水みのる「展望の中に 光と緑がある そよ風と さざなみがある」

清水 みのる(しみず みのる、本名:清水 實、1903年明治36年9月11日 - 1979年(昭和54年)12月10日)は、日本作詞家

静岡県浜松市出身。旧制浜松中学を経て、立教大学英文科在学中は詩人の佐藤惣之助に師事。卒業後はサトーハチローに師事。1931年、日本ポリドール蓄音機商会に入社。1939年には田端義夫のデビュー作の作詞を手がける。

戦後、テイチクレコードに入る。作曲の倉若晴生、歌手の田端義夫とのコンビで、数々のヒット曲を生む。

一人船頭の心境を歌った「島の船頭」(歌・田端義夫)。「コトコトコットン、コトコトコットン」で知られている陽気で明るい「森の水車」(歌・高峰秀子)。田端義夫の哀愁の歌声の「かえり船」(歌・田端義夫)、「かよい船」(歌・田端義夫)などを聴いてみた。

他にも「星の流れに」(歌・菊池章子)、「月がとっても青いから」(歌・菅原都々子)、「雪の渡り鳥」(歌・三波春夫)、「思い出」(歌・石原裕次郎)などのヒット曲がある。

1969年、吉永小百合「ふるさとのおもちゃの唄」で、日本レコード大賞・特別賞。日本作詞家協会功労賞。1971年、紫綬褒章

浜松西区の伊佐地緑地公園には、水車が設置され、「森の水車公園」と呼ばれ、市民に親しまれている。

浜松北区の「細江公園の「文学の丘に立つ」という碑には「展望の中に 光と緑がある そよ風と さざなみがある」との清水みのるの詩が刻まれている。詩人というより、作詞家としての生涯を送った人であるが、こういった詩をよむと、本来は詩人であった人が作詞家という職業をもったという感じもするが、どうだろう。