司馬遼太郎『韃靼疾風録』下巻を読了。

司馬遼太郎「断端疾風録」(中公文庫)の下巻を読了。

上巻を含めて久しぶりに司馬史観を堪能した。やはり司馬遼太郎は素晴らしい。

 

韃靼疾風録〈下〉 (中公文庫)

韃靼疾風録〈下〉 (中公文庫)

 

日本は、秀吉から家康、秀忠、家光の時代。

馬を鞭打って駆けるというイメージから韃靼と呼ばれていた女真が、ヌルハチホンタイジを経て、親王ドルゴンが、明を倒した順に代わり「清」を樹立する時代。

この韃靼は明代には遼東と呼ばれていた。清朝では東三省、現在では東北地方と呼ばれている。日本では馴染みの深い「満州」である。

この女真族は50万、60万の人口でしかないのに、億を超える漢人の中華を200年以上に渡って支配した。

平戸の武士で密命を帯びて韃靼に渡った主人公の軌跡が、女真の英雄だけでなく、歴史が避けていく過程と関わりながら生き抜いていく姿を描くことによって、アジアの歴史の壮大なロマンを感じさせる素晴らしい作品だ。

 

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図書館からの金谷を通る帰り道では、中津の偉人を顕彰した看板を数多く見かけた。この施策、運動は後から、効いてくるだろう。

 

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「名言との対話」。8月20日。高杉晋作男子というものは、困ったということは、決していうものじゃない」

高杉 晋作(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日1839年9月27日)- 慶應3年4月14日1867年5月17日))は、江戸時代後期の長州藩士。幕末長州藩尊王攘夷志士として活躍した。

下関市の吉田にある清水山の東行庵は高杉晋作の愛人「うの」が谷梅処として出家した庵である。高杉晋作は自らを東行と号していた。高杉は遺骸を奇兵隊の本拠に近い清水山に埋めて欲しいといったが、山県狂介(有朋)はこの地にあった草庵・無隣庵を梅処に贈った。現在の庵は、伊藤博文山県有朋井上馨らの寄付で建立されたものだ。梅処は長生きして明治42までこの庵で住んだ。

東行庵の近くに建つ記念館には高杉の影響を受けた伊藤博文撰文の最初の言葉が階段の壁に高杉の写真とともに大きな垂れ幕として飾ってある。「動 如 雷電  発 如 風雨」
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目蓋然として敢えて正視するもの莫(な)し。これ、我が東行高杉君に非ずや。」、この言葉は風雲児高杉晋作の性格や行動を表した言葉である。

高杉は、江戸4回、京阪2回、長崎2回、上海1回と旅を重ねて思想を形成していった。その旅では、信州で佐久間象山、福井では横井小楠に会って刺激を受けた。佐久間からは「外国を自分の目で見なければならない」と教えられ、その後上海に行く機会を得ている。高杉は上海時代の「遊清五録」(航海日録・上海ふん留日録・崎陽雑録・外情探索録・内情探索録)など日記を書き綴っている。晋作は上海で拳銃を二挺買っている。そのうち一挺を下関を訪問した坂本龍馬に贈った。あの龍馬が持っていた拳銃は、高杉の贈り物だったのだ。
「西へ行く人を慕いて東行く 我心をば神や知るらん」と1863年に詠み、それ以来、東行という号を使うようになった。西へ行く人とは西行法師のことで、東行くは倒幕を意味している。高杉は戦争の犠牲者のために招魂場を創設するが、これ以後全国に招魂場ができ、東京にできた招魂場が現在の靖国神社である。

吉田松陰松下村塾の双璧とうたわれた高杉晋作久坂玄瑞。高杉は「鼻輪を通さない放れ牛(束縛されない人)」といわれ、久坂は堂々たる政治家であるといわれた。師の吉田松陰hは、晋作は俊邁の才を持つが、頑質にわざわいされて、その優れた有識の天分がおおいかくされているとみた松蔭は、久坂玄瑞に対する競争心へと転化させた。

高杉は自分の墓に次のように書いて欲しいと手紙に書いてあったが、発見が遅れかなわなかった。自分の一生をこのように総括したのだろう。


 故奇兵隊開闢総督高杉晋作
 西海一狂生東行墓
 遊撃将軍谷梅之助也

 毛利家恩古臣高杉某嫡子也

翼あらば千里の外も飛びめぐり よろずの国を見んとしぞおもう
   
人は人 吾は吾なり 山の奥に棲みてこそ知れ 世の浮沈

人の花なら赤ふもなろが わしの花ゆえ くろふする(都都逸

幕末の風雲児高杉晋作は、「大閣も天保弘化に生まれなば 何も得せずに死ぬべかりけり」と言い、時代の転換期に躊躇なく決断し、果断に実行していった。そして野村望東尼が下の句をつけたように「面白きこともなき世を面白く」と考えており、どのような場面でも取るべき行動は明確だった。「弔むらわる人に入るべき身なりしに 弔むらう人となるぞ はづかし」とも言ったが、奇兵隊総督として江戸から明治も大転換の先駆けとなり、27歳という若さで没したが、不朽の名を残した。

 

 

 

 

 

中津市立図書館「郷土の作家」(5人の中に私も入っている)の部屋を見学。夜は同級生たちとの懇親会。

中津図書館。

「郷土の作家」の部屋ができていて私も入っているというので見に行った。作家の松下竜一さん(北高の先輩)の資料と図書が中心。

小野不由美さんは現役の人気小説家だ。

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 私のコーナー。

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「中津ゆかりの人」 コーナー。横松先生も。f:id:k-hisatune:20170820091538j:image

 

 

夜は中津北高の同級生たちとの宴会。

内尾。長松。吉森。島沢。久持。土生。瀬口。吉田。 f:id:k-hisatune:20170820091645j:image

団塊」の自分史〜ー中津北高20回生の軌跡

「邪馬台」の応援なども。

 

 2次会。f:id:k-hisatune:20170820091721j:image

 3次会のパインテールでかカラオケ。午前1時半まで。

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 「名言との対話」8月19日。横山大観人間ができてはじめて絵ができる。それには人物の養成ということが第一で、まず人間をつくら ねばなりません。、、。世界的の人間らしき人間ができて、こんどは世界的の絵ができるという わけです。、、、ただ一つ我は日本人であるという誇りをどこまでも堅持してもらいたい」

横山 大観(よこやま たいかん、正字体:大觀、1868年11月2日明治元年9月18日) - 1958年昭和33年)2月26日)は、日本美術家日本画家。戸籍上は8月19日に誕生。

上野の不忍池に面した台東区池之端横山大観記念館。廊下に飾ってある大観の写真は、和服姿で髭(ひげ)を生やしている。穏やかだが厳しさを秘めたいい顔をしている。横山大観は1868年の明治元年に生まれ、1958年に没しているから90歳の長寿であった。元々は水戸藩士の長男として生まれたが、湯島小学校、府立一中を経て東京英学校時代に洋画家に出会い、19歳で画家になることを決心する。21歳で東京美術学校に入学し、生涯の恩師・岡倉天心校長に出会う。途中、天心とともに五浦で修行をするが、間断なく「無我」屈原」「迷子」「正々流転」「紅葉」「不二」(大観ほど富士を描いた画家はいない)「などの日本画の名作を生涯描き続けた

46歳のときに天心の遺志を継いで「伝統と個性を経緯とする応用・発達にあり。新しき古派運動」という創立の精神を持つ日本美術院を再興する。69歳では第1回の文化勲章を受章、亡くなったときには正三位勲一等旭日大綬章を受けている。天心とは4歳の違いであるが、大観は師の死後45年の間、日本画を描き続ける。

大観の顔はまことに立派な顔だったらしい。一種の異相であった。大観は作品とともに風貌も有名だった。「先生のお顔くらい立派な顔貌はめったにないと思っている。厳格で、些かの俗味なく、端正にしてして重厚雄大な気宇を持たれるそのお顔はまさに美丈夫というべきである。、、まさに堂々たる風格と申すべきである」(堅山南風)。「先生は、元来異相の巨人である。殊に毛髪、眼、鼻に一種の風格が窺われる」(松林桂月)

圧巻は「四時山水」という絵である。日本美術院創立50周年の80歳のときの作品で、長巻26.8mの巻きもの形式の絵である。巻頭には「一切の芸術派無窮をおふの姿に他ならず 芸術は感情を主とす 世界最高の情趣を顕現するにあり」という天心の詩を書いている。この作品は、春の日の出から冬の日没に終わる構成で、風景が四季の変化とともに一日の流れの中に表現されている。「四時山水」も良かった。四時山水は、27メートルに及ぶ絵巻で一日の中に日本の絶景の四季を入れ込んだ名作である。筑波山の春の日の出、富士山、比良山梅林、琵琶湖・竹生島保津川清水寺京都市街、嵯峨野、若草山高雄(京都)、黄璧山万福寺、宇治平等院、雨晴海岸(富山県)、立山連峰の冬の日没。全国の名景色を描きながら一日で季節を表現する構想が素晴らしい。

大観の藝術に関する言葉を拾ってみよう。

・藝術には眼で描く芸術と、心で描く芸術と、二つある。眼で描く芸術は技術が主になりたがり、 心で描く芸術は技術を従とする傾きがあります。

・写生の真意は、、その物象の性格と環境と雰囲気とを研究探明してその裏にひそむ性霊を表現す るにある。

・形から入って形を棄てよ

・芸術は創造である。如何なる場合に於ても模倣は之を排斥せねばならぬ。

・偉大な人が出た時に初めて偉大なる芸術が出来る。

・気韻生動

・富士を描くということは、富士にうつる自分の心を描くということだ。

横山大観岡倉天心の日本と日本画の思想を、絵画製作の実際によく体現し、その後の日本画再興の流れをよくリードした。自身が第一回文化勲章を受賞したのを皮切りに数々の文化勲章受賞者がこの流れから誕生している。この画家たちは大観の人格主義に大いに影響を受けている。日本人として人物を磨き上げることが優れた芸術の創造につながるという思想を後代にまで植えつけた功績は大きい。

 

 

法事とお祝いのため、中津到着。

来週の父の17回忌と母の卒寿のお祝いで、故郷の中津に降り立つ。

昼に自宅を出て、電車で羽田へ。羽田空港から福岡空港、そして電車で中津。18時半にやっと着いた。しばらくは親孝行。

途中、電話とメールで雑事をすます。

 

 

「名言との対話」8月18日。伊藤左千夫「吾々が時代の人間になるのではない、吾々即時代なのだ。吾々以外に時代など云うものがあって堪るものか。吾々の精神、吾々の趣味、それが即時代の精神、時代の趣味だよ」

伊藤 左千夫(いとう さちお、1864年9月18日元治元年8月18日) - 1913年大正2年)7月30日)は日本歌人小説家

曲折を経て徒歩で故郷の千葉県成東を出奔し、東京市内と神奈川の牧場で4年間働く。神田、神奈川、市ヶ谷、九段。27歳で独立し牛乳搾取業を経営する。乳牛改良社である。「万が一我が社の牛乳が他の牛乳に劣っているようなことがあれば、我が社は乳牛代金を一切いただかないことを誓います」との広告もある。いかにも左千夫らしい発想である。この時代に次の歌を高らかに詠んだ。

 「牛飼いが歌読む時に世の中のあたらしき歌おほひに起る」

 歌にかかわる論争で軍門に降った4歳年下の正岡子規に師事。左千夫は絶対的人格の持ち主として子規を尊敬していた。子規没後は、根岸短歌会歌人をまとめ、短歌雑誌「馬酔木」「アララギ」の中心となり、島木赤彦、斉藤茂吉土屋文明、寒川陽光などを育成した。また、子規の写生文の影響を受けた小説「野菊の墓」をホトトギスに発表し、高い評価を受けた。左千夫は短歌・長歌新体詩・俳句・写生文・小説・歌論・俳論・随筆・評論・宗教論・茶論などさまざまな分野の多様な文学作品を残している。虚子のすすめもあり、「野菊の墓」を書いている。この小説は何度も映画化されている。子規の死後、積極的な性格と年長者でもあった左千夫は短歌雑誌「馬酔木」を発行する。4年弱の期間に通算32冊を世に送った。終刊後「阿羅羅木」を刊行し、歌壇ではアララギ時代を迎える。晩年には時代の歩みに遅れ、茂吉・赤彦と対立することになる。

「久々に家帰り見て故さとの今見る目には岡も河もよし」

 「九十九里の波の遠鳴り日の光り青葉の村を一人来にけり」

 「夜光る珠は人知る土焼の楽の尊さ世は知らずけり」

「おりたちて今朝の寒さを驚きぬ露しとしとと柿の落葉深く」

 冒頭に掲げた言葉のように、吾々自身が時代であると確信し高らかに宣言し、一つの時代を牽引した伊藤左千夫は、確かに短歌革新において正岡子規から斎藤茂吉土屋文明を繋ぐ時代の役割を十分に果たした。しかし、晩年はその時代の流れに乗り遅れるのである。時代の流れに上手に棹さすことはことは難事である伊藤左千夫50歳の若さで没したのはむしろ幸いだったかもしれない。

 

司馬遼太郎『韃靼疾風録(上)』

司馬遼太郎『韃靼疾風録(上)』(中公文庫)を読了。 下巻を早速読み始めた。

韃靼疾風録〈上〉 (中公文庫)

韃靼疾風録〈上〉 (中公文庫)

 

 九州平戸島に漂着した韃靼の貴人の娘を故国に送り届ける役目を担った平戸武士桂庄助が、女真族と交わりずつ自らの存在を問いかける物語。明、モンゴル、清、高麗、、、など東アジアの民族の興亡がみえる雄大なロマン。個人の側からみた東アジアがゆらぐ17世紀のアジアの歴史ゆらぎがみえる作品。大陸から日本がみえる。韃靼とは明がモンゴル人を卑しんで呼んだ呼称。大佛次郎賞受賞作品。

以下、日本、女真、明、朝鮮のこと。

日本:倭人伝。倭寇。古倭。北虜南倭。倭貨。倭館。壬辰の倭乱(秀吉)。倭銃。倭奴。倭将。倭人。日本府。倭人は主のみに従う。命を受ければ錐のように目的意識だけで生きようとする。頭髪。

女真:マンジュ(文殊菩薩)を信仰する種族をマンジュとよび、明人が満州という文字をあてた。女真ヌルハチは家康より17歳年下。58歳でハン。王朝は必要悪。女真30万人。朝鮮1000万。明は億人。姓をもたない。逓伝の組織がみごと。瀋陽は韃靼の都。後金。バートラ(勇気)。バートルのことか、英雄か?モンゴル人は北虜。大ハン・ホンタイジ(後の清の太宗)は大満州国と称した。東韃の女真人と北虜のモンゴル人の同盟。

明:朱子学は実状を忘れて論じ合い、問題解決の解決がなおざりになる傾向がある。野蛮人を討つ(攘夷)が朱子学の大義。小人とは身を労する者、庶民・無学をさす。農民・商人・職人。君子は支配層で書を読む者、官僚士大夫。正義体系(イデオロギー)が濃厚。中国は地大博物。

朝鮮:朝鮮は明という虎に押さえ込まれ、満韃子(マンダーツ)という狼に咬まれている。朝鮮は去勢者を多く明に進貢した。明国以上に朱子学の国。

文明とは人をして数奇たらしめない状態。野蛮とは数奇が大地に盛り上げた状態。

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10時ー11時半:ビジネススクエア多摩企画運営委員会。多摩市・多摩信金・多摩大。

健幸都市。健康まちづくり産業。地方創生。ものづくり支援事業。ガンと就労。サードプレイス。デザイナー支援。事業総括とニーズ調査。、、、、。

 

 ラウンジ

・高野課長:学長の動向

・川手課長:予算

・バートル先生:モンゴル訪問の件

 

 高校同級の猪俣君来訪。

・ライフワークの相談

・知研。邪馬台。

・「団塊」の自分史--中津北高校20回生の軌跡

 

 「名言との対話」。8月16日。菅原文太「人間、急いでおったらあんまりいいことない。足元見てマイペースを守っておったら、蹴躓くこともないわな」

菅原 文太(すがわら ぶんた、1933年昭和8年〉8月16日 - 2014年平成26年〉11月28日)は、日本俳優声優ラジオパーソナリティ農業従事者である。

「ヘンクツや異端者と呼ばれてもいいじゃないか。変わり者の生き方の方が面白いよ」

沖縄の風土も、本土の風土も、海も山も空気も風も、すべて国家のものではありません。そこに住んでいる人たちのものです」

「政治の役割はふたつあります。一つは、国民を飢えさせないこと、安全な食べ物を食べさせること。もう一つは、これが最も大事です。絶対に戦争をしないこと!」

チャールズ・ブロンソンとか亡くなったスティーブ・マックイーンなんか、大スターになったのは中年になってだからね。オレとおんなじだよ」という菅原文太は、急がず、マイペースを守って、やがて日本を代表する役者になった。そして晩年は憂国の士となって人々の記憶に残った。

 

ベルツ博士と草津温泉

日本を西欧に紹介した医師では、ケンペル(1651ー1716)、シーボルト(1796ー1866)、そしてベルツ1849ー1937)がいる。いずれもドイツ人である。

ケンペルは1651年にオランダ東インド会社付きの医師として長崎出島の商館に着任。江戸参府に同行し、将軍綱吉の所望で自作の歌と踊りを披露している。『日本の歴史及び紀事」を著し日本の風土や人物を紹介した。

シーボルトは1823年にオランダ東インド会社の外科少佐として長崎出島に着任。鳴滝塾を開設した。6年間の滞在中の集めた地図などが露見して関係者が罪に問われた。シーボルト事件である。

明治新政府は当時最も優れていたドイツ医学の導入をはかり、ドイツのライオプツイヒ大学から27歳のベルツを招き、東京医学校内科正教授とした。ベルツは以後29年間の日本での生活を送る。ベルツは学校の夏季休暇で国内旅行をし、48里・5日の距離の1200mの高地にある上州の草津温泉を発見する。草津ではライ病、梅毒、淋病などを多く湯治していた。草津温泉は、強酸性の温泉で、非常に高温であった。ベルツは草津を世界三大温泉と讃えた。ヒビやアカギレの薬「ベルツ水」をつくったり、胃腸病に特効のある「白根水」も研究している。

ベルツは1905年の帰国に際して天皇皇后両陛下から最高勲等の「勲一等旭日大綬章」を授与された。1881年に荒井はつと実質的に結婚、1904年に正式に入籍している。

1907年には皇太子の病気診断のため親交のあった伊藤博文候からの書状を受けて再来日。皇太子嘉仁親王の欧州歴訪の中止を勧告している。

副島種臣子息、井上外務卿、大隈重信参議、板垣退助自由党総理などを往診。松田東京府知事大山巌陸軍卿夫人の死去にも立ち会っている。

(ベルツ記念館で入手した「ベルツ博士と草津」より)

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15時から18時まで、代々木の福島さんのスタジオでの『偉人の命日366名言集』の録音に立ち会う。エデュカの竹下社長によるディレクションで、声優の最上さんと女優による「名言」の録音。「音声」の奥の深さを実感した。できあがりが楽しみだ。

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  終了後、ビールで乾杯。 f:id:k-hisatune:20170816224928j:image

 

 

 「名言との対話」8月17日。後藤静香「本気ですればたいていな事はできる。本気ですれば何でも面白い。本気でしていると誰かが助けてくれる。人間を幸福にするために、本気で働いているものは、みんな幸福で、みんな偉い」

 後藤 静香(ごとう せいこう、1884年8月17日 - 1971年5月15日)は、大分県出身の社会教育家社会運動家である。

蓮沼門三の「修養団」に傾倒し参加。格言や偉人伝、寓話などをわかりやすく解説した雑誌をいくつも発行。代表作である詩集・格言集『権威』は100万部を越えて、当時の青年、教育社、労働者に愛読され、熱狂的な支持を得た。

「十里の旅の第一歩  百里の旅の第一歩  同じ一歩でも覚悟が違う  三笠山に登る第一歩  富士山に登る第一歩  同じ一歩でも覚悟が違う  どこまで行くつもりか  どこまで登るつもりか  目標がその日その日を支配する」

「たしかに生まれた、必要だからだ。 たしかに生きている、まだ用事があるからだ。
 「われこれがために生まれたり」 はっきりとそう言いうるものをつかんだか。」

「なんでもいい。善と信じたことを、ただ一つでも続けてみよ。何が続いているか。三年、五年、十年続いたことが幾つあるか。一事を貫きうる力が、万事を貫く。」

「もっと落ついて考えよ  あまりそわそわしすぎる  太陽をみよ  月をみよ
 星をみよ  花をみよ  お前のように浮き浮きしている者が  どこにある  せめて一時間でも、じっとしておれ  ただ一つのことでも  本気に考えてみよ」

後藤静香の言葉を眺めていると、当時の青年・教育者・労働者が心酔したのがよくわかる気がする。現代でもスポーツ選手にファンが多いと聞く。後藤の問いかけには、気持ちを揺さぶるものがある。「どこまで行くつもりか」「言いうるものをつかんだか」「本気に考えてみよ」、、。「本気か?」という問いかけを自分にしよう。

 

 


 

 

土門拳『死ぬことと生きること』--独学・気力・写欲で「日本」を追う

土門拳「死ぬことと生きること」(みすず書房)を読了。

 

死ぬことと生きること (大人の本棚)

死ぬことと生きること (大人の本棚)

 

 エッセイには本音がでる。自伝にも本音がでる。記念館を訪ねた時には、その人の業績となる著書はもちろんだが、そういう類いの資料を求めている。

本日は、写真家の土門拳の65歳で出した初のエッセイを紹介する。

土門拳のテーマは「日本的な写真を撮ること」である。そして「リアリズム」が写真の本道であるとの信念を持っている。そこから『日本の彫刻』、『室生寺』、『風貌』、『ヒロシマ』、『筑豊の子どもたち』、『古寺巡礼』などの優れた写真集が生まれている。

日本人としての自分自身が日本を発見するため、日本を知るため、そして発見し、知ったものを日本人に報告するために、写真を撮り続けた。

土門拳は小学校時代から画家志望だった。中学を出て逓信省の日雇いになる。常磐津三味線の引きの内弟子、弁護士事務所の事務員、日大専門部法科の夜学を2年でやめる。24歳から2年ほど宮内幸太郎の内弟子で写真をやることになる。報道写真に焦点をあてた土門拳は、徹底的に独学で勉強した。写真の歴史と科学が読書のテーマだった。6畳一間に4人で寝るのだが、寝る時間を惜しんで写真関係の雑誌と単行本を500冊読み終える。寝床大学であったと本人が述懐している。またちょっとした休み時間にはカメラの操作の勉強にあてている。銀座の日本工房、名取り洋之助のもとで報道写真を勉強。国際文化振興会の嘱託。32歳、「写真文化」の作品に第一回写真文化賞を受賞する。

24歳頃に生涯のテーマ「報道写真」を意識し、それからの勉強の様子は鬼気迫るものがある。以下、語録。

・肖像写真は、その人らしい日常的な状況のなかで、動きの起こり始めた瞬間をとる。

・肖像写真は一つの人間像でなければならない。その人間の過去と現在をまざまざと物語るいわば自叙伝でなければならない。

・気力は眼に出る。生活は顔に出る。教養は声に出る。

・年は後ろ姿に一番出る。

・ライティングは、協調と省略の手段である。ロー・アングルは、モチーフを抽象する。ハイ・アングルは、モチーフを説明する。

・シャッターを切った瞬間に、画題も浮かんでいる。

・リアリズムは実践的課題である。

土門拳は、50歳で最初の脳出血。59歳で二度目の脳出血で車椅子生活に入る。この頃から名声は高まり、数々の賞を受ける。70歳、三度目の脳出血、それから11年間意識不明。72歳、土門拳賞創設。74歳、土門拳記念館が開館。80歳で永眠。50代以降は病気との闘いの中で、傑作写真を撮り続ける。その気力と写欲には頭を下げざるを得ない。

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17時:荻窪の日本地域社会研究所を訪問。落合社長と八木さんと懇談。編集の天井さん。知研、地研、高橋さんネットワーク、橘川さんのコンセプトバンク。

19時半:新宿の喫茶ネギシ。利根川さんと鶴田さん。未来フェス京都に関わる図解アルチザンの仕事。大学院、、、、。

 

「名言との対話」8月15日。ウォルター・スコット「最良の教育とは、人が自分自身に与える教育である」

初代准男爵サー・ウォルター・スコットSir Walter Scott, 1st Baronet, 1771年8月15日 - 1832年9月21日)は、スコットランドの詩人、小説家。ロマン主義作家として歴史小説で名声を博し、イギリスの作家としては、存命中に国外でも成功を収めた、初めての人気作家といえる

 私の子どもの頃に出会った『アイヴァンホー』は、11世から12世紀のイングランドが舞台の歴史小説だ。愛する姫のために、強敵に立ち向かっていく主人公・アイヴァンホーの物語である。そのテーマは騎士道だった。

「臆病でためらいがちな人間にとっては、一切は不可能である。なぜなら、一切が不可能なように見えるからだ。」

「成功、不成功はその人の能力よりも、精神的態度によるものが大きい。」

「休息が長すぎると、カビが生える」

スコットが言うように、教育は人から与えられるものだと考えていては成長はない。自分を教育する最大の人物は、自分自身なのだ。それがわかれば、生涯を通じて成長を続けることができる。

 

稲見昌彦『スーパーヒューマン誕生!』

稲見昌彦『スーパーヒューマン誕生!』(NHK出版新書)を読了。

「人間拡張工学」は、超人の出現を可能にする。

スーパーヒューマン誕生!  人間はSFを超える (NHK出版新書)

スーパーヒューマン誕生! 人間はSFを超える (NHK出版新書)

 

 スーパーヒューマン(超人)とは、拡張身体から人機一体、自動化と自在化、脱身体から分身、変身、融身体・合体へと至る人間の計り知れない進化の姿を示している。、、、すべてのテクノロジーが合わさるとき。人間は道具をつくるだけではなく、自らの身体性を自らの手でつくり変えることができる存在、つまりスーパーヒューマンへと姿を変える。

「人間拡張工学」とは、機器や情報システムを用いて、人間がもともと持っている運動能力や感覚を拡張することで工学的にスーパーマンをつくりだすことである。身体の内側と外側の両方に制御可能な領域を広げていく学問である。

身体とは脳と世界をシンク(同期)するためのインターフェースである。

視覚、聴覚は再現できているが、触覚や嗅覚はまだ再現できていない。

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下北沢で、街をを見物。

その後、三軒茶屋で橘川さんと割烹「きよみず」で懇親会。

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「名言との対話」8月14日。藤井康男「問題を絶えず追及する人間にとって、オフ・ビジネスの時にひらめきを見出す例が多い。」

藤井 康男(ふじい やすお、1930年8月14日 - 1996年11月10日)は、日本の実業家、生化学者、文筆家。

龍角散社長の藤井康男は、軍艦のプラモデルやレコード集取、そしてビジネスや健康など多趣味で幅広い文筆家としても知られた。1974年から1996年までの22年間に60冊ほどの著書を書いている。実に幅広い分野で発言しているが、多いのは「創造」に関わるものだ。以下、そのいくつかを挙げてみる。

『「創造的遊び人間」のすすめ "遊び"で伸ばせ、男の実力!』PHP研究所 1981 のち文庫 『右脳人間学 いまビジネスマンに求められる頭の使い方』番町書房 1981 のち福武文庫 『「創造的人材」の条件』三笠書房 1982『右脳ビジネスのすすめ パワーを最大に発揮する法』PHP研究所 1982『実践右脳人間学 どうしたら右脳を鍛えられるか』番町書房 1983『多能人間のすすめ 90年代型自己実現の知恵』史輝出版 1990『「遊び心」のある人ほど「いい仕事」ができる もっと"ゆとり"が生まれてくる「生き方進化論」』大和出版 1991『できる人間はよく遊ぶ いい仕事を生み出す"ムダ"の効用』大和出版 1993。

企業が生み出す商品やサービスに、知識や技術の貢献が大きくなってくるにつれて、働く時間の長さは成果には反映しなくなっている。そのことを1980年代から語ってきた藤井康男がビジネス雑誌に書く主張を若い時代に読んでいた記憶がある。問題解決のひらめきは、仕事から離れた場面で手に入れることがよくある。それは遊びに熱中しているときや、異分野の人とつきあっているときだ。現代においてはソフトの比重が高まっている仕事とは問題を扱うことであり、その解決のヒントはオフの過ごし方にあるのだ。