京都:東寺「空海」考。西本願寺「親鸞」考。夕食は藤原先生夫妻との食事会。

北九州市から新幹線で隣となった画家の三反さんと語り合いながらの旅となった。

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京都駅で待ち合わせた妻と合流。

東寺。公開されていた五重塔を見学。

御影堂。司馬遼太郎が京都での待ち合わせに使った場所。

『国宝 東寺 空海と仏教曼荼羅』を購入。

以下、空海について。

空海「物の興廃は必ず人に由る。人の昇沈は定めて道に在り」

空海(くうかい宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日835年4月22日))は、平安時代初期の弘法大師(こうぼうだいし)の諡号921年醍醐天皇による)で知られる真言宗の開祖である。

高野山をひらいたのが空海43歳の816年。それから1200年余。空海は835年に62歳で入定。入定とは「外界や雑念などの一切の障害から解放された、心を静めた瞑想状態」を意味している。空海は亡くなったのではなく、今なお奥の院で永遠に瞑想している。

最澄はあらゆる教えを受け入れたが、体系化には成功しなかった。それがその後の仏教の新しい波を育てたともいえる。法然の浄土宗、親鸞浄土真宗栄西臨済宗道元曹洞宗日蓮日蓮宗などの新仏教比叡山で学んだ僧たちによって起こされた。

これに対し空海密教を独創で細部まで念入りに完成させた。それゆえ弟子たちは怠けてしまったという説がある。空海は「御請来目録」で、「密教は奥深く、文章で表すことは困難であるから、かわりに図画をかりて悟らないものに示す」といい、その手段として曼荼羅を位置づけている。密教は教えを造形で表し、五感で感じることを重視している。それが曼荼羅や、仏像などの美術品になっていく。曼荼羅とは輪円具足、すなわち満ち足りた世界ということ。悟りの内容を図絵であらわしたものだ。胎蔵界大日経により大慈大悲の世界をあらわしたもの。金剛界は混合頂経による智の世界をあらわしたものである。

「自然万物、鳥獣草木は仏の言葉。浄土は心の中にある」

「私たちの心の本質こそ仏の心である」

「心が暗ければ出会うものすべて災いとなり、心が太陽のように明るければ出会うものすべてが幸いになる」

「仏心は慈と悲なり。大慈は則ち楽を与え、大悲は則ち苦を抜く」

高野山は運慶の像や快慶の不動明王などがあり「山の正倉院」と呼ばれている。京都の東寺の立体曼荼羅21体のうち、8体の仏像曼荼羅が展示されている企画展を観たことがある。この仏たちの見事な造形を見ていると思わず拝みたくなるような表情をしている。金剛業菩薩坐像、梵天坐像、帝釈天騎象像、、、。薄暗い中に仏像が配置されあ身近にそれらを堪能できるこの空間では多くの人が感銘と安心を得ている。私もその一人となった。

司馬遼太郎の「空海の風景」、高村薫の「空海」を読んでも、空海は大きくて何か漠としている。空海の人間像はなかなか鮮明な像を結ばない。「物の興廃は必ず人に由る。人の昇沈は定めて道に在り」とは、人間としての正しい道を歩む人は浮かぶ。そういった人が集団を栄えさせる。そういうようにまずは理解しておこう。高野山を一度訪ずれなければならない。

2019年4月10日。上野の国立博物館特別展「国宝東寺ーー空海と仏像曼荼羅」をみた。以下その時の記録。

密教とは大日如来の説く法理。見つけることのできない秘密を求めるもの。経典に従ってして修法を行い効験を得る。

曼荼羅とは仏の世界観を図示。空から見た見取り図。曼荼羅の仏は整然と森の木のように並び赤や青など様々な彩色が輝いている。

如来は悟りをひらいた人。菩薩は悟りを求めて修行する人。明王は教えにしたがわない人も救う。天は信仰する人々を仏の敵から護る。

以下の説明が密教をよく説明している。

それまでの仏教:病人に薬の効能や分類を説く。経典の意味を説くばかり。

密教:薬を処方して病気を治す。経典に従って修法を行い効験を得る。

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2021年10月の東京国立博物館最澄天台宗のすべて」展をみた。

超人的オーラを放ち日本最初の私学ともいうべき技芸を学ぶ学校を創設した空海と、大きな度量を持ち人を育ててきた最澄。この同時代の二人が日本仏教を高見に導いた。

空海は812年に胎蔵界金剛界の両部の結縁灌頂を行っているが、そときの参加者名簿の筆頭は天台宗最澄だった。最澄との交流は長く続く。「風信雲書」という書き出しから始まる「風信帖」と名付けられた空海から最澄への手紙も見ることができた。
空海密教を独創で細部まで念入りに完成させた。それゆえ弟子たちは怠けてしまった。最澄はあらゆる教えを受け入れたが、体系化には成功しなかった。それがその後の仏教の新しい波を育てたともいえる。法然の浄土宗、親鸞浄土真宗栄西臨済宗道元曹洞宗日蓮日蓮宗などの新仏教は最澄比叡山で学んだ僧たちによって起こされた。空海最澄、それぞれの役割があった。

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西本願寺(龍谷山)。親鸞

以下、親鸞について。

親鸞「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」

親鸞(しんらん、承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日 )は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の浄土真宗の宗祖とされる。

教行信証」には、「苦しみを抜くことを「慈」といい、楽しみを与えることを「悲」という」「どんな徳もすべて具えているものを涅槃といい、どんな道にもすべて通じているものを菩薩と名づけ、どんな智もすべてを収めているものを仏陀と称するのである。」とある。

幕府が念仏禁止の挙に出たため、20年を過ごした常陸を捨て京都に帰る。このとき62歳。このあとさらに30年という寿命を生きる。75歳で「教行信証」を完成、76歳で「浄土和算」と「高僧和算」、85歳ごろに最後の「正像末浄土和算」を書いている。60代の初めはやっと人生の峠を越えたばかりであり、その後の30年近くは著書の執筆に膨大なエネルギーを注いでいることにも驚く。

宗教家の没年齢という資料がある。イエス31歳。フランシスコ・ザビエル46歳。一遍50歳。道元53歳。カリヴァン55歳。最澄55歳。日蓮60歳、空海61歳。マホメット62歳。ルター63歳。孔子73歳。法然78歳。仏陀80歳。親鸞90歳。親鸞は世界でも稀な長寿であった。

 親鸞の他力本願と日蓮の法華信仰とは正反対の教えである。浄土は死後にあるとしひたすら南無阿弥陀仏を唱えよという真宗。この世を浄土にしようと願い南無妙法蓮華経を唱えながら現世の改革にあたろうとする日蓮宗宮沢賢治とその父の相克はこの点にあった。

親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という悪人正機説の悪人とは、庶民、つまり小人と考えればよくわかるように思う。君子はもちろん浄土に行ける。そして小人も仏によって救われる。小人を救えない仏教などに意味はないという絶対平等の思想である。キリスト教に近い。浄土の真実の心を意味する浄土真宗は、国家鎮護の仏教から庶民を救う仏教への一大宗教革命であった。

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2011年5月10日い寺島実郎さんが京都東本願寺の「これからの仏教を考えるーー今を生きる親鸞」と題した講演会に参加した。 寺島実郎さんが3年前の高野山での「現代を生きる空海」に続き、親鸞についての講演をした。聴衆は全国各地の浄土真宗の指導的立場にある人たちである。長崎、富山、大津、、、、。

書物と自己の体験を結びつけて考えていくという方法で学ぶ寺島さんは、天才空海に対し、目線の低さを親鸞の偉大さと言う。この半年、親鸞を深めてきており、京都の古本屋からもかかなりの書物を集めて読んでいる。
インドの世親と中国の曇鸞の二人の浄土教の僧侶名前を合わせて親鸞をとしたことに、ユーラシアの風を感じる。
親鸞の絶対平等主義は、国家統治の手段としての仏教を、民衆の目線に戻した。内村鑑三和辻哲郎が述べているように、親鸞の思想はキリスト教に近い。紀元前500年に生きた釈迦がキリストに影響を与え、それが中国唐の景教となって、空海もその寺院を見ている。その影響下に日本の仏教もあったのではないかという仮説を持っている。宗教の相互啓発は比較宗教学の分野でも言われている。
親鸞は時代状況と向き合い戦っている。50年前の700回忌には鈴木大拙が講演をしている。そこでは、日本仏教は弱者と普通の人のための仏教だ、真宗は世界への偉大な独創的な貢献であると語っている。親鸞の絶対平等主義は現世の権力者には不都合な思想だった。
親鸞は90歳まで生きたことも大きい。経験が積み重なって思考を練磨していった。越後流罪と関東での20年前、そして妻となった恵信尼との出会いも大きい。
今日の時代状況。ユーラシアダイナミズムに向き合わざるを得ない日本。この5−6年で日本のなりわいが変わった。戦後65年は異常で特殊な時代だった。ユーラシアの息吹を取り入れながら、正気に戻ってバランスよく進んでいかねばならない。
震災かからの再生。親鸞の目線の重さ。和魂洋才、無魂洋才、そして洋魂洋才を迫られているといった五木寛之。大震災でパラダイム転換。和魂とは何かを考える時、親鸞の存在がそそり立っている。

修了後の質疑。原発問題。日本は原子力の平和利用の技術とそれを担う技術者を育てる必要がある。平和利用に徹していくべきだ。
他力。親鸞の他力と近代主義の自力との緊張関係の中で自分を律していくのが大事だ。

以上が要旨だが、宗教者たちに感銘を与えていることがよくわかった。宗教界も悩んでいるのだ。

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倉田百三親鸞」(角川文庫)。倉田百三(1891−1943年)は、大学時代に「愛と認識との出発」をむさぼり読んだ経験がある。懐かしい名前だ。その倉田が親鸞をどのように料理しているのかに興味があり読んでみた。

親鸞法然から妻帯を命ぜられる。女色のためではなく方便として犠牲になれ、肉食妻帯のまま修業するという大きな課題を与えられた。その結果、念仏仏停止の処罰を受け、法然は讃岐、親鸞は越後に流罪となる。親鸞は「南無阿弥陀仏」とのみ唱えれば往生できるとの真宗を開く。親鸞の最初の妻は流罪の途中で亡くなり、二度目の妻・恵信尼との間に一男一女を設ける。恵信尼の助けを借りて「教行信証」を完成させる。
流罪を許されて、20年の歳月、二つの土地で布教し成功する。そして60歳にして安逸な成功を捨てて、家族を残し布教行脚に入る。そして京都に入る。壮絶な90年の生涯だった。

以下、抜き書き。

  • あすありと思うこころのあだ桜 夜半わに嵐の吹かぬものかは(9歳)
  • 経釈を詳しく知っているということが何の役に立つといういうのだろう
  • 漁師は漁師、商人は商人のまま、念仏申せばよろしい
  • 自力と他力との優劣は所詮は機と時による。勝機の者には自力まさり、劣機の者には他力まさる。
  • みな念仏同行衆でおざるよ
  • それから20年の歳月は流れ、自分はもう60歳だ。今にして晩年の一奮起をしないなら、自分は結局名利の凡僧となり果てるであろう。
  • この親鸞はまだ60、このまま安逸にとどまる時ではおざらぬ
  • 信心に証拠はおざらぬぞ。
  • その苦しみも、恥じもそのままに、逃れぬものとあきらめて、そこに大悲のみ念仏の名を呼ぶを念仏往生と申す

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17時から、京都駅の「接方来」で藤原夫妻と食事会。3時間。

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「名言との対話」3月4日。半村良「地図でカミソリで裂け目を入れて出来た楕円の空間に架空の土地を作れば、それがすごくリアルになるんだ」

半村 良(はんむら りょう、1933年10月27日 - 2002年3月4日)は、日本小説家

銀座もの、新宿もの、などの現代風俗小説と、季節感に彩られた「浅草案内」などの下町もので知られる。職業は「嘘屋」と称した半村良は「伝奇SF小説」と呼ばれるジャンルを開拓した。

高校卒業後、紙問屋の店員、プラスチック成型工、バーテン、板前見習い、コック見習い、喫茶店やバーの経営者、クラブ支配人、連れ込みホテルの番頭、肉の仕入れ、ビリヤードの支配人など、水商売を中心に転身を繰りかえした。そしてラジオの構成作家、広告マン、、、、なども経験する。

30歳、日本SF作家クラブを発足し、事務局長。37歳、本格的な作家活動を開始。1975年42歳、SF作家としては初めて直木賞を受賞したが、授賞対象となったのは人情小説『雨やどり』であった。1988年55歳、『岬一郎の抵抗』で日本SF大賞を受賞。架空戦記の源流でもある『戦国自衛隊』は、1979年に映画化され、2005年にも『戦国自衛隊1549』としてリメイクされた。半村良が描いた分野は広大で無辺だった。

「実はSFってすごい土着的なものだった」という半村良は、小説の構成や形にこだわった作家だった。マンション38世帯の住人を描いた『湯呑茶碗』、芝居の評価を意識して描いた『講談 碑夜十郎』、同じ場所に視点をおき庶民の年代記をつづった『葛飾物語』、雨のひばかりのエピソードを重ねた『雨月物語』、、、、、。昭和40年代から平な成へと壮大なロマンを完結させた『妖星伝』は、思想性において唯一『大菩薩峠』に匹敵する索引という評価もある。

締め切りをまもった作家でもあった。注文があると先に原稿用紙にノンブルを打ってその枚数まで書いた。後に歴史に興味を持って楽しんだが、腹が立つ。「こんな面白いものを、よくもまああれほどつまらなく教えてくれたもんだ」。独学の人・半村良は、しかし独学だと友達ができない。だから大学に行くのがいいと語っている。その半村良邪馬台国については宇佐説をとっていた。新宗教がどんどん入ってくる国東半島が大きな聖地だったという単純で明快なな理由だった。弟は自伝的小説『塀の中の懲りない面々』など作家の安部譲二である。

99%は徹底した真実を描く。その残りで嘘をつくという手法だった。土地の植生、その日の天気、など十分な仕込みをして、地図の切れ目に、独自の秘境をつくりだすのである。だから、その嘘に読者はさわやかにだまされる。