リレー講座:寺島学長「17世紀オランダからの視界--世界認識の再構築」--オスマン、サファヴィー朝ペルシャ、鄭和の大航海、インド史の深層、東南アジア

 

「副学長日誌・志塾の風」170622

  • 矢沢コーポレーションの大島顧問と佐藤部長:高野課長同席
  • GOODLIFE TAMの石原さんと造田さん:メディアネトワーク。イマ・タマ。観光ポータルサイト。タマチイキ。タマNAVI。インスタグラム。FM、、、。

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  •  知研の八木会長、高橋さん:東北。九州。中国。北海道。
  • 学長への報告と相談:教員採用、ホテル講座、多摩大出版会、30周年、、、。
  • リレー講座:講師は寺島学長

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 テーマ「17世紀オランダからの視界--世界認識の再構築」

・シルバーでモクラシー:80歳のなかにし礼は国に裏切られた世代。戦後世代は国家権力に鈍感。

オスマン帝国の壁だったというマイナス面と文化面のプラス

サファヴィー朝ペルシャオスマンの後門の虎。シーア派イランは民族ではなく地理的概念。

・インドのムガール帝国ムガールとはモンゴル。イスラムとヒンディ。

・明の永楽帝時代の鄭和bの大航海はアフリカまで。

・アジアとはアッソスという地名から。西洋の対置概念。バタヴィアインドネシア)経由の情報。オランダ風説書によるゆがんだ世界観。

・BREXIT。メイの誤算。若者の62%が労働党へ投票(学費無料・福祉充実)。シルバーも保守党から離脱(介護の負担増)。氷の女。

チャーチルは1940年5月10日という最悪の時期に首相に就任。父の言葉「国民を信じよ。それがデモクラシーだ」。アメリカは1941年12月7日の真珠湾攻撃の3日後にドイツ戦に参戦。これでヒトラーを破り、イギリスは救われた。日本はヒトラーナチス・ドイツと組んだ。

・現在は国家主義・国権主義への回帰。軍隊と警察の教化。戦前への回帰。海外ではプーチンとトランプにすり寄る日本という評価。受け身の民主主義の崩壊か、戦後民主主義は根付いたのか。そこが問われている。

 

「名言との対話」6月22日。フンボルト「人間が幸せか不幸かは、人生に起きる出来事をその人がどう捉えるかであり、起きた出来事自体はそれほど関係はない」

カール・ヴィルヘルム・フォン・フンボルトFriedrich Wilhelm Christian Karl Ferdinand Freiherr von Humboldt1767年6月22日 - 1835年4月8日)は、ドイツ言語学者政治家貴族フンボルト大学(第二次大戦後にベルリン大学を改称)の創設者。

20代でシラーとゲーテと親しく交わり、ドイツ古典主義の代表者となる。プロシアローマ教皇庁公使、宗教教育長官、ベルリン大学創設、ウイーン会議のプロイセン大使、駐英大使、内相などの要職を歴任する。50代前半で公職から退き、比較言語研究に没頭した。

2歳年下の弟アレクサンダー・フォン・フンボルトは、大著『コスモス』を著した自然科学者・地理学者として著名である。現在、フンボルト大学の正面にはフンボルト兄弟の座像が建っている。兄弟増を設置することによって精神科学と自然科学との総合を表しているという。

同じ出来事でも後ろ向きにとらえるか、前に向きにとらえるかで、その意味は全く違ってくる。そのとらえ方は、やはり性格によるのではないか。出来事は中立だ。悲観的な人は常に悲観し、楽観的な人は常に楽観する。様々な公職を経験したフンボルトは、新しい仕事とその課題を面白がって解こうとしたように感じる。

 

 

 

 

 

 

 

狩野亨吉。栗盛吉右衛門。山田定治。

狩野父子顕彰碑。f:id:k-hisatune:20170621214048j:image

  • 狩野良知「文政12年出羽国秋田郡大館町に生まる。 明治2年一家を挙げて本藩久保田に移り藩家老職軍事取調掛となり藩政改革に与かる。廃藩後秋田県の教育政務に従事し7年上京内務省地方局事務取扱を務め戸籍親族民籍の諸条例を立案17年内務省少書記官となり退官後は秋田育英会のため奔走した。 若年時の経世論なる三策は吉田松陰の心を動かし松下村塾で刊行された儒教的三道政治の理念を当代に発揮した論策である。外に志那教学史綱は24年刊行4年後上海で翻刻された。21年宇内平和策英和両文を発表す。教育経世の実務と精神を体し志の世界に存するを知る。39年12月没す(77歳)
  • 狩野亨吉は良知の次男慶応元年大館に生まる。明治9年出京。大学予備門当時に聴いた米人モノスの進化論は彼が生涯の思想方向を定めた。東大理学部に数学文学部に哲学を修め四高五高教授に歴任し31才にして第一高等学校校長に抜擢される。無為寡言生徒を化ししかも所信明確賞罰厳正内外の信望を受く。39年京大教授に任じ文学部長となり論理学を講ずること二年。辞任後東宮御教育掛。東北大学総長の推せんありしも受けず。自ら古本屋と称して古書を漁り東北大に図書を収むる事前後四回。志筑忠雄の星気説、関孝和和算、安藤昌益の自然真営道等邦人独自の学説を発見す。晩年甘んじて後輩と共同の 会社の債務を負う。終生独身宇宙理法の必然を信じて疑わなかった。昭和17年末東都雑司谷の陋港に没す。(77歳)。地天老木村泰然君夙に狩野父子を景仰して顕彰の志あり大館市有志之に賛じてここに碑を立て永く郷党の真人物真学者を伝えんとする。
  • 安部能成文 上月吉次書

この碑を建立した木村泰治。号地天・明治3年4月大館生まれ。台湾の産業開発の功労者、台湾商工会議所会長。大戦後は福島県岳温泉を開発。昭和36年2月死去。90才。父木村謙斎は大館城代侍医で安政蝦夷地警備にも従軍。ロシアの僧官ニコライとの交友があった。私立大館病院設立に奔走したが過労もあり明治16年2月21日死去。69才。

夏目漱石の親友で、漱石の死に際し友人代表で弔辞を誰がするかとなったとき、「やはり狩野だろう」という声があり、みな賛成したという。狩野亨吉は大人であった。この人のことももっと知りたい。

 

栗盛教育団顕彰碑。 建立 平成三年三月 大館市

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正面刻銘「栗盛教育団顕彰碑  人をつくり 人につくす  渡部翠巌書」

文「財団法人栗盛教育団は、明治四三年(1910年)7月20日大館の富豪栗盛吉右衛門76才が私財を拠出して創設した育英事業団体である。以後養子鉄蔵孫倉松曾孫順吉とそれぞれを支える盟友たちによって引継がれ太平洋戦争後の昭和26年(1951年)12月15日に解散した。この41年間に恩恵を受けた大館北秋田の奨学生は百五十人以上を数え社会にの第一線で活躍した。栗盛家四代にわたる人づくりの軌跡は大館の誇りである。教育団事務所(後の市立栗盛記念図書館)のあったこの地に碑を建立し永く顕彰する。」

大館市立栗盛記念図書館では栗盛吉右衛門の事跡を説明している。寄付したのは金1万円と山林20余町歩である。

「余が身を飴売りより起こして能く、今日あるに至りしもの、実に母の賜物なり」

「才能があっても、資力が伴わない限り、その才能が発揮できなく成功は容易ではない」

 

秋田三鶏記念館(山田定治)。

国指定の天然記念物、声良鶏、比内鶏秋田県指定の天然記念物の金八鶏の三鶏を総称し秋田三鶏と呼ぶ。この三鶏の血統を守るために増殖を図り、県民が親しむためにつくられた記念館である。

この記念館できるには、山田定治(1898-1983年)という人物の一生があった。鶏の保存に一生をささげ、鶏博士と呼ばれた人だ。日本鶏の飼育を担当。戦中戦後の混乱期も保存、繁殖に尽力。県職員、大館鳳鳴館高校事務長。自宅内に山田記念館を設立した。それが現在の秋田三鶏記念館に結実した。こういう偉い人もいるのだ。

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「副学長日誌・志塾の風」170621

・人事委員会:教員採用

・学部運営委員会

・T-STudioで「名言との対話」を収録。今回は新著「偉人の命日366名言集」を題材にした。これで2本から4本くらいの分量か。

・小西先生

・趙先生

 

「名言との対話」6月21日。林子平「「親もなし妻なし子なし板木なし 金もなければ死にたくもなし」

林 子平(はやし しへい、元文3年6月21日1738年8月6日) - 寛政5年6月21日1793年7月28日))は、江戸時代後期の経世論家。

小笠原諸島の発見の史実を書いた『三国通覧図説』がフランス語訳されていて、これが証拠となって日本領になったという。次いで畢生の大著『海国兵談』16巻を苦難の末に出版したが、この海防の思想は危険であるとされ幕府にとらえられ、板木は焼かれ、身は仙台で禁固となった。六無歌と呼ばれる「親もなし妻なし子なし板木なし 金ももなければ死にたくもなし」と詠み、六無斎と号した。

高山彦九郎蒲生君平とともに「寛政の三奇人」と称せられた。似顔絵をみると、目が異様に大きく、変わった人だったろうなあと納得したことがある。奔放不羈、かつ憂国の至情あふれる人であった。

林子平は禁固となって1年後に没した。死後10余年、北辺にロシアの影があり、当時の世人は奔放不羈の人・林子平の先見の明をようやく知った。板木とは木版印刷に使う版木のことである。幕末の世に海防の必要を説いた『開国兵談』は出版してくれるところがなく、林子平自らの手彫りであった。その板木が焼かれたのであるから、その心境は察するにあまりある。

 

 

 

 

 

鳥潟隆三・右一・小三吉。竹村吉右衛門。

多数の偉人を輩出した大館の鳥潟家の人々。鳥潟家は慶長年間(1600年代初め)の頃から続く旧家。花岡村の肝煎を代々つとめた。

f:id:k-hisatune:20170621213338j:imagef:id:k-hisatune:20170621213626j:imagef:id:k-hisatune:20170621213647j:image

  • 鳥潟恒吉(1855-1914年)・鳥潟サイ(1862-1943年):恒吉は花岡生まれ。東大医学部二期卒業生。初代大分県立病院長を務め、大分県の医療の近代化、医師・看護婦の養成に貢献した。隆三・右一等甥たちを大分に呼び英才教育した。その後、サイ夫人が彼らを引率して上京し、東京の開成中学、旧制一高に通わせた。
  • 鳥潟隆三(1877-1952年)。日本の外科医学界の発展に貢献。京都帝国大学名誉教授、医学博士:函館生まれ。狩野亨吉の勧めで京都帝国大学京都医科大学に進学、恩賜の銀時計を授与され卒業した。血清細菌学を研究し、イムペジン学説を提唱。コクチゲン(鳥潟軟膏)創製の功績によりノーベル医学賞候補となったが惜しくも受賞は逃した。日本外科医学学会会長を2期務めた。
  • f:id:k-hisatune:20170621213352j:image
  • 鳥潟右一(1883-1923年)。砿石検波器・TKY無線電話機の発明者。工学博士:花岡生まれ。東京帝国大学工科大学を首席で卒業、恩賜の金時計。郷里の花岡や小坂、尾去沢鉱山等から砿石を採集し、26歳の時、砿石検波器を発明した。無線電信の通信距離をそれまでの数十キロから1000キロへ格段に延ばした。その後TKY式無線電話機を発明し、世界で初めて無線に音声を乗せることに成功した。f:id:k-hisatune:20170621213448j:image
  • 鳥潟小三吉(1842-1909年)。世界で活躍した国際的軽業師:花岡生まれ。1866年外国の曲馬団に誘われ、他の芸人とともに英国に渡った。その後「鳥潟小三吉一座」を結成、欧州各地を巡業した。ドイツ人の妻フハンネエも一座で活躍した。ドイツでは皇帝に招かれ宮廷で妙技を披露、喝采を博し記念メダルを賜った。晩年は花岡(現鳥潟会館駐車場)に豪華な洋館を建てて暮らした。f:id:k-hisatune:20170621213507j:image

竹村吉右衛門(竹村記念公園・松下村塾

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  • 竹村吉右衛門:1900年(明治33年)10月11日大館市新町に生まる。幼名を理一郎。略称「竹菊」の大地主初代菊松の三男定吉の長男。吉右衛門の名はのち先代を襲名したもの。大館中学、小樽高商、東京帝大を経て安田銀行へ。日本貯蓄銀行専務、戦後に安田生命保険社長。生保協会副会長、経団連常任理事など生保事業を推進、財界活動にも貢献した。仏教に深く帰依し、浅草本堂の再建に深くかかわり、請われて日光輪王寺の信徒総代、仏教学術協会常任理事などをつとめ、仏教伝道功労賞を受ける。「仏教タイミス」の常連寄稿家であった。藍綬褒章、勲三等旭日中綬章。没後、勲二等瑞宝章。85歳で死去。松下村塾(模築)は大館鳳鳴館高等学校振興会により1984年に竣工。振興会顧問であった竹村吉右衛門鳳鳴高校創立85周年にあたり所有の土地の寄贈を行い、同氏念願の松下村塾の大館への模築がなった。「青年時代最も強い刺激を受けたのは吉田松陰であった」「安部能成先生の文になる、狩野良知、亨吉両先生のこう徳碑を読んで、、、わが郷土は松陰とは縁の浅からぬことを心に留めておった」「玉川学園の創立者故小原国芳先生は、早くから自校の校庭に松下村塾の模築をして子弟の教育の資にしておった、、」「自分の郷里にも、何とか模築したいものと秘かに考えるようになた、、」と模築を依頼する手紙に書いている。

図書館に移築された松下村塾には、吉田松陰の言葉が飾ってあった。

「万巻の書を読むに非ざるよりはいずくんぞ千秋の人たるを得ん。一己の労を軽んずるに非ざるよりはいずくんぞ兆民の安きを致すを得ん」

 

 

「副学長日誌・志塾の風」170620

・研究室で秘書と打ち合わせ

・高野課長

 

「名言との対話」6月20日。丸木位里「人間、腹が立つこと、これじゃいけんと思うこと、いっぱいあるでしょう。日々、それと闘うことで、死ぬまで生きていける。腹が立たなくなったら人間おしまい。生ける屍です」

丸木 位里(まるき いり、1901年6月20日 - 1995年10月19日)は、日本画家。妻・丸木俊と共作の『原爆の図』が著名である。

長じて上京し、川端龍子に師事し、日本南画院、青龍社に参加。1939年から1946年まで美術文化協会展に出品。1941年、洋画家の赤松俊子(丸木俊)と結婚した。原爆投下で広島に移住していた実家の家族の安否を気遣い、俊とともに救援活動を行い、この体験をもとに、俊と協働で『原爆の図』を発表するとともに絵本『ピカドン』を刊行し、以後、原爆をテーマとする絵画を描き続けた。

水墨の名手丸木位里と力強いデッサン家丸木俊の「原爆の図」美術館で、15部の屏風図の連作を観た。墨一色の画面に、必要に応じて紅を使う。アウシュビッツ南京大虐殺水俣原発三里塚などの図も展示されている。惨劇の迫力に感じ入る。

夫婦そろって1995年のノーベル平和賞候補に擬せられている。1996年には朝日賞を受賞。

「怒り」こそが生きるエネルギーだ。腹を立てよう!

小畑勇二郎--「亨けし命をうべないて」

秋田県知事を6期、24年つとめた小畑勇二郎を描いた「小畑勇二郎」小伝では、「信念と実行の人」であった小畑の人柄を次のように述べている。

名知事。人事の小幡。果断の人。無類の読書家。一流志向。、、、。

また、小畑の職場での垂訓や心構えも次のように紹介されている。

・今やらずして何日やる、俺がやらずして誰がやる(垂訓)

・おのれの立つところを深く掘れ、そきに必ず泉あらん

・何人も嫌な仕事を、何人が見ても正当に正しくやってのける私を見よ。

・私は鬼になる(機構改革と人員整理)

・善政は善教に及かず(孟子。生涯教育)

どんな仕事でも全身全霊でぶち当たる精神で、村役場の税金係を振り出しに、県知事までの仕事をやり遂げている。

秋田県知事退任後の昭和54年の73歳では、地方自治功労で勲一等瑞宝章を授与されている。瑞宝章とは積年の功労による。旭日は勲績のある人に贈る。勲一等瑞宝章は、現在では瑞宝大綬賞と改められている。

小畑の場合も、母シカが偉かったようだ。シカという名前は野口英世の母と同じ名前だ。「たよりにならない父だけど」と歌になっている野口と同じように、父・勇吉は俗にいう「山師」で、数々の事業に失敗して早世している。

 

 息子の小畑伸一の小畑勇二郎伝「亨けし命をうべないて」(サンケイ新聞社)は、人間・小畑勇二郎の私的な実像を描いていて飽きさせない。伸一は新聞記者。

勇二郎が色紙によく書いた「亨吉べし命をうべないて」は、すべてを天から授かった命運と思い、喜んで受諾し、全うすることにつとめるという意味である。諾べなう、とは積極的に喜んで受けるという気持ちを表しているとの解説である。

息子の観察によれば、ここぞという時にには、必ず誰か重要な人が現れて助けている。努力の積み上げもあるが、何か、非常に天運に恵まれている。強い星の下に生まれている。

勇二郎は読書家で、必要な部分にはアンダーラインを引いてあった。

名文家であった。「続・亨けし命をうべないて 県政覚え書き」では、自ら筆をとった「忘れ得ぬ人々」というタイトルで「水交わ通信」に連載した文章が載っている。亡くなった方の追想であるが、それぞれとの出会いやふれあいが、心のこもった達意の文章で語られている。重宗雄三、吉田季吉、蓮池公咲、、、など30人の人生とふれあいがわかる。

筆者は最後に一口にいって「一所懸命に生きている人」だと述べている。

「人間の運命というものは判らんもんだ。ワシは、あの時、クビになったおかげで知事になったようなもんだ」と小学校の代用教員をクビになったときのことを勇二郎は述懐している。

小畑勇二郎は、宿命を使命にかえて、一所懸命に生き切った人であると思う。

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「名言との対話」6月19日。太宰治「きょう一日を、よろこび、努め、人には優しくして暮したい」

太宰 治(だざい おさむ、1909年明治42年)6月19日 - 1948年昭和23年)6月13日)は、日本小説家。主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『人間失格』がある。

太宰は38歳で亡くなるのだが、その短い生涯に140冊の小説を書いている多作な作家である。 この作家が長生きして書き続けていたら、とほうもない存在になっただろう。太宰は天才肌のように思えるが、意外なことに弟子の小野正文が船橋の自宅に訪ねたとき「作家にとって大切なのは勉強すること、つまり本を読むことだ」「横光利一が行詰っているのは不勉強のためだ」と言われたという。

年表を見ると、自殺願望が強いことに驚かされる。20歳、期末試験の前夜カルチモン自殺未遂。21歳、鎌倉小動埼海岸で薬物心中を図り、女は死亡。26才、都新聞の入社試験に失敗し首つり自殺未遂。28歳、妻初代の過去に悩み谷川温泉で心中未遂。4回の自殺未遂を経て、ようやく5回目に本望を遂げたのだ。何と生きにくい人だろう。

太宰の遺体が発見された6月19日は誕生日だった。この日は「桜桃忌」(おうとうき)と名付けられ太宰を偲ぶ会が今も墓のある三鷹禅林寺で催されている。この名前は名作「桜桃忌」からとったものである。桜桃とはサクランボのこと。

亀井勝一郎が「全作品の中から何か一篇だけ選べと云われるなら、この作品を挙げたい」と言っている「津軽」という佳品を読んだ。太宰は、弱さや自分の感情をユーモアを交えてさらけ出しながら書いていく。谷崎潤一郎三島由紀夫川端康成などの文豪の文庫はどんどん減っていく傾向にあるそうだが、太宰の文庫本はむしろ増えつつあるとも聞く。若い人のファンが多いらしい。

生きにくい太宰の作品に書かれている、人間の弱さ、悩みは、執筆当時よりもさらに生きにくい世の中になっている今の時代に若い読者の共感を呼ぶだろう。「生きるという事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまっていて、すこしでも動くと、血が噴き出す」という太宰は優しい人だった。

 

 

大館の歴史人物探訪---歴史と人物の街を堪能

佐々木こうじさん(市会議員)の案内で大館を堪能した。

一日まわっただけだが、この大館は、歴史と人物の街だ。単独の歴史資源をきちんと説明し、時代順に巡る歴史・人物ツーリズムはいいと思う。友人から何もないと聞いていたが、なかなかどうして、歴史観光資源の宝庫だ。

 

大館神明社には、以下の神社や碑が存在。工の街。

金神神社:鍛冶屋職人の守護神。

松尾神社:酒造業の酒造りの神。

小林定修翁功徳碑:狩野亨吉書。

指物師の門人が建てた碑。

田中磯松翁こう徳碑:政治家

 

竹村(吉右衛門)記念公園。大館松下村塾跡地。 

竹村吉右衛門(1900−1984年)。小樽高商、東京商大を卒業し、安田銀行安田生命社長。故郷の大館に萩市松下村塾を模した原寸大の建物を寄付。松陰神社など全国に7つある松下村塾の一つ。

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田代の小幡勇二郎記念館。

小畑勇二郎。秋田県知事を6期、24年。

「亨けし命をうべないて」「人皆に美しき種子あり」「人よりもほんの少し多くの苦労 人よりもほんの少し多くの努力」「笑顔にまさる化粧なし」「昨日は夢 今日は可能性 明日は現実」「人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲くなり」「君にほれ 仕事にほれて 土地にほれ」「私は鬼になる」、、、、。

在任24年「うぶすなの あめつち仰ぎ ひたぶるに 生きし日々 ありがときかな」

議会での最後の挨拶「もろともに 尽くし尽くして まもとなん 秋田のあがたの つづくかぎりは」

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真田幸村の墓。f:id:k-hisatune:20170618191624j:image

 

栗盛記念図書館。

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栗盛吉右衛門

「余が身を飴売りより起こして能く、今日あるに至りしもの、実に母の賜物である」

明治43年に、金1万円、山林20余町歩を基金とした「栗盛教育財団」を設立。46年間で150名に奨学金

「才能があっても、資力が伴わない限り、その才能が発揮できなく成功は容易ではない」

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狩野父子顕彰碑:

狩野良知:吉田松陰に「経世論三策」で影響を与えた。家老。内務権少書、、。

狩野亨吉:大館生まれ。一高校長。兄弟文学部長。

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移築された大舘松下村塾

吉田松陰「万巻の書を読む非ざるよりは、いずくんぞ千秋の人たるを得ん。一己の労を軽んずるに非ざるよりはいずくんぞ兆民の安きを致すを得ん」

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真崎勇助(1841生):18歳、古文書の収集と筆写を発願。それが生涯の仕事となる。菅江真澄著作46点、古文書2100点、考古学sh量6500点を収集。県史編纂に三角。秋田史談会。安藤和風「勇助には数百種の著作がある」

安藤昌益(?ー1614年)の資料コーナー。安藤昌益は狩野亨吉が発掘。

村木清一郎の村木文庫:旧大館中学、早稲田大英文科卒、時事通信記者、旧大館中教諭。会津八一が題字を書いた「訳万葉」を書く。30余年間かかった。

菅江真澄資料コーナー:秋田版から頼まれて領内の地誌を著す。多くの図絵を含まれているのが特徴。「日記」は旅先の経験を見せたり聞かせるためのもの。図絵修には鉱山の景色や石臼などの物品があがかれている。

 

横山児童公園。

横山助成先生記念碑。大館生まれ。帝国大学失業。内務省局長、6府県の知事・警視総監。貴族院議員。東北興業総裁。家族が基金を寄付し公園となった。石田博英が会の代表。

采女の碑;:髪結いの組合が昭和53年に60周年うぃ記念して建立。鎌倉時代文永年間に采女亮政之が下関で髪結の業を起こす。

 

桜櫓館。欅づくり。昭和初期の建物。

桜場文蔵邸。町長。桜の名所と三階の展望台の櫓から命名。安土城天守閣を模した。

労働大臣をつとめた大館出身の石田博英が、この近くの狩野家を私邸としていたところが、石田ロズカーデンとなっている。

 

町田忠治功徳碑:狩野亨吉せん書

村木清一郎碑:歌。「訳万葉」。

上原敏碑。歌手。「妻恋道中」。ニューギニアで戦死。

 

秋田犬の保存会で秋田犬を見る。「秋田犬はやさしい」

 

県立のわんパーク。

古書店を見学。切り絵展。毎月テーマを変えて古書を販売。6月は「戦争と歴史」。

 

三鶏記念館

山田定治(明治31年--昭和58年)。保存に一生をささげ、鶏博士と呼ばれた。昭和7年頃から日本の鶏の飼育を担当。戦中戦後の混乱期も保存、繁殖に尽力。県職員、大館鳳鳴高校事務長。3種類も鶏は昭和12年から34年にそれぞれ天然記念物に指定された。山田の自宅内に山田記念館を設立、それが秋田三鶏記念館になった。

小林多喜二文学碑。プロレタリア文学史上最高の作家。1903年生まれ。小樽高商、拓銀。「蟹工船」「不在地主」。1933年に治安維持法で逮捕、獄死。30歳。

 

 

鳥潟会館。1600年から続く旧家。花岡村の肝煎。

京風の近代和風建築。回遊式日本庭園(8191ヘーベ)。

18世紀半ばに建築。1936年から5年かけて増改築と庭園の拡張。1000人を超える京都の大工、左官、造園師。花岡町に寄贈された。

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鳥潟隆三(1877-1952年)医学博士。京都大学名誉教授。中学は大分中学。一高、京大。ベルン大学リュ学。日本外科学会会長。コクチゲンを発明。平圧開胸術を提唱。恩師の銀時計。享年75。

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鳥潟右一(1883-1923年)。工学博士。大分中学。東京開成中学、一高、東大電気工学学科を首席で卒業。恩師の金時計。逓信省技手。英米留学。29歳、TKY式無線電話機を発明、世界で初めて無線に音声を載せた。大正4年、東京上海間の無線通信に成功し世界的に有名になった。33歳、工学博士。38歳、電気試験所長。41、没。

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鳥潟小三吉(1842-1909年)。国際的軽業師。軽業修行、「小三吉一座」を率いて欧州で巡業。明治9年帰国し名声。1882年再び渡欧し国際的軽業師に。ドイツ皇帝に披露し勲章(メダル)をもらう。明治21年帰国し花岡に住む。享年63。妻のフンネエは明治29年に39歳で没。世界的曲芸師。f:id:k-hisatune:20170618192632j:image

 

信正寺。

鳥潟隆三の墓

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花岡平和祈念館: 花岡事件。中国人の強制労働。蜂起した中国人13名を殺人罪で処罰した事件はこの町。今でも遺族と慰霊祭を営む。f:id:k-hisatune:20170618192727j:image

 

大館駅忠犬ハチ公像。ハチ公の故郷。秋田犬の本場。上野英三郎博士。

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大館松下村塾にて講義と演習。

大館松下村塾にて講義。

 大館商工会議所jの中田会頭。以下、参加者。

大館ヤクルト販売。大館桂工業。東光鉄香魚。大館工芸。大館市消防署。伊徳。戸田鉄工。大館製作所。石垣鉄工。大館市役所商工課。大館市役所企画調整課。大平工業。大館商工会議所。

 

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最後は高橋先生のまとめ。

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塾生の感想から。

「視野が広がた」「新しい世界を見つけた」「考える力がない」「学生時代に学びたかった」「マスターしたい」「頭の使い方が変わる」「使っていなかった脳を使い疲れた」「進化」「、、、、。

 

終了後は宴会。

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 二次会はカラオケバー。

 

「名言との対話」6月17日。臼井吉見「教育の中軸は自己教育だと思いますが、その自己教育の中核は、自分と異質な人間との対話です」

 臼井 吉見(うすい よしみ、1905年6月17日1987年7月12日)は、日本の編集者評論家小説家日本藝術院会員。

59歳から大作「安曇野」を書き始め、途中病気の5年間もあり、この邂逅の物語を69歳で完結させる。原稿は5600枚だ。その後、天皇制を論じた「獅子座」というライフワークに取り組むが未完に終わっている。

明治維新臼井吉見に寄れば、王政復古ではなく、岩倉具視のクーデターだった。臼井は天皇に対しては戦争責任を問わないわけにはいかないとという意見だが、同時に天皇に限りないシンパシーも持っていた。一人の人間から基本的人権を奪っているという考えだった。

臼井は大学卒業後、後に原発事故で知られた福島県のp双葉中学の国語教師になっている。臼井の講演録「自分をつくる」には、教育者としての名言が並んでいる。

「体を動かし、頭で考え、心に感ずる」

「精神の成長の時期に作られる友達が生涯の友達です。たがいに精神の成長の秘密を知っている同志が友人です。」

「肝心の発電は、他人任せにして、電線だけ引っ張って、自分の精神の火をともそうとしたって、だめなんです。か細くても、消えそうでも、精神の世界では、自家発電でなくては、ごまかすわけには行かない。」

臼井吉見という名前とやや太り気味の姿は子供の頃のNHKの番組で覚えている。偉い人のようだったが、クイズでよく間違えるので愛嬌があった。

同質の仲間との交流は心が休まるが、それでは成長は望めない。常に新しい空間に身を置き、自分とは異質の人たちとの遭遇を求めて行動しよう。自分は自分自身を鍛える最高の教育者なのだから。

 

 

 

 

 

「東京都議会議員選挙」

 

 「副学長日誌.志塾の風」170616

橘川先生と懇談。

 今日の授業のテーマは「東京都議会選」。新聞各紙の都議会選挙に関する社説などを材料に図解に挑戦。来週以降は各政党の公約を図解する。投票率が高まるだろう。

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 マグネットの岩澤さんと打ち合わせ打ち合わせ。ホームページのリンク切れの修復。名言の朗読、、

キャリアの企業の女性と名刺交換。田原さん、飯泉さん。

聖蹟桜ヶ丘からバスで羽田空港第2ターミナルへ。

秋田県大館能代空港に到着。

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 バスで大館市へ。

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 秋田魁新報金田勝年法務大臣小林多喜二。、、

ホテルで明日の大館松下村塾での講演会の打ち合わせ。

市議会議員の佐々木こうじさん。

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 高橋さん。

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竹村吉右衛門:安田生命社長。大館松下村塾

栗盛吉右衛門:豪商。奨学金

小林多喜二

安藤昌益。

狩野亨吉。

鳥潟隆三。鳥潟右一。鳥潟小三吉。

 

「名言との対話」。6月16日。松本良順「病人を救うのは医師としての義務である」

松本良順(天保3年6月16日(1832年7月13日ー明治40年(1907年)3月12日)は、江戸末期から明治期の医師。大日本帝国陸軍軍医総監(初代)。 

1843年に佐藤泰然が創設した佐倉順天堂は歴代に渡り人物が不思議なほど継続して出ている。実子を後継者とすることにこだわらず、医者として有能な人物を選び養子とする考え方が代々受け継がれている。

松本良順は佐藤泰然の次男で、幕府医官松本家の養子となる。長崎でポンペの片腕として活躍する。健康のために牛乳と海水浴を進めた。

吉村昭「あかつきの旅人」、司馬遼太郎胡蝶の夢」で主人公になっている。

冒頭の言葉は、若き日に指導を受けた師匠・ポンペの言葉である。今では当たり前のように聞こえるが、幕末の時代にあっては、人の身分は問わず、病人を救うのは医者としての役目だという思想は新しかった。そのポンペの思想を生涯守り、発展させ日本医学界の基礎を松本良順は固めた。