昼:同窓会。夜:FM鎌倉「理系の森」出演打ち合わせ。

夜はFM鎌倉「理系の森」出演(3月)の担当者と、富山さんとの打ち合わせ。「図解」「継続力」「新世界」の30分番組3本ということになった。

昼食は同窓会:JAL応報部時代:右から柴生田、池松。

全聚徳」新宿店で昼食。この店は中国の楊寿山(1822-1890)が創業。北京ダックの代名詞として知られる。「長城を見なければ壮観とは言えず、全聚徳のダックを食さないのは遺憾である」とまで言われた。150年以上続いているこの店は毛沢東周恩来田中角栄首相ら日本の歴代首相、キッシンジャーらが外交を繰り広げた舞台となった。北京ダックは、数世代の料理人が知恵と心血を注いでアヒルを50もの調停工程を経て完成する絶品だ。日本にもいくつかの店がある。

25日(昨日)も同窓会だったが、王線の停電のため参加できなかった。JAL客室時代:松本。鶴崎。中村。久野。来栖。(送られてきた写真)

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「名言との対話」1月26日。野中広務「政治の最大の役割は戦争をしないこと」

 野中 廣務(のなか ひろむ、1925年大正14年)10月20日 - 2018年平成30年)1月26日)は、日本政治家。享年92。

野中は旧制中学卒業後国鉄に入職。敗戦時、坂本龍馬像の前で自決をしようとして上官から「死ぬ勇気があるんなら、日本の再興のためにがんばれ」と諭され、思いとどまった。町議会議員、町長、京都府議会議員、副知事を経て、1983年の60歳近くで衆議院議員に初当選し、自治大臣国家公安委員長内閣官房長官自民党幹事長を歴任。「叩き上げ」であったが、小渕・森政権では「影の総理」と呼ばれれるほどの実力者になった遅咲きの政治家である。

「この国の歴史で被差別部落出身の事実を隠さずに政治活動を行い、権力の中枢までたどり着いた人間は野中しかいない」と魚住昭『差別と権力』の中で書かれている。悪魔と呼んだ小沢一郎との確執と和解、小泉・安倍政権への批判など、政界引退後もその発言は注目された。

「戦前の私たちは知らないうちに教育され、戦争に突入した。私はこうした民族性に恐怖を感じる」と語っている野中は、虐げられた人々への配慮、沖縄問題への深い関心、中国・韓国・北朝鮮との間合いの取り方など、政治スタンスはハト派だった。軍隊生活の経験から、「一番まずかったのは集団的自衛権の行使を認める安保法制をつくり、戦争をできる国にしたこと。他国の人を傷つけ殺すことは、自分たちも殺されることになる」とも発言している。反差別と反戦の政治家だった。

橋本龍太郎内閣の沖縄に対する米軍用地特別措置法改正案に対し「この法律がこれから沖縄県民の上に軍靴で踏みにじるような、そんな結果にならないようことを、そして、私たちのような古い苦しい時代を生きてきた人間は、再び国会の審議が、どうぞ大政翼賛会のような形にならないように若い皆さんにお願いをして、私の報告を終わります」と述べた。後にこの発言は国会会議録から消されている。

野中は「郵政族のドン」とも呼ばれており、小泉純一郎を「非情の政治」と批判した。安倍晋三沖縄県辺野古への米軍基地移転をめぐる姿勢については、「沖縄を差別しないために政治生命を懸けてきた一人として、絶対に許すことができない」と批判している。

 「ケンカは必ず格上とやるべし」という野中は「豪腕」「政界の狙撃手」など強面の武闘派のイメージを私は持っていたが、一方で社会的弱者への視線を絶えず持っていたことも後で知った。30代から無報酬で自ら設立した障害者施設「京都太陽の園」の理事長を長く務めていた。それは政治活動の休息の場となり、愛情と情熱を注いだ野中の人生最後のよりどころになっていた。

政界工作の達人であった野中の「毒まんじゅう」発言は流行語大賞を受賞している。小渕政権の過半数割れに際し、宿敵でもあった小沢一郎に保保連合を持ち掛け、「悪魔にもひれ伏した男」と呼ばこともある。逸話の多い政治家として記憶にある。

「運・鈍・根」、つまり、運を得ることと、それを焦らず活かすための不断の努力、そして根性が、人間の進み方として一番必要じゃないかと思っています」と語っている。「運・鈍・根」という野中広務の人生訓は、人との縁を大事にし、不断の努力を重ね、不屈の根性で生きぬけというアドバイスだろう。自分を厳しく叩き上げた野中広務の言だけに深く刺さるものがある。

2009年には宿敵共産党の機関誌「赤旗」のインタビューを受けている。「戦争反対であれば、どんなインタビューでも受けますよ」とのことだった。野中広務は、「叩き上げ」から「影の総理」とまで呼ばれた遅咲きの国士である。