「心の健康会議」でシンポジストを務めました。

北九州市小倉のソレイユホールで開催された第31回「心の健康会議」でシンポジストを務めました。会場には1700人の参者がおり、2階席まで満員でした。

主催は公益法人日本臨床心理士資格認定協会。今回のテーマは「生涯学習社会と心理臨床 児童生徒の人生を共に生きる臨床心理士への期待」です。

開会の挨拶は、京都大学名誉教授の藤原勝紀先生。以下、キーワード。

心理臨床の現場。生身の心。心の専門家。安全と安心を全力で。天変と天災。コロナ、戦争。普通に暮らすことの大事さ。人間力の学習。生涯発達、生涯学習社会。75万人の出生数。幸せの道。夢のような社会を実現したが、それは危機の社会でもある。大人も子供もクリエイティブで自由な生き方を、確かな答えは無い。不安と苦難。生きる力。藤原先生の開会の挨拶は、気迫に溢れた、本気の長い挨拶だった。

次の基調講演は山中康弘先生(京都大学名誉教授)の「臨床」に宿るもの。臨床とは死の床であり、それは神の床であり、夢のお告げを待つ空間であった。フロイト精神分析学やユングの分析心理学でも夢分析を行っている。日本でも奈良の長谷寺では夢のお告げを受ける風習があり、1400年以前に行われていたのだ。うつ病は必ず治る。心理療法は無意識を扱う。薬物療法無人島法。転生願望法。

シンポジウムの基調提案は、岡本祐子先生(広島大学名誉教授)。人生はサクセスへの一本道。アイデンティティーは人との関係の中では育まれる。中年の危機は2回ある。螺旋式発展モデル。

伊藤亜矢子先生(聖学院大学)は、「学校心理臨床から見えてくる児童生徒の安全安心ー学校学級フードから考える」。

黒川嘉子先生(奈良女子大学)は、「遊戯療法から見つめる子どもの心、大人の願い」。

3番目の私は「100年人生における子ども時代ーライフデザインの観点から考える」。独自のフィールドワーク2つ。人物記念館の旅と名言との対話。人生100年時代。人生観を変えよう。ライフをデザインする時代。公人、私人、個人。玄孫、来孫を目にする時代。親や先生が子供から見られている。子供の問題というより、大人の問題ではないのか。ヒントは、母親の影響力と先生の影響力。モデルはどこにいるのか。近現代の代表的日本人の中にいる。7つの共通項。偉い人。一廉の人物。人物伝。人生100年の生き方のモデルは日本にある。

前田正先生(常葉大学)コメント。

その後はシンポジスト全員と藤原先生、吉村雅世先生(東京少年鑑別所所長)を交えた議論で、何度か発言をした。

終了後に、藤原先生と宇野千葉雄君と。

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「名言との対話」3月3日。大江健三郎「日本の子供は日本の歴史をまともに学んでいくだけで良い。そうすれば、まともに育っていけます」

 

愛媛県の寒村に生まれた大江は、松山の中学で都会育ちのスマートで最先端の知識を身に着けている、後の映画監督・伊丹十三と知り合う。伊丹からフランス文学についての書物を教えられ、とりつかれたように読む。特にラブレーという作家に傾倒した大江は、この書物を書いた渡辺一雄という人を生涯の師とすることに決め、東大文学部に入学する。

在学中に師事した渡辺は、自分が敬愛する人物が生涯を終えるまでの全ての作品を読もうとしてきた。自分の場合、それは70歳あたりまで生きたラブレーだと語る。これに対し大江は渡辺一雄先生をその対象としたいと答える。渡辺は、大事なことは人間らしく考えることだ、人の考えたことをそのまま繰り返す機械になってはいけないと語り、それをヒューマニズムと呼んだ。日本のフランス文学の礎を築いた渡辺は立派な先生だったようで、小林秀雄な多くの弟子に慕われた。渡辺は73歳で亡くなるが、大江は師の教えを実行し、88歳で亡くなるまで仕事をしている。昭和8年生まれの伊丹、10年の大江、9年の井上ひさしは、焼け跡世代と呼ばれている。皇国教育から民主教育への大転換を子ども時代に体験したから、彼らは日本国憲法を護る立場で奮闘する。

仙台の宮城大学時代の2004年に、大江健三郎がみえたことがある。大講堂で学内だけでなく、社会人にも解放した大講演会となった。大江健三郎の本は「沖縄ノート」などいくつか読んだ記憶があるが、総じて難解なところがあるので私は熱心な読者ではなかった。講演も同じくやはり難解だった。しかし聴衆はこの作家のいうことをありがたく聞いている。ふと隣の人をみると、驚いたことに両手を合わせたお参りの姿であった。大江の姿を神のように拝んでいたのだ。

「こんな偉い人のありがたい話を自分がわからないのは自分のせいだ」という感じであった。そのとき思ったのは、講演は難解で相手がわからない方がありがたく感じるのではないかということだった。私の講演はわかりやすいと言われて喜んでいたのは間違いではないか。わからない方がありがたがられるのでないかということで苦笑を禁じ得なかった。私はノーベル賞をもらうほど偉くはないので、わかりやすい路線でいくしかない。

以下、その時のブログ。大江健三郎・大江光 講演&コンサート。

宮城大学の大学祭のイベントで、作家の大江健三郎さんと息子の大江光さんが見えた。光(ひかり)さんは知的障害を持っているが、音楽の才能があり、13歳から作曲を始める。「大江光の音楽」などのCDがある。フルートとバイオリンとピアノの美しい調べは素直な感動を呼ぶものだった。父親の援助を受けながらの本人の挨拶ー自分の曲にパパが詩をつけてくれたーーも良かった。

ノーベル賞作家・大江健三郎さんの講演のタイトルは『「伸びる素質CapabiLity」のこと 』。朝4時起きで詩を1時間ほど読む。子どもの頃から言葉にこだわった勉強をしてきた。言葉の意味を辞書で引く習慣。本当に願えば達成される。人には自らが価値があると認める生活をする自由がある(Wellbeing)。Capability「伸びる素質」を開花させながらその自由を得ることが大切。成果をあげることも大切だが、素質を伸ばすことにも価値がある。ここに対する援助が必要。講堂は800人近くの人が入るのだが、さすがに満席だった。

2015年に大江健三郎沖縄ノート」(岩波新書)を読んだ。1970年に初版が出て、2013年9月現在で66刷りとなっているから、長い間にわたって読み続けられている古典的な本である。著書の大江健三郎は1935年生れだから、刊行時は35歳の若者である。すでに東大在学中に23歳で芥川賞を受賞している新進の作家であった。

1970年という年はいかなる年であったか。1969年には佐藤栄作総理と米国ニクソン大統領の会談で、米国が持っていた沖縄の施政権を日本への返還するとのが合意がされる。その1年半後の1972年5月に米国民政府の解散、沖縄復帰関係3法の成立、琉球政府閉庁、そして沖縄開発庁の発足などをが続き、沖縄は日本に返還される。この日本中が騒然となった時期の出版である。

沖縄ノート (岩波新書)

沖縄ノート (岩波新書)

 
私の学生時代だから当時の雰囲気はよく覚えている。思えば、私は大学探検部員として1969年には奄美群島、1970年にはまだパスポートが必要だった沖縄の八重山群島に出かけている。沖縄・琉球の歴史には深い思いを持っていなかたことを恥じるばかりだった。

大江健三郎の問題意識は、沖縄に差別を強いて来た歴史と現状を土台に「日本人とはなにか」と問い直すことであった。1965年から始まった沖縄への旅、その途中で出会った沖縄の知識人、民衆などとの接触の中で、感じた、考えたことの表白である。

・嘉手納空軍基地近くには核兵器貯蔵庫がある。
米原子力潜水艦に出入りによって那覇港には一次冷却水が放出され、コバルト60が蓄積された魚介類を食べることになる。
ベトナム戦争で米軍の使っているイベリット毒ガスで、数百名の小学生が皮膚炎を起こした。
・致死性神経ガスがもれる事故があった。

このような事態を隠し、沖縄に押しつけてきた日本とは何か。大江は、日本人は、多様性を生き生きと維持する点において有能ではない属性をそなえていないのではないかという疑いを持つ。
そして主権のない日本国民である沖縄の民衆にとって天皇とは何かという問いを発する。
全島がむき出しになっている沖縄が核基地としての抑止力に大きな役割を持っているとすると、報復攻撃によって殲滅させられるべき者として米国や日本が把握しているということになる。沖縄は捨石として存在しているのではないか。

慶良間列島における日本軍により強制された集団自決、青年期に絶望的な敗戦を味わったために精神病が本土の2.5倍に達するという現実、、、、。

日本には、いわゆる日本人と北のアイヌ民族と南の琉球民族との多民族国家であると考えるのが正しい。
しかし日本には、日本中心の「中華思想」が根付いているという。具体的知識の欠如と、想像力の欠如によって、日本人は傲然と開き直ってしまうのである。

日本は1952年にはサンフランシスコ平和条約に調印して沖縄を切り離した。革新勢力が佐藤首訪米時に、核付きの返還にあたり、「本土の沖縄化」に反対するという言葉を使ったことがある。これなども本土の思い上がりだということだろう。
「醜い日本人」という言葉が沖縄の知識人から発せられるのも歴史的にはうなづける。
知事をつとめた大田昌秀は「かつて醜く、現在醜く、未来にわたってなお醜くありつづけようとすり日本人の本質」を提示している。

60年代の反米闘争と沖縄復帰闘争は、実質的には憲法の空洞化をめざす権力の執拗な動きとその成功をもたらしていると大江は言う。

このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか、そして憲法22条の国籍離脱の自由を知りながら、なお日本人でありつづけるじぶんにはどのような手だてがあるだろうかと締めくくっている。大江の長い戦いがそれから今日まで半世紀近く続いている。

日本の歴史には日本人の成功や失敗、栄枯盛衰などが全てが存在している。昭和史に全てがあるという保阪正康の言葉を思い出した。この場合、「まとも」という言葉がキーワードになる。