2024年、いざ出陣!

2024年は能登半島での震度7の大地震から始った。大いなる自然が宗教と金にまみれた日本の政治と社会を断罪するかのような強力な一撃である。新年がともかくも不穏な形であけたのである。

それでも個人にとっては、時間は貫き通す棒のようなものであり、今までの自分の延長線上にこれからの自分があることに過ぎない。昨日は2023年を総括した。それを眺めながら、今年をどう生きるかを考えていくことになる。

2023年は2020年からの恐るべきコロナ禍をくぐり抜けて社会がようやく一息ついた年であった。私自身にとっては、コロナ禍の数年間は社会の大混乱の中で、新しいコミュニケーションツールを携えて新しい仲間と次の時代への模索を試みた時期であった。そして2023年は、過去の知的活動の集大成がほぼ完成をみた画期的な年であった。また長年たずさわってきた組織を安定軌道に乗せることができた年でもあった。

その延長線上に取り組むべきいくつかのプロジェクトが浮上している。大小の建築物のような姿で見えている。それらはやや不安定な形で明滅している。まるで蜃気楼のようだ。

これから数年かけて、その蜃気楼を現実の形ある実在に変えていくことになる。進むべき道は、いくつかの筋から選ぶものではなく、試行錯誤の中で自然に見えてくるものなのだ。昨年亡くなった谷村新司の名曲『昴』のように、荒野に向かう道を行こうとする「この身を照らせよ」と言いたくなる心境だ。

人生をどうとらえるか。私は一個の作品としてみている。いつも誕生から死去するまでの生涯を意味のあるものにしようとする過程にある。この作品は最後までその姿はおぼろであって明確な像は結ばない。「棺を蓋いて事定まる」のである。

元旦は近所の日枝神社でお神籤を引く。2023年は「古きを捨てて新しきにつくがよい」というお告げの中吉だった。2024年は「こころをすなおに身もちを正しくすればますます運よろしく何事もおもうままになるでしょう。欲をはなれて人のためにつくしなさい」という大吉を引いた。歌は「かき曇る空さえ晴れてさしのぼる日かげのどけきこころかな」だ。

こういった運を引き寄せるには、「身もちよく」「あせらず」「油断せず」「慎み深く」という条件がついていることを肝に銘じることにしよう。妻は「吉」だった。いざ、出陣。

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2024年の「名言との対話」はどの時代の人物を取り上げるか。2022年は明治誕生日編。2023年は近代命日編(文化文政から敗戦までを生きた人物)だ。2024年は「現在」に焦点をあてることにしようと思う。それは「令和」のこの数年に亡くなった同時代人である。厳密には2019年5月1日からということになるが、適当な人物がいなければ、「現代」にさかのぼる。現代とは21世紀と規定してみよう。

2016年から始めた「名言との対話」は、時代に関係のない「命日編」「誕生日編」を皮切りに、「近代」「明治」「大正から昭和」「戦後」「平成1」「平成2」を網羅してきた。2024年を「現在」、2025年を「現代」とすれば、この10年間で3000人以上の「代表的日本人」と対峙したことになり、一つの区切りとなるだろう。「現在」はわずか数年であり、難行となることが予想されるが、挑戦してみよう。

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【追悼】信越化学・金川千尋会長、生前語った「金川経営の真髄」とは | DOL特別レポート | ダイヤモンド・オンライン

「名言との対話」1月1日。金川千尋「事業は自ら投資をして、自らのリスクでモノをつくって売るのが本来の姿だと思いはじめ、そういう事業を自分でやりたくなったのです」

金川千尋(かながわちひろ 1926年3月15日ー2023年1月1日)は、信越化学工業の社長、会長を歴任した経営者。

日本統治時代の朝鮮生まれで東京都出身。東京帝大法学部政治学科卒業。1950年に極東物産(にちの三井物産)に入社し、1962年に信越化学工業に転じた。1983年に副社長、1990年社長。2010年に会長。享年96。

2021年1月24日号の『日経ビジネス』の「中興の祖」ランキングで1位となったのが金川千尋である。在任中の時価総額の伸びが株式時価総額上位100社のトップとなった名経営者である。連結売上高は就任時の3倍を来れる1兆4969億円、時価総額は22倍の約8兆2000億円であり、「中興の祖」と呼ぶにふさわしい名経営者である。

金川の言葉から経営についての考えを探ることにしよう。

決断について。

・ひとつひとつの判断に時間をかけてはいけません。直面する課題の7から8割は、その場で決めます

朝令暮改でいい。

リスクについて。

・リスクは分散しなければいけない。コストは高くても、それは保険料です。

・リスクを恐れてタイミングを逸しては、勝てないビジネスがある。投資が大きいビジネスは、早く立ち上げたものだけが勝者になれる

・好況期に積み上げてきた努力が不況期に生きる

・ノウハウというのは、人が代わると、どこにあるのかわからなくなってしまいますから、信頼できる自社の社員が持っていなくてはいけない。本当に大事なものは自分で持たなければいけない。

営業について。

・事業の成功の7割は営業で決まります。ただし、営業に奇策はありません。

・本当の信頼関係は需要家が好調な時よりも、苦境に置かれたときにこそつくられていくもんです。

・商売は人と人とのつながりです。

・自分自身が上の立場にいるとすれば、心がけるべきことは援護射撃でしょう。

事業について。

・経営者に必要な資質は、「現状を正しく認識できる判断力」と、「将来の姿を洞察できる先見性」、「現状を将来の姿に導く執行能力」です。、、そして他人を陥れたり策略を弄することなく真正面から戦うことです。

・困難な道を選んだときの方が、結果的に成功に結びついてきました。

信越化学工業を世界の優良企業にすることが最大の生きがいです。人ができないことをやらなければ、私が社長である必要はありません。

金川は「右のものを左に流すだけの、当時の商社の商売に興味を失いました」と語っている。そして「事業は自ら投資をして、自らのリスクでモノをつくって売るのが本来の姿だと思いはじめ、そういう事業を自分でやりたくなったのです」と経営者として変身していった。それが、「失われた30年」の時代に、一人、気を吐いた原動力だったのだろう。

横文字を縦文字に直すのが学者の商売だといわれた時代があった。学問の分野でも輸入ではなく、自らの力で独自の理論を打ち立てることが求められている。それはリスクをにらみながら自らの資源を投資をし実績をあげることだ。それはビジネスの世界でも同じだということだろう。金川千尋信越化学工業という会社を「商売から事業へ」と転換させたのだ。それが勝因であった。経営者でなく、事業家と呼ぶにふさわしい人物である。