日経新聞の広告に久恒啓一編著『偉人の誕生日366名言集』。

本日の日経新聞「読書欄」の広告欄に、新著の広告。

久恒啓一編著『偉人の誕生日366名言集』(日本地域社会研究所)は、昨年の『偉人の命日366名言集』の姉妹編。この2冊で上下がそろった。7月2日発刊なのでまだアマゾンには出ていない。

f:id:k-hisatune:20180624054515j:image

 同じ広告欄に『これからの日中韓経済学』をみつけた。これは、多摩大の金美徳先生の監修の本。バートル先生も参加している岡山大学との共同の「キャンパスアジア」プロジェクトの成果。

f:id:k-hisatune:20180624054531j:image

 ------------------ 

 宝町の信用金庫会館京橋別館でみかけた小原 鐵五郎(おばら てつごろう、1899年明治32年)10月28日 - 1989年平成元年)1月27日)の銅像

城南信用金庫の第3代理事長であり、全国信用金庫連合会(現信金中央金庫)会長、全国信用金庫協会長を永年にわたってつとめたた人物。「裾野金融」「貸すも親切、貸さぬも親切」「カードは麻薬」「貯蓄興国、借金亡国」「銀行に成り下がるな」「人柄に貸せ」「産業金融に徹する」「経済は国民の幸せのためにある」などの「小原哲学(名前の一字を取って、鉄学・鐵学とも言われる)」は現在も信用金庫業界の経営理念として残る。財団法人小原白梅育英基金を設立し全財産を遺贈。同財団は日本でも有数の奨学育英基金

f:id:k-hisatune:20180624054554j:image

・ 「富士山の秀麗な姿には誰しも目を奪われるが、白雪に覆われた気高い頂は、大きく裾野を引いた稜線があってこそそびえる。日本の経済もそれと同じで、大企業を富士の頂としたら、それを支える中小企業の広大な裾野があってこそ成り立つ。その大切な中小企業を支援するのが信用金庫であり、その役割は大きく、使命は重い」

・ 「資金が必要ならばご融資し、お客さまのためにならない資金ならお貸ししないことが親切である」「ご心配して差し上げる」

---------------

国立映画アーカイブで開催中の「没後20年 旅する黒澤明」展。

f:id:k-hisatune:20180624054610j:image

-----------------

午後は、品川キャンパス

・金先生・浜田先生:日経広告。ホームゼミ。

・福井さん:研究開発機構の議事録

・大学院教授会

夕刻は、九段サテライトでインターゼミ。金先生と意見交換。

-------------------------

「名言との対話」6月23日。吉永祐介「巨悪は眠らせない」

吉永 祐介(よしなが ゆうすけ、1932年昭和7年)2月14日 - 2013年平成25年)6月23日)は、岡山市生まれの検察官(第18代検事総長)。弁護士

第六高等学校が学制改革岡山大学に包括され岡山大法文を卒業。在学中に司法試験合格し、1955年検事任官。東京地検検事正。1991年広島高検検事長。1992年宮澤喜一内閣の改造で法務大臣後藤田正晴となった。この時の就任第一声が「吉永君はどこにいるのか」だった。大阪高検検事長から東京高検検事長を経て、後藤田の評価と現場の「吉永コール」に応え、1993年検事総長に就任。

東京地検特捜部在任中の13年8ヶ月の間には日通事件、協和製糖事件、副部長時代の1976年に田中角栄元首相を逮捕、起訴。特捜部長時代にはグラス・グラマン事件捜査を指揮。リクルート事件でも捜査を主導。検事総長時代にはゼネコン汚職オウム真理教事件の捜査を指揮した。「首相の犯罪」捜査では、ロッキード社の幹部コーチャン証言の時には、「米国人は聖書に手を置いて証言するから嘘は言わない」と語っている。

原田國男『裁判の非情と人情』(岩波新書)という 2017年度の日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した元東京高裁判事のエッセイを読んだことがあるが、この本の中に吉永祐介検事総長は尊敬する先輩として名前が出てくる。仕事と趣味を含めたトータルの「人間の器」が大きな人と出会う喜びを原田は記している。裁判官は文芸作品や小説を読むべきだ、なぜなら裁判官に欠けている、情と人情を勉強できるからだ、という原田は、池波正太郎鬼平犯科帳』と映画の山田洋次男はつらいよ』シリーズをすすめている。

吉永祐介は特捜部の絶頂期を形づくり、「巨悪は眠らせない」という名言を吐くなど大事件を手がけた「ミスター検察」と呼ばれた仕事師だった。 「われわれは汚れたところをきれいにするどぶさらい」だと言い、池波正太郎鬼平犯科帳』の主役である長谷川平蔵を好んだという。検事も裁判官も、その理想は「長谷川平蔵」だったのだ。現代の司法はその伝統を継いでいるだろうか?

 

 

「首相の犯罪」を暴いたのは東京地検特捜部だった。捜査の主任検事は吉永祐介
「首相の犯罪」を暴いたのは東京地検特捜部だった。捜査の主任検事は吉永祐介

 

 

 

 

 

知研セミナー「本を書きませんか?」--人は死んでも本は残る。

夕刻から。

・17時半:知研の幹事会:知的生産の技術ブックスシリーズの構想を提示。1000部の本。300部配布。過去と現在の編集。音の図書館構想。、、、

・18時半から知研セミナー。日本地域社会研究所の落合英秋社長が講師。テーマは「本を書きませんか?」

f:id:k-hisatune:20180623052059j:image

囗池淵さんのまとめ。

池淵竜太郎 - 昨晩、6/22(金)は、荻窪の「日本地域社会研究所(地研)」で開催された「知的生産の技術研究会(知研)... | Facebook

・以下、落合語録。「人は死んでも本は残る」「たくさん売れないから長く続いた」「タイトルとサブが勝負」「アメリカ人は太った本と痩せた女が好き」、、、。

エーザイの浅尾さんと久しぶりに会う。

・根岸さんと構想を語り合いながら帰る。「地方活性化の実例本」「図解の普及」、、。

囗池淵さんのまとめ。

池淵竜太郎 - 昨晩、6/22(金)は、荻窪の「日本地域社会研究所(地研)」で開催された「知的生産の技術研究会(知研)... | Facebook

私自身も出版業界や編集業務に長く携わっておりますが、いろいろな気付きが得られました。

落合英秋さんのお話で、特に印象に残ったことは、「本は、本屋に並べられる2ヵ月前に売れるかどうかが既に決まっている」ということでした。

本が完成するには、まずは、著者や編集者が本の企画を立てて、著者が執筆を行い、脱稿後には、編集者の原稿整理を経て印刷所に入稿され、その間には編集者とのやり取りや、校正・校閲を経て、完全に内容が固まって「校了」となり、印刷所での製版・刷版・印刷・製本という工程を経て、晴れて書籍が完成して、一般の流通ルートとしては、「取次」と呼ばれる問屋から、各地の書店に「配本」されることで、初めて本屋の店頭や棚に、その本が並べられます。

そこで、一般の読者は初めてその本を手に取って、時には、目次や本文を数頁読んでみたりして、その本を購入するかどうかを検討して、購入しようと決意された本だけが、その読者の手元に渡りますが、その機会を得られなかった多くの本は、やがて一定期間を経過すると、書店の棚から消え去り、「返本」という作業の後に、出版社に“強制送還”されます。

一見、その勝負は、本屋の店頭で読者の目に触れた瞬間が始まりのように感じられますが、マクロの視点で見れば、その時点で、既に勝負の決着はついています。

すなわち、本屋の平台と呼ばれる“イチオシコーナー”や、ラックの目立つ位置に棚差しされる本は、有名作家など、ごく一部の“エリート書籍”に限られるので、無名の著者が執筆した本は、その書店の書棚の片隅に、ひっそりと置かれるだけでもよしとしなければなりません。

そのような運命を背負った「本」ですが、その本が完成する2ヵ月前には、既に「取次」の「新刊ニュース」に掲載されるための情報を、先に完成させないと、その土俵にすら乗らないということになります。

そして、「取次」と呼ばれる、東販・ニッパン・大阪屋栗田図書館流通センター(TRC)等の仕入担当者は、完成した本を読むことなく、その時点で作成された「新刊案内」の情報で全てを判断して、配本部数等を決めています。

この「新刊案内」は、書籍のタイトルとサブタイトルと概要を、まずは「百五字」(取次によっては、さらに「六十五字」)にまとめるように要求されます。

これは、著者と編集者の共同作業で作成されますが、この内容がキャッチーでない限り、取次の仕入担当者の心を掴むことはできないので、下手をすると、たとえ書店に配本されても、店頭に並ばれることなく、運ばれてきた段ボールのまま、そのまま取次に戻された後に、元の出版社に返本されるという悲しい運命を辿るケースもあります。

つまり、ベストセラーを連発しているような有名作家でもない限りは、この「新刊案内」の良し悪しで、その本に対する、その後の運命が決まってしまうということです。

一方、「自費出版」と呼ばれる出版形態は、そもそもが、著者の親戚や縁者に配布することを前提として考えられたものなので、原則として(一部書店にひっそりと設置されている“自費出版コーナー”を除いて)、書店や図書館には並べられないので、「本を出版した」という実績と、現物のみが残されます。

したがって、一生に一度は、自分で書いた本を出してみたいと思っておられる方は、是非とも、一般の市販書籍として、書店や図書館に並べられるレベルの本を出すことを目指しましょう。

なお、完成の2ヵ月前に作成する「新刊案内」の内容が、実際に完成した本とあまりにもかけ離れたものにならないように、最大限の努力が求められるのは、言うまでもありません。

---------------

10時:橘川先生と懇談。マッハ新書。留学生アンケート。

10時40分:授業。今回のテーマは「自民党憲法草案」。

12時半:Tスタジオで橘川さんと「トレンドウオッチング」の録画。「無限教師」と「マッハ新書」。

f:id:k-hisatune:20180623061841j:image

--------------

「名言との対話(平成命日編)」6月22日。滝沢修「俳優の仕事とは、結局は自分がどんなに豊かであるかに尽きる」

滝沢 修(たきざわ おさむ、1906年11月13日 - 2000年6月22日)は、日本俳優演出家

1924年築地小劇場に第1期研究生として入る。左翼劇場、中央劇場を経て、1934年新協劇団の結成に参加。久保栄薫陶を受けて『夜明け前』の青山半蔵,『火山灰地』の雨宮聡などですぐれた演技を示した。人物表現の綿密さ、長台詞の味わいの深さ、重厚な演技で、劇団の中心的俳優となる。

戦後は東京芸術劇場民衆芸術劇場の結成を経て、1950年宇野重吉らと劇団民藝を創設して代表を務め、日本の新劇を代表する俳優となった。民藝の二本柱は滝沢と宇野であり、「剛の滝沢、柔の宇野」と称された。

1951年(昭和26年)の三好十郎作『炎の人--ヴァン・ゴッホ小伝』ではゴッホをリアリズム演劇の最高峰といわれる演技で芸術祭賞、毎日演劇賞を受賞する。この役は生涯の当たり役となり、公演は83歳まで続けている。鬼気迫る役作りと重厚な演技で「新劇の神様」と呼ばれた。

映画では新藤兼人監督の『原爆の子』で、息子夫婦を原爆で失い幼い孫と貧しい生活を送る盲目の老人を力演し、第1回国際平和映画祭最優秀男優賞を受賞する。

 息子の滝沢荘一著 『名優・滝沢修と激動昭和』(新風舎文庫)は、、2005年(平成17年)に日本エッセイストクラブ賞を受賞している。

滝沢修は戦前に治安維持法で捕らえられた1年4ヶ月の獄中生活の中で、小学校時から好きだったゴッホの伝記を読み、舞台化の夢を描き実現させる。『炎の人』は滝沢の当たり役となり、369回の公演回数を数えた。滝沢のストイックな演技は、自分を磨きあげたその豊かさから出ているのだ。ゴッホは自分の目が本当に見たものを描く。いらないものは捨ててしまう。大事なものだけ強調して描く。その画法は滝沢自身の演技方法と通じるものがあると回想している。滝沢はゴッホに自分自身を見ていたのだ。

リレー講座:寺島学長「米朝首脳会談」と「17世紀オランダ論」

リレー講座:寺島学長「17世紀オランダからの視界--近代を問い詰める」

f:id:k-hisatune:20180621212214j:image

米朝首脳会談

・トランプ:中間選挙向けの政治ショー。ディールがキーワード。カウボーイメンタリティ。米国民はこの会談を5割以上が評価。

キム・ジョンウン朝鮮半島の段階的非核化。同時進行。在留米軍3.2万人の削減と非核化。中短距離ミサイルは? IAEA査察などの手続きは?中国の航空機でシンガポール往復は身を委ねたこと。中国のプレッシャー、猜疑心、恐怖心。

・周金平:和戦両用とも中国には望ましい。平和は中国への依存が増す。衝突時には米より先に軍事駐留。強権化と強大化。香港の民主勢力の締め付け。台湾への経済圧力。同時期開催の上海協力機構にはプーチン、ロウハニ、モンゴル大統領が出席。一帯一路・AIIBなど構想力。

・日本人拉致問題:トランプ「人権問題」。日帝35年の半島支配時の人権問題も(従軍慰安婦、労働者強制、、)。日朝首脳会談。戦後賠償。韓国には現在価値で4兆円。南北共通のテーマとして「反日」の人権問題が浮上? 日本人は肝が小さい。主体的構想が要る。成熟した民主国家への期待が世界にある。東アジアのリーダーにふさわしい知見が必要。

 

17世紀オランダからの視界:世界を見る視界の再構築。歴史の鏡を磨く。

・1997年ー2002年:フォーサイト「1900年への旅・ヨーロッパ編」「1900年への旅・アメリカ、アジア編」。20世紀とは何だったのか?

・2007年ー2010年:「脳力のレッスンⅢ・問いかけとしての戦後日本と日米同盟」。戦後日本とは何か?

・2010年から「17世紀オランダ論」連載49回:近代とは何か? 17世紀オランダはデモクラシ0・資本主義・科学技術・高い文化など「近代」の揺籃期。アメリカの誕生への影響。ロシアのピョートル大帝サンクトペテルブルグアムステルダムの真似。極東開発で1804年以降北から日本へ圧力。集合的知、結晶的知、第3の知能は仏教でいう「意識」。つながりが見るのを知性と言う。つながりの中で日本史が見えてくる。

・グローバルヒストリー(世界史)からビッグヒストリー(人類史)、地球史、宇宙史へ。「多摩の地域史が世界史につながる瞬間」。江戸の日本の知は儒学(中国)、国学(日本)、蘭学(欧州)、、。丸山眞男という壁、小林秀雄という壁を越えねばならない。寺島の特色は世界を見ていることで、クロスカルチャーの視点あり。西洋史観(西から東)。中華史観(鄭和の大航海。世界の4大発明)。モンゴル史観(元・清葉は異民族支配。岡田・杉山など日本の研究が最先端。右翼論客が支持)。すべてを相対化していく。今後は中国の強大化につき合うことになる。2000年4分の1、2010年並ぶ、2018年3倍、2038年6倍から9倍。今後、文理融合でビッグヒストリーに迫っていく。

--------------

・松本先生:日程調整

・学長:SNS時代の知的生産の技術、、、、。

・高橋さん:ジェロントロジーと知研。

-----------------------

「名言との対話」6月21日。増田通二「本だけじゃダメだ。本物を見なければいけない」

増田 通二(ますだ つうじ、1926年4月27日 - 2007年6月21日)は、日本の経営者。パルコ社長、会長。

父は日本画家。都立十中(現・東京都立西高等学校)に進み、堤清二と同級となる。東大で再び堤と出会う。卒業後、国立市の都立五商定時制の教師を8年つとめた後、1961年、36歳で西武百貨店に入社。1964年、系列で不振であった丸物デパートの雇われ社長となり、池袋パルコを開業。1973年、渋谷パルコをオープンする。1984年(株)パルコ社長。1988年会長。1989年退任。

パルコは、イタリア語で「公園」を意味。人々が集い、時間と空間を共有し、楽しんだり、くつろいだりする場という意味である。パルコの基本理念は「本人も周囲も面白がること」であった。日本の絶頂期の時代を席巻したパルコは常に新しい話題を提供した。一緒に仕事をした人材は、「増田学校」と呼ばれるほど、その後も活躍した人が多い。「パルコの広告コピーは、芭蕉ではなく蕪村だ」といわれたことを述懐する人もいる。上野千鶴子は、増田を称して「時代と才能の機会との幸運な出会い」と分析した。

「演劇こそ、すべてのアートの根源であり、人生のエネルギーの出発点である」が信条であった増田本人が語る行動パターンは、「うつむくらいなら、顔を上げて空を見上げよう」「考え込むより、まず行動」「泣く暇があるなら、笑っちゃう」であった。

引退後は那須のニキ美術館は、妻・増田静江が手がけたことが発端となって、1994年にフランスの造形作家の美術館を最後の道楽として財産をはたいて建てる。日本におけるドラマチックな彫刻美術館である。

増田通二は渋谷パルコのオープンの前年にスペインのバルセロナでガウディのサグラダ・ファミリア聖堂に出会い、頭を「ガーン」と殴りつけられる。47歳だった。建築という「定職」に導かれたという思いだった。自分もガウディのように自分の夢を見ようと考え、全国にパルコを建てていき、パルコがないのは新宿と横浜だけだというまでになる。増田のソフトとハードを動的に捉える力量は希有のものであった。本物との出会いが心に火をつけ、人生を変える。 

開幕ベルは鳴った―シアター・マスダへようこそ

開幕ベルは鳴った―シアター・マスダへようこそ

 

 

 

学部運営委員会。イベントサイト「イマタマ」で連載を開始。

・杉田学部長:会議の打ち合わせ

・10時40分:学部運営委員会:入試の「質」対策とホームゼミのあり方が中心テーマで白熱。

・松本先生

・中村その子先生

・金先生・杉田先生

------

13時:イベントサイト「イマタマ」を運営する「グッドライフ多摩」石原さんらが来訪。「イマタマ」のマガジンで連載を始めた「多摩人物記念館散歩」の打ち合わせ。記念館の紹介をし続けて、本にしてみようか、、、。

人物記念館 散歩 第1回 太宰治文学サロンと禅林寺 | イマ de × タマ マガジン

f:id:k-hisatune:20180620194203j:image

 

 

「名言との対話(平成命日編)」6月20日早坂茂三「世間に媚びを売らず、背伸びせず、自分を深く耕して一芸を身につけ、淡々とわが道を進む」

 早坂 茂三(はやさか しげぞう、1930年6月25日 - 2004年6月20日)は、日本政治評論家

早稲田大学政経学部卒。東京タイムズの記者を経て、取材で知り合った大蔵大臣田中角栄の政務秘書となり、早坂は33歳から23年間疾走する。「オレは十年後に天下を盗る。お互い一生は1回だ。、、どうだ。天下を盗ろうじゃないか」が大蔵大臣だった田中角栄口説き文句だった。

12歳年下の早坂は、田中角栄という傑物と日本の政治のど真ん中で一緒に戦ってきた。その体験から生まれた深い人間観察は、角栄の死後もメディアを通じて角栄の残像を示してくれた。不世出の英雄・田中角栄語り部である。角栄は人を惹きつけてやまない磁力を持ち、早坂は人に惚れ続ける熱いエネルギーを持っていた。

角栄はゴルフでは一日最低2ラウンドまわる。4ラウンドの記録もある。角栄が歩く速さは百メートル20秒!という猛スピードだった。私もゴルファーの一人だから、その体力が尋常ならざるレベルだとわかる。

以下、角栄語録。「(役人)は法匪だ。、、だから俺が鳥になって、空から道を示してやるのさ」「ウソをつくな。すぐばれる。気の利いたこちを言うな。後が続かない。他人の悪口を言うな。嫌われる」。

自民党幹事長時代に母・フメは「おら家のアニは東京で何か悪いことをしているんじゃござんせんか」と語り、英国人ジャーナリストを感動させている。そういえば、私の叔父の一人が東京で活躍していたとき、その母親(隠居のおばさんと呼んでいた)は私に「週刊誌に出るようなことはするなよ、と伝えてくれ」と言っていた。洋の東西を問わず、母親は常に心配性なのだ。

写真屋、カメラマン、山本君、山ちゃんとだんだん呼び方が昇格していった山本皓一が撮った写真集『田中角栄全記録』の一枚が角栄の「遺影」となっていて、「カメラマンの本懐だ」と山本は言った。遺影に使われたのは冥利に尽きることだろう。よく知られている車椅子の角栄の写真を空から偶然に撮ったのも山本だ。この人とは私は日航時代に一緒に旅をしたことがある。

以下、早坂語録。「危機に直面したとき、トップがどんな決断をするか、見事にはらを据えられるか、それが組織の運命を決定する」。「自らを信じ、他人に頼らず、甘ったれず、痛手に耐えてやり過ごし、目的の実現を計る情熱と意志の持続である。そして実行だ」。

早坂の68歳のときの著書『男たちの履歴書』は、角栄自身と彼を巡る男たちの物語であるが、同時に早坂茂三の履歴書になっている。登場人物は、角栄の刎頸の友、入内島金一と細井宗一を始め、梅棹忠夫もでてくる。早坂の勧める『言集』ラ・ロシュフコー(角川文庫)も読むことにしよう。

早坂茂三の人生の軌跡を眺めると、「背伸びせず、自分を深く耕して一芸を身につけ」ることに邁進した人だったと思う。それは、自分をよく知りわきまえて、自分をよく知る人とともに歩んだ早坂という男の人生観と処世術である。深い共感を覚える。

 

 

 

石牟礼道子「祈るべき天とおもえど天の病む」瀬戸内寂聴「子を捨てしわれに母の日喪のごとく」

『俳句αあるふぁ』夏号で、石牟礼道子(1927年生)と瀬戸内寂聴(1922年生)の俳句が目に入った。共通するのは「子を捨てた」ことである。

小説、エッセイ、伝記、シナリオ、能、狂言、詩、短歌、俳句、、など文芸のあらゆるジャンルに優れた作品を書いたが、晩年に一番親しんだのは俳句である。以下、石牟礼道子句集『天』と全句集収録の句から。

・死におくれ死におくれして彼岸花

・祈るべき天とおもえど天の病む

・毒死列島身悶えしつつ野辺の花

・いかならむ命の色や花狂い

・さけがけて魔界の奥のさくらかな

・花ふぶき生死のはては知りざりき

彼岸花 棚田の空の炎上す

・あめつちの身ぶるいのごとき地震くる

・わが道は大河のごとし薄月夜

「わたくしは水俣病がなければ、自分がそこに生まれ育った世界をこれ程ふかぶかとのぞたであろうかと思う」

 

瀬戸内寂聴句集『ひとり』から。

・子を捨てしわれに母の日喪のごとく

・独りとはかくもすがしき雪こんこん

「死の間際に私に残るものは俳句だな、と今は思っております」

-------------------

「名言との対話(平成命日編)」6月19日。美川英二「交際費をたくさん使って一流の人達と一流の場所でたくさん会いなさい。そうすれば人を見極める力が養えるはずだ」

美川 英二(みかわ えいじ、1933年8月17日 - 1999年6月19日)は、日本のラグビー選手、実業家。横河電機社長。

慶応のラガーマンだった美川は、入社した横河電機でコストダウンによる利益捻出作戦=「新幹線発想法」などを打ち出す。この考え方は米国GEのウエルチ会長の目に留まり、GEグループのコストダウン活動の基本的考え方として採用され幹部学校のテキストにまで載っている。59歳で社長になるが、破綻した山一証券の中年層を20名採用している。ウェルチと親交があり、入院した際には、自筆の見舞状をファクスで送って、ウエルチがいたわった。家族主義の温情的な会社であった横河電機年俸制や実力本位の人事を導入した。雇用は守る、給与なども最高クラスを出しているが、厳しい社内改革も必要という考えだ。

美川が社長だった当時、社内ベンチャーとして起業したキューアンドエー社(地域密着型のパソコン販売店)の金川裕一が、「そこまで言うのなら、やってみろ」とゴーサインを出した時、社長の心得として言われて、後に身にしみた言葉である。

美川英二の言葉を眺めて思い出すのは、企業に勤務していた30代の頃、「会社の金と自分の時間を使っていい仕事をしろ」と語ってくれた人事労務担当の上司と、「金の使い方が足らん」と叱責された広報課長の上司の言葉だ。社内の現場の人たちの本音をくみ取る。社外の異業種の先頭を走る人々と会い世の中の動きを察知する。もう一つ、社外のビジネスマン勉強会にも参加し活動し、先輩の指導を受けて時代の最先端を切り拓いている講師陣からも刺激を受けた。そういう社内外の案内人の指導を得て、なんとか組織人としての仕事をこなすことができた。

美川の言うように、組織のトップになると一流の人との接触による鮮度の高い情報入手と人物の見極め、そしてトップのあり方への示唆が、直接・間接に業績に直結するようになる。美川英二の葬儀時の奥様は「英二は戦士の如く働いたと思います。最後だけは私の我侭をお願いして家族だけで過ごすことが許されました」とお礼の言葉を述べた。何か切ない気もする。

 

 

 

会議二つ--アクティブラーニングと入試「質」対策

 

大学

・10時40分:アクティブラーニング支援センター運営委員会:経営情報学部、グローバルスタディーズ学部、大学院の責任者・担当者。授業評価。図書館。ICT教育。

・12時半:入試「質」改善対策ミーティング:杉田学部長、金入試委員長と。

14時半:高野課長:出版会

-------------

「名言との対話(平成命日編)」6月18日。山本直純「直純死すとも音楽死せず!」

山本 直純(やまもと なおずみ、1932年12月16日 - 2002年6月18日)は、日本作曲家指揮者

山本直純東京芸大の作曲科から指揮科に転じた。後輩の小澤征爾は後に「音楽のピラミッドがあるとしたら、オレはその底辺を広げる仕事をするから、お前はヨーロッパへ行って頂点を目指せ」と述懐している。大衆の中に音楽を通じて飛び込んでいく仕事をライフワークとしたが、それは大学指揮科在学中に眼を患い、視力の著しい低下から次々に新しいスコアを読み込み暗譜してコンサートに乗せることに不安を覚えるようになったからである。少年時代に読みふけった太田黒元雄『歌劇大観』の影響もある。

博学の山本の蘊蓄を聞いてみよう。「ギリシャ悲劇の出演者と観客の間に応援団がいる穴をオーケストラと言った。歌舞伎で効果音を出す下座である。その後、王侯貴族の使用人となった親衛隊がステージの上に登・第一バイオリンがなるコンサートマスターが臍である」「オーケストラを聴くのにいいのは、天井桟敷、左の真ん中、二階の前の左側」「比較的寿命の長い楽器は、ヴァイオリン、ピアノ、そしてオペラ歌手で、オペラ歌手は40、50を超えてから完成することも可能で、遅咲きの人も多い」「音楽ほどすばらしいものはない。その音楽を趣味にもった人間は幸福である。が、ひとたびそれを職業としたとき、それは音が苦となるからだ」「呼吸法の訓練にもなるフルートは結核などの病気にいいし、舌がよくまわるようになり、フルートの半分の長さのピッコロは牛若丸の横笛のようなものだ」私がいつか楽器を始めなら、ピッコロからにしようか。

大学在学中からテレビや映画の分野に積極的に進出し、ポピュラーからクラシックまで幅広く作曲活動を行うようになる。同時に、テレビなどを通したクラシック音楽の普及・大衆化に力を注いだ。山本直純を有名にしたのはテレビ番組「オーケストラがやって来た」である。1973年から10年間の人気番組で、音楽を全国の茶の間に届けた。私もこの番組で愉快なオジサンの姿を見、とをよく聞いたものだ。1982年から1998年までサントリー佐治敬三社長の後押しで行われた大阪城ホールの「1万人の第九」を成功させるなど、クラシックの大衆化に力を注いだ。

指揮者としての座右の銘は「名馬ムチいらず」。オーケストラが動きたいようにうまく乗ることが大事だという意味だ。先生の斎藤秀雄が言った指揮法として優れたアドバイスだ。斎藤秀雄小澤征爾岩城宏之尾高忠明らを育てた人だ。指揮についてのシステムを確立し、指揮法を後進に伝えた唯一の日本人だ。斎藤の父は斎藤秀三郎といい、日本の英和辞書を初めて編纂した人である。

「直純死すとも音楽死せず!」と叫んで指揮台からステンコロリと落ちて死にたいと願った山本直純は、急性心不全のため69歳で死去した。鹿児島県南種子町郷土館内に1998年に「山本直純音楽記念室」が開設された。墓石には上田敏の訳詩集タイトルの「海潮音」の文字が彫られている。

山本直純クラシック音楽の大衆化による人々の民度をあげ、幸福度をあげる仕事をライフワークにして、その道を迷うことなく歩んだようだ。確かに「直純死すとも音楽死せず」だ。山本直純は大衆に音楽に親しむきっかけを与えた影響力の大きい偉い人である。 

オーケストラがやって来た

オーケストラがやって来た

 

 

7月発刊の新刊の見本が届く。

7月発刊の久恒啓一編著『偉人の誕生日366名言集』(日本地域社会研究所)の見本が届いた。昨年の「命日編」とこの「誕生日編」で上下巻がそろった。

---------

今年毎日書いている「名言との対話(平成命日編)」で、なかなか人が見つからなかったため、抜けている日が4日あった。それを埋めることに着手。情報を集め、補完していこう。

---------------

「名言との対話」6月17日。宿沢広朗「銀行が必要ないと言えば、ラグビーに賭ける覚悟はある。ただ、両方やっていないと、価値がないんじゃないかと思う」

宿沢 広朗(しゅくざわ ひろあき、1950年9月1日 - 2006年6月17日)は、埼玉県出身の元ラグビー選手、ラグビー日本代表監督。

埼玉県立熊谷高等学校ラグビーを始める。東大紛争により入試が中止されたため、早稲田大学政治経済学部へ進学した。早稲田時代は、160cmと小兵ながら、卓越したゲームコントロール、機敏なプレー、果敢なタックルで2年連日本一になるなど続黄金時代を牽引した。

卒業後は1973年に住友銀行(現・三井住友銀行)に入行し、1977年末より7年半ロンドン支店に駐在。帰国後は主に為替ディーリング畑で過ごし、取締役専務執行役員コーポレートアドバイザリー本部長を務め、本業においても優れた実績を残した。

この間、1994年早稲田大学ラグビー部の監督に就任し、支店長職と兼任した。毎週水曜日だけは定時に退社してグランドに駆けつけ、後は土日祝日を利用していた。1989年から1991年まで日本代表監督となった。ラグビーの用事は、基本的に土日祝日・有給休暇しか使わないという方針を貫いている。1989年5月28日秩父宮ラグビー場IRB(国際ラグビーボード)所属のスコットランドに、平尾誠一主将のチームで28-24で勝利した。そして第2回ラグビーワールドカップ(1991年)では、監督として日本代表の初勝利を得ている。「本当に必 要なことは絶対に勝てということより「どうやって」勝つのかを考えて指導することであり、具体的にかつ理論的に 頑張るのか指導すること」、これが宿沢監督の方針だった。

座右の銘は「努力は運を支配する」「勝つ事のみ善である」。講演会などで「戦略は大胆に、戦術は緻密に」「リーダーは選ぶものではなく、育てるもの」と自身の信条をよく述べていた。

宿沢の言葉は、ラグビー指導者にとどまらず、組織人としての教訓にも満ちている。

・いつも背伸びして、手を目いっぱい挙げ、その指先が届くかどうかのレベルにチャレンジする事だ。辛いけど、そうすれば自身が磨かれる、成長できる。

・会社員にとって『自分がやりたい事』と『人事や周囲の人たちがやらせたい事』は往々にして違う。仮に違っても、それはそれでチャンスだと思う。

・サラリーマンの醍醐味は『組織の長として自分の思うように組織を動かせる』事に尽きる。それを経験せずにサラリーマンを論ずることはできない。

日本の代表的銀行で出世を果たしながら、ラグビー監督としても大活躍するという二足の草鞋、いや現代流にいえば正真正銘の「二刀流」を見事に成功させた。宿沢は両方をギリギリまでやることに価値があると考えたのだ。この心構えとそれをやり遂げたのは見事だ。登山中に心筋梗塞を発症し55歳で急逝したが、そのまま突き進んでいたら、どのうような生涯を送っただろうかと同世代の英雄の姿を想像する。

 

  

TEST MATCH―宿沢広朗の「遺言」 (講談社+α文庫)

TEST MATCH―宿沢広朗の「遺言」 (講談社+α文庫)

 

 

--------------------------

今年書いている「名言との対話(平成命日編)」で、抜けている日が4日ある。それを埋めることに着手した。未完。

 

「名言との対話」2月29日。鏡里喜代治「10番勝てない時だ

鏡里 喜代治(かがみさと きよじ、1923年4月30日 - 2004年2月29日)は、青森県三戸郡斗川村(現・青森県三戸郡三戸町)出身の元大相撲力士。第42代横綱

太鼓腹を活かした寄りが得意で、右四つで左上手を引きつけて、相手を太鼓腹に乗せて浮きあがらせ、悠然と寄り切っていくという取り口だった。69連勝の双葉山を師匠として直伝の野雲竜型の横綱土俵入りの見事なせり上がりは「動く錦絵」と称された。鏡里は生涯記録の幕内勝ち星のうち、実に40%は「寄り切り」だった。

横綱昇進後、不振が続いた鏡里は、場所前に「10勝できなければ引退する」と記者に語った。結果は9勝にとどまり、千秋楽をもって引退する。同じ場所に、三役時代からライバルだった筋肉質で八等身の吉葉山は9日目に引退している。吉葉山との取り組みは明治時代後期に「梅常陸時代」と呼ばれ、相撲黄金期を築いた梅ヶ谷藤太郎常陸山谷右エ門の対決を彷彿とさせた。

食生活と過激な運動習慣に影響で、一般的には相撲取りの寿命は短い。そのような中で横綱が60歳の還暦を迎えることはめでたいとし、赤い綱を締めて土表入りをすることになっている。近年では大鵬の例を思い出す。鏡里はリハビリ専念中であったため還暦土俵入りはしなかった。80歳で没したが、これは横綱としては梅ヶ谷の83歳、若乃花の82歳に次ぐ長寿であった。

1958年1月場所で不振だった鏡里へマスコミが横綱の責任とは具体的には何かと問い、「10勝勝てない時」に責任を果たせたとは言えないと回答。10勝にわずか1勝届かなかったため、潔く引退。 出処進退のきれいな有言実行の横綱だった。

 

 

「名言との対話」4月19日。高橋節郎「絵心、詩心、遊び心が芸術家の三大要素である」

髙橋 節郎(たかはし せつろう、新字体高橋 節郎旧字体高橋 節郞1914年大正3年)9月14日 - 2007年平成19年)4月19日)は、日本の芸家である。

当初は画家志望だったのだが、父が画家になることに反対し、やむなく東京美術学校では工芸科漆工部に入学する。日々漆という素材と格闘するうちに、漆の魅力に惹かれ、「漆で絵を描こう」と方向を定めていく。

初期の多彩な色漆による表現から、深い黒をベースに金と朱に移行し、そしてさらに黒と金のみの表現へと進んでいった。都市の情景や詩的人物をへて、独特の幻想世界へと広がっていく。化石、古墳、星座などがモチーフとなっていく。日本独特の工芸美と欧米の近代美の融合がテーマとなった。

漆は色を出すには大変難しく、かつ時間がかかる。漆黒の黒と蒔絵の金は、漆の世界にしかない美しさである。そして幅の広い塗料でもあり、高橋によれば「漆の世界は、ペンダントから日光東照宮まで」扱えるのだそうだ。しかし素材に引きずられることを戒めていた。作家にとって一番大切なのは、感性であり、さらに哲学や思想であると考えていた。

1976年に母校の東京芸大の教授に就任。感性と想像力の教育に力を注いだ。学生たちには幅広い読書をす勧めた。1990年には文化功労者に顕彰された。1999年には愛知県豊田市豊田市美術館・高橋節郎館が開館。工芸科の個人美術館は珍しく芹沢けい介、藤原啓、河井寛次郎などがあるが、漆芸作家は高橋節郎だけである。作家冥利に尽きると感謝し、自らの仕事を全部並べている。

絵心、詩心、に加えて、遊び心を芸術家に必要な要素とあげている。体や頭だけでなく、人間だけが持つ心を満足させる遊びを挙げているのはさすがである。芸術という至高の分野は遊びと密接な関係がありそうだ。

 

漆 高橋節郎黒と金の世界

漆 高橋節郎黒と金の世界

 

 

「名言との対話」6月14日。谷岡ヤスジ「「鼻血ブー」「アサー!」「オラオラオラ」」

谷岡 ヤスジ(たにおか ヤスジ、男性、1942年8月29日 - 1999年6月14日)は、日本漫画家

1970年、『週刊少年マガジン』に連載した『ヤスジのメッタメタガキ道講座』で大ブレイク。作品の中の「アサー!」、「鼻血ブー」は流行語となった。この作品は大学生時代によくみかけた。「全国的にアサー」「全国的にツギノアサー」「ユーガター」「ショーガツー」「「ヒルに近いアサー」「ポカポカ-」などで場面やその展開が一発でわかる。父と母との本音のコミュニケーションをとるガキ、普通の家族の日常風景、勉強を巡る父母とのイザコザ、先生の偽善を暴露する生徒、、、、。

ナンセンスギャグで人気が出た谷岡は、文芸春秋漫画賞をもらい、活躍が期待されたのだが、1999年に56歳で夭折する。

登場キャラクターは殺されてもすぐに復活するし、作風はエログロナンセンスであっても、谷岡の作品の底流に流れているのは、どうしようもない人間という存在にに対する深い愛情のように思える。

 

 ヤスジのメッタメタガキ道講座―もうひとつの「少年マガジン黄金時代」

 
 「名言との対話」4月4日。佐々木高明「照葉樹林文化論」
佐々木 高明(ささき こうめい、1929年11月17日 - 2013年4月4日)は、日本の民族学者。国立民族学博物館館長。
中尾佐助とともに、照葉樹林文化論を構築し、提唱した。マツ、スギを中心とした針葉樹ではなく、シイ、カシ、ブナ、クスノキなど光沢の強い深緑色の葉を持つ樹木に覆われた表面の照りが強い樹木で構成された樹林である。
ヒマラヤから西日本の広がる照葉樹林帯では、森によって育まれた共通の文化が誕生した。モチ、ナットウを食べ、茶を飲み、カイコや漆を利用する。高床吊り壁の家に住み、歌垣、山の神信仰医、そして山の中にあの世があると信じる。この文化のセンターは中国湖南省から雲南・北ビルマブータンに至る「東亜半月弧」であるとする。「外国の引用文献などではなく、自分で調査した結果にもづいて語れ」という京都学派の風土の中で生まれた理論の一つが梅棹忠夫の「文明の生態史観」と中尾・佐々木の「照葉樹林文化論」だった
日本の民族学では、明治以来、特に戦後は日本人のアイデンティティについての研究が盛んになり、この理論は学界だけでなく、広く受け入れれた。西欧文明は西アジアの半感想地帯の草原がルーツであり、東アジアの照葉樹林文化は、大和森の生み出した文化である、という理論である。
この佐々木らの理論は「文明の生態史観」とともに、西洋を相対化するという視点で、戦後の日本人に自信を持たせたのである。文明の生態史観は西洋と日本は親せきであるとしたが、照葉樹林文化論はアジア世界の中に日本を位置づけた。

 

照葉樹林文化とは何か―東アジアの森が生み出した文明 (中公新書)

照葉樹林文化とは何か―東アジアの森が生み出した文明 (中公新書)