「日経ビジネス」電子版11月13日号の「インタビュー」欄ーー「50歳からはじわじわと人生を歩んだ遅咲きの人に学ぼう」

日経ビジネス」電子版11月13日号の「インタビュー」に登場。6ページ。顔者写真付き。本日のアクセスランキングでは、2位と3位と4位の間を上下しているから、かなりの頻度で読まれているようだ。電子版は無料登録もでき、毎月3本の記事は無料で読める。全文は、以下。

business.nikkei.com

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大学:ひと仕事。ラウンジ。

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「名言との対話」11月13日。川手ミトヨ「入市被爆(にゅうしひばく)

川手 ミトヨ(かわて ミトヨ、1889年明治22年5月15日 - 2003年(平成15年)11月13日)は、存命人物のうち世界最高齢だった日本の女性。スーパーセンテナリアン。

川手 ミトヨ
生誕 1889年5月15日
日本の旗 日本広島県安芸郡
死没 2003年11月13日(114歳没)
日本の旗 日本広島県広島市
死因 肺炎
住居 日本の旗 日本広島県
国籍 日本の旗 日本
職業 農家

広島県安芸郡馬木村(広島市東区)の農家に生まれた。広島への原爆投下直後に知人を探すために市内に入って「入市被爆」したといい、被爆者健康手帳を持っていた。 100歳頃まで農作業をしていたが、手の怪我などでやめる。その後車椅子とベッド生活になり、1993年10月から死去までの約10年間を特別養護老人ホームで暮らした。

2003年10月31日本郷かまとの死去により、ギネス世界記録から存命人物のうち世界最高齢と認定された。しかし僅か2週間後の同年11月13日、肺炎のため川手も死去した。114歳と182日。川手の死去に伴い、存命人物のうち日本最高齢は小山ウラに、また、存命人物のうち世界最高齢はプエルトリコラモナ・イグレシアスになった。なお、2012年になってギネス世界記録は本郷かまとの記録を非公認とした。これにより、川手が世界最高齢になったのは中願寺雄吉が死去した2003年9月28日であったことになった。

以上の年齢の日本記録、世界記録に関する詳細な記述は、長生きの人を紹介するウィキペディアには必ず出てくる。年齢以外にも、日数も記録されている。スポーツの世界の日本記録、世界記録と同じ扱いだ。

広島での原爆投下直後、知人を探すために広島市内に入っており、入市被爆した。被爆には直接被爆と間接被爆(土壌や黒い雨や死の灰によって間接的に被爆)と入市被爆がある。「入市被爆」という言葉を初めて知った。救援活動、医療活動、親族探しなどで被爆地に入り、残留放射線などで被爆した人を指す言葉だ。原爆投下後2週間以内に爆心から約2キロ以内に入った人に与えられる被爆者健康手帳を川手ミトヨは交付されている。ただ実際の原爆症認定では、ほとんどの場合却下されている。

被爆者でありながら、享年114というスーパーセンテナリアン(110歳以上)となるまで生き抜いた人である。一口に114歳というが、明治22年から、大正、昭和、戦後、平成という長い長い年月になる。この間にあった2度の世界大戦、敗戦、数度のオリンピック、、などの苦楽に彩られた生涯に頭が下がる思いがする。

 

 

 

筆債をひとつ処理。原稿のチェック。

筆債をひとつ処理。11月8日の分を済ます。あと一つ。

 横山 隆一(よこやま りゅういち、1909年5月17日- 2001年11月8日)は高知県高知市出身の漫画家アニメーション作家。

 母が西郷隆盛を好きだったことで隆一という名前がついた。 政治風刺漫画が主流だった1930年代日本の漫画界において、簡略な絵柄と明快なギャグによる欧米流の「ナンセンス漫画」を志向した若手グループ「新漫画派集団」を結成。そして戦中・戦後初期の漫画界をリードした。1936年、新聞連載の4コマ漫画「フクちゃん」が始まる。この連載は戦前戦後を通じ、およそ35年間、5534回に及んだ。いたずらっ子で勝手気ままなフクちゃんは日本中の人気者になった。始まった翌年の1938年には第1回児童文学賞を受賞。

NHKアーカイブスでは 「遊びも仕事も楽しくやるのが一番」と横山が頓知と遊びの精神で貫いた生き方を語っている。オモチャが好き。遊びの天才。収集物では、川端康成の胆石、歴代警視総監の指紋、植村直己の足のマメなどが変なものが紹介されている。この人は忙しい時ほど遊ぶのが信条のユーモリストであった。

画家への道もあったが、漫画は新しい時代の職業であると考え、職業漫画家の道を選ぶ。漫画とは「考えている絵だ」とする横山は「ナンセンス漫画」で世に出ようと志す。ナンセンス漫画の風刺は相手が気がつかなければ、単なるナンセンスにすぎない。しかし隠された小さな針に気がつく人だけが読者でいいとの思いだった。その実例をあげてみる。

手術の風景を描いた漫画と「お医者を怒らせたバカ「よし ますいなしで手術しよう」の言葉。首つり自殺をしようとする漫画と「失敗したときの予備もつくるバカ」の言葉。海で水かけをする男女の漫画と「たのしく大腸菌をかけあうバカ」という言葉。、

1960年の「漫画家酒豪番付」では、土佐高知出身の横山は東の横綱に位置づけられている。大関加藤芳郎、前頭に手塚治虫、富永一郎、おおば比呂司の名がみえる。2002年には、郷里の高知に「横山隆一記念まんが館」がオープンしたのだが、残念なことに本人はその前年に亡くなった。

1997年発刊の自伝『横山隆一 わが遊戯的人生』の最後は、大いに共感する言葉で締めくくられている。「「しかし、そろそろ自分を考えて、独り歩きをしながら自分を創らなければならない年になりました。、、海岸でせっせと砂でお城を作って遊んでいるようなものです。しかし、波が来て、すべてが流れ去った時、貝がらをみがいて作ったお城の瓦の一片を誰かに拾われて、捨てるのもおしいなと思われるような作品を作ることを画業にしたいと思っております」。そうだ、後に遺る作品を作らなければならない。 

横山隆一―わが遊戯的人生 (人間の記録 (17))

横山隆一―わが遊戯的人生 (人間の記録 (17))

 

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・ほとんど丸一日かかって「読書悠々」の原稿の最終チェック。

・ヨガ1時間・ジム35分ウオーキング

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「名言との対話」11月12日。宇野収「年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる」

宇野 収(うの おさむ、1917年5月29日 - 2000年11月12日)は日本実業家東洋紡績社長や関経連会長を務めた。

東洋紡社長、会長。関西経済団体連合会会長に就任し副会長時代も含め11年にわたり、関西国際空港、学研都市、大阪ベイエリア構想などビッグプロジェクトを手掛け、関西の活性化に尽力した。7年間の任期中に822件、事業費にして計41兆円のプロジェクトが生まれている。また地方制度調査会会長として地方分権を推進した。

「なにわ塾」というビジネスマンの会の塾生との問答をまとめた『呼ばれてこの世の客となり』を読んだ。中で「運」について何度か語っている。「5度ほど会社を辞めようと思ったが、上司や友人に止められたことは結果的に運がよかった」「あるところまでは自分でやって、あとは運を天に任せる」「運は努力することを前提として開けるものだ」。、、、。

宇野は一浪して三高、一浪して東京帝大入学する。3歳年下の梅棹忠夫のことがでてきて驚いた。飛び切りの秀才で、小学5年から京都一中、中学四年から第三高等学校。しかし登山に熱中して三高に5年いたと紹介している。

宇野収には財界人としての顔と、もう一つ『「青春」という名の詩』の共著者(作山宗久)、訳者という顔がある。今となっては有名になった詩である。以下に示す。

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青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方を言う。

薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく、たくましい意志、ゆたかな想像力、炎える情熱をさす。

青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

青春とは臆病さを退ける勇気、安きにつく気持を振り捨てる冒険心を意味する。

ときには20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。

年を重ねただけでは人は老いない。

理想を失うときはじめて老いる。

歳月を皮膚にしわを増すが、情熱を失えば心はしぼむ、

苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い精神は芥になる。

60歳であろうと16歳であろうと人の胸には、驚異に魅かれる心、おさな児のような未知への探求心、人生の興味への歓喜がある。

君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。

人から神から美・希望・よろこび・勇気・力の霊感を受ける限り君は若い。

霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ、悲嘆の氷にとざされるとき、20歳であろうと人は老いる。

頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、80歳であろうと人は青春にして已む。

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1982年、宇野収が日経新聞に「青春」の一部を紹介し大きな反響を呼ぶ。1985年、「青春の会」が発足、財界のトップたちの共感を呼び、大きなうねりとなった。その2年後、財界人200名による「青春」と作者を讃える大会が開催され、著者のウルマンの遺族も来日。1992年にはサムエル・ウルマン賞が制定された。各界から浄財が募られ、ウルマンゆかりの地バーミングハムにサムエル・ウルマン記念館が開館した。

 宇野収は、「呼ばれて、、」の中で、「倫理観が甘くなってしまった。政治、行政、司法。何かあった時にしたの人だけが責任をかぶることは問題外。 個人個人の倫理観をいかに高めていくか。教育の原点に倫理観を据えよう。」と社会に警鐘を鳴らしている。

 「その場その場で手を抜かずに全力を出し切ること、それが大事だ」と語る宇野収は、自然体でどの職場でも全力を出す。だんだんと人物が大きくなっていく。そして高い地位で大いなる仕事を遂行していく。座右の銘とした「青春」の詩のとおり、理想を掲げ、希望の波をとらえ続けた青春の人だったように思う。 

呼ばれてこの世の客となり (なにわ塾叢書 (68))

呼ばれてこの世の客となり (なにわ塾叢書 (68))

 

 

梅棹忠夫著作集第12巻「人生と学問」を読了。

梅棹忠夫著作集第12巻「人生と学問」を読了。読了は8巻目。

・わたしの生きがい論「キバと幸福」「未来社会と生きがい」「人間と社会とアドベンチャーと「文化エネルギー発散のすすめ」「武と文」。

・世相と体験「アマチュア思想家宣言」「人生80年型社会の到来」「老いへの期待」「人生を語る」、、、、、。

・学問三昧「今西錦司博士還暦記念論文集」「今西錦司博士古希記念論文集」「未来学の構想」「未来についての考えかた「日本未来学会の発足に寄せて」「学問とは何か」「学問三昧」、、、、。

梅棹忠夫著作集 (第12巻) 人生と学問

梅棹忠夫著作集 (第12巻) 人生と学問

 

 老荘の徒。観察者。フロンティアの消滅。エスカレーターの時代。平和と幸福。ブタの再武装。死にがいの体系。生きていることが自己目的化。科学は「業」。材木と散木。反文明主義。エンゲル係数。プレオボーイ哲学。家庭菜園。無能レベル一歩手前。創造的無能楽天主義。尿毒症。自分の墓穴。全地球的運命共同体。主観主義。無用の用。教育と文化は正反対。毎日をつぶしていく。過剰知性。あそび産業。出家。人生に目的はない。文官の武官化。前提の切り崩し能力。ヒューマニストとナチュナリスト。思想をつかう。採長補短。日本の土民。アマチュア思想。観察者で予想屋。酒2合またはボトル1本、ダブル2杯。面白味。婚と葬、冠祭。時間か過敏症。病気と宗教。国民栄誉賞。66歳で視力喪失。ゲゼルシャフト社会日本。おばあさんの二階建て。都心での隠遁生活。覚悟。けり。人生のプレイボーイ。科学と学問。事実型・仮説型・体系型。冒険精神の否定。種智院大学。考未来学。現未来・近未来・中未来・遠未来。理論未来学と応用未来学。どうなるとどうする。諸学界の未来部会。科学は諸学問のひとつ。学問の横あるき。縁なき衆生。自由。人類の栄光を目指しての知的構築作業の連続。

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大学でひと仕事。

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「名言との対話」11月11日。淀川長治「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」

淀川 長治(よどがわ ながはる、1909年明治42年4月10日 - 1998年(平成10年)11月11日)は、雑誌編集者映画解説者、映画評論家

 他の評論家の追随を許さない豊かな知識で テレビやラジオの映画解説を担当した淀川長治は活動写真が始まって13年目に盛んであった神戸で生まれた。小学校に入る前から週に9本もの映画をみていたという恐るべき映画少年だった。母の陣痛が始まったのも映画館の中だったというエピソードがある。

映画配給会社の宣伝部で活躍し、39歳からは雑誌「映画の友」の編集長を20年近くやり、58歳で映画評論家として独立。エリザベス・テイラーグレゴリー・ペックなどスタートも交流がある。しかし何といっても淀川の師匠は、インタビューをしたことのあるチャールズ・チャプリンである。チャプリンからは人生のすべてを学んだという。

日本映画史上のベスト3として、「キネマ旬報」1979年11月下旬号。残菊物語溝口健二)、羅生門黒澤明)、戸田家の兄妹小津安二郎)を挙げている。また外国映画史上のベスト3として「キネマ旬報」1980年12月下旬号。黄金狂時代チャールズ・チャップリン)、戦艦ポチョムキンセルゲイ・エイゼンシュテイン)、グリード(エリッヒ・フォン・シュトロハイム)、大いなる幻影ジャン・ルノワール)、ベニスに死すルキノ・ヴィスコンティ)を挙げている。 日本におけるアーノルド・シュワルツェネッガーの愛称「シュワちゃん」は、淀川が命名した。

50年続けた「東京映画友の会」の最後の言葉は、「もっと映画を見なさい」だった。その延長線上に、淀川長治映画塾が誕生した。 『淀川長治映画塾』(講談社文庫)は633ページの大著だ。1995年は映画誕生後、100年経った頃だ。 1991年から始まったアテネフランセで10年続いた淀川長治映画塾29回の講演から20講を選んで実況中継したものだ。サイレントからトーキーへの変遷、名監督、名優たちとの出会いから幻の作品のストーリーを生き生きと語っている。

映画のハードは、1893年アメリカのエジソンが自動映像販売機(映写機キネトスコープを一般公開したことや、フランスのリュミエール兄弟シネマトグラフリュミエールという、現在のカメラや映写機と基本的な機構がほぼ同じ複合機(カメラ+映写機+プリンター)を開発したことから始まる。

映画はあらゆるものをふくんだ「芸術」であり、歌舞伎も文楽もバレエも音楽も絵画もすべてを含んでいる。20世紀以降の生活の時代を感じ、学ぶのにもっとも適切なのが映画だ。「名作映画は、人類にとって最高の総合芸術である」とする淀川は、映画はテーマではない。映画にとって大切なのはその描き方なのだという考えだった。「どの映画にも見所はある」として褒めることに徹していた。

この本では日本映画の巨峰としてただ一人黒澤明を取り上げている。「黒澤映画の一番の魅力は目ですね。画面の動きは目ですね」。「映画をつくる人は体格が要るね。、、黒澤さんは体格がいい、立派だ。そうして本当に映画を分かってくれる人には親切だな。とっても親切だ。本当に一流の人はみんなそういうもんだね。谷崎潤一郎もそうだね。文学を大事にする人は大事にするな」「黒澤明はどんな場合でも命がけで撮ってるね。あの齢になって。まだ撮ってるから、86でも映画つくるんだね。偉い人だ」。

32年に渡って務めた『日曜洋画劇場』の解説番組冒頭で「ハイ皆さん、こんばんは」から始まり、「怖いですねえ、恐ろしいですねえ」の節回しや番組末尾の「それでは次週を御期待(お楽しみ)下さい。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ...」は名台詞で有名になった。この言葉と淀川の表情はよく覚えている。愛とユーモアの人だった。誰にも負けないほど現場を知り、現物を目にした第一人者には誰でも脱帽する。そのことを淀川長治の映画人生は教えてくれる。

淀川長治映画塾 (講談社文庫)

淀川長治映画塾 (講談社文庫)

 

 

眉村卓「一日ひとつ短い話を書くことにしてん」

抜けていた11月3日の分の眉村卓の本を読了し、以下の様に書き終えた。

11月8日の横山隆一、11月9日の森比佐志の本は発注済み。

僕と妻の1778話 (集英社文庫)

僕と妻の1778話 (集英社文庫)

 

「名言との対話」。11月3日。眉村卓「一日ひとつ短い話を書くことにしてん」

眉村 卓(まゆむら たく、本名:村上 卓児(むらかみ たくじ)、1934年10月20日 - 2019年11月3)は、日本SF作家

 大阪大学卒、サラリーマン生活の傍ら、同人誌「宇宙塵」に参加。1961年「下級アイデアマン」で第1回SFコンテスト第2席、1963年『燃える傾斜』を刊行。1965年より作家専業となる。1979年『消滅の光輪』で泉鏡花文学賞と、優秀なSF作品に贈らえる星雲賞を受賞。1987年には『夕焼けの回転木馬』で第7回日本文芸大賞を受賞し、1996年には『引き潮のとき』で2度目となる星雲賞を受賞した。サラリーマン経験をもとに、組織と個人の葛藤を作品のテーマとしてインサイダー文学論を提言した。

眉村卓の「僕と妻の1778話メモリアルセレクション52」を注文し、ようやく手に入れて読了した。

1997年に妻が進行性腫瘍となる。自宅療養となり、毎日短い話を書いて読んでもらうことにした。3枚以上、エッセイではなくお話であることとした。毎日「できたん?」と妻が言い、読んでくれて、「ええんとちゃうのん」などとの会話があり、OKとなると、その原稿をポストに投函する。そういった毎日が2002年まで1778日続く。5年に近い歳月だ。その中で52話をピックアップしたのが、この本だ。

眉村は溜まっていく原稿を100篇づつ自費出版することを思いつく、タイトルは『日課・一一3枚以上』だ。「ゲラ修正」「魔除け」「絶叫ボックス」「使わなかった手帳」「椅子を占領するオバケ」神様の素」「Qさんと協会」、、などの小話が載っている。読みながら、「ああ、この人はSF作家だったな」と感じることが多くあった。エッセイではなく、お話である。この日課によるお話は18冊分の分量になっている。

眉村卓の人生を追いながら、こういうことが自分にもできるだろうか、と自分に問いかけている自分を発見している。

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昨日:ウオーキング45分

本日:スイミング500m

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原稿書き。

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「名言との対話」11月10日。ヘルムート・シュミット「歩幅が大きすぎてはならない。しかし小さすぎてもいけない」

ヘルムート・ハインリヒ・ヴァルデマール・シュミットHelmut Heinrich Waldemar Schmidt1918年12月23日 - 2015年11月10日)は、西ドイツ政治家

ブラント首相の後任。第5代西ドイツ連邦首相(在任:1974年 - 1982年)。後任はコール首相。 西ヨーロッパ同盟、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体。ヨーロッパ評議会、ヨーロッパ経済共同体(EEC)、ヨーロッパ共同体と進んできた大プロジェクトの中心メンバーである西ドイツのかじ取りを8年にわたってとった政治家だ。

 「ドイツ人と隣人たちーー続シュミット外交回想録」(上下)を読んだ。歴史的に難しい立場に立つドイツ人が自身とEUをどうとらえているかに関心をもって読み進んだ。日本についてはG7結成時に、福田首相が一度だけ登場する。

ドイツとドイツ人に対する自己認識は以下。「ドイツ人の情動は、他国人の情動以上に隣国の恐怖の的である」「ドイツに対する恐怖心を取り除くことができれば、その度合いに応じてわれわれは成功を収めえよう」「われわれドイツ人は危険にさらされた民族であり続ける。、、、、そうではなく、われわれが興奮したり、感情が高まったりしがちで、また尊大になる傾向のためである」。ドイツ人に対する反省を踏まえた謙虚さに驚く。

EUの主要国である 隣国フランスとの協調を以下のように何度も強調している。「フランスが安心している場合にだけ、ドイツ人は自らに良き未来を望めるのだ」「ヨーロッパにおける力の均衡はフランスなしではありえない」「われわれはフランス抜きでいかなる前進もしてはならない」「ドイツとフランスの友好関係が永続し、ドイツ人とフランス人が協力してヨーロッパ共同体を前進させるときにだけ、そのときにだけ、ヨーロッパは21世紀を担う力となるのである」。フランスに対する気の遣いようにも驚く。

 イギリスについては「帝国(エンパイヤ)から連邦(コモンウェルス)への移行はいわば流れるように行われ、外国人には気がつかないこともあった」と書いているが、EUへの参加の度合いにはやや懐疑的かもしれないという印象を持った。

経済大国の統一ドイツが以上のような認識で、EUを進めていくなら、困難も克服してく可能性を信じることができる。

政治について。「何かになろうという野心ではなく、何かをなそうという野心」「政治家を満足させるのは権力の享楽というよりはむしろ自分に寄せられる信頼への喜びである」「政治家が二人だけで会談すれば、少なくとも後で相手をテレビで罵ることはできない」。

そして、シュミットは「すぐに大変革を行うと約束する政治家は信用してはならない。歩幅が大きすぎてはならない。しかし小さすぎてもいけない」と語っている。老練な政治家という印象を持った。敗戦後の地位協定の改定、経済の躍進、無借金国家経営、脱原発など、前進するドイツは、ブラント、シュミット、コール、そしてメルケルといずれも長期政権を担ったリーダーのレベルが高い。抑制的な態度で大目標に向かって歩幅を調整しながら着実に歩を進めるドイツについて改めて興味を持った。

ドイツ人と隣人たち―続シュミット外交回想録〈上〉

ドイツ人と隣人たち―続シュミット外交回想録〈上〉

 
ドイツ人と隣人たち―続シュミット外交回想録〈下〉

ドイツ人と隣人たち―続シュミット外交回想録〈下〉

 

 

 

 

 

「中島敦展」ーー池澤夏樹の解説が出色。「山月記」「名人伝」「李陵」を再読。

中島敦展(神奈川近代文学館)。

中島敦(1909-1924年)。享年33。作品数は20数編、著書は2冊。文壇デビューは1924年2月、12月死去。1909年生まれの同年は松本清張

池澤夏樹の解説が出色だ。生誕110年、没後77年、司馬遷没後2100年。

「奥行の知れない深い構成と細部に至る完成度」「グローバルでもなくユニバーサルでもなく、ワールド。それも歴史を含む地理」「膨大な教養」「漢文の素養に英語を重ねて育ち」「中国古代以来の歴史と現代世界の隅々に及ぶ地理を自分の掌中に収めた」「古来、文学は先行する作品を足場として書かれてきた。伝統を受け継いで、そこを起点にどれほど遠くまで行けるかが才能の力だ」「彼が南洋に向けて船出した港は眼の下にある。そこまで含めて今回の展示と思っていただきたい」

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「才能は自前、しかしその先の幸運と不運は天の配剤である」

「生前にはほとんど知られることなく、没後に広く読まれるようになったという珍しいタイプの文学者である。作品の力だけで多くの読者を獲得し、その勢いは歳月を重ねるごとにいよいよ増している」
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山月記」「名人伝」「李陵」を再読した。 

山月記「人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、何事かをなすにはあまりにも短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧と、刻苦をいとう怠惰とが俺のすべてだたtのだ」

名人伝「ああ、夫子画が、---古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや?ああ、弓という名も、その使い道も!

李陵「見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。彼は粛然として恐れた。今でも己の過去を決して非なりと思わないけれども、なおここに蘇武という男があって、無理ではなかったはずの己の過去をも恥ずかしく思わせることを堂々とやてのけ、しかも、その跡が今や天下に顕彰されることになったという事実は、何としても李陵にはこたえた」

3人の主人公であは李陵、蘇武、そして司馬遷。稿を起こしてから14年、腐刑の禍に遭ってから8年、それに増補、推敲を加えて数年。史記130巻、52万6500字が完成。
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「名言との対話」11月9日。森比佐志「いちばんあかるい★をさがしなさい。そのましたにおおきな●があります。そのかげに▲がありますから、はいっていきなさい」

に移動森 比左志(もり ひさし、1917年10月2日 - 2018年11月9日)は、日本の児童文学作家翻訳家教育評論家。センテナリアン。

鎌倉師範学校(後の横浜国立大学教育学部)を卒業し、1968年まで50歳を越えるあたりまで小学校教諭を務める。もともとは歌誌「創生」の発行人の歌人である。教師生活のかたわら外国の児童文学作品の翻訳を行い、エリック・カールはらぺこあおむし』など著名な作品を多数手がけていた。2018年11月9日心筋梗塞により死去。101歳没。

児童文学関係の受賞も多い。1971年 「ちいさなきいろいかさ」(絵/にしまきかやこ)で第18回産経児童出版文化賞受賞。1984年 「くまのアーネストおじさん 既刊3冊」(作/ガブリエル・バンサン)で第31回産経児童出版文化賞受賞。1998年 「おてがみです あるゆうびんやさんのおはなし」(作/ガブリエル・バンサン)で第44回産経児童出版文化賞ニッポン放送賞受賞。2009年 歌集「月の谷」で日本歌人クラブ東京ブロック優良歌集賞受賞。

エリック=カールさく・え、もりひさしやく「たんじょうびのふしぎなえがみ」を読んだ。カールはコラージュ(はり絵)の絵本をつくる人だ。

「たんじょうの前の日、チムはふしぎな手紙をみつけました。★や▲や■などmおかしなしるしがかかれている手紙です。チムは暗号のようなそのしるしを、一つ一つうまくといて、とてもすばらしいものを手に入れました。、、、たんじょう日を、よりいっそう楽しくしてくれる、ふしぎな手紙の絵本」、と紹介されている。

「パパ ママより」もらったこの絵本の 本文は、「、、、、すると■がありますから、のぞいてごらん。そこにびっくりするようなものがまっていますよ」などの記述に従っていくと、最後には」「ハッピー バースデ! たんほう日 おめでとう! これがプレゼントです。」とあり、次のページをめくると、今までの道のりの全体がわかる絵になっている。子どもに興味を持たせる工夫が随所にある楽しい絵本だ。誕生日のプレゼントにふさわしい絵本だ。やさしい言葉に翻訳された言葉は、著者と訳者のやさしい人柄をしのばせる。絵本という分野に精進する人々の姿は神々しい。

 

 

 

 

 

 

「名言との対話」11月9日。石田英一郎「科学は異端と自由討究の精神の失われないところにのみ発達する。もともと異端の精神に出発したマルクスエンゲルスの書も」

石田 英一郎(いしだ えいいちろう、1903年6月30日 - 1968年11月9日)は、日本文化人類学者民族学者

男爵石田八弥の長男として大阪に生まれ,第一高等学校から河上肇教授を慕って京都帝国大学経済学部に進むが中退する。思想問題で検挙され男爵を返上。治安維持法により逮捕され(学連事件),1928年より5年間堺刑務所に服役。刑務所の中中国の古典から古事記日本書紀に至るまで読破する。 釈放後、民族学研究所があったウィーン大学民族学科に2年間留学する。

「最前線へ疎開しよう」と夫妻は幼児を連れて、張家口の蒙古善隣協会の西北研究所の副所長。所長は生態学者で探検家の今西錦司である。1年で東京へ。『河童駒引考』を世に贈った。桃太郎や一寸法師の物語りが、はるかユーラシア大陸旧石器時代文化と社会組織に関連することを立証する見事な理論の展開。柳田国男とは異なる第二の民俗学だった。

1949年法政大学教授。1951年東京大学東洋文化研究所教授。1年間の外国出張の後、「文化人類学ノート」を出版。文化人類学教室の初代主任を務めた。理学部人類学教室との確執があった。第一次東大アンデス学術調査団団長。日本民族学会会長。名著「文化人類学ノート」は、私も大学生時代に手にした記憶がある。

主著の一つである「桃太郎の母」には、この書をニコライ・ネフスキー先生にささぐと書いている。ニコライ・ネフスキーは、ペテルブルク大学で革命運動家として活躍し、ロシア革命以前に日本に来て、日本婦人と結婚していた学者である。石田は京大で学んでいる。

 石田英一郎全集( 筑摩書房)には「文化人類学序説 文化とは何か ほか。文化人類学ノート 歴史科学としての民俗学民族学 ほか。東西抄 日本文化論 ほか。人間を求めて 日本国家の起源 ほか。河童駒引考 ほか。桃太郎の母 ほか。マヤ文明 ラテン・アメリカの歴史と文化 ほか。人類と文明の誕生 ほか」の全8巻がある。

 「およそ学問の世界に、たとえば毛沢東思想を学習すれば事足りるといったような安易な道はゆるされない」「そう断定するならば、確かな証拠をあげて教えていただきたい」という石田は戦闘的であり、反骨であり、天邪鬼であった。独学の人・石田英一郎は、定説ではなく異端の存在を許す自由が大事であることを教えてくれる。古典のほとんどは異端から出発しているのである。

大学「本」。赤坂「野田先生」。新宿「橘川さん」。

・午前:大学で仕事:秘書の近藤さんと新著の編集作業。

・午後:柴生田さんと赤坂の野田一夫事務所を訪問。柴生田さんが著書『子ども地球歳時記』を贈呈。考えてみれば、野田先生に紹介してもらったのは、当時の上司だった柴生田さんだった。

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 ・夕:新宿「らんぶる」で橘川さんと懇談。スマートシティ、PSD、映像、学校建設、アジア、クラウド、レポート、ロシア、、、。

・風呂の中で中島敦『教科書で読む名作 山月記名人伝』(ちくま文庫)を読了。

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命日は、8日? 6日?

「名言との対話」11月8日。秦野章「政治家に徳目を求めるのは、八百屋をくれというのに等しい」

秦野 章(はたの あきら、1911年10月10日 - 2002年11月6日)は、日本内務警察官僚政治家

生家が倒産し、旧制中学中退。鎌倉で酒屋の小僧を経て、官立横浜高商を卒業する。その後、旧制日本大学専門部政治科を卒業。生糸検査所などを経て、1939年に高等文官試験に合格。私立大学出身者で初めての警視総監に就任した。

警視庁刑事部長時代には、留置場で自殺や逃亡が多く問題になった会議で 「花だ。留置場に花を飾ろう。大事なのは、厳重な監視より、温かい人間関係、血の交流なんだ。地元のお母さんがたから花を贈ってもらい、花にお母さんの励ましの言葉を書いた名札をかけよう」と発言し、実行して減らしている。

70年安保の学生運動を「いずれ消える泡のようなもの」と言い放ち、過激派から狙われる。護衛をつけようといわれたが、「駆逐艦駆逐艦を守るようなものだ」と言い、拒否した。当時の部下佐々淳行は、後年、「乱世の名総監。秦野総監でなければ、あの警察戦国時代の修羅場は乗り切れなかった。決断力と責任感あふれる人」と評している。

1971年東京都知事選の候補として自民党に担がれた際に「昭和元禄田舎芝居」の 名ぜりふを残したが、結局出馬して革新の美濃部亮吉知事に敗北する。1974年参院神奈川地方区に初当選し、2期務めた。自民党では無派閥の一匹おおかみ的存在で、ベランメエ口調で知られた。第1次中曽根内閣法務大臣に就任。晩年は持ち前の歯に衣ぬ着せぬ発言で、政治評論家として活躍した。

70年安保、学生運動あさま山荘事件、ハイジャック、都知事選、田中角栄逮捕、、、など、秦野が関与した事件をながめてみると、激動の時代を一緒に生きた感じもする。

秦野は名言と失言、暴言の人だった。その中でも「政治家に徳目を求めるのは、、、」は、いまだに時折聞く言葉だ。世論、マスコミは政治に倫理を声高に求めるが、秦野の真意について、政治評論家の俵幸太郎は、政治家には業績という結果責任が重要で、正直や清潔さなどの古典的徳目のみを取り上げるのは、八百屋で魚を求めるようなものだと言っているのだと解説している。「徳目のみ」と「のみ」という言葉を使えばよかったのだろう。いずれにしても言葉は独り歩きする。名言と暴言、失言は紙一重だ。

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 横山 隆一(よこやま りゅういち、1909年5月17日- 2001年11月8日)は高知県高知市出身の漫画家アニメーション作家。

 母が西郷隆盛を好きだったことで隆一という名前がついた。 政治風刺漫画が主流だった1930年代日本の漫画界において、簡略な絵柄と明快なギャグによる欧米流の「ナンセンス漫画」を志向した若手グループ「新漫画派集団」を結成。そして戦中・戦後初期の漫画界をリードした。1936年、新聞連載の4コマ漫画「フクちゃん」が始まる。この連載は戦前戦後を通じ、およそ35年間、5534回に及んだ。いたずらっ子で勝手気ままなフクちゃんは日本中の人気者になった。始まった翌年の1938年には第1回児童文学賞を受賞。

NHKアーカイブスでは 「遊びも仕事も楽しくやるのが一番」と横山が頓知と遊びの精神で貫いた生き方を語っている。オモチャが好き。遊びの天才。収集物では、川端康成の胆石、歴代警視総監の指紋、植村直己の足のマメなどが変なものが紹介されている。この人は忙しい時ほど遊ぶのが信条のユーモリストであった。

画家への道もあったが、漫画は新しい時代の職業であると考え、職業漫画家の道を選ぶ。漫画とは「考えている絵だ」とする横山は「ナンセンス漫画」で世に出ようと志す。ナンセンス漫画の風刺は相手が気がつかなければ、単なるナンセンスにすぎない。しかし隠された小さな針に気がつく人だけが読者でいいとの思いだった。その実例をあげてみる。

手術の風景を描いた漫画と「お医者を怒らせたバカ「よし ますいなしで手術しよう」の言葉。首つり自殺をしようとする漫画と「失敗したときの予備もつくるバカ」の言葉。海で水かけをする男女の漫画と「たのしく大腸菌をかけあうバカ」という言葉。、

1960年の「漫画家酒豪番付」では、土佐高知出身の横山は東の横綱に位置づけられている。大関加藤芳郎、前頭に手塚治虫、富永一郎、おおば比呂司の名がみえる。2002年には、郷里の高知に「横山隆一記念まんが館」がオープンしたのだが、残念なことに本人はその前年に亡くなった。

1997年発刊の自伝『横山隆一 わが遊戯的人生』の最後は、大いに共感する言葉で締めくくられている。「「しかし、そろそろ自分を考えて、独り歩きをしながら自分を創らなければならない年になりました。、、海岸でせっせと砂でお城を作って遊んでいるようなものです。しかし、波が来て、すべてが流れ去った時、貝がらをみがいて作ったお城の瓦の一片を誰かに拾われて、捨てるのもおしいなと思われるような作品を作ることを画業にしたいと思っております」。そうだ、後に遺る作品を作らなければならない。 

 

横山隆一―わが遊戯的人生 (人間の記録 (17))

横山隆一―わが遊戯的人生 (人間の記録 (17))

 

 

 

 

 

井上尚也「ドネア、めちゃくちゃ強かったです」ドネア「自分が戦った相手であれだけパンチを耐えられた選手はいなかった」

ボクシング世界バンタム級の頂上決勝試合。井上尚也が世界5階級制覇王者ドネアとの死闘を制した。判定は3-0だったが、どうなるかわからない接戦だった。いいものをみた。

圧倒的なパンチ力で早いラウンドに相手を倒す井上尚弥の魅力にファンとなっていたが、最高の相手に全力で勝利を引き寄せる姿をみて、改めてこのバクサーを応援したい。

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試合が終わったと同時に、互いの健闘をたたえ合う二人。

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勝利者インタビューでは、「ドネア、めちゃくちゃ強かったです。初めてカットがあり、ドネアが二人に見えた。最後まで相手がぼやけてた状態。自身最大のキャリア。精進していく」。

井上尚也のtwitter皆さん、今日は本当に熱い声援ありがとうございました。 苦しい場面が山程ありましたが皆さんの声援で持ち堪えることが出来ました。 このFINALでドネアと戦えた事を誇りにこれからも精進して頑張って行きますので引き続き応援宜しくお願い致します」

ドネア「井上はこの試合で真のチャンピオンであることを証明した。自分が戦った相手であれだけパンチを耐えられた選手はいなかった。おめでとうと言いたい」

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 リレー講座。講師は寺島学長。「世界史への問い直し」。

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2000年からの18年間で新聞の発行部数は1100万部減少した。 スマホによって自分の関心領域のみが深まっていく。

全体知。知識・記憶力という流動性知能。体験の積み重ねを基盤とした結晶性知能はつながりがみえるようになる。問題解決への知能だ。

雑誌「世界」の2010年から連載:「17世紀オランダからの視界」。交響曲

第一楽章:1から14。17世紀オランダとは何か? 

第二楽章:15から31。江戸期の日本。日朝、日中関係。自立心を深めた時代。

第三楽章:32から48。17Cオランダをめぐる世界の状況。英仏独、トルコ、、。

第四楽章:49から61(進行中)。ビッグストーリー、グローバルストーリー、世界宗教、仏教、キリスト教イスラム教、、トランプ支持30%の岩盤は福音派プロテスタントプーチンのロシアはロシア正教アイデンティティを求めている。最後は「貨幣」へ。

6万年前に脱アフリカ。3.8万年前に日本列島到着。1万年前から定住、農耕・忍耐・コミュニティ、社会性を獲得。2500年前には、仏陀孔子(「それ恕か」)、ユダヤ教が成立し、利他心が芽生える。2000年前にキリスト、大乗仏教の登場。

人間仏陀は内に向かった。それから500年経ち、2000年前に弟子たちは「加上」で救済の宗教たる大乗仏教に進化させた。同時期にキリスト誕生というシンクロナイズ。

仏典のサンスクリット文字から漢字への翻訳。表意文字を用いる漢字文化圏の仏教へ。「空」は自然科学の世界の「ゼロ」と対応。

百済から伝来した仏教。飛鳥寺の大仏。蘇我氏の招福寺。国家仏教へ。江戸期の仏教。徳川は浄土宗。歴代将軍は6人が増上寺天台宗)、6人が寛永寺天台宗)。天皇の墓は泉湧寺。天皇家と仏教の関係。

1900年の新渡戸稲造の「武士道」。儒教が背骨、左右に仏教と神道という混成。

織田信長時代の仏教。仏僧とフロイスディベート。旧教革命のザビエルと、同じく浄土宗への対抗仏教革命の日蓮。

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寺島さんと懇談:野田先生。斎藤勁。特任。

午後:高橋さんと情報交換。京都知研、、、。

午前中:品川で研究開発機構評議員会。総研所長として出席。

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「名言との対話」11月7日。筑紫哲也「『--という話である』を『ーーである』と断定することができるか」

筑紫 哲也(ちくし てつや、1935年昭和10年)6月23日 - 2008年平成20年)11月7日)は、日本ジャーナリストニュースキャスター

朝日新聞社記者、朝日ジャーナル編集長、TBSテレビ筑紫哲也 NEWS23』メインキャスター。筑紫哲也 リベラル派文化人の代表的存在だった。

「日本人は安全より安心を求める」」「報道記者は『炭鉱のカナリア』でありたい」

「私はガンを患っています。ガンに侵されると、本来使うべき栄養やエネルギーがガンと闘うためにそこに取られてしまう。本来人間が生きていくためのそれに向かなくなる。この国は、一言で言えばガンに罹(かか)っているのです」

「近ごろ「論」が浅くなっていると思いませんか。その良し悪し、是非、正しいか違っているかを問う前に。ひとつの「論」の専制が起きる時、失なわれるのは自由の気風。そうならないために、もっと「論」を愉しみませんか」(2008年夏)

『若き友人たちへーー筑紫哲也ラスト・メッセージ』(集英社文庫)を読んだ。この中に新渡戸稲造の「武士道」がでてくる。日本人は道徳教育をどうやっているのかという問いかけかけがあり、宗教なしで道徳教育をどうやっているのかと問われる。その答えが「武士道」という英語の本に結実した。私の人物記念館の旅と読書遍歴は「日本とは何か。日本人とは何か」がテーマである。新渡戸稲造の記念館では、神道儒教、仏教の混合体であるという説明があった。また二宮尊徳は「神道一さじ、儒仏半さじづつ」と述べている。安岡正篤は西洋では宗教が道徳を教える軸となっているが、東洋では宗教と道徳を合わせて「道」というとしている。また森嶋通夫は、皇室は神道、政府は儒教、庶民は仏教。3つの倫理体系の伸縮的な組みわせが日本の発展に寄与したと分析している。

筑紫は「日本人とはこういうものですよ、ということを総体として説明したものはほとんどない。『武士道』が1900年にアメリカで出版されてから現在に至るまで、有効な形で日本人を説明した本、そして多くの人に読まれた本というのは皆無です」と述べているのだが、私は徳治主義の根幹たる倫理教育、道徳教育にあたっては、日本の偉人たちの生涯と彼らが遺した名言を用いるのがいいと考えている。「人の道」を歩いて「天」に向かう聖人たちの姿をみせるのがいい。「人物記念館の旅」も、「名言との対話」も、その一環である。

2005年に訪ねた大分県竹田市の滝廉太郎滝連太郎記念館の名誉館長は筑紫哲也だで驚いたことがある。滝廉太郎の妹の安部トミの孫にあたるということだ。「大音必稀」と書いた筑紫哲也の書が掲げてあった。

 立花隆「文藝春秋」に書いた 「田中角栄研究」がきっかけで田中が逮捕されるにいたったとき、新聞記者たちはあんなことは知っていたと語り合ったそうだ。しかし、人からの伝聞と自らの調査では、ものが違ってくる。そこまで突き詰めたのかという問いかけだ。この筑紫哲也のジャーナリスト魂は学ばなくてはならない。

若き友人たちへ ―筑紫哲也ラスト・メッセージ (集英社新書)

若き友人たちへ ―筑紫哲也ラスト・メッセージ (集英社新書)