メルマガ「学びの軌跡」第1395号ーー18年目。

2005年5月からメルマガを毎週月曜日に発行。18年目。配信数は6000ほど。

1週間の活動のまとめを配信。久しぶりに会う友人たちも、このメルマガで近況を知ってもらっているので、便利。野田一夫先生のハガキ通信「ラポール」と同じ役割。

久恒啓一の「学びの軌跡」第1395号(2023年10月9日)
  久恒啓一図解Web http://www.hisatune.net
  ブログ「今日も生涯の一日なり」http://d.hatena.ne.jp/k-hisatune/
  メール:hisatune@gmail.com
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皆さん、おはようございます!
一気に、秋に突入! 体調はいかがですか? よろしければ、近況をお知らせください。hisatune@gmail.com。先週は、外出が多く忙しかったなあ。
〇小菅宏『異能の男 ジャニー喜多川』(徳間書店 https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2023/10/02/000000
〇月刊「ヒサツネ」https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2023/10/07/000000
〇蓋棺録「加藤秀俊」の巻https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2023/10/06/000000
〇「図解塾」ーー「梅棹忠夫著作集」第7巻の「日本探検」を終了https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2023/10/04/000000
〇ユーチューブ『遅咲き偉人伝』:「尾畠春夫」編をリリース。大分県のスーパーボランティア。この人は偉い人です。https://youtu.be/Ag8B8Sw5_8I
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以下「名言との対話」(近代編)です。2023年は「近代編」に挑戦します。
江戸時代の文化文政時代から、敗戦までを「近代」と考えています
この時代に活躍した人物を取り上げます。
詳細はhttps://note.com/hisatune/m/m3ac0f7b2e0e9を参照してください
10月8日。下田歌子「社会風潮の清濁は、その源男子にあらずして女子にあり、、
、まことに揺籃を揺るがすの手は、以て能く天下を動かすことを得べし」
10月7日。仙厓義梵「〇△▢」
10月6日。尾崎行雄「人生の本舞台は常に将来にあり」
10月5日。頭山満「人間は火のついた線香じゃ。それに気がつけば誰でも
何時かは発奮する気になるじゃろう。老若誠に一瞬の間じゃ、気を許すな」
10月4日。池野成一郎「平野が貰わないのなら、私も断る」
10月3日。島津源蔵「事業の邪魔になる人。家庭を滅ぼす人」
10月2日。矢部規矩治「サッカロマイセン・サケ(清酒酵母
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ブログ「今日も生涯の一日なり
●2023-10-08 「です・ます」調から「だ・である」調への文体変換(by ChatGPT)
 https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2023/10/08/000000
●2023-10-07 「月刊ヒサツネ」をやってみようかーー深呼吸学部関係者の出版パーティ(表参道)
 https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2023/10/07/000000
● 2023-10-06 蓋棺録「加藤秀俊」の巻ーー「将来、すこしづつ人間というものを
より深く学びつつ、この領域(評伝・伝記)でのしごともつづけてゆきたいとかんがえている」
 https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2023/10/06/000000
●2023-10-05 新・同窓会が発足ーー飯田橋の「はちはち」で食事会。
 https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2023/10/05/000000
●2023-10-04 「図解塾」ーー「梅棹忠夫著作集」第7巻の「日本探検」を終了。ーー「出雲大社」「空からの日本探検」「日本探検始末記」
 https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2023/10/04/000000
●2023-10-03 父の日にもらった「ゲタ」を履きつぶした狂暑の3カ月も終わる。
 https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2023/10/03/000000
●2023-10-02 小菅宏『異能の男 ジャニー喜多川』(徳間書店
 https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2023/10/02/000000
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◎note「名言との対話」
 https://note.mu/hisatune
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幸福塾の準備。

電話:松尾君(博多)。千葉雄君(宇佐)。

手帳「NEW Diary 2024」を購入。2023年版を初めて使ったが気に入った。

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経歴 画像

「名言との対話」10月9日。池田成彬「やはりあの頃先生(福沢諭吉)の家にでも行って教えを乞うておけば良かった」

池田 成彬(いけだ しげあき、1867年8月15日(慶応3年7月16日) - 1950年(昭和25年)10月9日)は、政治家実業家。享年83。

米沢市出身。米沢藩池田成章の長男。慶応義塾に学んだ後ハーバード大学へ留学し5年後の1895年帰国。時事新報社に入社するが3カ月で辞職。

同年三井銀行に入社。三井財閥の直系事業であり、当時日本のトップ銀行であった三井銀行で活躍。1909年常務取締役へ昇進。筆頭常務になると率先して増資・株式公開を実施し、台湾銀行整理や電力外債募集などを通じて経営手腕を発揮し、池田時代を築いた。昭和恐慌下のドル買事件による世論の財閥非難が高まる中で、暗殺された団琢磨を継いで1932年財閥本社三井合名の理事に就任。三井の総帥として「財閥の転向」といわれた諸改革を断行した。1936年みずから敷いた停年制で三井を去る。

1937年日銀総裁、さらに1938年から第1次近衛文麿内閣の蔵相兼商相を歴任。その後内閣参議をへて敗戦まで枢密顧問官の任にあった。戦後A級戦犯容疑者の指定(1946年5月解除)を受けて政財界から引退した。吉田茂首相は同じ大磯に住む池田を、財政や人事の相談相手にしていた。「池田大明神」とも呼んでいたという。

以上の経歴をみると、順風満帆の人生であるとの感じがするが、『三田評論』の斎藤秀彦の評伝を読んで、興味が湧いた。

「古武士の風格」があり、威儀正しく難局に当たっても動揺することなく正しい判断を下す。米澤藩の気風と家庭教育の賜物であった。また、三井の総帥であった中上川彦次郎は嫁にやる娘に「銀行一の強情男」と語っている。

この芯の強い人物は、25年にわたり三井銀行と金融界の代表者として活躍した。暗殺された三井合名の団琢磨理事長の暗殺により、合名の理事となって、「財界の転向」とまでいわれた大改革を断行する。裏切りと非難されながら、一族の引退、株式の公開、定年制の導入などの施策で世間の批判をかわしていく。この制度に沿って自身も三井を去る。

戦時下という時局には、こういった人物は隠居は許されない。日本銀行総裁、大蔵大臣(兼)商工大臣などをつとめることになる。首相候補にも擬せられたが、池田は親米派であり、軍部と対立的立場にあり実現はしなかった。東條英機首相は中国戦線の兵役についている池田の三男を国内勤務にかえることを条件に協力を依頼するが、頑固者の池田は拒否する。三男は帰らぬ人となった。遺骨の木箱を手にしてはじめて人前で涙を流している。池田は筋を通す古武士であった。

池田成彬慶應義塾出身者には珍しく、福沢諭吉に反抗している。最初は、塾生の時に福沢が礼儀を知らない学生に諭す「巧言令色」をすすめる演説を聞き、腹を立て、福沢嫌いになる。

アメリカ留学から帰国後、福沢の時事新報に入り、論説委員となる。福沢は池田の論説を認めず、赤字を入れる厳しい指導をした。高かった月給にも満足せず、たった3週間で退職してしまう。

その池田も晩年にいたって福沢の指導の真意を理解するようになり「やはりあの頃先生の家にでも行って教えを乞うておけばよかった」と反省し、福沢の恩義に報いるため、戦時中は小泉信三塾長の相談相手になっている。

池田は晩年の質素な生活から、名前の「成彬」を「しげあき」とは読まずに、「清貧」をもじって、「いけだせいひん」と呼ばれたという逸話もある。

大組織の大改革を断行する気概、国家の命運を左右する仕事に邁進する。古武士の風格をもち、筋を通す強情さ、清貧に甘んじる私欲の無さ、納得しないことには断固反対する、そして反省する度量も持っている。こういう人物がいたことを初めて知った。歴史と人物への理解が浅かったことを恥じる思いだ。