門司港レトロの出光美術館を訪問。出光創業史料室と長谷川等伯と水墨画展。

門司港レトロ出光美術館を母と訪問。

1階が出光創業史料室。2階と3階が美術館。

出光興産の創業者である出光佐三は1885年に誕生している。明治18年だ。私の母の父、つまり私のおじいさんも明治19年生まれだからこの人と同時代を生きたことになる。

もともとは外交官志望であったが、父から商売をやるのが1番良いと言われ方針を転向。神戸高商に入学し、2人の恩師と出会う。その1人が中津出身の水島てつや校長だ。佐三は在学中の論文で、北九州の炭鉱の石炭埋蔵量は50年としてする石炭産業の衰退を予見した。そしてこれからは石油の時代だという結論を出す。

晴天が必要だとして丁稚奉公から入る。家庭教師をやっていたところの父である日田重太郎から見込まれて、金を返すに及ばぬとして資金の提供を受け、1911年に出光商会を創業する。

経営理念は、人間尊重、大家族主義、独立自治、黄金の奴隷となるなかれ、生産者より消費者へ、の5つであった。

この史料室には南満洲鉄道、いわゆる満鉄に貢献したとしてもらった賞状を見ることができた。

1945年8月17日。終戦から2日後、出光佐三は全社員を本社に集めた。会社を解散すると思っていた従業員に向かって演説をした。1、グチをやめよ。2、世界無比の3000年の歴史を見直せ。3、そして今から建設にかかれ。皆が沸き立った。この辺りは、百田の「海賊と呼ばれた男」に詳しい。

出光の経営理念である人間尊重とは、自分で自分を省みて立派な人間になることである。そして、「事業目標とせよ。金を目標とするな」と言った。

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若い頃から仙厓和尚の作品を始めコツコツと趣味で美術品を収集してきた。そして1966年には丸の内に出光美術館を作った。

出身地の宗像大社復興事業にも大きな支援をしている。宗像大社天照大神御子神の三柱を祀る日本で最も古い神社の1つである。

1981年3月7日出光佐三は満95歳で波乱の生涯を閉じた。天皇陛下は、「国のため尽くしたるきみまた去りぬさびしと思ふ」と詠んでいる。^_^

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2階と3階では「長谷川等伯水墨画」を見た。水墨画は澄明する水と、漆黒の墨を素材とした無限の奥行きと広がりを持つ絵である。中国を発祥とするこの斬新な絵画表現は日本にも伝播し、独自の表現美を獲得した。この分野の立役者がが長谷川等伯だ。

桃山時代水墨画の名人である雪舟にあやかって、雪舟五代を名乗った長谷川等伯が出た。

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新装なった門司港駅前で。

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以下、書きかけ。

「名言との対話」4月23日。衣笠祥雄「 」

 

不屈の鉄人。不死身のゴリラ魂。

扇風機打法。

 

打率に生きる割り算人生より、ホームランや打点を大切にする足し算人生。フルスイングの人生。

 

自分を信頼することを基本にして生きていきたい。

夢を捨てるか捨てないか。これで勝負が決まる。

フルイニング出場とは、先発出場して試合終了までオーダーに名前を連ねていることだ。この記録は678まで伸ばした。日本記録は700試合連続だった。次は連続試合出場日本記録への挑戦になった。

 

私は年齢による弱音は一切はかないことにした。

継続こそ力なり。人生は終わってナンボだと思います。

 

「自分とどう戦い続けるか 継続こそ力なり!」。

梅棹忠夫著作集第14巻「情報と文明」を読了。 

 梅棹忠夫著作集第14巻「情報と文明」を読了。
梅棹忠夫著作集第14巻「情報と文明」を読了。
情報の文明学。情報論ノート。メディアとしての博物館。以上3冊の著作をまとめた。いずれも恐ろしく内容が深く、衝撃的だ。

「情報産業論」は「文明の生態史観」と並んで梅棹の最も重要な論文であろう。「文明の生態史観」は空間的な面から人間の文明の姿を論じたものである。一方「情報産業論」は歴史的な面から人間の文明を論じたものだ。文明は人間に関わるものであるが、情報と言う面から見ると人間ももちろんだが、生物あるいは宇宙も視野に入っておりより重要な論文であるかもしれない。両方を重ねてみると梅棹忠夫の文明論の骨格ができあがる。
梅棹によれば、人類は農業時代、工業時代、そして現在は情報産業時代の曙の時代だということになる。それぞれ胃袋の時代、筋肉の時代、そして脳神経系の時代と対応している。人類は全体として自己実現の最終段階に入ったというのが見立てだ。
「情報産業論」は1962年(昭和37年)に書き翌年1月に発表された。その後50年近く経ったが、情報産業の時代は梅棹忠夫の予測通りに展開していると思う。農業も工業もなくなりはしないが、農業にも工業にも情報化が急激に進展しているのだ。サービスを中心とした経済になっていくというとらえ方ではではなく、この時代は主要な価値が情報となる時代だと捉えなければならない。。

情報という言葉をコンピューターというような狭い概念で使ったことによって、情報という言葉を用いた大学の学部は小さくなってしまった。私のいる大学でもそうだが、情報はもっと幅広い文明史的な概念で捉えるべきかもしれない。社会の価値の中心が情報であると考えることが必要だ。ファッションも、食べ物も、住宅も、最低要件以上の例えば肌触り、味、快適さなどがより重要になってきた。つまり情報産業になった。従来の第一次産業第二次産業第三次産業と言う分類はすでに過去のものになってしまっているはずだ。すべての産業が情報産業になりつつある時代である。

情報の価格はどうやって決めるのか。そこには原価という考え方がないから工業時代とは異なった決め方が必要だ。21世紀に入った今、GAFAなどの情報のプラットフォームを握る企業が世界を席巻している。彼らの稼ぎは額に汗して働く工業時代の企業では考えられないほどの高みにある 。原価は極めて安い。経営資源は人だけであるとも言える。平成日本は情報産業時代に入ったことを理解できなかったために衰退しつつある。時代認識を誤ったのだろう。

梅棹忠夫の洞察に改めて耳を傾けるべき時だ。

 

梅棹忠夫著作集 (第14巻) 情報と文明

梅棹忠夫著作集 (第14巻) 情報と文明

 

 


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7:00 (2 分前)
 
 
 
 
 

中津でゴルフ、宴会、カラオケ。

中津で周防灘カントリークラブで同級生のゴルフ。二組で行ったが、私の組は内尾くんと瀬口と島沢君。3人ともよくゴルフに行っているようでみんな実力伯仲。私はいつもぶっつけ本番で、なおかつ実家に置いてあった弟のクラブを使ったためか、スコアは史上最悪。しかし天気は快晴で暖かかったこともあり、また気のおけない友人たちとの対話があり、自然の中でのプレーは気分爽快だった。

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夜は駅の近くのくらやいう店で10人ほどが集まって恒例の宴会。

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一次会終了後、瀬口くんと藤田くんと3人で南風とスナックで歌う。ここのオーナーは中津北高の2年後輩で、元歌手。今回は瀬口君が絶好調でほとんどの歌を95点、96点を出す。私は91点が3回、最後は94点という好成績だった。結局午前0時までみんなで歌い続けた。楽しい1日だった。

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「名言との対話」4月21日。藤田田「 宇宙はすべて78対22に分割されている」

藤田田(1926年3月13日から2004年4月21日)は、日本の実業家。

藤田田日本マクドナルド日本トイザらス等の創業者。

藤田は食の西洋化が進むとはずだ確信し「日本人の食習慣を変えさせてみる」いう長期大戦略を成功させた人である。日本マクドナルドの経営では日本全国で価格破壊を引き起こした。日本マクドナルドは、デフレ時代の勝ち組として社長の藤田はハンバーガー王と謳われた。

1996年に刊行した「勝てば官軍」は、藤田の絶頂期のときの著作であり、意気揚々と自説を展開している。

藤田は商売の究極は女と口を狙う商売であるという。食の流行は女が男をリードするから、食のビジネスは成功する確率が高い。だから日本マクドナルドが成功したというのである。

以下、藤田田語録から。

・最悪の後には必ず最善がある。いかなる苦境にも屈しない強さを身に付けていれば、おのずと道は開ける。人生は希望を6割達成できればまぁまぁ良い。7割行けば上出来、8割できれば感謝すべきである。

・心眼を開け。好機はすでに眼前にあり。

藤田には「宇宙はすべて78対22に分割されている」との法則が支配しているとの確信があった。例えば、一般大衆の持っている金を22とすれば金持ちは78のお金を持っている。だからビジネスは金を持っている裕福な人から取ることを前提としなければ成り立たないと言う。金持ちの間で流行したものは2年ほどで大総研の衆のところに流れてくるから、ビジネスがうまくいくということになる。晩年は、価格政策の瞑想、BSEの影響などにより赤字になった。それ以降  順序社長会長を退任しているが、この法則は面白い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本日、図解ウェブが300万ヒット。

図解ウェブの訪問者が本日で300万ヒットとなった。1998年以来、20年かけての数字だ。

今から振り返ると日本におけるインターネットの創世記から取り組んだことになる。インターネットの時代は「図解の時代」だ、と考えていた私は図解を使ったホームページを作ろうと考える。私自身は技術がないので宮城大学のゼミの学生たちと一緒に作り上げることにした。しかし図解を使ったホームページは世の中に存在しない。学生たちはアメリカにはそういうものはありませんと途方に暮れていたが、まずは教育、研究、地域貢献という3つのジャンルに分けてトップページをデザインしてみた。それぞれの領域はしだいに情報が多くなり、複雑化していくことになった。その後何度も枠組みを変化させ今日に至っている。複雑なものには命があるというが、まさにホームページは一つの生命体だ。

300万といっても、1日あたりの訪問者はそれほど多くはないが、自分としては時間をかけて営々として築いてきただけに、ある種の感慨があるのも事実である。

私たちは農業時代、工業時代、に続く「情報産業の時代」の曙の時代にいるとは、梅棹忠夫先生の人類史の進化の区分だ。

ホームページに加えてその後次々と登場するメルマガ、ブログ、TwitterFacebookInstagram、など様々なソーシャルネットワークサービスを試してきた。SNSを図解ウェブに取り込みその情報を栄養として成長してきた。図解ウェブは、情報産業の時代を生きる基地、ベースキャンプであると考えてきたが、今の段階では航空母艦と考えるようになった。航空母艦からは日々様々な性能の戦闘機が飛びたって様々な世界と戦ってくる。その戦闘機たちが収集した情報は航空母艦そのものが航行するための重要な燃料となっている。SNSのエネルギーを充満した図解ウェブをレーダーとして、私は情報産業の時代という大海を航行しているという感覚だ。長い航海になりそうだ。

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名言との対話」4月20日岡本敏子「  お互いに相手を引き出すの。自分だけでは「自分」になれないもの。」

岡本 敏子(おかもと としこ、1926年(大正15年)1月1日 - 2005年(平成17年)4月20日)は、画家の岡本太郎のパートナーであり、かつ養女。

東京女子大学文理学部卒業。出版社勤務を経て、岡本太郎と親しくなり秘書となった。事実上の妻である。

一斉を風靡した風雲児岡本太郎の死後、青山のアトリエ兼自宅を改装し、岡本太郎記念館とする。太郎がメキシコで創作後、行方不明になっていた壁画『明日の神話』の捜索・補修に尽力した。現在、渋谷の駅の通路の壁にかかっているこの作品を見るたびにエネルギーが充満される気がする。太郎の死後、敏子はインタビューや著書によって太郎の再評価をはたらきかけて成功する。

この記念館には私も何度も足を運んでいる。岡本敏子館長が養女となっているのを不思議に思ったことがあるが、それには岡本太郎自身の深い慮りがあったのだ。岡本太郎という芸術家の残した作品がバラバラにならないために敏子を養女として迎えその管理を任せたということだったようだ。

岡本敏子『奇跡』という小説を読んだ。敏子77歳の時の作品である。岡本太郎に捧げる究極の愛の物語と、オビにある通りの作品である。21歳の女性が世間で注目を集める男と出会い、激しい愛をかわしながら、仕事の面でも重要なパートナーとなって成長していく。男が急死した後、様々な男たちとの交流があるが、最後はこの男との永遠の愛に生きていくという感動的な結末になっている。この小説はまさに岡本敏子の自伝であり、岡本太郎との永遠の愛を描いたものであるとは間違いない。

「私は胸を張って言う。この人に惚れずにいられましょうか。なれないもの。」

「女にとって、組織や役割なんて、いつでも脱ぎ捨てられるガウンのようなもの」

岡本太郎という最高の男は、公私にわたるパートナーだった岡本敏子によって創られた。太郎という傑作は敏子の存在証明の作品だったのだ。

 

 

朝、多摩キャンパスで学部の授業。夜は、品川キャンパスで大学院の授業。

朝は、学部の「ビジネスコミュニケーション」の授業。

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授業の前に、橘川先生と懇談。大日本、3人、新規、、、。

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 夜は、大学院の「インサイトコミュニケーション」の授業。

始まる前に、二宮さん、武井さんから院生から修士論文の副査の依頼を受ける。

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大手企業のビジネスマン、大学の事務職員、フィナンシャルプランナー。以下、受講生のFBへの書き込み。

  •  今日の授業で如何に文章で表現していることを体系的に理解できてい無いかが、理解できました。現業について自分自身でこれ程整理出来ないということは、何が目的で仕事を進めているか、何をするべきなのかが整理されていないことを意味していると感じています。また、人生においても何をしたいのか、何をするべきなのかなど、「個人」としての目的を設定するのに役に立つと考えます。これからインサイトコミュニケーションの授業をとおして、普通に図に落とし込むことが出来るぐらいまで深く物事を考える習慣を身に着けたいと考えます。また、卒業論文作成にも活用していきます。春期宜しくお願いします。
  • 難しい文章を読むことも書くことも苦手で、自分の考えをしっかりと持ちたい、伝えられるようになりたいと受講を決めました。本日のワークで、自分の仕事を図で書き説明しましたが、毎日の業務であってもペンが進まない、どう図にしたらいいのか分からないという状況でした。そして目的や、伝えたいことがはっきりしていないことや、前提条件も提示しなければ周りに伝わらないことがよく分かりました。図を見ながら話すことや、周りに意見を聞くことで足りないところに気付くことができ、そして他メンバーの図解を見ることでより視点が増えるので、ぜひ自分の仕事の図解を完成させ、仕事に活かせるよう学びたいです。まだつたない文章ですが、この毎回の感想も最後にはしっかりと想いを伝えられる文章になるようこれから沢山頭を使いたいと思います。

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 「名言との対話」4月19日。飯田善國「彫刻は主体と宇宙とを繋ぐものだ」

飯田 善国(いいだ よしくに、1923年7月10日 - 2006年4月19日)は、日本彫刻家現代美術家、詩人

少年時代に従兄から油絵具をもらい、絵画に熱中する。慶應義塾に進み、学徒出陣。帰還後は東京芸大に入学し、憧れの梅原龍三郎に学ぶ。画家を目指して渡欧した飯田は、イタリアの彫刻家・ファッチーニに学ぶ。1958年、ヴェネツィアビエンナーレでヴォルスの大回顧展を見て、「画家として自分がやろうとしていたことがすでに解決済みだった」という衝撃的な体験を受け、絵画を断念する。その後ミュンヘンでヘンリー・ムーアの大回顧展をみて衝撃を受ける。「ムアの世界は、一度絶望を知った人間の眼で見直された人生の風景とも呼ぶべきもので、絶望を内に匿し持っている人間が内部の絶望と折り合いをつけながら自覚的に生きる技術を身につけようとする固い意志によって造形されている」。そして飯田は彫刻の世界へ入っていく。

帰国後は木やブロンズ、ステンレス、さらに彩色を施したロープなどを組み合わせ抽象造形を展開している。1970年代半ばには東京都町田市に住居とアトリエを設けた。町田市芹ヶ谷公園の子どもたちの水浴び場になっている《彫刻噴水・シーソー(虹と水の広場)》は飯田の作品である。1983年から1989年には法政大学工学部建築画家の教授をつとめた。

飯田は野外彫刻公共彫刻展で数多く入賞を果たした。結果としてパブリック・アートと呼ばれる公共彫刻は40点以上にのぼっている。飯田は美術評論でもある。そして『ナンシーの鎧』、『見知らぬ町で』、『ネミ湖にて』など詩集を3冊出している詩人でもあった。また、詩画集『クロマトポイエマ』は、西脇順三郎の英文詩にスクリーンプリントを添えた作品、版画集『M.M.曲面シンドロームは、マリリン・モンローをテーマとした作品などもある。飯田の常設美術館「TRIAD IID・KAN」はハーモニック・ドライブ・システムズ安曇野工場敷地内にある。

飯田は境界をまたぐクロスオーバー・アーティストとなったのだが、岩波新書『彫刻家 創造への出発』は画家から彫刻家への転向の過程での苦悩や鬱屈、苦闘を記したている。飯田善國にとって、彫刻は宇宙とつながる道だったのである。

 

彫刻家―創造への出発 (岩波新書)

彫刻家―創造への出発 (岩波新書)

 

 

 

 

 

朝、「事業構想論」で講義。昼、多摩大総研。午後、リレー講座は寺島学長「世界の構造変化と日本の今」。夕刻、スポーツクラブ。

松本先生の「事業構想論」のゲスト講師として登壇。

「事業構想とは何か」、をテーマに40分ほどの講義。大教室だったが、静かに聴いてもらった。

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昼休み:多摩大総研の所長、副所長ミーティング。松本、長嶋の両先生と情報交換。

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・知研の高橋さん来訪。

・学長と懇談:考えている企画を説明。「これはいい。コンテンツ。スポンサー。観光。、、、。」と賛同してもらった。

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 2019年度春学期リレー講座。寺島実郎「世界の構造変化と日本の今」

(12年目。264回。14万860人・一般628名。学生250名、計878名で最高。一般のうち230名は九段・品川・湘南でライブヴューイング)

  • 時代認識(今を知ること。現象から構造へ)。知の再武装(100歳人生・ジェロントロジー。40代が大変。資産形成なし、成功体験なし)。全体知(インテグリティ)。全体観、世界観。
  • IMFの世界経済の見通し:17年、18年の世界同時好況から、2019年の予測3.3%と減速基調。「変調」。米国「株価は2017年は24%上昇、2018年は乱高下。長期金利3%を超えると新興国不安。2014年以来政策金利を段階的に上げてきた」。日本「ジャパンリスク。出口が見えない。リーマンショック以降は0.7%成長だった。景気後退時に手が打てない。日本は低迷」
  • 平成30年の総括:世界GDP比「1988年には日本16%(日本以外のアジア6%)。2018年には日本6、アジア23%」。時価総額「1989年世界上位50社に日本企業は32社。2019年はトヨタ一社のみ。埋没した30年だった。
  • 冷戦後の70年:IT革命と金融革命。IT革命「コンピュタとインターネットの進化。軍事技術の民生転換。進化は分散・開放系に向かった。日本「日本のインターネットは1995年ー1996年に登場。工業生産力モデルの優等生から劣後。IT革命の進行に遅れた。脳力・地頭も劣化。金融革命「フリードマン新自由主義レーガンサッチャー時代で変化。ジャンクボンドの帝王・マイケル・ミルケン(ベンチャーに資金供給)。ヘッジファンドの帝王・ジョージ・ソロス金融工学の発展)。サブプライムローンの破綻、ハイイールド債がやばい。悪知恵の資本主義」。日本「改革幻想。政治改革は選挙制度改革に終わり政治家は減らなかった。行政改革は省庁再編に終わった。郵政民営化は郵便局の役割が無くなり地方低迷の一因。現状は目線が低く内向きの改革疲れにある。
  • 米国GAFA4兆ドル(440兆円)・中国テンセント・アリババ0.9兆ドル(100兆円)の時価総額トヨタ22兆・ソフトバンク11兆。アップル・グーグルは一社でトヨタの4-5倍、ソフトバンクの10倍。渋谷の東急プラザはグーグル。二子玉川楽天。2019年の株価時価総額トヨタ21.9兆・ソフトバンク11.3・NTTドコモ9.8。ユニクロ5.5、東京ディズニーランド4.4、日立3.2、新日鉄1.9、東レ1.3という現状」。日本株は高くない、しかも株価は公的資金によって支えられている。日本はプラットフォーマーズを創り出すことはできなかった。

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自宅に戻ってスポーツクラブで2時間ほどトレーニング。ストレッチ、ウオーキング筋肉トレーニングウオーキング、ストレッチ、スイミング、ジャグジー、お風呂、というフルコース。そのまま家内と外で食事。

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「名言との対話」4月18日。高橋荒太郎「会社を訪問したらトイレを見る。トイレが汚かったら、取引はしない」

高橋荒太郎(1903年10月19日ーー2003年年4月18日)は、昭和期の実業家 。

香川県小豆島出身。小学校卒業後、商店で丁稚として働きながら神戸商業補習学校を卒業。朝日乾電池に入社。同社常務を務めたのち、提携先の松下電器に移る。専務、副社長、会長などを務めた。松下幸之助の片腕として活躍し、「松下電器の大番頭」と呼ばれた。

1979年刊行の高橋荒太郎『松下幸之助に学んだものーー人をつくる事業経営』を読んだ。以下、高橋荒太郎の仕事哲学を紹介する。

・ 事業というものは、困難の瀬戸際に立った時、その拠りどころをしっかりとつかんでないと、どうしても迷いを生じ、腰がくだけてしまう。

・仕事というものは、部下を信じて独創力と責任感に任せない限り、大仕事はできない。

・野望は持たずに、些細なことでも、与えられた仕事に全力を尽くしやりとげることに専念するのがポリシーだった。

この本にはオビで松下幸之助本人の言葉が写真付きで記されている。見出しは「高橋顧問に改めて敬服」となっており、「私の意を素直に汲み取り、私以上の真剣さで経営に取り組む姿に、逆に教えられることが多かったのである」と書いてある。

 高橋荒太郎は経営方針や基本方針を常に語ることの重要性も説いている。一度聞いただけでは深く理解できないからだ。何回も、何十回も聞いているうちに、理解が少しづつ進んでくることは私自身も経験している。環境や状況は常に変化し、聞く方の問題意識も変わる。その都度、腑に落ちる部分が違う。思い当たる深さが違う。だから、経営者は理念や方針を熱をもって語り続けることが大事なのだ。その前提として、理念や方針は考え抜かれたものでなくてはならないことは当然だ。組織はそれを拠りどころとして荒波を乗り越えていくのである。

高橋荒太郎を尊敬している、小豆島ヘルシーランド株式会社の創業者、柳生好彦さんから、数年前に小豆島を訪問した折にこの「トイレ」の話は直接聞いている。この企業もトイレをきれいにしてあったことで、高橋の知遇を得たのである。 

松下幸之助に学んだもの―人をつくる事業経営 (1979年)

松下幸之助に学んだもの―人をつくる事業経営 (1979年)

 

 


 

 

 

ライフハッカー「日本版」に書評、「ニコニコニュース」「エキサイトニュース」に転載、東京新聞に広告。薮田健「時空散歩」。大学。品川。

ライフハッカー「日本版」 に書評。

リーダー・管理職のための 心を成長させる名経営者の言葉』(久恒啓一著、日本実業出版社)の著者は、2005年から「人物記念館の旅」を続けているという人物。

それは古今東西の人々に深く、広く、長く影響を与えてきた「偉い人」の人生を振り返る旅だそうで、2018年末で850館を超えたのだとか。

またブログや「note」に「名言との対話」というテーマで「偉い人」の名言と生涯を紹介するなどの活動も。

つまり、その延長線上に生まれたのが本書だということのようです。

この書籍、『名経営者の言葉』では、食、健康、美、文化、教育、メディア、電機、養豚、酒、芸術、電力、花、出版、ファッション、スポーツ、漫画、情報、テレビ、新聞、ホテル、書店…など、あらゆる分野の戦後日本の事業家・経営者たちが絞り出した珠玉の名言、極上の言葉と、その言葉が生まれた背景を紹介したいと思います。

(中略) 混迷を深めつつある現在の日本、志を失いつつある日本人は、難題に立ちすくむばかりでなく、紹介した人々と同様に、社会の不条理の解決に自らの職業や仕事で貢献しようとする志を持って次の時代に備えたいものです、その指針の一つとなれば幸いです。(「はじめに」より)

特徴的なのは、ことばが没年順に並べられている点。これは、60歳で亡くなった人と90歳まで生きた人との間には、一世代に相当する長い時間の落差があるからなのだといいます。

多くの人は晩年に向かっていい仕事をする傾向があるため、青年よりも没年が大事だという考え方に基づいているわけです。

きょうは4「リーダーとして心得るーー先人からのアドバイス」に注目し、いくつかのことばを抜き出してみたいと思います。

まずリーダーがすべきこと

リーダーというものは、下に対して俺を信頼しろというのではなく、まず自らが下を信頼すること。 すべてはそこから始まります。

塚本幸一(つかもとこういち)(1920.9.17 ~ 1998.6.10)

(96ページより)

ワコール創業者。享年77(歳)。第二次大戦でインパール作戦などに従軍し、復員後にはワコールの前身である和江(わこう)商事を設立して婦人用アクセサリー卸業を開始。

1957年にワコールへ社名変更し、婦人用下着を主力商品として、同社を日本トップクラスの女性アパレルメーカーに育てることに。

また京都商工会議所会頭、日本商工会議所副会頭、財団法人地域活性化センター理事長など財界の重鎮となりました。

著者によれば、塚本幸一の原点は大東亜戦争なのだそうです。インパール作戦の際、食料も弾薬も尽き、毎日、戦友たちが死んでいくなかで敗走を重ね、復員船で信じるようになったのは「自分は生かされている」ということ

そのため、「これからの人生は52名の戦友に代わり、世の中のために生きていく」と決心したというのです。

一度死んだも同然であり、過酷な状況を生き延びた自分には戦友の魂が宿っていると信じ、商売の決死隊になったということ。

「この世に難関などない。難関というのはあくまでも本人の主観の問題である。難関だと思っている自分があるだけだ」と仕事に邁進したのだといいます。

「どうせ打ち上げるなら、目標は大きいほうがいい。世界一の下着メーカーを目指そうと10年一筋の、50年計画を立てた。

まず最初の10年で国内市場を育て、次の10年で確固たる地位を築く。70年、80年代は海外に進出。90年代は仕上げともいえる世界制覇である」(98ページより)

また女性の下着を事業にしたことについては、「格好よく言えば、私は女性を美しくすることに生涯をささげてきた。まことに幸せな人生というべきだ」と述懐しているそうです。

そして、その延長線上に文化を守り育てる企業像をつくり、「部下を信頼することから始めよ」というリーダー論を、そのバックグラウンドとしたわけです。(96ページより)

サントリーの「やってみなはれ」

現職の社長がしなきゃならんのは、トップの心得を後継者に説くことじゃなくて、下からのイノベーションの種がどんどん出てくるようにしむけることです。 それがサントリーの「やってみなはれ」です。

佐治敬三(さじけいぞう)(1919.11.1 ~ 1999.11.3)

(96ページより)

サントリー社長・会長。享年80(歳)。

「出る杭は伸ばす」

「とにかくワクワクしながら仕事をしてみろ。そうじゃないと人生は面白くならないぞ」

「ひとりの人間を永久に欺すことはできる。また、大衆も一時的なら欺すことはできる。しかし、大衆を永遠に欺すことはできない。要するに、真実でなければダメなんですよ。本当のものでなければ、ダメなんですよ」 (109ページより)

1986年に誕生した赤坂のサントリーホールは、「世界一美しい響」がコンセプト。カラヤンなど、世界的指揮者や演奏家の意見を取り入れたホールとして知られています。

また、そこにはサントリーならではの工夫も。たとえばホールの壁はウイスキーの貯蔵樽を使用しており、ホワイエ(ロビー)でアルコールを楽しむこともできますが、これは日本では始めてのアイデア

佐治の「文化で社会にお返ししよう」という夢が、そんなところにも反映されているわけです。

ご存知のとおり、サントリーの精神は「やってみなはれ」。現場にはイノベーションの種が転がっているものなのだから、それを潰さずに育てることこそが、トップの仕事だという考え方です。(108ページより)

リーダーとしての自覚

皆からリーダーは見つめられている

武田豊(たけだゆたか)(1914.1.6 ~ 2004.2.15)

(131ページより)

新日本製鐵社長・会長、経済団体連合会経団連)副会長、日本鉄鋼連盟会長。享年90(歳)。

こうした“表”の経歴よりも、脳の研究を仕事や生活に生かす方法の実践者や論客として注目されることが多かった人物。

東大の碩学・時実利彦博士に、脳について長く学んでいるといいます。

そんな大脳生理学研究者である武田は、大脳のカラクリを実際の仕事に応用したのだとか。たとえば人事部長時代には、課長以上2000人を超える人々の顔と名前と経歴を覚える努力をしていたというのです。

大脳生理学から見てリーダーは、六つのことを身につける修練が必要だそうだ。

「活力」「意志力」「責任力」「包容力」「知識力」「説得力」。

戦いの時、リーダーは全員から見られている。いや、見つめられている。 リーダーの弱気や逡巡や迷いは、すぐにフォロワーに伝染し、志気が衰える。 (133ページより)

そのため、リーダーは「見つめられている」という自覚を持って行動すべきだということ。


生き方の基本、ビジネスパーソンとしての心構え、リーダーとして心得るべきことなど、数々のことばを通じて多くのことを学べる一冊。

時代や流行に流されることのない普遍的な内容でもあるので、手元に置いておけばさまざまな場面で役立ってくれそうです。

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「ニコニコニュース」にも転載。エキサイトニュースにも転載。

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東京新聞の一面に広告。

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多摩美術大学美術館で開催中の「藪野健 時空散歩」をみる。

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品川:利根川さんと菊永さんと打ち合わせ。

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憶良らも旅人も梅花の宴より「令和」とするとは夢思ふまじ(久恒啓子)

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「名言との対話」4月17日。宮崎輝「夢のない企業には、進歩も成長もない。盆栽経営ではやがて枯れる」

宮崎輝(みやざき かがやき、1909年明治42年4月19日 - 1992年(平成4年)4月17日)は、昭和平成期の企業経営者。

 宮崎が就職した時代は鉱山関係が人気が高かった。しかし新しいものを創造していく化学工業のパイオニアである日本窒素(旭化成工業の前身)に入る。ところが仕事が面白くない。3年目であきらめる。そして「この会社における法律問題の第一人者になろう」と決意し勉強を始める。「自分で問題をつくり、その問題を解決していかなくてはいけない」「仕事を創造し、その問題を自ら解決していくのがビジネスの基本である」。と考えた宮崎は、一時間早い出勤を続け、次々と問題、難題を解決していく。

13年経って取締役、24年で専務、27年後には社長に就任し、25年間という長期政権となった。宮崎輝は旭化成中興の祖と呼ばれた。旭化成を代表するマラソンの宗兄弟の誕生には宮崎が関わっている。 

1985年まで社長で、その後に会長をつとめている。その時代、宮崎は名前の通り、輝いていた。若いビジネスマンであった私は多くの経済雑誌でこの人の「仕事」に関する言動に触れる機会が多く、実務をこなす中で参考にしたものだ。「素質を追い抜くことができるのは、努力だけである」というような、仕事をする上での心構えは、いつの時代も変わらない真実である。

一方、トップとしての名言にもいいものがある。

・トップに立つ人は、第一線の「名課長」をたくさんつくるように努力すべきだ。、、名課長とは、常に新しい問題を発見しながら、その対応を考えて、仕事を進めていく人である。

・社長は、普通の役員とは、一オクターブ違っていなくてはいけない。

・どんな企業も、健全な赤字部門を持っていなくてはいかん。

生涯にわたって学習を続けるマラソンランナーだった宮崎輝。「盆栽経営」とはよく言ったものだ。それは大きさの決まった容器の中で、手入れの生き届いた枝ぶりを経営者が愛でる姿というものだろう。木というものは、盆栽のようないびつな制約された空間で育つよりも、大地に大きく深く根を張ることで人が見上げる大木になることができるのである。夢をみることが成長と進歩を促すのである。盆栽人生で終えてたまるか。