午前:多摩(研究室)。午後:新宿(編集者)。夜:代々木(知研セミナー)。

午前は多摩。大学。

午後は新宿:編集者の寺口さんと懇談・相談。何が出てくるか、、、。

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夜は代々木:NPO知研の例会セミナー。人生100年時代とSNSを交互にテーマにしているが、2月は人生100年時代の小野恒さんにお願いした。

1月に出た著書『前立腺がん患者が放射線治療法を選択した理由』の内容と本の共同執筆までを語っていただいた。的確で具体的で、聴かせるセミナーだった。 14人。

前立腺ガンの男性の患者数は、胃がんに次いで2位。放射線治療は3割弱。医者が少ない。群馬大と京都大。生存率が高い。PSA検査。

・170頁。1280円。表紙に執筆者氏名が好評。日本地域社会研究所。日経広告。アマゾン医療放射線部門7位。図書館協会から予約200部。

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はじまる前に幹事会:『新・深・真 知的生産の技術』の発刊。担当幹事の役割確認。5月:力丸。6月:蔡。

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書きかけ

 

「名言との対話」。2月22日。笑福亭松之助掃除はどうしたら楽しいか考えろ」

2代目 笑福亭 松之助(しょうふくてい まつのすけ、1925年8月6日[3][4][5] - 2019年2月22日 )は、日本の落語家放送タレント俳優

 

 ・我々の弟子稼業というのは、掃除をさせられるじゃないですか。で、掃除をしていると師匠が、『それ、楽しいか』って言うんです。『いいえ』って答えると『そやろ』って。『そういうのが楽しいわけがない』と、おっしゃるんですね。そのときに、師匠に、『掃除はどうしたら楽しいか考えろ』 って言われたんですけど、そこでしたねぇ。あの、掃除なんて、楽しくなるわけがないんですよ。 ところが、『楽しくなることを考えてることは楽しい』。っていうところにね、18歳のときに気づかせていただいたのが非常に助かりましたね。たぶん、ふつうの人は、「掃除は楽しくない」 というところでやめてしまう人が多いんじゃないかと思うんですけど、楽しくないものをどうすれば楽しいか、ということを考えていくと楽しいんです。 (高校3年18歳のときに笑福亭松之助に弟子入りした)

 

ある時、松之介に「師匠、人を笑わせて何になるんですか」と尋ねたことがある。松之介がただ笑っているだけだったので、「なんで笑ってはるんですか」と聞くと「わしも若いころ、同じことをわしの師匠に訊いたことがあるからや」と答えたという。その時は、質問への答えの内容については「忘れた」とはぐらかしていたが、後日「悲しいことがあったり元気がなくなったりしている人が、落語とか聴いて、ちょっとでも気持ちが楽になったら、それでええ」という答えだったらしい。

 

 

 

午前:多摩。午後:湘南。夜:湯島。

中津の同級生の東京組と、湯島の友松君の店・ビストログラッソで食事会。思いがけず、泉君が現れる。1月に関西から引っ越してきたそうだ。今富女史からは、保育園に通っていた当時の写真をみせられた。このレストランで働く人はベトナム人などインターナショナルだった。ここでも人手不足は進行中。

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 午前:大学にて仕事。

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午後:湘南のグローバルスタディーズ学部の学部運営委員会に出席。杉本君と久しぶり。

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「名言との対話」。2月21日。樋口清之「不合理の合理」

樋口 清之(ひぐち きよゆき、1909年1月1日 - 1997年2月21日)は日本の考古学者歴史作家

 國學院大學で学び、長く教授生活をおくる。考古学者としては静岡県登呂遺跡の発掘などを行い日本考古学の黎明期を支えた。また民俗学文化人類学など幅広い研究活動を行う学界の権威であった。考古学者としては静岡県登呂遺跡の発掘などを行い日本考古学の黎明期を支えた。

代表作『梅干と日本刀』から、「うめぼし博士」「梅干先生」とも称される。この名著は梅干しと言う発酵食品、工芸品の極致である日本刀を日本文化の粋としてタイトルにしている。

 1974年に出版され、シリーズ累計で130万部のミリオンセラーとなったヒット作となった『梅干と日本刀』 の2014年の新書版版を久しぶりに手に取って読んだ。「日本人とは何か」から始まる「まえがき」には自虐の習慣から脱却し、ほんとうの自分の姿を見ていこうという出版の趣旨が書いてある。「すごい科学」「おどろくべき自然順応」「独創性に富む」「住みよい人間関係」という各章で、日本の優れた点を挙げており、当時の日本人が争って読み、留飲を下げたものだ。日の丸弁当は超合理的、西洋4味・中国5味(苦味)・日本6味(うま味)、古代人の便所は水洗式、鍼灸術は中国に逆輸出、袂が考案された理由、日常語は世界一の14万語、敬語と卑語、芸道は精神、位牌、、、。樋口清之は庶民生活の視点から、歴史の大局を描き出す料理の仕方が得意技だった。生涯で300冊をこえる著書を刊行し、テレビ出演、講演活動も積極的にこなし、「樋口学」とも称される独自の日本文化論を語った。

最後の「解説」を書いているのは作家の井沢元彦だ。井沢は「時代で常識とされていたことは記録されなかった」とし1992年から書き続けている『逆説の日本史』で、「言霊怨霊穢れ」への無意識の信仰が日本の特徴だとする論客である。井沢によればこの書は「日本人に勇気と誇りを与えた名著」である。樋口の著書は司馬遼太郎歴史観に代表される史観と同様に民族の美点を知り、勇気と自信を与えてくれた書である。20年ほど若い渡部昇一谷沢永一とも肝胆相照らしていた。

茶道、華道、香道などの芸道、そして空手道、柔道もなども同じであるが、技術の学びを通してその裏に存在する精神を日本人は学んでいる。「道」はいわば精神科学なのである。何ごとも「道」にしてしまう日本人は、死ぬまで長い時間をかけてその道を歩みながら、過程を楽しみ、精神の高みにいたるのである。私たちは仏道、サラリーマン道、仕事道、などあらゆる分野に「道」をつくってきた。そのことを樋口清之は不合理の合理と呼んだのだ。連続5000日を超えてきた私のこのブログも、「ブログ道」を意識する段階になってきたようだ。 

 

 

東京国立近代美術館「イメージコレクター 杉浦非水」展。

東京国立近代美術館「イメージコレクター 杉浦非水」展。

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杉浦非水(1876-1965)は、日本のグラフィックデザインの創成期の図案家である。

日本画家を志したが、黒田清輝邸に寄寓していたおり、ヨーロッパから持ち帰った書籍や資料をみて、図案家に転向。三越呉服店の嘱託図案家。ポスター研究団体「七人社」代表。帝国美術学校教授。1935年には多摩帝国美術学校の初代校長・図案科主任教授。75歳、多摩美術短期大学初代理事長。89歳、没。

工芸品、玩具、美術雑誌、ポストカードなどの収集家。本の装丁:佐藤紅緑「幸福物語」。「現代日本文学全集11正岡子規。「私学振興」「東京市電話番号簿「経済情勢」「科学知識」などの雑誌。「ヤマサ醤油」「上野アサクサ開通」「産業組合中央大会」「実業界」「佐渡汽船」「岐阜市名古屋鉄道局」のポスター。

『実用図案資料大成』は、『動物図案資料集成』上中下巻。『植物資料図案集』上下巻。『人物資料図案集』上中下巻。以上全8巻からなる図案資料集がある。7600点以上のモチーフを50音順に細かい索引がある百科事典。図案の出展、地域、時代をすべて明記。

・一歩一歩私の途を喘ぎつつ、私の足跡の此記録を、私は背後に振り捨てて行く気持ちで私は尚一層の努力で私の前途に邁進する所の希望を自ら持って居る。

・他人の行く途は其人の途であって、私の途ではない。私の辿って来た途はどこまでも他人の途ではなくて、私の行く途である。

・図案の目的は「社会とか生活といふものを、よりよく建設するためんい、企画設計することであり、美意識に依るよりよき社会認識であり、美的構想に立脚した衣食住に対する美的表現でもある」

・視る目を養うことは、また図案美の眼でもあり、それを採集し構築する眼にもなるおだといはなければならないのであります

・美欲の発言として、我々はどんなものを持って居るかと申しますと、我々は絵画、彫刻、音楽とか或は文学演劇のような、純粋芸術の外に、又我々は装飾美術とか、工芸美術とか、或は商業美術のやうな目的芸術を合せ持って居るわけであります。

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研究開発機構評議員会(機構長)を九段サテライトで開催。

総合研究所。情報社会研究所。医療・介護スリューション研究所。ルール形成研究所。社会的投資研究所。以上の代表者が参集する会議。

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「名言との対話」2月20日飯野賢治「会社はバンドだ」

飯野 賢治(いいの けんじ、1970年5月5日 - 2013年2月20日)は、日本ゲームクリエイター実業家

1988年にゲーム制作会社「有限会社インターリンク」に入社。翌年にゲームの下請け会社「EIM」を設立し、並行してゲーム専門学校の講師も務める。

1994年に「株式会社ワープ」を設立。1995年に自身が脚本を務めた3DO専用ゲームソフト「Dの食卓」が全世界累計売上100万本超えを記録する大ヒットとなり、「マルチメディアグランプリ'95 通産大臣賞」を受賞。

1997年には画面表示が一切無い、音だけでプレイするゲーム『リアルサウンド風のリグレット~』を発表し注目を集める。ゲームデザイナーの代表として積極的にマスコミにも露出し、ラジオ番組のレギュラーを持つなど当時を代表するゲームデザイナーとして広く知られるようになる

2000年にスーパーワープ社(後のフロムイエロートゥオレンジ)を設立し、代表取締役社長に就任。

2003年には、文芸誌「ファウスト」(講談社)創刊号にて小説家デビューも果たしている。

2008年にmoon』のクリエイターでもある有限会社Route24代表の西健一と共同開発したiPhone/iPod touch用アプリ『newtonica』をリリース。発売直後に日本のApp Storeランキング1位となり、世界各国でもチャートインする。続編として、2008年12月に『newtonica2』、2009年1月に『newtonica2 resort』をリリース。さらに2009年3月26日、フロムイエロートゥオレンジ開発のWiiウェアきみとぼくと立体。』を任天堂ブランドタイトルとして発表。飯野は企画・ディレクションを担当した。

42歳で亡くなる3日前までボストンに滞在し、twitterを更新していた。そのtwitterの共同創業者BIz Stoneとの対談映像をみた。「東京は音楽にあふれている。例えば着メロ。まるでゲームの中にいるみたいだ」とBizが語っている。

情熱大陸』に登場した飯野。黒ずくめの巨漢だ。「ゲームつくりの才能があるとは思わない。作り方、しくみなどを含めたクリエータとしては才能がある。見本をみたら怠けてしまう」「自分のつくるゲームには、シナリオ、テーマ、哲学がある」「会話中心の展開。言い回しのうまさを求めて本を読む。一週間で50冊読むこともある」「Quest=自己の探求」「ゲームは生き様を反映する」。

小学校2年の時に母が家をでる。飯野のゲームには母は登場しない。「母の愛は、、、わからない」。「母の愛の欠如、そしてそれをめざす。そういうことも重要だ。トラウマ、コンプレックスが創造につながることもある」と語っている。

「会社はバンドだ」とは、気の合う仲間と、イカシたことをやる。そのバンドのわがままなリーダーが自分だ。そういう気分で会社をまわすのが飯野の流儀だ。重苦しい、堅苦しい会社のイメージは過去のものだ。バンドだと思って、あるいはクラブ活動だと考えて、楽しみながら創造の世界に入り浸ることがいいのかもしれない。私はゲームをやらないが、この世界は書籍ではない、もう一つの宇宙だ。ゲームの宇宙に入っていこうか。

 

 

ポッドキャスト『ビジネスに活かす 偉人の名言』の収録。安藤百福、勝海舟、本多静六、小林一三。

ポッドキャスト『ビジネスに活かす 偉人の名言』の収録。こえラボの岡田社長と2時間強。

勝海舟「内でけんかをしているからわからないのだ。一つ、外から見てご覧ネ。直にわかってしまふよ」

本多静六「人生の最大の幸福はその職業の道楽化にある。職業を道楽化する方法はひとつ努力(勉強)にある」

小林一三「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰も君を下足番にしてはおかぬ」

安藤百福「時計の針は時間を刻んでいるのではない。自分の命を刻んでいるのだ」

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夜、偶然目にしたBSの向田邦子の『華燭』を最後まで見てしまった。やはりうまい。

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「名言との対話」2月19日。 岡本喜八「自分を取りまくあらゆる状況を、コトゴトく喜劇的に見るクセをつけちまおう」

岡本 喜八(おかもと きはち、1924年2月17日 - 2005年2月19日)は日本映画監督。

 東宝の助監督となるが、召集され豊橋市にあった第一陸軍予備士官学校終戦を迎えた。このとき、多くの戦友が空襲で死に、戦争への怒りを抱く。

戦後、東宝に復帰。1958年以来、日中戦争北支戦線で部隊の不正を暴く兵隊が活躍する自作脚本の『独立愚連隊』、『独立愚連隊西へ』(1960年)、『江分利満氏の優雅な生活』(1963年)、『ああ爆弾』(1964年)、『』(1965年)、戦中派の心情を作品にこめた『日本のいちばん長い日』(1967年)、『肉弾』(1968年)など、幅広い分野の作品を監督する。

 東宝退社後の1970年代後半からは、『ダイナマイトどんどん』(1978年)、『近頃なぜかチャールストン』(1981年)、『ジャズ大名』(1986年)などを監督。『大誘拐 RAINBOW KIDS』(1991年)では日本アカデミー賞最優秀監督賞、最優秀脚本賞を受賞し、持ち味の一つである娯楽色をさらに前面に押し出した作品が多くなっていく。

岡本喜八監督は、卓抜なアイデア、短いカットの積み重ね、軽快なテンポ、特異なアングルなど、技巧派やテクニシャンや職人監督と呼ばれた。助監督以上にこまめに立ち働く演出ぶりであった。

半藤一利原作の『日本のいちばん長い日』は、昭和天皇鈴木貫太郎内閣の閣僚たちが御前会議においてポツダム宣言を受け入れ日本の降伏を決定した1945年昭和20年)8月14日正午から宮城事件、そして国民に対してラジオ日本放送協会)の玉音放送を通じてポツダム宣言の受諾を知らせる8月15日正午までの24時間を描いている。岡本喜八の1967年版と原田真人監督の2015年版があり、私は戦後70年を記念した2015年版をみた。昭和天皇本木雅弘鈴木貫太郎首相は山崎勉、阿南陸相役所広司が演じたこの作品は、強い意思、狡猾さ、自己犠牲を持つこの3人のチームプレーで終戦となったストーリーとして描いており、話題になった。昭和天皇44歳、鈴木貫太郎首相77歳、阿南陸軍大臣58歳だった。何事も始めるのは簡単だが、終わり方は実に難しいものだが、特に戦争の場合は特にそうだと痛感した。1967年版では、切腹する直前に阿南陸相に「生き残った人々が、二度とこのような惨めな日をむかえないような日本に、、、なんとしてもそのような日本に再建してもらいたい」と語らせている。

全作品は41本であり、戦争批判・明治維新批判が生涯を貫くテーマであった。 空襲を受ける若い日々に「刻々と近づく死への恐怖をマジメに考えると、日一日とやりきれなくなって行く。それが高じて、もし発狂でもしたらみっともない」と思う、そんなある日、「自分を取りまくあらゆる状況を、コトゴトく喜劇的に見るクセをつけちまおう」と考え精神的ピンチを乗り切っている。岡本喜八の特徴であるユーモアとウイットに富んだストーリーは、悲劇を喜劇に反転しようとする態度から生まれた知恵でもあったのだ。時代がもたらす強烈な体験は、ずっと生き続ける。

 

 

 

 

 

 

 

御即位30年・御成婚60年記念特別展「御製・御歌でたどる両陛下の30年」展(皇居三の丸尚蔵館)。

 御即位30年・御成婚60年記念特別展「御製・御歌でたどる両陛下の30年」展(皇居三の丸尚蔵館)を見学。

天皇陛下「私は即位以来、日本国憲法の下で象徴として位置づけられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い、今日まで過ごしてきました。譲位の日を迎えるまで、引き続きその在り方を求めながら、日々の務めを行っていきたいと思います」「平成が戦争のない時代として終ろうとしtれいることに、心から安堵しています」「自らも国民の一人であった皇后が、私の人生に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労いたく思います」。

皇后陛下「与えらえた義務を果たしつつ、その都度新た気付かされたことを心にとどめていくーそうした日々を重ねて、60年という歳月が流れたように思います」「これからは1冊ずつ時間をかけ読めるもではないかと楽しみにしてります。読みだすとつい夢中になるため、これまで出来るだけ遠ざけていた探偵小説も、もう安心して手許に置けます。ジーヴィスも2、3冊待機しています」

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以下、歌会始天皇陛下の歌。

 

父君を見舞いて出づる晴れし日の宮居の道にもみじばは照る

いにしへの人も守り来し日の本の森の栄えを共に願はむ

白樺の堅きつぼみのそよ風に揺るるを見つつ新年思うふ

外国の旅より帰る日の本の空赤くしって富士の峯立つ

波立たぬ世を願ひつつ新しき年の始めを迎へ祝はむ

人々の過しし様を思ひつつ歌の調べの流るるを聞く

山荒れし戦の後の年年に苗木植ゑこし人のしのばる

大学の来しかた示す展示見つつ国開けこし道を思ひぬ

公害に耐へ来しもみの青葉茂りさやけき空にいよよのびゆく

大いなる世界の動き始まりぬ父君のあと継し時しも

父母の愛でましし花思ひつつ我妹と那須の草原を行く

園児らとたいさんぼくを植ゑにけり地震ゆりし島の春ふかみつつ

我が国の旅重ねきて思ふかな年経る毎に町はととのふ

 戦なき世を歩みきて思ひ出づかの難き日を生きし人々

 トロンハイムの運河を行けば家家の窓より人ら笑みて手を振る

務め終へ歩み速めて帰るみち月の光は白く照らせり

とう火台に燃え盛り彼方なる林は秋の色を帯び初む

生きものの織りなして生くる様見つつ皇居に住みて十五年経つ

五十年の祝ひの年に共に蒔きし白樺の葉に暑き日の射す

津波来し時の岸辺は如何なりしと見下ろす海は青く静まる

万座毛に昔をしのび巡り行けば彼方恩納岳さやに立ちたり

慰霊碑の先に広がる水俣の海青くして静かなりけり

夕やみのせまる田に入り稔りたる稲の根本に鎌をあてがふ

戦いひにあまたの人の失せしとひ島緑にて海に横たふ

邯鄲の鳴く音聞かむと那須の野に集ひし夜をなつかしみ思ふ

語りつつあしたの苑を歩み行けば林の中にきんらんの咲く

贈られしひまはりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に

 

 

 

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以下、皇后陛下

かすみつつ晴れたる瀬戸の島々をむすびて遠く橋かかりたり

いつの日か森とはなりて陵を守らむ木木かこの武蔵野に

葉かげなる天蚕はふかく眠りゐて櫟のこずゑ風りゆく

とつくにの旅いまし果て夕映ゆるふるさとの空に向ひてかへる

波なぎしこの平らぎの礎と君らしづもる若夏(うりずん)の島

移り住む国の民とし老いたまふ君らが歌ふさくらさくらと

日本列島島田ごとの早苗そよぐらむ今日わが君も御田にいでます

生命おび真闇に浮きれ青かりしと地球の姿見し人還る

移民きみら辿りきたりし遠き道にイペーの花はいくたび咲きし

雪原にはた氷上にきはまりし青年の力愛しかりけり

癒えし日を新生となし生くる友に時よ穏しく流れゆけかし

 この日より任務おびたる若き衛視の立てる御苑に新草萌ゆる

光返すもの悉くひかりつつ早春の日こそ輝かしけれ

 ひと時の幸分つがに人にとの佇むゆふべ町に花降る

幸くませ真幸くませと人びとの声渡りゆく御幸の町に

風通ふあしたの小径歩みゆく癒えざるも君清しくまして

笑み交はしやがて涙のわきいづる復興なりし街を行きつつ

年ごとに月の在りどを確かむる歳旦祭に君を送りて

灯火を振れば彼方の明かり共に揺れ旅行くひと日夜に入りゆく

生命あるもののかなしき早春の光のなかに揺り蚊の舞ふ

君よゆく道の果たての遠白く夕暮れ手なほ光あるらし

おほかたの枯葉は枝に残りっつ今日まんさくの花ひとつ咲く

 帰り来るを立ちて待てるに季のなく岸とふ文字を歳時記に見ず

天地にきざし来たれるものありて君が春野に立たす日近し

み遷りの近き宮居に仕ふると瞳静かに娘は言ひて発つ

来し方に本とふ文の林ありてその下陰に幾度いこひし

夕茜に入りゆく一機若き日の吾がごとく行く旅人やある

土筆摘み野蒜を引きてさながらに野にあるごとくここに住み来し

語るなく重きを負ひし君が肩に早春の日差し静かにそそぐ

今しばし生きなむと思ふ寂光に園の薔薇のみな美しく

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「名言との対話」。2月18日。伊藤昌寿「目先の業績を上げるだけならわけはない。次の次の世代のために種を仕込むのが社長の仕事だから苦労する」

伊藤昌寿(1925年14年1月18日ーー2006年2月18日)は、日本の経営者。

1948年東洋レーヨンに入社。1959年ナイロン原料の光合成法を開発。1981年社長、1987年会長。社名を東レに変更して,炭素繊維,インターフェロンなどを重点開発し、繊維メーカーから総合化学メーカーへ転換させた。

まだ、テトロンやナイロンが最盛期の時代に、東レは1971年に新規事業部を新設。初代部長が伊藤だった。合繊で培った高分子化学の技術が応用できる成長分野から有望分野を選び、新規事業を育成せよと指令を受ける。毎年10億円、20億円と投入するが、利益はでない。「何故あのような事業に投資を続けるのか」と批判が多かったが、歴代社長は、「伊藤君、よろしく頼むよ」と、人と金を投入し続ける。

伊藤は炭素繊維に着目し量産化する。ゴルフクラブ、航空機製造材にも採用され、1974年には黒字を達成。産業用の新用途の開拓に成功し、東レは世界一の炭素繊維メーカになり、業績に弾みをつけていった。

このケースは本業が堅調なうちに次の時代の収益源を見定め、粘り強く進めることがいかに大事かを示している。

1987年には、バブル経済による好景気を実感し始めていた世間とは逆に、東レは業績が急速に悪化していた。そこで、当時の伊藤昌寿会長と前田勝之助社長は「東レ流のリストラ」を断行する2万5000人の正社員の半分以上を再訓練した後に子会社や拡大中の部門に異動させ、配置変換によっておきた減収分は東レが補填した。加えて、研究開発費に糸目をつけず独自の技術を開発し、さらに生産ラインを細分化し各リーダーが率いる事業部制にしたことでR&Dとマーケティングをチーム内で効率よく行うことに成功した。極めて日本的な方法で1990年代にかけて突破口を開き、東レは快進撃を続ける。2014年には、榊原定征経団連会長にまでなった。

2018年3月末現在の東レはどのような企業になっているか。東レ7,625人、国内関係会社10,590人、海外関係会社27,547人、合計45,762人。国内100社、海外157社、合 計257社。連結売上高22,049億円、連結営業利益565億円 (2017年度)。
トップの仕事で重要なのは、次世代ではなく、その次の世代のための種の仕込みであると希代のイノベーター・伊藤昌寿は言う。東レのコーポレート・スローガン、「Innovation by Chemistry」(化学による革新と創造)は、このような歴史をみると深く納得できる。東レという組織のDNAのキーワードがイノベーションであり、それが社風を形作っている。そしてとその社風を代表する伊藤昌寿という人物の存在とその連なりがみえる。それは東レという企業の貴重な財産だ。

東京国立近代美術館。宮内庁三の丸尚蔵館。同窓会。

午前中は、美術館。

竹橋の東京国立近代美術館で開催中の「イメージコレクター・杉浦非水展」。

 杉浦非水(1876-1965)は、日本のグラフィックデザインの創成期の図案家。三越呉服店の嘱託図案家。多摩帝国美術学校初代校長・図案家主任教授。

コレクションの重要性を改めて感じた。『実用図案資料大成』全12巻。『世界動物図案資料集成』が印象に残った。

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宮内庁三の丸尚蔵館で開催中の「御即位30年・御成婚60年記念特別展 御製・御歌でたどる両陛下の30年」展。

平成2年から平成31年歌会始の御製・御歌と展示資料を順番に眺めたが、お二人の人生の軌跡と心もちに感動した。

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午後。有楽町でJALの千歳・客乗時代の上司・同僚・後輩たちと会食。

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「名言との対話」2月17日。横田喜三郎「いやはや長生きすれば、新しいことを聞く」

横田 喜三郎(よこた きさぶろう、1896年明治29年)8月6日 - 1993年平成5年)2月17日)は、日本国際法学者、第3代最高裁判所長官

 33歳、東京帝大教授。52歳、東大法学部長。60歳、定年退官。64歳、最高裁判所長官。69歳、定年退官。77歳、津田塾大学理事長。78歳、文化功労者。85歳、文化勲章

横田喜三郎によれば「満州事変がはじまってから、太平洋戦争が終わるまで、15年間を通じて、わたくしが一貫して軍事行動に反対し、それを批判し、平和への道を主張した」「反発し、批判と反対の意見を新聞や雑誌に載せた」とのことである。そのため、戦後メディアから評論を頼まれ、各地での講演を依頼されている。

憲法は平がな口語体で書かれている。この点に横田はかかわりを持った。平易で親しまれるものにしたいという政府の方針のもとに、国語問題の権威であった山本有三に意見と助言を求めた。山本は法律家の横田に意見を聞いた。「いっそのこと、平がな口語体で書いては、どうでしょうか」と言い、二人で前文と条文を書いてみた。法律の世界で、憲法を平がなで書くということは革命的なことだったが、結果的にそれが採用された。その他の法文もすべて平がな口語体になった。条約も、裁判の判決も官庁の文書も平がな口語体となった。これは決定的な影響を及ぼしていき、全法律的世界の革命的な改革となった。横田喜三郎『世界と共に歩む』の中では、もっとも印象に残るエピソードだった。「世界と共に、世界を友として、平和に歩まなければならない」が信念だった。

学者や裁判官は規則正しい生活ができるとした横田喜三郎は長生きを自覚していた。3か月か、6か月ごとの定期健診を受診し、76歳で胃がんを発見し手術し健康体に戻っている。90歳でスケートはやめた。 95歳時点で、週2回はテニスという生活である。

浄瑠璃に「いやはや長生きすれば、新しいことを聞く」というセリフがある。それが長寿の喜びであるという。長生きしたからこそ、ベルリンの壁の崩壊前後のヨーロッパの大変動ををみることができたことを、若いころから国際関係を専門にした横田は喜んでいる。新しい世界の潮流をみることができる。人の言説の正誤などを確認できる。長く生きることで、人は時代の先や人生の高みにのぼることができる。 

世界と共に歩む

世界と共に歩む

 

 

 

 

 

「顔真卿」‐王義之を超えた名筆」展(国立博物館平成館)

国立博物館平成館で開催中の「顔真卿」‐王義之を超えた名筆」展。

 中国の書の歴史においては、王義之に代表される東晋時代と、顔真卿(709-785)が代表する唐時代が最盛期である。理知的な筆法を習得したうえで、さらに豊かな情感を盛り込んだ書である。「顔法」と呼ばれた筆法は力強くおおらかで親しみやすい。

41人の文人との詩会で揮ごうした「蘭亭序」と、甥の若き顔季明の首を前に書いた「祭し文稿」が代表作。

剛直な性格であったことで左遷の連続であったため、顔真卿の赴任地と足跡は中国全土に及んでいることに驚いた。常に車に碑石を積み、妙筆をふるい、石匠が文字を彫った。石碑ごとに文字の表情の変化があり、「一碑一面貌」と評されている。

顔真卿の長い生涯は、私の「新・孔子の人生訓」で説明できる。壮絶な人生だった。

・生い立ち(1歳ー28歳):幼少期・少年期

学業と書に巧み。26歳で科挙の進士、28歳秘書省校書郎。官僚として立つ。

安史の乱(28歳ー49歳):青年期

8世紀の唐は衰退に向かう時代。順調に官途を歩むが、正論を吐く剛直な性格が災いし45歳で山東省の太守に左遷される。47歳、安禄山安史の乱が勃発するが、事前に見抜いて準備していた。賊軍を大破するが、顔家の一族は30余人の犠牲を払った。

・度重なる左遷(49歳ー69歳):壮年期

49歳、法務大臣から、宰相に逆らいカンセイ省の太守に左遷。山西省江西省江蘇省。52歳、中央に復帰、数か月後に四川省に左遷。54歳、中央復帰。58歳、宰相を攻撃し湖北省に左遷。江西省浙江省を経て、11年数か月にわたる地方回りを経て69歳で中央に復帰する。

・壮絶なる最後(69歳ー77歳):実年期

69歳、刑部尚書。70歳、吏部尚書。75歳、宰相の策略と知りながら反乱軍を宣慰する。「君命は避くべけんや」。幽閉され、殺害される。享年77。

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草刈正雄が主役のBSの「美の壺」で顔真卿のことと、漢字の現在と未来についてやっていた。石川九楊顔真卿の書の筆法の解説と臨書をしながら書の歴史の中での功績を語っていた。簡体文字の反省も。繁文文字への回帰の流れ。

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 「名言との対話」2月16日。淡島千景ギャランティはそんなにいらない。ただ、いろいろな監督の映画に出たい」

 淡島 千景(あわしま ちかげ、1924年大正13年)2月24日 - 2012年平成24年2月16日)は、日本女優

 宝塚時代は抜群の演技力で知られ、娘役トップをつとめた。映画界に入り活躍するが、相手役は名優ぞろいであった。映画「夫婦善哉」「駅前シリーズ」は森繁久彌東宝歌舞伎やテレビ「半七捕物帳」は長谷川一夫NHK大河「花の生涯」は尾上松緑(二代目)。映画「花の生涯」。テレビ「鬼平犯科帳」は松本白鴎。萬屋錦之助、大川橋三とも共演している。どの作品も存在感を感じる演技が鮮やかに蘇ってくる。

多くの監督の作品に出演している。渋谷実小津安二郎豊田四郎、成瀬己喜男、今井正五所平之助市川崑、木之下恵介、、、。巨匠ぞろいである。

松竹の看板女優、東宝の看板女優と言われた 淡島千景が 「私はどこの女優である、何々の女優であると思わない。とっても自由なんです、気持ちが」と言うとおりの女優人生であった。宝塚の後輩である扇千景の芸名は淡島千景にあやかってつけたし、実妹の様に可愛がられていた淡路恵子も淡島の淡の一字をもらって芸名をつけているなど後輩にも影響力があった。

月丘夢路の影響で映画界入りの時に付けた条件は、ただ一つだった。それは「いろいろな監督の映画に出たい」だった。その志を持続し、生涯独身電話87歳まで現役でその通りの女優人生を歩んだのである。戒名は「華優院慈篤慶純大姉」。