「川柳まつど」12月号ーー天「イケメンがイクメンになるお前か」。地「幸福のかけら集めてモザイク画」

「川柳まつど」12月号。今月は「天」(二度目)と「地」に選ばれた。

投句が「天地人」として選ばれる。1位が天、2位が地、3位が人。

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  • 天 「イケメンが イクメンになる お前か」(宿題「いそいそ」。関玉枝選:少子高齢化へ育休を取る夫が少しずつ増えている様でうれしい事です。男性の子育て、見ていて楽しくなります)
  • 地 「幸福の かけら集めて モザイク画」(宿題「彩る」。山本初枝選:どんな彩りの色なのか、想像がふくらみます)
  • 入選「がんばろう ウエストサイズ 物語」「ホームレス わが家は違う ハウスレス」「青春の 想い出響く ゲタの音」

最近の政治情勢を詠むと、、。

  「居ないのに まだ安倍派とは 情けない」

 「論理なし 倫理すたれた 令和の世」

 「バカアホウ 無恥ウソつきの 勢ぞろい」

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satoru3 on Twitter: "中国革命の父・孫文の若い頃と、国分太一がそっくり。#N##N#その孫文が日本亡命時に友人だった南方 ...

「名言との対話」12月29日。南方熊楠「物や心を個別に理解するのではなく、その関係性を理解したい」

南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日(慶応3年4月15日) - 1941年(昭和16年)12月29日)は、日本の博物学者、生物学者(特に菌類学)、民俗学者

和歌山県出身。南方熊楠明治維新の前年に生を受けている。13歳で「動物学」という本をつくり、「宇宙諸体森羅万象」にして、これを見るにますます多く、これを求むればいよいよ繁く、実に涯限あらざるなり」という博物学宣言をしている天才は、17歳で入った大学予備門では、夏目漱石正岡子規と同期だった。

「世界を自分の目で見たい」「僕も是から勉強を積んで、洋行すました其後は降るあめりかを跡に見て、晴日本へ立帰り、一大事業をなした後、天下の男といわれたい」と言い、若き日に地球上のさまざまな場所を移動した。
19歳、渡米。西洋近代思想、植物学の方法論を学ぶ。20歳、サンフランシスコ。24歳、フロリダ、キューバ。隠花植物。25歳、ロンドン。26歳、大英博物館。比較民俗学科学雑誌「Nature」に「東洋の星座」を発表。土宜法龍と親交。28歳、大英博物館図書館で民俗学博物学旅行記を筆記。「ロンドン抜書」は52冊。30歳、孫文と会う。34歳、帰国。那智山周辺−−南方マンダラ「哲学的思考」。37歳、田辺へ。39歳、結婚。44歳、柳田國男と文通。59歳、摂政宮(昭和天皇)に進講。変形菌標本90点。62歳、昭和天皇に進講。74歳、永眠。

投稿論文や書簡が主な執筆対象であったため、平凡社編集による全集が刊行されいる。英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語スペイン語に長けていた他、漢文の読解力も高く、古今東西の文献を渉猟した人物である。「歩く百科事典」と呼ばれ、熊楠の言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、当時の3奇人とされるなど数々の逸話を残している。

柳田國男とともに日本の民俗学研究を立ち上げた人物。日夜、生物採集に没頭した人物。エコロジーという言葉を日本に最初に紹介した人物。主著は『十二支考』『南方随筆』など。、、、。熊楠は知的巨人だった。

南方熊楠と親交のあった生物学者昭和天皇は1929年の和歌山への行幸時に、粘菌や海中生物についての御前講義を行った。熊楠は粘菌の標本をキャラメル箱に入れて献上した。後に天皇はあのキャラメル箱のインパクトは忘れられない」と語ったという。1962年に再び和歌山を訪れた天皇は、神島を見て「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」と詠んだ。

真言密教の発想を借りて、自然科学から人文学までのさまざまな学問分野を総合する学問モデルをつくり出そうとした、これが世にいう南方マンダラである。

「世界を自分の目で見たい」「僕も是から勉強を積んで、洋行すました其後は降るあめりかを跡に見て、晴日本へ立帰り、一大事業をなした後、天下の男といわれたい」と言い、若き日に地球上のさまざまな場所を移動した。柳田國男とともに日本の民俗学研究を立ち上げた人物。南方マンダラと呼ばれる思想を深めた人物。日夜、生物採集に没頭した人物。エコロジーという言葉を日本に最初に紹介した人物。、、、。熊楠は知的巨人だった。
近代科学は一つの原因は一つの結果を生むという考え方だが、熊楠は「因果関係は複雑に関連しあっているために、どのような場所にいてもすべての現象と何らかの関係を持つことになる」と述べていて、「今日の科学、因果は分かるが(もしくは分かるべき見込みがあるか)、縁が分からぬ。この縁を研究するのがわれわれの任なり」。南方は神羅万象の関係を研究したのだ。

熊楠は若き日に「物と心の接触によって生する事の世界」を学問の対象と定めている。「事の学」の図がある。物の円と心の円の重なったところに「事」がある図である。この事は人界の現象であり、心界が物界とまじわって初めて生ずるはたらき。因果。「物や心を個別に理解するのではなく、その関係性を理解したい」。夢は事の一つの例である。
真言密教の発想を借りて、自然科学から人文学までのさまざまな学問分野を総合する学問モデルをつくり出そうとした、これが世にいう「南方マンダラ」である。

関係性が世界を作り上げている。すべてが関連しあっている。この世は科学のいう因果関係だけで説明はできない。偶然と偶然が重なり合って、いつか必然と感じられるようになる。偶然と必然が「縁」で関係づけられる。今はそう理解しておこうか。

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以下、南方熊楠の企画展の訪問記など。

2007年12月23日。渋谷区神宮にあるワタリウム美術館で10月7日から2月3日まで「南方熊楠 クマグスの森」展が開催されている。
この美術館は始まりは11時と遅いが、終わるのも19時と遅いから夕刻から1時間以上見てまわった。南方熊楠(1867年--1941年)は、下記のようにチラシで紹介されている。
若き日に地球上のさまざまな場所を移動した人物。柳田國男とともに日本の民俗学研究を立ち上げた人物。南方マンダラと呼ばれる思想を深めた人物。日夜、生物採集に没頭した人物。エコロジーという言葉を日本に最初に紹介した人物。
そして「ミナカタ・クマグスとは、何者か?」というのがそのチラシのタイトルだったことに象徴されるように、熊楠は知的巨人である。和歌山にある記念館や顕彰館を訪ねなければならないと思っていたが、東京で今回の展があるのを新聞で見つけてみてきた。

この比較的小振りの美術館では、4階の「海外放浪から那智・田辺へ」、3階の「内的宇宙へ」、2階の「森の生命の世界へ」とくだりながら見ていくという趣向である。

南方熊楠は1867年生まれだから明治維新の前年に生を受けている。13歳で「動物学」という本をつくり、「宇宙諸体森羅万象」にして、これを見るにますます多く、これを求むればいよいよ繁く、実に涯限あらざるなり」という博物学宣言をしている天才は、17歳で入った大学予備門では、夏目漱石正岡子規と同期だった。
19歳、渡米。西洋近代思想、植物学の方法論を学ぶ。20歳、サンフランシスコ。24歳、フロリダ、キューバ。隠花植物。25歳、ロンドン。26歳、大英博物館。比較民俗学。Natureに「東洋の星座」を発表。土宜法龍と親交。28歳、大英博物館図書館で民俗学博物学旅行記を筆者。「ロンドン抜書」は52冊。30歳、孫文と会う。34歳、帰国。那智山周辺−−南方マンダラ「哲学的思考」。37歳、田辺へ。39歳、結婚。44歳、柳田國男と文通。59歳、摂政宮(昭和天皇)に進講。変形菌標本90点。62歳、昭和天皇に進講
74歳、永眠。

4階では、長男熊弥は精神のを得たこと、長女文枝はキノコの写生を父ら習う。父の大きな支えになった。妻の松枝と娘の文枝がタナベの自宅で亡き後の熊楠の書類をまもったことなどがわかる。新聞紙に挟んである集めたイハヒトデやフモトシダなどの標本が並んでいる。

熊楠は滞在する場所によって、文献に頼る人文学とフィールド調査中心の生物学をバランスをとって用いていた。

「世界を自分の目で見たい」
「僕も是から勉強を積んで、洋行すました其後は降るあめりかを跡に見て、晴日本へ立帰り、一大事業をなした後、天下の男といわれたい」

ミシガン州
「むちゃくちゃに衣食を薄くして、病気を生ずるもかまわず、多くの書を買うて、神学もかじれば生物学も覗い、希・拉もやりかくれば梵文にも志し」と書いている。
フロリダ・キューバへの大旅行では、藻類、シダ、キノコ、粘菌など花の咲かない植物である隠花植物に関心を持っている。

ロンドンでは科学雑誌ネイチャーに二週連続で掲載されている。
8年のロンドン滞在中に書物を抜書きした「ロンドン抜書」を残した。

昭和天皇「雨にけぶる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思う」
南方熊楠「 一枝もこころして吹け沖つ風 わが天皇のめでましし森ぞ」

3階。
熊楠は若き日に「物と心の接触によって生する事の世界」を学問の対象と定めている。「事の学」の図がある。物の円と心の円の重なったところに「事」がある図である。この事は人界の現象であり、心界が物界とまじわって初めて生ずるはたらき。因果。物や心を個別に理解するのではなく、その関係性を理解したい。夢は事の一つの例である。
真言密教の発想を借りて、自然科学から人文学まえのさまざまな学問分野を総合する学問モデルをつくり出そうとした、これが世に言う南方マンダラである。

熊楠は男色、オナニズム、両性具有、宦官、売春、強制猥褻、性的錯綜、人肉食などに関心を寄せている。こういう部分を日本民俗学から排除する傾向のあったや柳田國男と最後は離れるようになった。

宗教と政治の一体化を目的とした1906年の神社合祀令に対して、神社によって保たれていた人間と自然との関係を重視した熊楠は、神社合祀反対運動に関わっていく。「日本古来の宗教である神道は巨大なタブー体系のようなものといっても過言ではない」と述べている。宗教的な禁忌が幾重にも重なって人々の行動を律しているのが神道の実態であり、神道とはタブーの体系であると熊楠はした。

「すべての現象が関連しあっている」、それが縁である。近代科学は一つの原因は一つの結果を生むという考え方だが、熊楠は「因果関係は複雑に関連しあっているために、どのような場所にいてもすべての現象と何らかの関係を持つことになる」と述べていて、「今日の科学、因果は分かるが(もしくは分かるべき見込みがあるか)、縁が分からぬ。この縁を研究するのがわれわれの任なり」」。関係性が世界を作り上げている。仏教の「空」とは関係性のことである。

2階。那智生態調査。粘菌。

1階では受付にいた熊楠に詳しい女性のアドバイスを受けながら、松居竜吾の「クマグスの森 南方熊楠の見た宇宙」(裸に一枚の布を巻きつけた熊楠が森の中に立っている写真が表紙)や、「南方熊楠アルバム」、そして南方マンダラとして熊楠の本質を描いた鶴見和子の本などを入手した。神道密教についっての考察が興味深い。
どうやらクマグスの森は深い宇宙らしい。このういった本を事前に読んで、次は和歌山に南方熊楠の記念館や顕彰館を訪ねたい。

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2017年12月に国立科学博物館で開催中の「南方熊楠」(誕生150周年記念企画)展を訪問した。

南方熊楠(1867ー1941)は、アメリカのアマチュア菌学者カーチスが6000点の標本をつくったこと、イギリスの菌学者ハンクレーが厖大な標本を持っていることを知った。そしてそれ以上集めようと決心し標本採集に精を出した。アマチュアのカルキンスと交流があった。

25歳から30歳まで、ロンドンに滞在する。雑誌「ネイチャー」に「東洋の星座」などを寄稿している。1895年、28歳から大英博物館で、民俗学博物学旅行記などの筆写を開始する。「ロンドン抜書」は実に52冊に及んでいる。結果的に、「ネイチャー」には55本の論文を寄稿している。33歳で、日本に帰国。

1900年11月20日の日記には「変形菌10、キノコ450、地衣類250、藻類200、車軸藻類5、苔類50、せん(?)類100」という採集目標を立てた。しかし、その目標はわずか9ヶ月で達成してしまう。故郷である那智生物多様性は予想以上だったのだ。熊楠は隠花植物と説話・民話・伝説を収集した。田辺抜書は61冊に及ぶ。「学問と決死すべし」。

熊楠は写生好きであり、実に上手い。その特徴は必ずどこかに人を描いていることだ。それはスケールをみせるからだった。鋭い観察眼と深い洞察力で、収集し、無邪気に自慢する人でもあった。目標にした74歳までの5000枚の図譜。整理まで手がまわらずに、それらは可能性のままになっている。菌類図譜は4000点に近い、それらは自然界からの抜書である。

「集めること」「図は平面にしか画きえず。実は長、幅、の外に厚さもある立体のものを見よ」

南方熊楠は、森羅万象を探求した「研究者」とされてきたが、近年の研究では、むしろ広く資料を収集し、蓄積して提供しようとした「情報提供者」として評価されるようになってきた。これがこの企画展の結論だ。

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2023年12月10日の日経には南方熊楠(1867年ー1941年。享年74)の特集記事。

  • 13歳の『和漢三才図会』あたりから筆写して記憶する学習法を身についていた。
  • 8年間のロンドン滞在中に大英博物館で、旅行記民俗学、人類学、博物学、性科学など東西の文献ざっと5000点を52冊のノートに筆写した。「ロンドン抜書」。
  • 1900年、33歳で帰国した故郷の和歌山では「甲子夜話」などの「田辺抜書」はノート61冊。「ネイチャー」には51篇、「ノーツ・アンド・クリエーズ」には324篇の論文を寄稿。
  • 62歳、昭和天皇に粘菌110種などを献上。
  • 田辺翻字の会、田辺抜書の会、南方熊楠研究会などが画像と文字情報のデータベース構築に奮闘中。(松土永知子学術研究員。居竜五竜谷大教授「20年かかる」)。
  • 鶴見和子「南方の独創性の根源は、かれの勉強好き、学校ぎらい、にある。かれは(中略)大学にいかなかったために、『専門バカ』になること・を、まぬかれた」(『南方熊楠
  • 松居竜五「人間が一生かけて何を知ることができるかの限界に挑戦し、学問の王様になりました」

熊楠は世界で一番字を多く書いた人といわれる。膨大なインプットに比べ、出版は3冊だけというようにアウトプットは極めて少ない人だった。南方熊楠は優れた資料収集家か、視野の広い学者か、神羅万象の法則に挑んだ思想家か、正体はいまだにわからない。