リレー講座:元特命全権大使・天江喜七郎「ロシアの中東外交と同地域の将来」

9時: 東京医療保健大学の田村副理事、利光事務部長、佐藤先生が来訪。杉田学部長と対応。

10時:杉田学部長と意見交換。

10時40分:事業構想論で講義。1時間。「大学改革の多摩大モデル」。

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 13時半:知研の高橋副理事長が来訪。仙台、岡山、沖縄、宮島、北海道、、。

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14時:今泉先生(大学院教務部会長):大学院の留学生対応を協議。

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14時50分:リレー講座:元特命全権大使・天江喜七郎「ロシアの中東外交と同地域の将来」。

プーチン大統領の世界観・中東観:プーチンソ連崩壊は20世紀最大の悲劇と考えている。偉大なロシアの復活、大国ロシアの威信の回復が主題。ソ連崩壊時2年で3000人の将校が自殺。アフガンではソ連軍の撤退。イラクでは米国支配に。シリアでは米国はアサド排除を企図する。ウクライナまでEUにという流れに反発した。プーチンは力、悪さ、外交など全方位でハイブリッド外交を展開中。

プーチンの次なる一手:米国トランプ政権の分裂で外交的足かせになり中東離れを。欧州も中東離れ。シリアでは和平工作を主導しロシアの地位を確立。トルコではイランを味方につけて影響力を拡大。イスラルではロシア系比率は20%台、ネタニヤフ政権と太いパイプ。サウジではエネルギーで接近しサルマン国王がロシアを初訪問。イランとサウジ・イスラエルの仲裁でロシアに地位向上を図る。

・日本の役割:中東へ関与を深めるべし。イスラムは15億人:米国一辺倒からの脱却(ロシアとの協調。中国・印度と連携)。シリア内戦(話し合い解決を主張。在シリア日本大使館の再開。トルコとの共同。難民は人道支援を強化。)。イランと米国の核合意を支援(米国への合意遵守を働きかける)。トルコ、イスラエル、サウジを軸に新たな中東外交を図れ。

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○多摩キャンパス

  ■一般受講申込者数:433名。出席者数:316名 出席率:72.9%

  ■学生出席者数:187名(履修外聴講生の数を含む)

○湘南キャンパスライブビューイング

 ■一般受講申込者数:47名。出席者数:39名 出席率:82.9%

  ■学生出席者数:21名

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18時半:九段サテライトにて多摩大「志塾会」(学部OB会・大学院OB会)。講師は経済アナリストの池田健三郎先生。冒頭、私から「多摩大の戦略、現在、方向」を説明。

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「名言との対話(平成命日編)」4月26日。大山倍達「この地上において、自分より強い人間が存在することを絶対に許さない」

大山 倍達(おおやま ますたつ、1923年7月27日大正12年6月4日) - 1994年平成6年)4月26日)は、朝鮮半島出身の武道家極真空手)。国際空手道連盟総裁・極真会館館長。段位は十段。

1947年、戦後初の全日本空手道選手権に出場して優勝。1950年11月、千葉・館山で猛牛と対決し47頭の牛を倒す。うち4頭は一撃で即死。1962年、日本に帰化1964年(昭和39年)国際空手道連盟極真会館を設立し、以後数々の名だたる弟子・名選手を輩出。国際空手道連盟極真会館の会長に佐藤栄作が就任1970年代週刊少年マガジンに連載された梶原一騎原作の劇画空手バカ一代』で、主人公として取り上げられた。1975年には通称『カラテオリンピック』と呼ばれる第1回全世界空手道選手権大会を開催して、全世界に極真空手ブームを巻き起こす。1988年、すべての都道府県に極真会館組織が確立した。世界120ヵ国に公認道場を持ち、1200万人の門弟がいたというから、事業家としての才能の高さも並大抵ではなかったようだ。

私の大学生時代でも『空手バカ一代』の影響で、大山倍達の存在は大きかった。今でも出勤途中に「極真会」の看板を見かけることがあり、大山を思い出すことがある。

・切り花でなく根のある花であれ!

・若いうちに1つ泉を掘っておけ!そこから無数の興味が湧いてくる

・貯金した努力には実力の利息がつく。浪費した才能には挫折の債務がつく

・頭は低く、目は高く、口慎んで、心広く、孝を原点として他を益する。

・出る杭は打たれるものさ。それが嫌なら何もしないことだ

大山の座右の銘11ヵ条の中には「武の道において真の極意は体験にあり」がある。ここから極真会の名をつけたのだろう。また「武の道においては点を起とし、円を終とす 線はこれに付随するものなり」も面白い。また同じ武闘家として大山は宮本武蔵を尊敬していた。「武の道においては千日を初心とし 万日の稽古をもって極となす」は武蔵の『五輪書』の名言「千日の稽古をもって鍛となし、万日の稽古をもって錬となす」をなぞったものだ。大山倍達は「格闘技の中では空手が一番強く、空手の中では極真が一番強い」と、極真最強論を公言していた。自分より強い人間の存在は許さないという気迫は鍛え抜かれたこの自信からきていることがわかる。

 

 

教授会。T-Studioで「名言との対話」収録。

・学部運営委員会

・教授会。冒頭、交換留学生の紹介。フランス、中国天津財経大、中国広東財経大から21名。賑やかになりそうだ。

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・学長室の渡辺さん:戦略会議(入試)の「方向と具体策」。

・小西先生

・バートル先生

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・T-Studioで「名言との対話」の31回目の収録。ゲストは小林先生。小林先生の座右の銘「精一杯やってだめならしかたがない」を材料に18分の対談。

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大分県別府から入学してきた佐保君来訪。

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 図書館に「多摩大生が選んだ! おもしろかった本!」コーナー。私の『団塊坊ちゃん青春記』も並んでいるのを発見。

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 「名言との対話」4月25日。尾崎豊「僕はお金のためにロックンロールをやっているんじゃない。僕は僕の歌を聴いてくれて希望を持ってもらえるために歌うんです。僕は傷ついた人たちのために歌いたい」

尾崎 豊(おざき ゆたか、1965年11月29日- 1992年4月25日)は、日本歌手作詞家作曲家編曲家詩人実業家

10代の三部作『17歳の地図』『回帰線』『壊れた扉から』はティーンエイジャーから絶賛された。

デビューアルバム『17歳の地図』の中の「15の夜」には「覚えたての煙草をふかし星空を見つめながら自由を求め続けた15の夜」という歌詞。最後の曲は「僕が僕であるために」だ。『回帰線』の中の 「卒業」では、「あと何度自分自身卒業すれば、本当の自分にたどりつけるだろう 仕組まれた自由に誰も気づかずにあがいた日々も終る この支配からの卒業 闘いからの卒業」という歌詞が印象的だ。この歌は、当時の全国の中高生の間を稲妻のように駆け巡った。私も妻が尾崎を好きでアルバムを聞かされ続け、尾崎豊の歌の歌詞と熱情に打たれてしまった。

13歳年上の音楽プロデューサー須藤晃は『尾崎豊 覚え書き』(小学館文庫)の中で、今まで世の中に出ていた音楽、歌とは明らかに違った言葉の表現、リズム、メロディーが存在していて、すごい才能だ、不世出のアーチストだ記している。

わずか26年間の人生を疾走した尾崎豊の死因は覚醒剤中毒 (メタンフェタミン中毒) による肺水腫である。雨の中の護国寺での告別式には4万人以上のファンが集まった。その規模は、戦後唯一の国葬吉田茂、歌謡界の女王・美空ひばりの葬儀に匹敵する人数だった。

尾崎の死後、アルバムが急激に売れる現象が起こり、1992年5月25日付けのオリコンアルバムチャートでは、TOP10中6作を尾崎が占める現象が起こった(1位『放熱への証』、4位『回帰線』、5位『十七歳の地図』、6位『LAST TEENAGE APPEARANCE』、7位『壊れた扉から』、9位『誕生』。

1992年の死後、カリスマ的人気のある尾崎の思想や活動のため、中学・高校などの教育現場で長らくタブー視されて来たが評価も変わり、高校教科書に顔写真や「15の夜」の歌詞が掲載される(『高等学校 新倫理 - 人間とは何か 思索の糧に - 』 清水書院2002年)ようになっている。

・ロックンロールは人間と人間のきずなの意味を模索する一つの表現方法なんだ。

・自分の好きな言葉を、好きな詩を、好きな表現を時間をかけて創るためには、自分でやるしかないんだ。

・自分の中のアマチュアリズムが許せないんだ。もっともっとプロフェッショナルになていかなければならない。

・体験させること、体験してもらうことが、ティーンエイジャーの成長にとって必要不可欠だと思うんです。

「どんな困難にも負けないで いつまでも夢を捨てないで 君たちへ僕からの精一杯の愛情をこめていつまでも歌い続けることを約束します」という尾崎豊の歌は、傷つきやすい若者へ向けての「夢と希望」を捨てるなという応援メッセージだった。「自由っていったいなんだい 自由になりたくないかい みんなは思う様にいきてるかい」、、、。この人の歌は時代を越えて若者たちに共感の小波を起こし、その心に深く響き続けるだろう。

 

尾崎豊 覚え書き (小学館文庫)

  尾崎豊 約束の日

 

 

早朝はヨガ、午後は大学、夕刻は整体。

午後。

・研究室:秘書とスケジュール打ち合わせ。講義、講演の資料確認。

・ウンジ:高野課長とインターゼミの打ち合わせ。班の人数、担当教員の配置、、。

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早朝はヨガ、夕刻は整体。健康の日。

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「名言との対話(平成命日編)」4月24日。小島勝平「鼻は低く、志は高く」

小島 勝平(こじま かつへい。1936年1月28日--2007年4月24日。栃木県生まれ、1954年栃木県立宇都宮商業高校卒業後、実家の雑貨店を手伝う。1963年小島電機(コジマ)設立。「安さに勝るサービスはない」という経営信条を貫く。

家電販売における第一次戦争の勝者はベスト電器だ。次に1994年夏から、北関東を舞台に「YKK戦争」が勃発した。ヤマダ電機社長の山田昇は、群馬でディスカウンターを始めたころ、知人が「栃木にもすごい人がいるから訪ねてみるといい』」といわれ、早速、店に伺っていろいろと勉強させてもらう。その「栃木のすごい人」が小島だった。ヤマダ電機、コジマ、カトーデンキの激安価格での叩き合いは、3社の頭文字をとってYKK戦争と呼ばれた。YKK戦争は、家電業界の流通地図を塗り替え、1997年コジマは売上げ日本一となった。コジマ、ヤマダの価格破壊は全国へ波及する。家電の第2次戦争である。小島勝平は会長に退き長男が社長に就任。トップ交代で業界再編に乗り遅れたコジマはヤマダに首位を譲る。2002年からの第三次戦争の勝者はヤマダ電器である。経営の悪化したコジマは2012年にはビックカメラの子会社となる。そして第四次戦争は都心でのヤマダとヨドバシマカメラで戦われている。

家電量販店ではIT機器などよく買い物をするが、コジマトヤマダの安値競争の恩恵に与ったことがある。今回、小島勝平の人生を追う中で、時代潮流の激しい変化と、その中でストラッグルする企業の栄枯盛衰とそれを担う主役の経営者たちのこのような激闘があったことはよくは知らなかった。

「鼻は低く、志は高く」という人柄の滲み出たユーモアあふれる言葉をよく使っていたように、小島勝平は明るさと熱情をもって「安値日本一」という単純峻烈で強靭な経営理念で生涯を戦い抜き一代で売上げ「日本一」となったのだが、その後ライバルに敗退していく。カリスマ創業者が奮闘し急成長した企業のトップ交代の難しさと、創業経営者の悲哀を感じる人生のストーリーである。社長を退いた60代後半から亡くなるまでのの心境はどのようなものだったのだろうか。

「電力の鬼」「最後の大茶人」松永安左エ門(耳庵)に関する書物5冊。

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多摩モノレールの最前列から。

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松永安左エ門に関する書物を読んできて下記の5冊を読了した。この人物が立体的に見えてきた。

松永安左エ門『電力の鬼』(毎日ワンズ)。新井恵美子『七十歳からの挑戦』(北辰堂出版)。『松永安左エ門 自叙伝』(日本図書センター)。『芸術新潮 最後の大茶人松永耳庵 荒ぶる侘び』。『茶の湯交遊録 小林一三松永安左エ門』(思文閣出版)。

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「名言との対話(平成命日編)」4月23日。木村庄之助「行司も力士も親方衆も、昔からの相撲の型、行司の型を後世に伝えるよう努力し、協会はそれができるような体制をつくるようがん張ってもらいたいものだ」

第22代木村 庄之助(きむら しょうのすけ、1890年3月1日 - 1994年4月23日 )は、大相撲立行司

1898年秋、尋常小学校を二年で中退して大坂相撲竹縄部屋に入門し、1899年6月に木村金八の名で初土俵1907年6月に木村信之助で幕下格、1909年5月十両格、木村錦太夫の名で1912年1月に幕内格となった。1922年5月に、大坂相撲に愛想をつかし1923年5月場所限りで廃業。その後、両國出羽ノ海の誘いで1924年1月に東京大角力協会に移籍し出羽ノ海部屋に所属した。初代木村林之助、初代木村容堂、12代木村玉之助から18代式守伊之助を経て、22代庄之助となった。

人格、識見、土俵態度、うちわ裁きなど、すべてにおいて抜群で、松翁の名誉尊号を許された20代木村庄之助に匹敵する名行司と称えられた。「髭の伊之助」といわれた19代式守伊之助とともに、大相撲人気絶頂である時代の土俵を裁いたが、1959年11月、65歳停年制が導入され伊之助と同時に退職した。退職後、1961年より4場所ほど日本テレビの解説、翌1962年から3年間、NHKテレビの解説を担当した。

 1959年九州場所の千秋楽をもって引退した。結びの「栃錦(寄り切り)若乃花」が最後になった。満で69歳8か月だった。子どの時代の私は若乃花が贔屓だったから、今から思うと「同じ立行司でも伊之助から庄之助になるともうひとつ責任が重い」というこの名人の裁きで楽しんでいたのである。行司界の「松翁」号は代々の木村庄之助中の抜群の名人にのみ許される尊称で、長い大相撲史上3人だけである。22代庄之助もこの尊称をもらう話があったのだが、最終的には流れてしまったのは惜しい。

・立ち合いに「ハッキョイ!」というのは「お互いに力いっぱいやれよ」という意味であり、力士が攻め合ったとき「ノコッタノコッタ」というのは「よく残したな、まだ残っているぞ、しっかりやれ」という意味で、ともに励ましの言葉である。

庄之助は104歳の長寿であったが、90歳の庄之助は「昔の相撲取りは、迫力があったな。今はただ『勝て、勝て』だけど、昔は違う。引かば押せ、押さぱ忍べといってね、踏んばる姿こそ力士の本領だった。だから力士っていったんだ……それだから、みんな体がぴかぴか光っていたもんだよ、、」「土俵へ上がった力士たちを見るとね、気力でわたしには、どっちが勝つかわかったもんですよ。勝負は、気力だったんだよ…行司っていうのは、気と気のぶつかり合いをいかに引き立てて見せるかという仕事なんですよ」と語っている。

 「行司は力士に相撲を取らせるのだという心意気、意気込み」を持っていた第22代木村庄之助の目は厳しく、それぞれが「型」を伝えることを期待し、協会はそれを支援せよという。国際化し、問題山積みの現在の相撲界を庄之助はどう見るだろうか。

 

 

 

 

 

『寺島文庫通信』2018春号。vol60。

『寺島文庫通信』2018春号。vol60。

・アナログの書物・文献からの情報とデジタルで刻々と入ってくる情報の相関の中で、執筆に向かう仕組み。

・「脳力」はたえざるフィールドワークと文献研究の相関の中でスパークする。

・知的三角測量。民族と宗教。中華民族ロシア正教。全体知。6万冊。

・『食べる通信』(食のつくり手を特集した情報誌と、彼らが収穫した食べものがセットで定期的に届く“食べもの付き情報誌”。37地域)

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「名言との対話(平成命日編)」4月22日。斎藤英四郎「明るさを求めて暗さを見ず。今日失敗しても明日に明るさを求める。人の欠点より長所を見る。その方が人生楽しいじゃないですか」

斎藤 英四郎(さいとう えいしろう、1911年11月22日 - 2002年4月22日)は、日本の実業家。新日本製鐵新日鉄、現・新日鐵住金)の元社長。経済団体連合会経団連)第6代会長。

主に営業を担当してきた斎藤英四郎は豪放磊落な明るい性格だったが、新日鉄社長時代の第一次石油ショック後、業界全体が構造不況に陥る中で合理化案を提示している。組合にも必死の思いで理解を求め、全社一丸となって再起に挑んだ心中を「「苦しい時の楽こそ本当の楽である」と観念し、これを求め続けることを心に誓った」と語っている。そして「いいときばかりは続かないよ。悪くなることを想定した対策を、良い時にしっかり考えておかねばならない」と経営の指針とした。

JAL広報部時代、「エアライン経営のトレンド情報誌」月刊currentsという航空界識者を読者対象とした雑誌を創刊し編集長をつとめたことがある。この時、論客・日下公人らとともに、新日鉄の斎藤英四郎にも登場してもらったことがある。

2020年の東京オリンピック組織委員会は元総理の森義朗会長であるが、代々財界の大物がつとめてきた。東京五輪は安川第五郎 九州経済連合会会長、札幌五輪植村甲午郎経団連会長、そして長野五輪斎藤栄四郎 経団連会長だった。

斎藤は山﨑豊子の小説『大地の子』のモデルとなった上海宝山鋼鉄誕生に際して新日鉄が支援したのだが、当時の稲山嘉寛社長の理解で取材が行われた。 その折りにの後を継いだ新日鉄の斎藤英四郎会長は、中国進出は「戦中の罪滅ぼし」と考えていたのだが、山﨑は斎藤の失礼な態度と、木で鼻をくくったような答えに激怒し、「私を、そこらの作家と一緒にしないでください! もう結構です!」と憤然と席を立った。そのことを山﨑豊子が書いて、よく知られるようになってしまった。

斎藤英四郎は生来のネアカな性格に加えて、明るさを持ち続けようと意識して人格を創りあげたのである。仕事が人をつくり、地位が人をつくる。

 

 

 

 

インターゼミ(社会工学研究会):多摩学班。アジアユーラシア班。AI班。サービスエンターテイメント班。地域班。

インターゼミ(社会工学研究会)の2回目は15時半からスタート。

学長

・多摩学班:グローカリティの思想。地域史が世界史へつながる。知性はつながり。

・アジア班:モンゴルでインスパイヤーされた【世界」の3部作。北朝鮮問題。中国とどう向き合うか。チェジュ島、台湾、インドネシアなどアジア経験者が増えている。

AI班:人間とは何か。動物との違いは何か。デジタルエコノミーの光と影。

・サービスエンタメ班:ディズニー。ショッピングセンター。コンビニ。流通エンジニアリング。ネット。銀行、ロフト、デパート、SOGO,赤ちゃん本舗、、、。みんなが行く所に行くという流れ。なぜか。

・地域班:「2045年の日本」の衝撃。東京のみ人口増。秋田県は4割減少。産業。過疎化の研究。500万から370万人に減る北海道。札幌に3分の2が集中。動物天国へ。酒田と奈良。

 

アジア・ユーラシア班。

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多摩学班

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AI班

 

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サービス・エンターテイメント班

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 地域班

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「名言との対話(平成命日編)」4月21日。多田富雄「君と一緒にこれから経験する世界は、二人にとって好奇心に満ちた冒険の世界なのだ」

多田 富雄(ただ とみお、1934年3月31日 - 2010年4月21日)は、日本免疫学者、文筆家。

千葉大教授、東大教授として、免疫学に貢献。野口英世記念医学賞、朝日賞を受賞。文化功労者。

1993年の『免疫の意味論』で大佛次郎賞、『独酌余滴』で日本エッセイストクラブ賞を受賞するなどして世に知られた。また「能」の作者としても優れた作品を残している。その縁で白洲正子とも親しかった。「『西国巡礼』(白洲正子)を読む喜びは、白洲さんとともに己を発見する「道行」を重ねることだと思う」。白洲正子の「西国巡礼」で同行した多田富雄が、巡礼とは自己発見の旅であると喝破しており、私は目からウロコの思いをしたことがある。

2007年9月に多田富雄『寡黙なる巨人』を読んだ。その時のブログにはこう書いている。「世界的な免疫学者による平成版「病状六尺」。脳梗塞による半身不随と失語症との戦いの中で、自らの再起ではなく、自らの中で生まれつつある巨人の再生を感じる著者。以前にまさる活発な著作活動と介護制度改悪に抗議する社会運動を行いながら生き続ける意欲と姿に感動する。父が右半身不随と失語症に長い間悩まされたので、多田先生の記述によって父の感覚や絶望やリハビリの効果、生きる意欲などを垣間見ているような気になって読み進んだ」。

さて、このたび再度小林秀雄賞を受賞したこの名著を読んだ。2001年5月2日に67歳で倒れ、それから6年間の生活をつづった作品である。謡の「飢えては鉄丸をのみ、渇しては銅汁を飲むとこや」という文句を思い出して嗚咽する。「はじめに」では半身不随で沈黙の世界にいる多田富雄は「昔より生きていることに実感を持って、確かな手ごたえをもって生きている」、「その中で私は生きる理由を見出そうとしている。もっとよく生きることを考えている」と心境を述べている。

脳梗塞になって生まれ変わったと確信した多田富雄は、リハビリによって歩ける日が来ることと、初めてのパソコン操作による文章を書いて社会に参加できるという「希望」を持った。その苦難の道行きは、新たな冒険と探検の世界だった。冒険を試み、未知の世界を感じ、調べ、報告する。再生した多田富雄は探検者として、その後数年を生き切り、健常者にも病者にも、大いなる勇気と優れた啓示を与えたのである。

寡黙なる巨人 (集英社文庫)

 

 

午前は授業。午後は3つの連続会議。

10時:橘川先生:無限教師。音の図書館。大いなる多摩学会。

10時40分:ビジネスコミュニケーションの授業3回目。「私はこんな人です」というテーマで図解演習。

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13時30分:教学マネジメント会議「カリキュラムの現状と課題」「教務・教育上の問題点」「教学マネジメント会議の組織化」。

14時30分:戦略会議「入試」。経営情報学部。グローバルスタディーズ学部。大学院。テーマは質の向上。来年度の数。

15時30分:大学運営会議

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【名言との対話」(平成命日編)」4月20日竹内均「前進あるのみ」

竹内 均(たけうち ひとし、1920年7月2日 - 2004年4月20日)は、日本地球物理学者

竹内均はあこがれの寺田寅彦の孫弟子を自認していた。独特のふちの厚いメガネがトレードマークでテレビでもユーモアあふれる語り口で親しまれた。東大定退官後は科学雑誌「Newton」の初代編集長をつとめ科学知識の普及にも功績があった。

専門の地球物理学のみならず、一般科学から「修身」など人の生き方についてまで生涯で450冊の著書を刊行している。量産の秘密は書くことの5倍のスピードになる口述筆記だった。通勤で新書1冊を読み、読書メモもテープレコーダを活用、内容を要約して保存する。1時間で新書1冊は10枚のまとめになって蓄積をしていく。

執筆のノルマは毎月300枚以上を自身に課していた。あるテーマに関して3-4枚の断片を積み上げていく。100集まれば著作となる。売れる売れないに関係なく、自分の勉強のために原稿の形でストックしていくのである。

・独創というのは、すべての要素や知識、情報を収集し、可能なかぎり組み合わせて、その中からベストなものだけを選び、誰も考えつかなかった考えやイメージをつくり出すこと。

・仕事を遊びにする一つの方法は、その仕事を遊びと感じられるまで、その仕事に打ち込んでみること。

私もビジネスマン時代には竹内均の書いた「修身」型の著作愛読者だった。。過去に読んだ本のエキスを縦横に用いていることがわかる。ひたすら前進し、ひたすら蓄積していく、そしてそれを様々なメディアを通じて発表し、世の中に影響を与え続けていく。「前進と蓄積」がこの人のライフスタイルであった。知的鍛錬の継続によって人生を最高に生きることができるのだ。

人生を最高に生きる私の方法―挑戦を続けよ!そして最良の人生を築け!

私の知的鍛錬法―きれっぱしからの発想 (トクマブックス 279)