学部「立志人物伝」と、大学院「立志人物論」

「副学長日誌・志塾の風」171020

多摩

・客員の久米先生と情報交換「LINE@。超会社力。熱中小学校、、。

・「立志人物伝」の授業5回目。本日のテーマは「友」。

・事務局との定例会議:川手課長、水嶋課長、杉田学部長と1時間半の意見交換。

・杉田学部長と情報交換

 

 

品川

・滝川課長:研究開発機構評議員会の事前打ち合わせ

・「立志人物論」の授業:18時半から21時40分。以下、感想。

・久恒先生、本日もありがとうございました。文学作品も含めて古典や過去のものに興味がなかった私も、久恒先生の講義を受けるうちにどんどん興味が湧いていることを実感します。また、結婚と妻の出産後、諸々苦戦している私にとっては(お恥ずかしい話ですが)、川端康成の結婚の眼を読んでみたいです(課題図書が多くなかなか追いつけませんが)。三島由紀夫の嫉妬こそ生きる力だという言葉も新たな発見でした。何故ならば嫉妬は人間の醜い感情だと私は思っていたからです。しかし、ライバルに対して嫉妬という感情は切っても切れない関係であるならば、そこから湧き上がる力は大きなものであるでしょう。

・みなさん、お疲れ様でした。本日の感想です。三島由紀夫のエッセイ「気狂いピエロ」。ジャンポール・ベルモントを思い出したのは私くらいか?物語はみなさんご存知の通り。奇しくも、本編では本日出てきた作家らと同様に、自らの人生を自らの手で終結させる。その理由は数多あれど、根底にはそれぞれの内心に潜む「美学」があるのではないか?そんな風に思えてならない。その行動が美学に基づいたものだったとしたら、彼等は「入定」したのではないか?特に三島由紀夫切腹は、実は切腹と言う行為を通して入定を強くイメージしたのかもしれない。そして、永遠の「生」を獲得したのである。こんな見解を、西田幾多郎鈴木大拙にぶつけてみたら、彼らは何と答えるのだろうか?偉人の見解を聴いてみたいものである。本日も、大変面白い時間をありがとうございました。

・昔の偉人からも学べるように, 切磋琢磨する友人, 一目置くライバル, 従事する分野の師を持つほうが, 己が人生 実りあるものになると改めて感じる。今夜の私のヒーローは, 三島由紀夫氏。若輩である私は, 文学作品以外あまり彼を知らないが, 物事の考え方や洞察力, 先見の明, 残した名言「嫉妬こそ生きる力である」に共感を覚えたからだ。数年前まで両親(民×官)が共働きだったこともあり, 幼少〜青年期の私を育ててくれた祖父母がよく口にした「若い時の苦労は買ってでもせよ」, その人生をとりわけ民間外資時代は歩んできた。グループ企業内外の政治問題に疲弊しただけでなく, アラブ革命の混乱期にあっては命を二度失いかけたこともあるが, 公私において優れた同志や学友への羨望の念は, 私のバイタリティを強くしたであろう, と振り返っていた。研究補助をする現職場は, また別の意味で嫉妬をおぼえる。

三島由紀夫のエッセイを昔読んで印象に残ったこと。<気狂いピエロ>というのがあり、ピエロは職業としてお客を喜ばし笑わすのを仕事としています。たとえ自分が悲しいことがあって心では泣いていても、顔では笑ってお客を笑わせる。それがプロの仕事だと書いてありました。岡本太郎は、よっぽどの自信家であったと思います。自信がなければあのような大胆なことはできなかったと思いました。私は仕事に完璧、完成はなく常に勉強し経験しよりよいものにする過程であると思い普段から謙虚になって実行しています。今日も有益なフルーツフルな授業ありがとうございました。

・本日もありがとうございました。本日の講義で最も印象に残った人物は岡本太郎でした。私自身、芸術には全く興味がなく、また芸術家と呼ばれる方たちは一般人とは違う独特の感性や人間性があるため、なかなか真似をしようとしたり、生き方を参考にするという発想がありませんでした。しかし、本日の講義で岡本太郎という人物について学ぶなかで本当に立派な言葉を残していることをはじめて知りました。特に「調和はぶつかり合った後に生まれるもの」という言葉が印象に残りました。私たちの業界では会議や研修のたびに医療と介護の連携をよくしよう、お互いを理解しようという言葉が出てきます。一見耳障りのいい言葉ですが、実際はお互い本音の議論は行われず、ただ表面的な付き合いをしているだけだと常日頃から感じていました。だからこそこの岡本太郎の言葉が印象に残りましたし、いつも本音でぶつかり合えるような関係を地域の関係機関とも築いていきたいと思いました。また次回もよろしくお願いいたします。

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「名言との対話」10月20日。河上肇「人はパンのみに生きるものに非ず、されどまたパンなくして人は生きるものに非ず」

河上 肇(かわかみ はじめ、1879年10月20日 - 1946年1月30日)は、日本の経済学者 

美術人名辞典では「経済学者・社会思想家。山口県生。東大卒。ヨーロッパに留学中法学博士号を受け、帰国後京大教授となる。またマルクス主義の研究と紹介に努め、青年層に多大の影響を及ぼした。のち大山郁夫らと実践運動に入り新労農党を結成したが、理論的誤りを認め大山らと別れた。獄中生活の後、自叙伝等の執筆に専念した。昭和21年(1946)歿、68才」と人生を総括されているが、よく調べると河上肇の心の軌跡が滲んでいない感じがする。この人の人生こそ、波瀾万丈だった。

故郷の山口県岩国から上京し東京帝大に入学するが、東京における貧富の差にショックを受ける。足尾鉱毒事件の演説会で感激し、その場で外套、羽織、襟巻きを寄付し話題になる。帝大卒業後は経済学によって人々の幸福に貢献しようと考える。京都帝大教授時代に書いた『貧乏物語』がベストセラーになる。河上のマルクス主義解釈の批判を受けてそれを認める自己批判を行い発憤して『資本論』などの翻訳をすすめる。京都帝大を辞職し労働農民党の結成に参加するが、批判し決別。その後、共産党に入党。1933年に治安維持法違反で検挙され、獄中で転向を発表。出所後は『自叙伝』を執筆。終戦後、活動への復帰を予定したが体調不良のため果たせなかった。戒名は天心院精進日肇居士だった。日々の精進と名文家であった河上肇の人柄を彷彿とさせる。
1907年には沖縄における舌禍事件があった。河上は沖縄の独自性を発揮せよとの論陣を張ったが、日本本土との画一化を志向する当時の沖縄のリーダーたちには響かなかった。
人道主義的情熱が強く感激グセのあった河上肇の人生は傾倒と批判と自己批判の連続であり、紆余曲折とアップダウンがまことに激しいが、「貧乏」を無くそうという志は一貫していたことがうかがえる。その思想遍歴の支えは、宗教的真理を信じることと社会科学としてのマルクス主義であった。河上自身も「辿りつつふりかへりみれば山川を越えては越えてきつるものかな」という歌を詠んでいる。
『貧乏物語』では石川啄木の「働けど働けどわが暮らし楽にならず、じっと手を見る」を引用し格差社会の改革を貧困側から描き、格差を解消すべきとした。冒頭の「人はパンのみに生きるものに非ず」は広く人口に膾炙したが、続く「されどまたパンなくして人は生きるものに非ず」との対であったことを忘れてはならない。人の世のこの真実を念頭に生きていかねばならない。

リレー講座:金美徳先生「朝鮮半島をめぐる国際政治と日本」

関厚夫『次代への名言--時代の変革者編』(藤原書店)を読了。

 司馬さんのあしあと:「坂の上の雲」「竜馬がゆく、の風景」

日本の品格:「武士道の系譜」「経営者列伝」「信長と秀吉」「晋作と松陰」

和華一如:「子、曰く」

著者は産経新聞の記者で、「名言」をテーマにしている人。

次代への名言 時代の変革者篇

次代への名言 時代の変革者篇

 

 秋山好古「若いころはなにをしようかということであり、老いては何をしたかということである。」

正岡子規「人間のえらさに尺度がいくつもあるが、最小の報酬でもっとも多く働く人ほどえらいぞな。」

坂本竜馬「人間はなんのために生きちょるか知っちょるか? 事をなすためじゃ。」

西郷隆盛「イヤ生命(いのち)もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、と云った様な始末に困る人です。但し、あんな始末に困る人でならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓ひ合う訳には参りません。」

勝海舟「武士道は人道と云ふてさしつかへないよ。」

五代友厚「人と己の論、五十歩百歩なる時は、必ず、人の論を賞めて採用すべし。」

渋沢栄一孔子を称して偉大なる平凡人というても適当であろう。」

徳川家康「天下国家を治めるものは、孟子をよくよく味ふべし。」

王陽明「人間というものは、現実にぶつかって錬磨するという修行を経てはじめて、大きく前に進む。」

吉田松陰「吾れの得失、当に蓋棺の後を待ちて議すべきのみ

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「副学長日誌・志の風」171019

研究室で書類の大整理。やっとスッキリ!

 

ラウンジ

・山本さん:T-Studio「名言との対話」。次回はセンテナリアン、日野原重明片岡球子に。

・高野課長と趙先生

 

研究室

:知研の高橋茂人さん:パンフレットの更新。この週末に取り組むことにしようか。

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リレー講座:本日の講師は金美徳先生「朝鮮半島をめぐる国際政治と日本」

・核保有国:国連安保5ヶ国+インド・パキスタンイスラエル北朝鮮(?)

金正恩の5年間:金日成46年間にミサイル15発。金正日18年間に33発。金正恩5年間に81発。

拉致問題:2002年の小泉訪朝。2004年に5人帰国。日朝平壌宣言でグランドデザインを明確にした。その後13年間、動かない。

北朝鮮の主張:1.核兵器保有国と認めよ。2.朝鮮戦争終結を(米中北の休戦協定から米朝の平和条約を結べ。韓国の李承晩は拒否)

北朝鮮:164ヶ国と国交。米・日・韓・台のみ国交がない。

金正恩:33歳。母は大阪生まれ。7年間のスイス留学。6人兄弟の5番目。金日成軍事総合大学情報工学金日成軍事総合大学で砲兵指揮を専攻。三男。子供3人。妹は今回ナンバー4に。処刑140人。

脱北者:3万人。日本にも0200人。

・経済:GDP3.6兆円(和歌山県)。韓国の45分の一(2.2%)。一人14.6万円(年)。月1.2万円。韓国の22分の一(4.6%)。3.9%成長、6年連続プラス。貿易マイナス23%。50ヶ国5万人の海外労働者で2000億円。4大経済戦略(IT・観光・労働者輸出・資源開発)。

・理論的分析:悲観論(日本)。楽観論(北朝鮮)。南北経済共同体論(韓国)。館理論(米国・中国)。利害関係論(欧州・ロシア)。

地政学的分析:3層構造。民族問題(韓国と北朝鮮)。地域冷戦(米国・日本とロシア・中国)。国際冷戦(米国とロシア・中国)。

・モンゴル報告

・歴史的分析(朝鮮戦争史):国連軍は22ヶ国・100万人。北朝鮮は中ソを含め100万人。トルーマンスターリン毛沢東、李承晩、金日成。300万人が死亡(10%)。第二次世界大戦で日本は300万人が死亡(4%)。戦争孤児10万人。離散家族は1000万人。マッカーサー「中国への原爆使用を提案」、トルーマンは拒否し解任。

北朝鮮「核は国体そのもの」。リビアカダフィ(崩壊)。ウクライナ(ロシア侵攻)。イラン(トランプの破棄)。米の先制攻撃には中国は介入。

・韓国の核武装60%。日本にも核武装論。

・圧力強化による対話交渉:軍事圧力。米国の先制攻撃(韓国人100万人死亡)。北朝鮮の先制攻撃(ソウルと東京で210万人死亡。770万人の負傷者)。武力衝突による経済損失は100兆円。北は10兆円の支援を求め、日米間は1兆円。ペリープロセス(核放棄の見返りに北の体制を保証)で雪解け、ブッシュ政権で方針転換。6ヶ国協議にペリープロセス反映、2003年以降未開催。2017年4月プーチン再開を提。

金正恩との直接対話:核・ミサイル抛棄なら金正恩訪米を提案)

・仲介:スイス。9月にジュネーブ米朝の接触。スエーデンノルウェー

・中露主導の安保グランドデザイン(2017年7月):中断、交渉、武力不行使原則、一括妥結、安保体制、米朝国交正常化。

・日本の課題:圧力だけで良いのか。日朝平壌宣言をもう一度働かせ(一度受け入れている)。半島の統一となれば8000fu万人の大国が現出、脅威。被爆国として北東アジアの非核化に向けてのグランドデザインを書け。

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夜は、品川の大学院で院運営委員会に出席。

 

「名言との対話」10月19日。高橋荒太郎「私は機会があれば何度でも経営方針を話します。なぜなら経営方針というものは、一度聞いただけでは分からず、何回も何十回も聞いて分かるからです」

高橋荒太郎(1903年10月19日-20034月18日)。昭和時代の経営者。

小学校卒業後、商店で丁稚として働きながら神戸商業補習学校を卒業。朝日乾電池にはいり、常務。業務提携先の松下電器(現パナソニック)に途中入社し、専務、副社長をへて、会長。松下幸之助片腕として,フィリップス社との提携,経営管理体制の整備につとめた。

戦後にベンチャーから始まり、日本を代表する大企業となったリーダーには彼を支えるサブリーダーがいた。例えばソニーの創業者である井深大には盛田昭夫がいた。本田技研工業の創業者、本田宗一郎には藤沢武夫がいた。同じように松下幸之助には高橋荒太郎がいたのである。

高橋荒太郎が言うように、リーダーは、方針について常に同じ話を繰り返し語り続けねばならない。繰り返し聞きながら、少しづつ理解が増していく。その都度、腑に落ちる部分が違う。自分の仕事や社会の動きの中で、自分の組織と自身の立ち位置が明らかになり、次第に確固たる信念として固まってくる。逆境を迎えた時、その確信がよりどころとなるのだ。「松下電器の大番頭」と呼ばれた高橋荒太郎は「会社を訪問したらトイレを見る。トイレが汚かったら、取引はしない。」とも言う。そういった人柄に心酔する人は今も多い。

 

「知研フォーラム」338号--10月セミナーと11月セミナー

「知研フォーラム」338号が届く。

10月25日のセミナー「イタケ島便りに書いたこと」。講師は都築義一(生物学者)。19時から。渋谷区千駄木。会場 BVハウス(http://goo.gl/W35SPc

11月10日のセミナー「バグは本当に虫だった&知研関西30年の歴史」。水谷哲也(エムアイティス代表)。19時から。渋谷区千駄木。会場 BVハウス(http://goo.gl/W35SPc

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 以下、理事長メッセージ。

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人生百年時代を迎え撃つ「知の再武装」を!

 

            NPO法人知的生産の技術研究会

              理事長 久恒啓一

 

「知的生産の技術」研究会(知研)は、1969年に発刊された名著・梅棹忠夫『知的生産の技術』(岩波新書)に触発されて、梅棹先生を顧問に東京オリンピックから数年を経た1970年に創設されました。そして二度目の東京オリンピックが開催される2020年には創立50周年を迎えます。

 この間、70年代から始まる高度成長と日本の最盛期の20年と、バブル崩壊後の失われた25年の間に市民に向けて開催したセミナーは、2017年現在で約800回を数えています。評論家、学者、マーケッター、探検家、ジャーナリスト、作家、ノンフィクション作家、編集者、都市プランナー、経営者、弁護士、発明家、ビジネスマン、コラムニスト、教育者、官僚、冒険家、、など各分野の第一線で活躍する人物たちの知的生産とその技術を、学んできました。その成果は多くの出版物となって、多数の市民を励ましてきました。

 超高齢化時代を迎えつつある現在の日本は、80歳以上は1000万人を越え、100歳を越える人も7万人を数えています。この異次元の高齢化は、2050年を迎える頃には80歳以上は1600万人、100歳以上は53万人と予測されています。

55歳から34年かけて世界最大の著作『近世日本国民史』100巻を書いた徳富蘇峰は「世に千載の世なく、人に百年の寿命なし」と言いましたが、今や私たちはまさに百年の寿命を手に入れようとしています。

 今から迎える「人生百年時代」を迎え撃つには、老若男女を問わず、個人個人がしっかりした人生観を磨きあげなければ人類が初めて手に入れるこの厖大な時間に対処できるものではありません。これからは、生涯をかけて研究するテーマがこれまで以上に必要になります。

 想像を絶する異次元の高齢社会の主役となる私たちには、改めて知の武装が必要な時代となりました。生涯学習、ライフワーク、志、、、、という言葉が今ほど切実になった時代はありません。

 人生百年を迎え撃つために、「知の再武装」をともに目指しましょう!

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「副学長日誌・志塾の風」171018

多摩キャンパス

-人事委員会:昇格案件(今後の抱負が大事。期待も。)採用経過報告(大学PRも添付しよう)。

-学部運営委員会:地域学生センターの件を議論し、学部としての方向を確認。

-松本先生:「声ラボ」(BS多摩)と。

-学長から電話:宮城大卒業者の情報共有。

 

目黒(学園本部)

-2018年度教員採用内定者の理事長面談:キャリア担当とビジネスコミュニケーション担当。杉田学部長と。

-理事長:地域学生センターについての報告と今後の方向の確認。前へ。

-内定者と懇談:杉田学部長と二人で大学の現状と期待を語る。今後のスケジュールも。不安を解消してもらう。

 

「名言との対話」10月18日。アンリ・ベルグソン「生存するということは変化することであり、変化するということは経験を積むことであり、経験を積むということはかぎりなく己れ自身を創造していくことである」

アンリ・ベルグソン(1859年10月18日--1941年1月4日)。フランスの哲学者。

1927年にノーベル文学賞を受賞。20世紀半のフランスの知的世界の中心人物。

「どこまで行けるか、確かめる方法は唯一つ。すぐにでも出発して、歩き始めることだ」

「持続とは変化を続けることである。変化とは自己の中に「非自己」を取り込むことである」

すぐに始めること、経験を積むこと、それを続けること、そして変化を持続すること、それが自分を創造することだ。この哲学者の人間観には賛成だ。人間とは進化を重ねる者であり、自分自身を創造する者である。

 

   

『加藤秀俊著作集10 人物と人生』(中央公論社)

加藤秀俊著作集 10 人物と人生』(中央公論社)を読了。

 加藤秀俊が語った「人物と人生」は、今日の時点でも納得感が高い。若いときにも読んだと思うが、本当には理解できなかったのだろう。人生の秋霜を経てきて、改めて読むとうなづくことが多い。

 ・「生きがい」ある人生とは、プライドをもって生きることができる、ということである。

・「ショート・ショート時代」、、時間的な持続力をもった人間が例外的な偉人として珍重される。、、もしも何十年かの人生を通じて、なにごとかについての持続力をもつことができるなら、それは、とりもなおさず、「生きがい」のある人生であった、ということである。

・年月は恐ろしい。、、、蓄積は貴い。、、だいじなことは、その蓄積をじぶんの力でつくるということである。自力でつみ上げていくことである。、、コツコツと蓄積していくこと---そのプロセスが貴重なのだ、とわたしは思う。

・「責任ある仕事」とは、、、自由のある仕事、ということになる。そして自由度が大きければ大きいだけ、責任も大きくなる。

・もしも、未来社会がより「ゆたか」な社会で、すべての人間が、最低の文化的生活を保障されるようになるのだとすれば、少なからぬ数の人間が、職業生活から脱落して、のびやかに二十日ダイコンをつくるようになるだろう。(小松左京『そして誰もしなくなった』)。8万円の給料で働くよりは、5万円の社会保障をうけることを選ぶだろう。、、こうした生き方によってつくられる文化を仮に「若隠居」文化と呼ぶことにしよう。

・東洋の思想は「縁」という観念によてこの「偶然」を必然化した。

・道というのは、「えらぶ」ものではなく、「見えてくる」ものであるらしいのである。それは、ひとつの丘をこえてみて、はじめて、つぎの丘が見えてくるのに似ている。こうしようとおもってこうなるのではない。こうしてみようか、とおもってやってみると、やってきた結果として、次がみえてくるのである。

・世界は無数の断片のちらばりによってできあがっている、茫漠たるものだ。その断片のひとつに手をつけてみると、それが手がかりになってつぎの断片が見えてくる。そんなふうにして、いくつかの断片が見えない糸でつながり、関係づけられてゆく。、、このアミダくじ的世界観にもとづく作業の過程という以外のなにもんでもない。断片と断片を糸でつないでゆけば、ひょっとして、首飾りのようなものができるかもしれないが、、。

・毎日が選択肢の連続だ。こう、と決めたら、それでやってみよう、とわたしはいつもおもっている。そしてどうにかなるさ、と信じている。ほんとうに、どうにかなるものだ。

・将来、すこしづつ人間というっものをより深く学びつつ、この領域(評伝・伝記)でのしごともつづけてゆきたいとかんがえている。

 

 

「名言との対話」10月17日。益田孝「眼前の利に迷い、永遠の利を忘れるごときことなく遠大な希望を抱かれることを望む」

益田 孝(ますだ たかし、嘉永元年10月17日1848年11月12日) - 昭和13年(1938年12月28日)は、日本実業家。三井物産初代社長。男爵。

佐渡出身。函館、江戸で少年期を送り、ヘボン塾などで英語を学ぶ。幕府の通訳となり、1863年に使節団の一員として渡欧。大蔵省入り造幣権頭となるが、井上馨とともに退官。世界初の総合商社三井物産の設立に関わり、1876年に29歳で初代社長となった。わずか17人のベンチャー企業としての出発であり三井は資本を出さず、債務保証というスタートだった。中上川彦次郎没後は専務理事として三井の経営路線を商業主義的方向に修正した。1909年には三井合名を設立し理事長として財閥体制を確立した。

1914年の退任後は小田原に隠棲。茶人として鈍翁と号し、茶人、茶器の美術品収集家として名を残している。90歳という長寿であった。

 「貿易というものは、自国の物を外国に売り、外国の物を自国に買うのではまだまだである。外国の物を買って外国に売るのでなければ、本当の外国貿易とは言えない」

三井物産という社名の「物産」とは、物を産すという意味である。英語名のMITUI&CO.は「三井と仲間たち」を意味している。また日本経済新聞の前身である中外物価新報を創刊した。これは世界の物価や世界の動向を伝えるためであり、経営における情報の価値を知っていた。

「永遠の利と遠大な希望」という益田孝の志が現在に続く総合商社の雄と経済新聞という分野を創ったのである。また、益田は退任後は茶人として大師会光悦会などの大茶会を催すなど茶道復興に大きく寄与している。茶道具をはじめ、仏教美術古筆などの蒐集や、懐石研究でも知られ、「千利休以来の大 茶人」といわれるなど数奇者として名高い。太平洋戦争末期に米軍が小田原を空襲しなかったのは早雲台益田邸の美術品の価値を知っていたからともいわれている。66歳までの実業の世界と、その後の24年間の数奇者としての時代、その両方を極めた生き方と人生観に興味を覚える。

日本の名随筆シリーズの『人間』(多田富雄編)と『定年』(山田智彦)

古本屋で手に入れた『日本の名随筆』 シリーズの『人間』(多田富雄編)と『定年』(山田智彦編)を読了。

日本の名随筆 (別巻90) 人間

日本の名随筆 (別巻90) 人間

 
日本の名随筆 (別巻20) 定年

日本の名随筆 (別巻20) 定年

 

 

『人間』は対象が広すぎて焦点が定まらず多田富雄が言うようにやや散漫な印象であるが、『定年』(1992年)はさすがに人生の機微に触れた名随筆が多い。夏目漱石河盛好蔵池田弥三郎鈴木健二、安倍公房、柴田錬三郎大宅壮一青木雨彦扇谷正造、土岐雄三、山口瞳三浦朱門城山三郎らの随筆は味がある。こういう随筆にむしろ「人間」や人生観が映し出される。

 

以下、参考。

柴田錬三郎「私の家の応接間には、自分の本だけをならべた棚がある」(これは実現したい)

大宅壮一の浪人生活秘訣三ヵ条「身なりをととのえること。会合には万障繰り合わせて出席すること。上等のボストン・バッグの類いを持って歩くこと」(参考にしよう)

杉村「新聞記者は、文章を書くたびにモノを覚えていく」(本を書くのも、ブログを書くのも同じことだ)

イタリアのロイ将軍「わたしは、生来の楽観主義者である。なぜなら、人間の馬鹿さ加減にも限界があると思っているからです」(この人に惚れた塩野七生の文章から。悲観する状況の中で、それを逆手にとって楽観する姿勢がいい)

奥本大三郎『子供の、「あれなーに、これなーに」が発展していくと博物学になる』

中村雄二郎「知らないこと、初めて出会うこと、驚かされることが多く、日々を新鮮に生きることができるあらである」(若いときは時間の流れが遅い理由)。「五感をつらぬき統合する感覚、、時間を感じるのはこの根源的な感覚だ」「旅先では共通感覚がいききと働く」(五感「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)を働かせる日々が重要だ。旅美に出る。新しいことに挑戦する。)

 

 

「副学長日誌・志塾の風」10月16日。

研究室

・パソコン(マックブックプロ)のプロジェクター撮影について勉強。

・インスタグラムの勉強

 

ラウンジ

・飯田先生:読書回帰イベント。

・山本さん:T-Studio「名言との対話」は11月1日。センテナリアン。

・金先生:学部運営委員会

・高野課長:打ち合わせ

 

 

「名言との対話」10月16日。オスカー・ワイルド「楽観主義者はドーナツを見、悲観主義者はドーナツの穴を見る」

オスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde、1854年10月16日 - 1900年11月30日)は、アイルランド出身の詩人作家劇作家

ワイルドは若い時代から華々しい才気と派手な振る舞いで、ダンディの典型といわれた。当意即妙の洒落と警句にあふれる喜劇は成功した。また、座談と講演の名人でもあった。

1888年に息子達のために書いた『幸福な王子』は、ワイルドの人生観を寓意的に反映し、奇想天外な比喩、色彩と音楽性に富む文章であった。

1891年のゴシック風のメロドラマ『ドリアン・グレイの肖像』の序文では「書物に道徳的も不道徳もない。よく書けていりか否かっだけが問題なのだ」と主張し、当時は非難されている。

同性愛をとがめられ2年間の投獄、破産。服役後は世間から見放された。46歳で脳髄膜炎で死亡する。葬儀は淋しいものだった。

オスカー・ワイルドの文業と生き様は、日本でも森鴎外夏目漱石芥川龍之介谷崎潤一郎らに影響を与えた。

「生きるとは、この世でいちばん稀なことだ。たいていの人は、ただ存在しているだけだ」

「一貫性というのは、想像力を欠いた人間の最後のよりどころである」

「ほとんどの人々は他の人々である。彼らの思考は誰かの意見、彼らの人生は模倣、そして彼らの除熱は引用である」

「男は最初の恋人になりたがるが、女は最後の恋人になりたがる」

「誰でも友人の悩みには共感を寄せることができる。しかし友人の成功に共感を寄せるには優れた資質が必要だ」

アランは「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである」と言った。ワイルドと同じイギリスの名宰相チャーチルは「悲観主義者はあらゆる機会の中に問題を見出す。楽観主義者はあらゆる問題の中に機会を見出す」と言う。ワイルドの冒頭の言葉は、楽観主義者と悲観主義者の見る目を教えてくれる。問題の中に機会を見いだし、その機会の中に次の問題を見いだすという連鎖が成功を生むのだから、気分を意志で克服し、楽観的に構想し、悲観的に準備し、そして楽観的に始めよう。

 

 

 

耳学問の日

以下、耳からの勉強。

NHKカルチャーラジオ「歴史再発見」。

・「ケネディと日本ーー日米協調ヘのターニングポイント」全13回

・「ルターと宗教改革500年」

・・第1回「95ヵ条」で宗教改革は始まった」

・・第2回「宗教改革前史」。

NHK文化講演会

田中優子「江戸文化研究の道のり」(構造。本質。石川淳、、)

 

インスタグラム

・使い方の本で勉強

・何をテーマにするか:誰と会ったか。残すべき本。

電子辞書:カシオのEX-wordを購入(来年のブログで活用)

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衆院選のポスター掲示板。八王子は、希望、自民。共産、立憲民主の順番で貼られている。

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 「名言との対話」10月15日。渡部昇一儒教の教えでも仏教の教えでも神道の教えでも何だって構わない。あらゆるものが磨き砂になるんだ」

渡部 昇一(わたなべ しょういち、1930年(昭和5年)10月15日 - 2017年(平成29年)4月17日)は、日本の英語学者、評論家。上智大学名誉教授。

渡部昇一先生の本は1976年のベストセラー「知的生活の方法」(講談社現代新書)以来、翻訳もの、歴史もの、時事ものなど、ずっと読み続けてきた。またビジネスマン時代には韓国での先生の講演にアテンドしたこともある。空の上から富士を見て喜んでおられたことを思いだした。ソウルでは天気がよかったが「ソウルの秋」という言葉があるとおっしゃっていたことを思い出す。

20代から始めた著作は、82歳の現在で650冊まで積みあがっている。代表作は「知的生活の方法」。50年以上コンスタントに売れており総販売部数は累計で2400万部になる。定年前の65歳で上智大学を退職したのだが、それ以降の方が刊行数が多いのは驚きだ。手書きと口述筆記で量産している。「インディペンデント」という言葉にこだわっているが、それは稼がなくても食えるという意味だ。180坪の土地、そのうち書庫は100坪。 喜寿の77歳で2億円の借金をして巨大な書庫をつくり全蔵書を書棚に飾っている。音楽家となった娘や息子の高額な楽器を買うために若い頃から借金生活だった。

「私としても、恥など多くてもかまわないから、95歳以上は生きたいと思っている」「この先やることが何も思い浮かばない人は、仏教に手を出すのも一つの道だと思うのだ。」「時間は20歳の時には時速20キロで流れ、60歳では時速60キロで流れると感じられると考えればいいだろう」「ある国を知るひとつの方法は、その国でどんな本がベストセラーになっているかを見ることだと思う」「人の上に立つ人間ほど、朗らかで大らかで、寛容でなければならないと思う」

文科系は蓄積であり、高齢者に適しているのは、修養、人間学がいいと言う。私の人物記念館の旅も、その線上にあると思う。

向上心が高く、そして何より素直な人だと思う。人がいいといいものは何でも試してみている。健康についても関心が強く、あらゆるものに手を出している。また先人のいうことには素直に従ってみている。この人が、米寿、卒寿、白寿と年齢を重ねて、その都度何を言うか、楽しみにしていたのだが、86歳で永眠された。

冒頭の言葉にあるように、どういう分野でもいいから深入りすることだ、それが磨き砂になって、人は成長する。

 

「運慶」展

先日、上野の東京国立博物館平成館で、「運慶」展を堪能した。

青年期の運慶(1150年頃ー1223年)が活動拠点とした興福寺中金堂再建記念特別展である。運慶は平安時代から鎌倉時代へと時代が移り変わる激動の時代に生きた日本史上最高の彫刻家である。

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 運慶というと、必ず快慶という仏師の名前が出てくる。いずれも同時代の天才であるが、運慶の父・康喜の弟子であった快慶はあくまで仏師であり、運慶は仏師であると同時に西洋でいう彫刻家であった。

仏師は仏教の経典などの定めにのっとった像でなければならず、自ずから制約がある。快慶は仏師としては運慶と並ぶ天才であり、阿弥陀如来を信仰する仏師として誰もが美しいと感じる絵画的な像をつくることだった。

運慶という仏師は定型を繰り返すということがなかった。運慶の像には動きが感じられる。そして力が漲っている。独創を重んじて写実の内容が感情や精神という内面にまで及んでいる。目に水晶をはめる玉眼は光ると涙をたたえているように見えて感動を誘い、快慶は多用したが動きを重視した運慶の像には少ない。圧倒的な量感、存在感お彫刻をつくった運慶は彫刻家としても高く評価されている。武士が台頭した時代であり、新しい時代の仏像を制作に意欲を燃やしたのだろう。

代表作:奈良・円成寺大日如来像(20代の作品)。奈良・興福寺の仏頭。

 運慶と快慶の物語の小説を書いたら面白いのではないか。

 

「副学長日誌・志塾の風」171014

インターゼミ。

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 「名言との対話」10月14日。アイゼンハワー「指揮官はまず楽観的であることが重要である。指揮に自信と情熱と楽観の匂いがなければ、勝利はおぼつかない」

ドワイト・デヴィッド・アイゼンハワー(Dwight David Eisenhower、1890年10月14日 - 1969年3月28日)は、アメリカ軍人政治家連合国遠征軍最高司令官英語:Supreme Commander, Allied Expeditionary Force、略称:SCAEF)、陸軍参謀総長NATO軍最高司令官、第34代大統領を歴任した。

貧しい一家ではあったが、「努力しなければ何も得られない」を信条にする母親は、「溺れたくなければ泳ぎなさい」というような示唆に富む言葉で息子たちを厳しく教育した。

3人の師との出会いが凡人であったアイゼンハワーを変えた。フォックス・コナー少将からは古典の勉強を教わる。反面教師でもあったマッカーサー参謀総長からは信頼する部下にすべてを任せるやり方を学ぶ。マーシャル陸軍参謀総長からも影響を受けている。そして1953年にはアメリカ大統領に就任。二期年間の副大統領はニクソンである。「物腰は優雅に、行動は力強く」をモットーとしたアイゼンハワーは、アメリカ国民から(Ike)の愛称で親しまれていた。

1957年の岸信介首相のアメリ初訪米では、アイゼンハワーはゴルフを岸と楽しんだ。「大統領になると嫌なやつともテーブルを囲まねばならないが、ゴルフは好きなやつとしかできない」と語り信頼関係を築いた。1960年の来日計画は日米安保反対闘争の東大生・樺美智子の圧死によって中止された。

 偉大なる凡人アイゼンハワーは常に笑顔であった。リーダーには、彼の心を消耗させる悲観的な報告が部下から間断なく次々と届く。その重圧は胸に突き刺さる。強固であったはずの自身は揺らぎがちだ。しかし「決断とは、目的を見失わない決心の維持にほかならない」というように、指揮官たるリーダーは揺るぎない自信と勝利への強い情熱と、戦況を大局的にそして楽観的に観る態度を失ってはならない。それをアイゼンハワーは教えてくれる。アイゼンハワーの記念館は彼が成長したカンザス州アビリーンにある。