東京国立博物館の『本阿弥光悦の大宇宙』展。中野孝次『本阿弥光悦行状記』を読了。

先日東京国立博物館の『本阿弥光悦の大宇宙』をみてきた。本阿弥光悦の大宇宙をに感銘を受けた。「正宗」などの国宝に指定された名刀、漢字の部分だけが大きく墨の濃い書、丸みを帯び中心が盛り上がっている蒔絵硯箱、赤や白の茶碗、、、、、。

本阿弥光悦は80歳の長寿であった。誕生直後に織田信長桶狭間の戦いがあり、織田政権、豊臣政権、そして徳川政権の誕生と家康の没、鎖国令、そして天草四郎島原の乱の年に亡くなってる。変革期をつぶさにみた人だった。

東博では、図録以外に買った中野孝次本阿弥光悦行状記』を読了。後代の家の危機に当たって記述しておいた家の歴史である。光悦から5代目の「ばば」が語るという形式だ。本阿弥家は日蓮の法華信仰。

代々の家業の中から生まれた天才・光悦が信じるのは自分の目だけであった。「私流」である。いわば「光悦流」だ。刀剣、書画、陶磁器、茶道具、、、。「光悦の書」、「光悦の茶碗」、、、、。

本業だけでなく、人間的な魅力に富んだ文化人であった光悦は、徳川家康の心をつかみ、京都の鷹ヶ峰をたまわった。そこに多彩な職人たちが住み込んで光悦町が誕生した。芸術家、職人が住んだ町である。

梅棹忠夫先生と接触した折に、「先生は歴史上の人物に誰に近いですか」と聞いたことがある。答えは「ダ・ヴィンチと光悦」であり、驚いたことがある。万能の天才と同じという自負で学問を開拓している姿勢に感銘を受けた。その時初め本阿弥光悦の名を聞いた。光悦は美の組織者であったのだ。大阪万博の跡地の千里に国立民族学博物館をつくった梅棹忠夫は、知の組織者たらんとしたのだろう。そしてその夢を実現している。

母親の妙秀に「親を大切にせよ、気遣い苦労をかけるな、嘘を言うな、そうすればいずれ冥加があろうぞ」と言われて光悦は育った。90歳で亡くなったあとには、日常の必要品以外には何も残っていなかった。本阿弥家は代々こういう偉い女たちが家の気風をつくったのである。

刀の目利き、研ぎ、磨きを稼業とした本阿弥家は、誇るべき潔癖と厳しい修行をした。もっとも輝かしい時代を担った光悦は20歳から80歳まで。小物一人、飯炊き一人で、木綿の夜具ひとつで暮らした。「我身をかろくもてなし」だった。それがかえって心の世界を広く豊かにした。楽焼にふれて、「総じて名人という者はみな貧なるものであった」という。中野孝次のいう「清貧の思想」を先取りしていた。

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寺島さんから電話。近況報告に近々訪問することに。私のやっていることは「インテリジェンス・ユニット」だといわれた。

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「名言との対話」1月23日。坂本スミ子「感謝するとエエこと来る」

坂本 スミ子(さかもと スミこ、本名:石井 寿美子、旧姓:坂本、1936年11月25日 - 2021年1月23日)は、ラテン歌謡曲歌手俳優。享年84。

大阪市出身。歌手となったが、1959年のトリオ・ロス・パンチョス日本公演でアイ・ジョージとともに、全国ツアーの前座をつとめ、一躍「ラテンの女王」として人気が出る。1961年からはテレビ『夢であいましょう』の主題歌を歌う。1961年からNHK紅白歌合戦に5回連続出場した。

1964年から女優業にも進出。1966年『エロ事師たち、より 人類学入門』(今村昌平監督)で、毎日映画コンクール助演女優賞を受賞。1982年にはミュージカル「キャバレー」で文化庁芸術祭優秀賞。

1983年には『樽山節考』で名演技を披露する。この作品は深沢七郎の小説を映画化したものだ。カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した。

1993年、50代後半からは義母のやっていた熊本の聖母保育園幼稚園・幼愛園の園長もつとめた。

気さくで明るい人柄で、「おスミさん」との愛称で親しまれた。歌手としてはエネルギッシュでパワーあふれる歌声で、「ラテンの女王」と呼ばれるなど、実力を認められた。

女優としての最大の評価は、『樽山節考』である。代役での出演であったが、坂本は自身より30歳年長の老女を演じるにあたり、当たりの演技をしたことが話題になった。

深沢七郎1956年姨捨山をテーマとした『楢山節考』を中央公論新人賞に応募し第1回受賞作となり、ベストセラーになった。深沢の処女作であり出世作だった。70歳になると「楢山まいり」(姥捨)を行わなければならない山奥の村に住む69歳になる母と息子が軸となるストーリーだ。1958年の木下惠介監督の映画『楢山節考』キネマ旬報で第1位になる。

今村昌平は、自分の撮るべき世界だと考え現場ロケで映画化する。息子・辰平の役は緒形拳だが、老母・おりんの役がなかなか決まらなかった。杉村春子清川虹子には断られ、二葉早苗は病に倒れる。そこで45歳の坂本スミ子に白羽の矢がたった。1ヶ月で10キロの減量、前歯4本をけずるという役作りをした。その後は、インプラントで40年ほど過ごしている。

NHK「あの人に会いたい」では、「嫁はん、お母さん、歌手、映画」、そして園長先生もやるなど満足している。坂本スミ子は最後に「感謝するとエエこと来るゥ」と語っている。縁のあった仕事に感謝し、全力投球をすると、次の世界がひらけてくる。そういう見事な生涯だった。