立川:たましん美術館「邨田丹陵」展。戦後初の国産飛行機R-52型軽飛行機の展示。

立川のたましん美術館で開催中の「邨田丹陵ーー時代を描いたやまと絵」展を妻とみてみた。

邨田丹陵(1872年 - 1940年)は日本画家。20歳、寺崎廣業らと日本青年絵画協会を結成。岡倉天心が幹事長。丹陵はこの会を代表する存在だった。東京美術学校卒業生の大観、観山、春草らが加わり、日本絵画協会に改称する。

1907年の第1回文展で三等となる。寺崎、大観、観山は審査員、そして春草、野田九浦ら後輩たちが二等となった。

これを機に「真の芸術家の生活にふさわしき生活、煩雑を避け閑朴に、趣味多く、安静に我身を置く生活に改めなければならぬ」と中央画壇に距離をとった。

40代の作は極めて少ない。

51歳、徳川慶光侯爵から聖徳記念絵画館の壁画の一つとして「大政奉還」の制作を依頼される。直後の関東大震災を機に砂川村(立川市)に移住。画室を「安安園楽々荘」となずけた。1935年、実に依頼後13年の歳月をかけて完成させた。

二条城黒書院の上段の徳川慶喜と居並ぶ幕府の役人たちを描いた作品「大政奉還」はよく知られている。この代表作を描くにあたって斎戒沐浴で身を清め、集中し骨身をけずる苦労を重ねた。生涯最後をかざるライフワークという意識だったのだろう。その心身の疲労のためやつれたしまったが、その大役を果たしその4年後に亡くなっている。享年69。

この美術館で、山際寿一(前京大総長)とおぼしき人をみかけた。

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立川グリーンスプリングスを散策。戦後の1952年に飛行機製作が解禁された。立川の「立飛グループ」は飛行機製作技術の再興を目指し、戦後初の国産飛行機R-52型軽飛行機を含む3機を製作。1954年に初飛行成功。「プー・ド・シェル」との愛称で呼ばれた。倉庫に保管していた機体を修復し展示を行っている。

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「名言との対話」1月28日。坂崎一彦「坂崎大明神」

坂崎 一彦(さかざき かずひこ、1938年1月5日 - 2014年1月28日)は、大阪府豊中市出身のプロ野球選手。

名門浪速商業の4番打者として1955年春の選抜に出場。決勝戦で2度敬遠された後、第3打席でホームランを打ち、優勝。坂崎の成績は15打数9安打、打率.600、2本塁打、8敬遠。その打棒は新聞に「坂崎大明神」と書かれたほどだった。

巨人軍に入団。3年目の1958年にレギュラーに定着しオールスターゲームに出場する。1959年には打率.284(リーグ4位)、15本塁打、64打点を記録、ベストナインを受賞した。同年の天覧試合にも出場し、5回裏に長嶋茂雄に続く連続本塁打を放っている。1961年から1963年にかけては、巨人は3番・王、4番・長島、5番・坂崎のクリーンアナップだった。この頃の坂崎の活躍は覚えている。

坂崎は代打男でもあった。1963年は3割6分7厘、1964年は4割1分7厘、1965年には名投手・小山対策として水原監督から請われて移籍した東映では4割7分2厘という神がかり的な数字を残している。

大洋のエース・秋山登は「坂崎はどんな投法をもってしても抑えられなかった。投げる球投げる球ことごとくジャストミートされた。長島など問題にならないくらい、いいバッターでした」と語っている。

1958年の日本シリーズで、西鉄の鉄腕・稲尾は5試合に先発し4完投で優勝し「神様、仏様、稲尾様」と崇められた。坂崎が呼ばれた大明神はもともとは神仏習合の仏教から神を呼ぶ名前である。豊臣秀吉は没後に朝廷から豊国大明神の神号をもらっているのと同様に世間は坂崎を神様扱いをしたのだ。

さて、五番打者という存在を考えてみよう。3・4・5番はクリーンナップと呼ばれる強打者ぞろいであるが、3人とも大打者という具合にはなかなかいない。特に強かった時代の巨人軍は、王・長島という球界を代表するスターがいた。1961年から1963年は、坂崎が5番をはっていた。

巨人は名将川上哲治監督のもとで、1965年から1973年まで日本一となる。いわゆる伝説の「V9時代」だ。

1968年からは末次利光だった。「最強の5番打者」末次は「五番は難しかった。ONがホームランでも打とうものならいつまでもザワザワして、僕が打とうが、抑えられようが何の反応もない。でも、ONが塁にいて僕が凡打したら大変。球場がいっせいにタメ息ですから」と語っている。

1977年から長島監督のもと、張本・王のあとは巨人史上最強の5番とされる柳田真宏がリーグ3位の打率3割4分、21本塁打、打点67という好成績をあげ、日本シリーズでもMVPに輝いている。

坂崎は通算打率は2割5分前後と記録的には高くはないが、甲子園決勝、天覧試合、そしてチャンスの時の代打などで活躍した、記憶に残る選手だった。ここぞという時に、神の仕業としか思えないような活躍をみた人々は「坂崎大明神」と呼んだのだ。気力の人だったのだろう。