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久恒啓一「団塊坊ちゃん青春記」(多摩大出版会発行。メタ・ブレーン発売)の発刊予告。

久恒啓一団塊坊ちゃん青春記」(多摩大出版会発行。メタ・ブレーン発売)の発刊予告。191ページ。1600円。3月1日発行。アマゾンで先行予約予定。全国の書店注文可。

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探検部中心の大学時代。羽田、札幌、ロンドン、成田に勤務し、結婚するまでの社会人時代。抱腹絶倒、波瀾万丈の笑いと涙の20代の青春を活写。登場人物は実名を採用。漱石の「坊ちゃん」と北杜夫「どくとるマンボウ青春記」を意識している。

 

「著者紹介」もいつもとは違うスタイルを採用。

大分県中津市生まれ。現在、多摩大学副学長。九州大学探検部卒業。在学中に奄美群島鹿児島県)、八重山群島(本土復帰前の沖縄)を探検。将来は月に行けるかもしれないと考え、1973年、航空会社をフィールドにして社会探検を開始。企業(日本航空)とNPO法人(知的生産の技術研究会)、大学(宮城大学多摩大学)の世界を探検中。

 

 

「副学長日誌・志塾の風170223」

多摩キャンパス

  • 事務局との定例ミーティング

九段文庫カフェ

  • 松本先生:打ち合わせ
  • 多摩大出版会打ち合わせ:橘川客員教授、松本先生、メタブレーン太田さんと。・出版会の第一弾。久恒「団塊坊ちゃん青春記」 橘川「深呼吸する言葉」   ・2冊のトライアル出版を題材に多摩大出版会の詳細を検討。目途が立った。
  • 寺島学長、現る:多摩大出版会の進行状況説明。明日の打ち合わせ時間確保。

神保町の古本屋を散策。「内村鑑三のことば」「芥川龍之介のことば」「新渡戸稲造」「人物一日一言事典」を購入。1000円余。

 

 

「名言との対話」2月23日。本多光太郎「産業は学問の道場なり」

本多 光太郎(ほんだ こうたろう、1870年3月24日明治3年2月23日) - 1954年昭和29年)2月12日)は、日本の物理学者金属工学者(冶金学者)。

東北帝大総長。東京理科大初代学長。鉄鋼及び金属に関する冶金学・材料物性学の研究を、日本はもとより世界に先駆けて創始した。磁性鋼であるKS鋼新KS鋼の発明者として知られる。第一回文化勲章受章者。 「鉄の神様」「鉄鋼の父」などとも呼ばれ鉄鋼の世界的権威者として知られる。1932年に日本人初のノーベル物理学賞の候補に挙がっていた。

「今日のことを今日できない者は、 明日のことがまた明日できないのです」

「人間には待機の時代と断行の時代とがあります。潜伏の時代と飛躍の時代とがあります。じっと好機の到来を待つ間も大事ですが、ひとたび好機到来となれば機敏にチャンスをつかまえる気力がなくてはなりません」

本多光太郎は並外れて高い身長で五尺八寸(178センチ)で、あせらず、いそがず、坂道をのぼっていく牝牛のようであったらしい。「ナァ」という接尾語(?)をつけるクセがあった。「待遇など問題でないわナァ」、外人にも同じだった。This is ナァ a  pen.という具合だった。わかったのだろうか。外観などは無頓着だったから、本多総長は小使いさんに間違われたとのエピソードもある。

実学の伝統のある東北大学の土台をつくった本多光太郎は、「産業は学問の道場なり」との含蓄のある名言を吐いている。現実の産業界の問題を解決しようと努力する過程で学問が磨かれていくのだ。学界と産業界の関係を見事に言い当てている。産学連携の場は、学問を志す者を鍛える道場である。

 

 

 

 

 

 

 

 

経営情報学部の2016年度「全体方針共有会」を開催

経営情報学部の2016年度全体方針共有会を開催。10時から17時まで。

教員・職員の大半が参加。新任教員4人も。

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・午前

・・現学部長(私)による説明「開学以来の数字を踏まえた現状と課題」:「量」の時代から「量も質も」の時代へ。旗艦組織。再建。文科省改革総合ランキング全国トップ。開学以来のボトムとピークと現在の数字。実質就職率。入学者数。偏差値。ストレート卒業率。離学率。科研費。MOS。図書館。AL発表祭。協定。海外留学。留学生受け入れ。グローバルスタディーズ学部と大学院の状況。

・・現委員長8名による総括

・午後

・・新メイン委員メンバー教員・職員)による初会合。就職・入試・教務・学生。

・・新サブ委員会メンバー(教員・職員)による初会合。研究・アクティブラーニング・地域・国際。

・・新委員長8名による決意表明。:外部合説バスツアー。企業開拓。ウェブ出願。高大接続シスウテム改革。授業ファースト。7000の授業が本丸。授業マネジメント。ホームゼミポリシー。学科機能。離学率。SAの組織化・コミュニティ化。プレゼミコンテンツ。課外活動。アクティブラーニングセンター。AL4段階説。高大接続AL研。非常勤。AL.新しいタネの年。大いなる多摩学会。チャレンジ。中期改革達成。大中華圏とアセアン。近隣高齢者の資源化。ディープデータ。セルフヒストリー。民泊。

・・杉田新学部長による総括:これでだめならしょうがないレベル。人材像!学生ファースト。、、、

 

大変に充実した会だった。3月からは新体制で出発する。

 

  • ブログ日誌「今日も生涯の一日なり」の2016年版の冊子が届く。3分冊。458P・460P・460Pで計1378P。1Pは原稿用紙2枚として2758枚。一日7.6枚。写真もあるから、一日6枚として2400字見当か。
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「名言との対話」2月22日。高浜虚子「春風や 闘志抱きて 丘に立つ」

高浜 虚子(たかはま きょし、1874年明治7年)2月22日 - 1959年昭和34年)4月8日)は明治・昭和期の俳人小説家。本名は高浜 清)。俳誌「ホトトギス」の理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱したことでも知られる。

虚子は正岡子規の「写生」を一歩進めて俳句人口を広げた功労者であり、「花鳥諷詠」を説いた。虚子によれば「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂であります」である。

  大勢の子を育て来し雑煮かな

  一つ根にははなれうく葉や春の水

  春の山屍を生めて空しかり

信州小諸に高浜虚子記念館がある。戦時中、虚子は76歳からの4年間をこの小諸で疎開した。晩年の小諸での虚子の句は秀句ぞろいだった。

  秋晴れの名残の小諸杖ついて

  俳諧の旅に日焼けし汝仲哉

  虹たちて忽ち君のあるごとし

  山国の蝶を荒らしと思はずや

虚子は喜寿の年に77句を自選自書して「喜寿艶」と題し、刊行した。後半生は俳壇に君臨し、多くの俳人を育てた。若い頃は酒豪であったが、47歳で軽い脳障害で臥床し、以後は一滴も飲まなかった意志の人であった。小諸疎開あたりから少しだけ飲み始め、86歳で亡くなるまで楽しんだ。

文化勲章の日には同じく文化勲章を受ける日本画鏑木清方夫妻と偶然会い連れだって宮内庁に向かう。

  我のみの菊日和とはゆめ思はじ

虚子には名句は多いが、冒頭に紹介した「春風や 闘志抱きて 丘に立つ」が私は好きだ。俳句改革に向けての決意がみなぎるいい句だ。自らの人生も、仕事も、こういう覚悟と闘志で臨みたいものである。

 

 

 

 

梅棹忠夫「知的生産の技術」(岩波書店)のfebeのオーディオブックが誕生

梅棹忠夫「知的生産の技術」(岩波書店)のfebeのオーディオブックを読了(聴き終わった)。

知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)

 

 この本はいつも新しい。目からではなく、耳から情報が入るのも新鮮だ。

 

  • 拙著「団塊坊ちゃん青春記」(多摩大出版会)が研究室に届いたというニュース。どんな本になっているか、楽しみだ。
  • 「名言との対話(命日編)」の原稿整理が終了。
  • 週刊ポスト」の取材が急遽入ったため、九段サテライトの会議の後に文庫カフェで30分ほどの取材を受ける。生き方をめぐる企画記事への識者のコメントという立場。来週月曜日発刊。

 

「名言との対話」2月21日。永田耕衣「大したことは、一身の晩年をいかに立体的に充実して生きつらぬくかということだけである。一切のムダを排除し、秀れた人物に接し、秀れた書を読み、秀れた芸術を教えられ、かつ発見してゆく以外、充実の道はない」

永田 耕衣(ながた こうい、1900年明治33年)2月21日 - 1997年平成9年)8月25日)は、俳人的思想に導かれた独自の俳句理念に基づき句作。また諸芸に通じ書画にも個性を発揮、90歳を超えた最晩年に至るまで旺盛な創作活動を行った。

三菱製紙高砂工場のナンバー3の部長で終えた永田耕衣は若い時から俳人であった。55歳で定年を迎え、毎日が日曜日の40年以上に及ぶ「晩年」の時間を俳句や書にたっぷりと注ぎ、そして97歳で大往生する。「毎日が日曜日」を豊かに生きた人物である。

 この人は芸術や宗教に徹した人々と深く付き合い、評価される創作活動に励む。一方会社員としてはハンディキャップを背負いながらかなりの昇進を果たし、1955年の定年までつとめあげている。二つの世界が共存し、大いなる晩年に向かって人物が大きくなっていく。その姿は城山三郎の「部長の大晩年」(新潮文庫)に生き生きと描かれている。

「亜晩年、重晩年、秘晩年、露晩年、和晩年、是晩年、呂晩年、綾晩年、些晩年」

朝顔に百たび問はば母死なむ」
「衰老は水のごと来る夏の海」
無花果を盛る老妻を一廻り」
「コーヒー店永遠に在り秋の月」
「秋雪やいづこ行きても在らぬ人」
「強秋や我に残んの一死在り」
「白梅や天没地没虚空没」
「枯草や住居無くんば命熱し」
「死神と逢う娯しさも杜若」

 俳人永田耕衣の晩年は職業生活よりも長く40年以上もあった。余生などではまったくない。本舞台だった。55歳まではそのための準備期間ともいえる。ここに大いなる晩年を生きた先達の姿がある。

 

「副学長日誌・志塾の風170221」

  • 13時:研究開発機構評議員会(九段サテライト)を開催。
  • 松本先生:多摩大総研:デジタル仕事術。
  • 17時:グローバルスタディーズ学部運営委員会(湘南キャンパス):入試好調の由。私からは「FD/SD研修」「高大接続型アクティブラーニング」「全体方針説明会」を説明。

岡村吉右衛門展(多摩美術大学美術館)

岡村吉右衛門展(多摩美術大学美術館)を先日訪問した。

 

岡村吉右衛門(1916-2002)は、民芸運動の創始者柳宗悦と染色工芸科芹沢けい介に師事した染色技法研究の第一人者だ。太鼓から現代までの人類文化史をたどり、最後に一刀一刀紙を切って(彫って)いく独自の「型染版画」のスタイルを完成させた。

21歳の八丈島から始まり沖縄、北海道、そして海外では中国、インド、東南アジア、中南米、アフリカなどを舞台に徹底したフィールドワークを行い、染色はいうにおよばず、繊維、製紙、陶磁器、民具等の工芸研究を続けた。

岡村は一つの土地に長期間古紙をすえ、現地の人々と同じ目線で調査を行うというフィールドワークの方法をとっている。研究者と制作者の目をもってみるのである。

「広義の汎神論の蝦夷絵(えぞえ)は、たんに物珍しい風俗絵としてではなく、文化の根源を振り戻す努力とその夢、その徴(しるし)としたいとわたしは希う」

岡村は万物生命教ともよぶべき汎神論やあらゆる宗教を超えた十二星座に到達する。これの蝦夷絵の延長であった。蝦夷絵は芹沢のデザインに大きな影響を受けている印象を持った。

岡村は蝦夷文化を「続縄文文化」ととらえている。そして汎神論の蝦夷絵に加え、吉祥文であり具象(現実)と抽象(空想)を往復する絵文字も続縄文文化ととらえている。自分の仕事は「旧きを耕し、文化土壌を活性化させ、新しい種を播き苗を育てる話し合いの和の場でありたい」と述べている。

十二星座シリーズは古代バビロニア占星術に由来するが、蝦夷絵、文字絵などの型染め版画による集大成で岡村の最高傑作である。

制作と研究を同時にすすめる岡村吉右衛門は、素晴らしいフィールドワーカーであり、優れた文献研究家でもあった。作歌と万葉研究の同時進行という優れた歌人たちと同様に、二つの目を持ち、進んでいくことの凄みを感じる。

 

 「副学長日誌・志塾の風170220」

ラウンジ

  • 高野課長
  • 金先生:教育学術新聞に高大接続アクティブラーニングの記事。「付属高と高大接続研究--多摩大が創設・AL技法の研究・開発」「、、、、高大の教職員が一緒に議論してこそ初めて気付かされる点が多々あった。会議最後に発案者である久恒啓一副学長が、「大学で学ぶこと、社会で役立つのは、問題解決力である。そこで得た方法論や現場に飛び込む勇気が大切である」と述べ、締めくくられた。、、、(文責・連絡先:金美徳教授kim-m@tama.ac.jp)

 一般入試二期:本部詰め:

  • 下井先生:研究委員会
  • バートル先生:研究紀要
  • 安田学部長

 ラウンジ

  • 金先生・斉藤S先生:教務委員会の構成

 

「名言との対話」2月20日。石川啄木「詩はいわゆる詩であってはいけない。人間の感情生活の変化の厳密なる報告、正直なる日記でなければならぬ」

石川 (いしかわ たくぼく、1886年明治19年)2月20日 - 1912年(明治45年)4月13日)は、日本歌人詩人

函館近郊の大森海岸沿いにある石川啄木が和服姿で頬杖をついてもの思いにふけるブロンズ(青銅)像がある。歌集「あこがれ」を持ち、下駄履きの袴姿である。この小公園は海岸沿い、道路沿いに長いのだが、ちょうどカモメが飛ぶルート上にあるようでひっきりなしにカモメが啄木の頭の上を優雅に飛んでいく。
「潮かおる北の近辺の  砂山のかの浜なすよ  今年も咲けるや」
「砂山の砂に腹這い初恋のいたみ  遠くおもひ出ずる日」

 この小公園の脇に「函館記念館 土方・啄木浪漫館」が建っている。この記念館は株式会社味の豊の設立二十周年記念で建立したものである。2階が啄木、一階が土方歳三関係の資料を展示してある。小劇場があり、故郷の渋民村の代用教員だった時代の石川啄木の先生姿と数人の子供たちのほぼ等身大の人形姿をした人形が動くというしかけである。啄木はなかなかの好男子である。その啄木の紹介で短い映画をみることができる。
啄木は三行歌を発明し、その器に多くの名歌を盛り込んでいる。
「頬つたふ
 なみだのごわず
 一握の砂を示しし人を忘れず」

「はこだての青柳町こそかなしけれ
 友の恋歌
 矢ぐるまの花」
「東海の小島の磯の白砂に
 われ泣きぬれて
 蟹とたはむる」
「しらなみの寄せて騒げる
 はこだての大森浜
 思ひしことども」
啄木が愛した大森浜は、やわらかい風、潮騒、白い砂、カモメの飛翔、そして子供をはさんで両親が左右で手を握っている姿など、印象に残る浜だった。啄木の生涯は短く26歳でこの世を去っている。

 岩手県の啄木記念館。書籍は現地でしか手にはいらないものが面白い。近親者の書いたものや周辺者の感想などが面白い。宮沢賢治記念館と比較すると、石川啄木記念館は粗末だ。啄木は借金を踏み倒す、浮気はする、友人の金田一京助に迷惑はかけるで地元の評判はあまり芳しくなかったことが伺われる。

 盛岡中学時代には「あめつちの酸素の神の恋成りて、水素は終に水となりけり」と詠んで皆を驚かせている。

ピカソが絵を描くのと同じように、啄木にとっての詩は日記であった。詩は短いから人々の印象に強く残る。「俳句はやっぱり「小さすぎ」ないだろうか」と言ってた寺山修司が晩年にはもっと俳句をやっていればよかったと後悔したように、短詩は長い時間を生き抜いていく。26歳の短い人生であった啄木が書いた日々の日記は長い命を保っている。

 

 

 

「篠山紀信 写真力」展(横浜美術館)

5年前の2012年に東京オペラシティでみた企画展を横浜美術館でみた。

内容は同じだった。今回は前回に加えて、篠山本人の言葉をピックアップ。

・「僕はその時代はその時代のカメラで撮るのが一番いいと思う」

・「いや、芸術よりもっと上にあるものでしょう。写真の中に芸術的なものもあるというだけ。、、写真=芸術だったら写真に失礼です。、、、写真はもっともっと大きなものですよ。」

・「嘘X嘘は本当になる。、、、、作られたフィクションを写真によってよりフィクションにする。そこに真実がある。、、、」

・「ようはお座敷次第でね。、、、仕事が来るたび「それならばこういうふうにやったら面白いんじゃない?」というふうに考える。、、」

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2012年のブログから。

初台の東京オペラシティアートホールでで開催中の「篠山紀信展 写真力」を観る。

いきなり三島由紀夫の死の直前に撮った縛られて死を迎えた裸の写真と日本刀を持って構える三島の殺気溢れる大きな写真をが目に飛び込んできて驚かされる。大きい写真はやはり圧倒的な迫力で迫ってくる。
篠山紀信(1940年生れ)は、50年に亘って衝撃的なメッセージを送り続けてきた写真家だ。回顧展を一切やらなかった篠山が初めて放つ美術館を使った写真展である。

テーマとなっている「写真力」について篠山はこう言っている。
「写された方も、撮った者も、それを見る人々も、唖然とするようなスゲー写真。、、時空や虚実を超えて、脳裏に強くインプットするイメージの力が写真力ってわけだ。、、、人知を超えた写真の神様が降りて来なくちゃ、すごい瞬間は立ち現れないんだもの。その為には、あらゆる努力をする。、、、、」

 

GOD(鬼籍に入られた人々)。美空ひばり三島由紀夫、大原れいこ、勝新太郎武満徹、、、。
STAR(有名人)。吉永小百合、澤 穂希、王貞治、。
SPECRACKLE(夢の世界)。ディズニー、大相撲、刺青の男たち、歌舞伎、リオのカーニバル、、。
BODY(裸の肉体、美とエロスと闘い)。宮沢りえ、ウラジミール・マラーホフ、、。
ACCIDENTS(東日本大震災被災者)。

 

生々しいメッセージ、大きな迫力で迫ってくる生き方、生命を感じる裸体、極限の筋肉の裸体、不動の伝統と歴史の力、、、。確かに「写真力」という言葉に納得する企画展だった。

 

・ハッと感じたら、グッと寄って、バチバチ撮れ!ハッと感じる自分の完成を磨く。いい音楽を聴く、好きな芝居を見る、ふらっと旅に出る、いい女と付き合う、うまいものを食う、、、なんでもいいんだ、いいものに、敏感にハッと感じる感性を身につけよ!

・仮面の上に仮面をつけることこそ、その人のリアリティを獲得することだと思っている。

 

篠山は日大芸術学部写真科在学中から広告制作会社で仕事をし、第一回日本広告写真家協会展公募部門APA賞を受賞している。卒業後は、1966年26歳、日本写真批評家協会新人賞。1970年30歳、日本写真協会年度賞。1972年32歳、芸術選奨文部大臣新人賞。1973年33歳、講談社出版文化賞。1979年39歳、毎日芸術賞。1998年58歳、国際写真フェスティバル金賞。

こういう素晴らしい経歴であるが、時代の最先端を走るメディアで世間を驚かせてきた。シノヤマの名前は同時代を生きる私たちには馴染みが深い。

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「名言との対話」2月19日。コペルニウス「太陽は宇宙の中心であって不動であり、太陽の運動と見えるものは全て実は地球の運動である」

ニコラウス・コペルニクスラテン語名: Nicolaus Copernicus、ポーランド語名: ミコワイ・コペルニク Mikołaj Kopernik、1473年2月19日 - 1543年5月24日)は、ポーランド出身の天文学者カトリック司祭である。当時主流だった地球中心説天動説)を覆す太陽中心説地動説)を唱えた。これは天文学史上最も重要な発見とされる。

1512年には太陽中心の宇宙観を周囲に述べていたが、表だって公表はしなかった。コペルニクスは聖堂参事会員というカトリックの側の人でもあったからでもある。30年後の息を引き取る数時間前に6巻の著書「天球回転論」が枕元に届いた。その後、地動説は旧教・新教双方から非難を浴びた。コペルニクスは極めて慎重で臆病な人だった。

一世代後に地動説を唱えたブルーノは火あぶりの刑、天文学の父・ガリレイは宗教裁判で有罪となり地動説を抛棄する。宗教改革の立役者・ルターもコペルニクスを阿呆と呼んでいた。地動説が実践的に証明されるのはコペルニクスの後3世紀を要するのである。

今となっては、「太陽は宇宙の中心であって不動であり」は間違いであった。しかし地動説は常識となった。後にカントが対象の認識は主観の構成によって初めて可能だとする自らの哲学を天動説から地動説への転回にたとえコペルニクス的転回と呼んだ。40歳前に地動説を確信し、70歳で亡くなるまでその説を深化させ大部の書物にまとめあげる。そして死と同時に、衝撃の書を発表するコペルニクスの人生戦略にも驚かされる。

 

 

 

 

「愛された金沢八景---楠山永雄コレクションの全貌」展(金沢文庫)

金沢文庫で開催されている「愛された金沢八景---楠山永雄コレクションの全貌」をみてきた。

 

鎌倉時代には武士も勉強が必要になった。1275年(建治元年)頃に、北条実時がわが国最古の図書館として日本中の本を集め金沢の地に設けたのが金沢文庫である。金沢北条氏北条氏の中でも勉強好きの一族であり、書物を愛し、学問を尊ぶ気風があった。宗教、政治、文学、歴史などの書物が集まった。

鎌倉幕府滅亡語の1333年には称名寺に書物の管理が移され、「金沢文庫」の墨印が押されるようになった。

1930年に大橋新太郎の尽力で神奈川県立の施設になり、1990年には中世の歴史博物館になた。現在、国宝3件、20865点、重要文化財3500点余を擁している。宗教関係では仏教典籍をはじめ、鎌倉時代の高僧の著作は1700点を数える。日蓮道元明恵、一遍、隆寛など。

コレクションとしては、兼好法師徒然草」関係、大森金五郎の蔵書である南牌文庫(国史関係4000冊)、明治憲法資料(和書152冊、洋書151冊)などがある。

 

さて、金沢八景

金沢八景とは江戸初期に来朝した明国の僧・越禅師の漢詩で有名になった。能見堂からみる見事な風景を讃えた。

 「ぶらり金沢散歩道」は、楠山永雄(1931~2013)の2003年の著作である。

楠山永雄は、静岡県伊豆生まれで麻布獣医科大を卒業し、森永乳業に入社。消費者サービス部長、物流部長などを歴任する。40数年つとめた会社を1996年に退職。

赴任した九州の宮崎では1998年に「ぶらり宮崎散歩道を刊行。

「ぶらり金沢散歩道」を2003年に刊行する。退職後の66歳からホームページに毎月一篇ずつ書いて60ほどまとまった段階で本にした本だ。一日の訪問者は20人から始まり、3万人を超え、メール等で読者から励まされている。

釣り好きの転勤族であった楠山は東京勤務になると関東有数の沖釣り基地・金沢八景に注目し、この地に家を建てた。その後、大阪の古本市で古地図の絵図の中央にわが家が位置していたのを発見する。またその直後に、京都で広重の金沢八景版画「洲崎の晴風」に出会う。それがきっかけとなって、金沢の歴史資料の収集にはまっていく。

「金沢と名前のつく古いものなら何でも」集めた。その収集癖は、 広重から、伝説、湘南電鉄、京浜急行の切符までどんどん広がっていった。

2009年には「伊藤博文公と金沢別邸」も刊行している。

金沢の夏島別荘は明治憲法を起草した場所である。欧州歴訪後、夏島で3ヶ月余をかけて草案を起草した。井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎。夏島憲法とも呼ばれている。

また野島の金沢別邸は憲法発布から8年後に建てられた伊藤の別邸である。この別邸にはこ皇室、皇族、華族らが招かれている。

金沢区の文学と歴史愛好会会長もつとめた。

2009年には、金沢区民特別賞を受賞している。

2012年、金沢文庫特別展「金沢八景いま昔」でコレクションを展示。

2013年、死去。

楠山永雄の人生を眺めると、サラリーマン・コレクターの生き方がみえてくる。

実業に邁進しながら、余暇に自分の住む地のことを興味を持って調べる。

その持続が一つの小品になる。こういう人生も悪くない。

 

私も30代の後半に、この金沢八景で4年ほど暮らしたことがあった。しかしこの地の歴史につぃてはまったく知らなかった。

 

『名言との対話」」2月18日。高村光雲「芸術というものは、時には嘘でもよいのだ。その嘘を承知の上で作った方がかえって本当に見えるんだ」

高村 光雲(たかむら こううん、1852年3月8日嘉永5年2月18日) - 1934年昭和9年)10月10日)は、日本の仏師彫刻家高村光太郎高村豊周は息子。

明治維新以後は、廃仏毀釈運動の影響で、仏師としての仕事は無くなり生活困窮したが、光雲は木彫に専念し、西洋の写実主義も取り入れ木彫を復活させた。東京美術学校の教授をつとめ、江戸時代までの木彫技術の伝統を近代につなげる功績があった。

代表作は上野恩賜公園西郷隆盛像、皇居前広場楠公像、東京国立博物館の老猿など。

本日横浜美術館の「篠山紀信 写真力」をみたが、その篠山紀信は人物写真では「仮面の上に仮面をつけることこそ、その人のリアリティを獲得することだと思っている」と語っている。そして「いや、(写真は)芸術よりももっと上にあるものでしょう、、写真はもっともっと大きなものです」と信じ現代を疾走する写真家・篠山紀信。嘘を承知で創るほうが、リアリティがでて本当になる。明治の木彫のトップ・高村光雲は同じことをいっている。

 

 

 

ネット社会を生き抜くライフスタイルへ

 桑山さんが自宅にみえて、ネット環境の診断をお願いする。

携帯。スマホ。固定電話。自宅回線。テレビ。パソコン環境。家族。タブレット。電子メール。住所録・電話帳。予定表。写真・動画。日記・ブログ。講演資料。紙媒体。デジタル情報。アナログ情報。、、

コンテンツをすべてデジタル化し、クラウドで常時どこからでもアクセスできるようにする、という大きな個人プロジェクトを始動させる。ネット社会を生き抜くビジネススタイル、ライフスタイルの確立を目指そう。21世紀を生きるための必須の考え方とそのための技術だ。

 

「名言との対話」2月17日。松尾静麿「臆病者といわれる勇気を持て」

 松尾 靜麿(まつお しずま、1903年2月17日 - 1972年12月31日)は、運輸省航空庁長官および元日本航空社長・会長。佐賀県杵島郡若木村(後の武雄市)出身。九州帝国大学工学部卒。連合国軍最高司令官総司令部によって航空事業が壊滅的な打撃を受けた中、民間航空の再建に取り組んだことから戦後日本航空業界の父といわれる。

戦後、松尾は初代の逓信省航空保安部長、さらに初代の電気通信省航空保安庁長官として、GHQと粘り強い交渉を重ね、ついに1951年(昭和26年)1月、日本人の会社が航空事業を営むことの承認を勝ち得た。当時GHQ参謀の米国空軍大佐アレンは、松尾を「絶望の中の勇者」と呼び、彼の忍耐強い不屈の人間性を尊敬を込めて賞賛した。

運輸省航空庁長官をへて政府の特殊会社日本航空に入り柳田誠二郎の後を継いで二代目社長。後任は朝田静夫。全日空取締役、日本国内航空会長、東亜国内航空取締役相談役などを歴任し、日本航空会長。

「企業というものは社長一人が優れていても、たいしたことではないんです。全社員がそれぞれの能力を十分に発揮できるような、一人一人が気持ちよく働けるような職場づくりをしなければ業績は上がりません」

「祖先のこころうけついだ この空この地このからだ はえあるその名 若木のように 希望明るく手をとって つくるよい郷(さと)よい日本 」は、松尾が作詞した母校の武雄市立若木小学校の校歌の締めくくり部の言葉である。

私は1973年に日本航空に入社した。伝説の人・松尾静麿が亡くなった直後だったことになる。当時の羽田のオペレーションセンターの玄関には松尾の銅像があったように記憶している。社内で「臆病者といわれる勇気を持て」という言葉にはよく出くわした。天候が悪いときなど、何よりも安全を重視し、人から臆病者といわれても、安全に徹せて撤退せよ、退却する勇気を持て。この短い警句は現場の社員の胸に刺さった。