ザビエル記念聖堂

山口市のザビエル記念聖堂。

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イグナチウス・ロヨラ(「1491-1556年)とフランシスコ・ザビエル(1506年生まれ)。15歳の年齢差。

ロヨラは、重傷を負い療養生活に入る。聖人伝に感動し、軍人を辞めて、神と共に歩む決心をする。1540年にはイエズス会を創立。

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27歳のザビエルは、同室となったロヨラの感化を受ける。これは大回心と呼ばれている。ロヨラの言葉は「人は全世界を手に入れても、その魂を失ったら何の益があるだろうか」だった。

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フランシスコ・ザビエル

34歳、インド。36歳、インド、ゴア。39歳、マレー半島、マラッカ。42歳、インド、ゴア。42歳のときに、日本渡航を決める。

1549年、43歳で鹿児島に到着。44歳、平戸。平戸から山口まで船と徒歩で。大内義隆に引見。45歳、戦乱の京へ。山口へ帰り拠点にする。宣教の許可をもらい、2ヶ月で5000人に洗礼。豊後の大友宗麟から招待される。日本を去る。46歳、中国への旅。病で没。わずか、2年の日本滞在。

キリスト教の国であっても、そうでない国であっても、盗みについてこれほど節操のある人々を見たことがありません。この国の人々は今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人々は異教徒の間では見つけられない。彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がない。驚くほど名誉心の強い人々で、他の何ものよりも名誉を重んじる。大部分の人々は貧しいが、武士も、そういう人々も貧しいことを不名誉とは思わない」と観察を報告している。

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南大沢で『102歳の平穏死』の著者、井上貴美子さんと懇談。知研で話をしていただこう。以下は、いただいた長尾和宏氏の「平穏死とは何か」から。

平穏死とは最後を自然な経過に委ねること、穏やかな最後を迎えること。枯れて死ぬ。脱水への旅。高齢者はエネルギー効率が良くなる。反対語の延命死は溺れ死ぬこと、8割。枯れて死ぬと沈静は必要ない。言い出しっぺは患者自身がいい。平穏死は人生の最終段階の生き方。穏やかな最後。平穏死とは、無理な延命治療を行わず、人間としての尊厳を保ちながら穏やかに旅立つこと。

尊厳死=終末期の判断が降ったら、不必要な延命治療を止める。痛みを取る緩和ケアは受ける。安楽死=終末期前の段階で、医師が幇助する自殺。

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 「名言との対話」。9月24日?。太田薫「「君、ステーキ食ったことがあるか。労働者がステーキ食える世の中にしなきゃ」

太田 薫(おおた かおる、1912年1月1日 - 1998年9月14日?24日?)は、昭和期の労働運動家日本労働組合総評議会議長。春闘方式を定着させた人物。

宇部窒素に入ったが、第2次世界大戦後労働運動に身を投じた。1958年から1966年まで総評議長を務める。「太田-岩井ライン」と呼ばれる指導権を確立。 60年の安保,三池両闘争を乗切り、経済闘争に力点を置いた「春闘方式」を定着させた。民間単産・合化労連委員長の太田と官公労国労出身の岩井章のコンビだ。太田の春闘方針は「資本との独立」「ストライキ」が基本だった。「みんなで渡ればこわくない」というのが春闘誕生のきっかけだった。「神武以来のストライキ」、「ヨーロッパ並みの賃金を」、「青年よハッスルせよ」と人びとを鼓舞し、日本の賃金を国際的水準にまで高めることに貢献した。

威勢の良い数々の発言は太田ラッパの愛称で親しまれ、1960年代は「昔陸軍、今総評」とまでいわれた総評の全盛期だった。1987年まで総評の顧問であり、新聞やテレビでの歯切れの良い発言はよく覚えている。

1979年の美濃部都政の後継を選ぶ京都知事選で鈴木俊一に敗れた。1989年の全日本労働組合総連合会(連合)の発足で、社会党左派を支持した太田の影響力は低下した。

「労働者がステーキ食える世の中にしなきゃ」は、1965年ごろ、国鉄労働組合員に語った言葉である。戦後のある時代を率いたリーダーだった庶民派の太田薫の大衆に向けたメッセージは、時代の核心という的にあたっていた。

東郷平八郎(東郷神社)--敵七分我三分と思う時が実際五分五分なり

 原宿で降りて、混雑する竹下通りを抜けかかると、東郷神社が右手にある。東郷記念館は現在では結婚式場になっている。東郷神社社務所でわずかに救国の英雄・東郷平八郎の資料などをみることができる。

東郷平八郎

東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12月22日1848年1月27日) - 昭和9年(1934年5月30日)は、日本の幕末から昭和時代初めの薩摩藩士、海軍軍人。最終階級元帥海軍大将日清戦争では「浪速艦長として高陞号事件に対処。日露戦争では連合艦隊司令長官として指揮を執り日本海海戦での完勝により国内外で英雄視され、「陸の大山 海の東郷」「アドミラル・トーゴー」「東洋のネルソン」と呼ばれた。世界三大提督(ジョン・ポール・ジョーンズホレーショ・ネルソン東郷平八郎)の1人。各地の東郷神社に名を残す。

25歳、英国留学。32歳、帰国。57歳、連合艦隊司令長官。59歳、バルチック艦隊を撃破。68歳、東宮御学問所総裁。75歳、学問所閉鎖。77歳、関東大震災で自宅焼失。88歳、侯爵、死去、国葬多磨霊園に埋葬。

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以下、東郷神社で入手した『東郷平八郎小伝--至誠の栄光』から。

鹿児島の郷中教育。午前6時に家を出て習字の手習い。午前8時帰宅し朝食。友人の家に集合し論語などの漢文を習う、相撲・水泳。午後2時昼食、剣道の練習。夜は友人宅で軍書、伝記を読み合う。8歳の平八郎の日課だった。

以下、東郷平八郎の言葉を掲げる。

・うれしくも思いし今日になりにけり 明けくる日をば如何に学ばん(英国留学への決意。25歳)

・天佑を確信して連合艦隊の大成功をとげよ(ロシア艦隊の撃滅に向けて最初に発した命令。57歳)

・大敵を怖れず小敵を侮らず、、、  油断大敵。勝敗将に決せんとする祭には、実際勝戦なるに自ら苦戦と感ずること多し、故に我苦戦するときは敵はその数倍も苦める物と観念するを可なりとす。、、敵七分我三分と思う時が実際五分五分なり、、。積極の攻撃は最良の防御なり、、、戦術実施の要訣は己の欲せざる所を敵に施すと同時に、敵より施されざるに在り。、、常に先を制せざるべからず(戦闘実施の心構え。59歳)

・敵艦隊見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し

・勝敗は兵家の常であっって、必ずしも恥ずべきことではありません(勝利後、敵将ロジェストウィンスキー中将を見舞って)

・神明は唯平素の鍛錬に力め戦わずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安んずる者より直に之をうばふ、古人曰く勝って兜の緒を締めよと」(連合艦隊解散の辞)

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米国のニミッツ大将と東郷元帥との関係。

・1905年、日露戦争凱旋観艦式にニミッツ少尉候補生。園遊会で東郷と短時間会談。心の師とする。

・1940年、東郷元帥の国葬儀礼艦「オーガスタ」の艦長はニミッツ大佐。

・太平洋戦争中、ニミッツ元帥が米国太平洋艦隊司令長官として、日本海軍に勝利。

・1976年、テキサス州ニミッツセンターに、日本庭園を寄贈。

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「名言との対話」9月23日。藤子・F・不二雄のび太は、私自身なんです」

藤子・F・不二雄(ふじこ・エフ・ふじお、本名:藤本 弘(ふじもと ひろし)、1933年昭和8年〉12月1日 - 1996年平成8年〉9月23日は、日本漫画家脚本家

小学校5年のとき、安孫子素雄と出会い、合作で漫画を描き始める。“藤子不二雄”としてコンビを組み、数多くの作品を発表。児童漫画の新時代を築き、第一人者となる。代表作は『ドラえもん』『パーマン』『キテレツ大百科』『エスパー魔美』『21エモン』など。氏名の間にある「F」は本名「藤本(フジモト)」の頭文字。

以下、語録。

・物を作るというのは、その人の個性を100パーセント発揮させないとうまくいかないんです。(創造者には規制をかけてはいけない)

・ぼくのアイディアメモには、ちょっとした思いつきが、そのまま書き留めてあります。ぼくは、それを”タネ”とよんでいます。(メモの習慣が成功につながる)

・本当に普通の人であったのでは、漫画なんてものは描けません。プラスアルファ――なにか自分だけの世界を、ひとつは持っているべきである。 それは、必ずしもまんがに直結したものでなくてもいいのです。釣りが上手であるとか、模型作りに熱中するとか、SF小説を読みあさるとか。そういったことが、その人の奥行きになって、至極ありふれたものにプラスして、何か個性みたいなものが生まれてくるんじゃないか、と思うのです。(二刀流で生きよう)

・漫画を描くということは、一言でいえば「再生産」ということになります。かつてあった文化遺産の再生を、漫画という形でおこなっているのが「漫画家」なのです。(あらゆる文化遺産を新しい形で表現しよう)

面白い漫画を描くコツは、まず作者自身にとっておもしろい作品をかくことです。(自分が興奮する作品でなければ相手を感動させられない)

「漫画」というものを分解してみると、結局は小さな断片の寄せ集めなのです。(百説!)

超人気漫画「ドラエモン」は、子育ての最中に一緒によくみた。主役ののび太は、勉強は駄目、スポーツも駄目、何をやらせても冴えない少年。明るい性格でゆとりがあり、温厚で優しく、他人を深く思いやる心を持っている。臆病者だが正義感は強く、誰かを助けるために勇気を振り絞って危険に立ち向かうことも多い。他人の幸せを共に喜び、他人の不幸を共に悲しむことができる。人を疑うことを知らない純粋無垢な性格。極めて意志薄弱な怠け者。都合が悪くなると、すぐ他者(主にドラえもん)に頼る。大の勉強嫌いであり、自主的には予習・復習・宿題はまずしない。授業中に居眠りや遅刻、宿題忘れ。嫌なこと、重要なこともすぐ忘れてしまう。 言い訳や屁理屈は異常に上手い。異常に臆病。運動能力は極めて低い。成績はビリから二番。、、、

しかし、藤子・F・不二雄は、「のび太にも良いところが一つだけある。それは彼は反省するんです。、、、、いつまでもいつまでも今より良い人間になろうと努力するんです」とのび太の長所をあげている。そして「のび太は、私自身なんです」と語る。自分自身がのび太のキャラクターだから、ネタは無限にあることになる。毎日、自分を描いていたわけだ。そういえば、人気マンガ「のらくろ」の作者・田河水泡が、義兄の小林秀雄に「のらくろは、実は俺のことだ」と言って感動させたというエピソードを思い出した。「まんがに限らず何か創作する人というのは、自分の中に何かを表現したい、自分以外の人に向かって訴えたいものを自分の中に持っているかどうかが一番大切なことだと思うんです」と藤子は語る。訴えるものがなければ、表現者にはなれないということなのだ。藤子はどうしようもない自分だが、より良い自分になろうとする自分を描こうとしたのだろう。それが子どもたちの心にヒットしたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インターゼミ(社会工学研究会)、始まる。

インターゼミの秋学期始まる。

始まる前に文庫カフェで、学長、先生方と懇談。

 

今後のスケジュール確認。新規参加者紹介。

2018年夏の動き:蓮見先生(北海道停電)。バートル先生(モンゴル研修)。森川君、佐保君。、、、。

学長講話

・体験・体系化・解答。練る、凝縮する。

リニア新幹線:橋本。品川、甲府、10分。

・北海道:全道で400-500万KW.苫東の火力、160万KWがブラックアウト。本州の東北電力から60万KWを送る手はずがダメだった。直流、交流の切り替えの電源がブラックアウト。再生エネの太陽光、苫東にメガソーラあり、北電が系統システムに組み込んでいた、これがブラックアウト。固定価格買取制度は2倍が4分の1に下落、押しつけられた北電。コンビニの健闘:1100店舗あるセイコーマートプラグインハイブリッドで活躍(プリウスは走る発電機)でレジが動いた。セブン、イオンはレジが動かなかった。泊原発の210万KWがスタンバイしていたが再稼働に高いハードルあり。真剣に考えるべき。原子力の基盤技術の維持が重要。廃炉にも技術。原子力人材の若手がいなくなった。ロシアは原子力に舵。中国は80基8000万kW。湯川秀樹「太陽光エネルギーは核融合」。日本の原発売り込みは卑怯な印象。

・モンゴル:東方フォーラムのロシアの軍事演習30万。モンゴルが参加、ロシア・中国に引き込まれつつある。日本への期待は失望に。

・情報は受け手の能力しだいで伝わる。

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終了後、アジア班と、蕎麦屋で社会人大学院生を中心に歓談。水盛先生からから『悪の歴史 東アジア編下・南・東南アジア編』をいただく。帰りの電車で「林則徐」を読了。「袁世凱」を今から。

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水天宮で、長女の長男のお宮参り。

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「名言との対話」9月22日。前川春雄「奴雁の哲学」

前川 春雄(まえかわ はるお、1911年2月6日 - 1989年9月22日)は東京都出身の第24代日本銀行総裁。6つ上の兄は有名な建築家前川國男

1979年森永貞一郎の後を受け、第24代日本銀行総裁に就任。イラン革命の影響による第二次石油ショックの狂乱物価のインフレを、就任2ヶ月後の予算審議中の公定歩合引き上げを断行し、その後も数回にわたり引き上げ金融引き締めで乗り越えた。その後、日本経済はインフレなき成長路線を歩むことになり、内外の高い評価によって名総裁と呼ばれた。

日銀退任後の1985年には、日米貿易摩擦をめぐり、経済構造調整研究会の座長として「内需拡大市場開放」を主眼とする報告書(前川リポート)を取りまとめた。日本はその後、前川のレポートに沿って、規制緩和・対外開放を推進することになる。

前川春雄は日銀は「奴雁」(どがん)であるべきと考えていた。奴雁とは、季節の陰陽の変化にともなって往来する渡り鳥である雁の中に、夜、砂州で休んで雁仲間たちが餌を啄んでいるときに群れの周囲で人や獣の接近を見張っている役目の雁がいて、不意の難に備えて周囲に注意を払っていることに因んだ言葉だ。

「学者は国の奴雁なり」としたといわれる福沢諭吉の言を前川は参考にしていた。リスクに絶えず注意を怠らない心配性であるべき組織が日銀のあり方なのだと、日銀の内部に向かって常に語っていたのである。前川春雄の伝記に『『前川春雄「奴雁」の哲学』』(浪川攻)がある。

全員が一つの方向を向いているとき、集団に危機が襲う。まったく違う方向に目を向けている人がいる集団は、全方位を睨んでいるから、しぶとく生き残る可能性が多くなる。その奴雁の人は、風向きが変わると、リーダーになる場合もでてくる。「奴雁」になろうとする精神を忘れてはならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

秋学期の授業が始まる。大学院で「立志人物論」は13人のうち9名が留学生という新たな挑戦。

秋学期の授業が始まった。

 ・9時過ぎ:授業準備

・10時40分」学部「立志人物伝」の授業。今回は人数が多い。

・12時半:客員の久米先生と懇談

・12時50分」事務局との定例ミーティング。

・13時半:事務処理

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18時半:品川の大学院で「立志人物論」の授業の初回。総数13名のうち、外国人留学生が9人という、初めてのケースだ。心して挑みたい。日本人も含め、歴史に興味がある人がほとんどだ。

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 以下、翌朝5時までにフェイスブックに書き込みがあった、学びと感想。

・以前より個人的に歴史を好み、立志人物論は楽しみにしていた講義でした。第一回目の印象は非常に面白く、学びにしていけそうだという感触を掴むことができました。今後、自分の知らなかったもしくは学びが浅かった偉人について学んでいこうと思いました。自分はこれまでも世界史の流れや戦史、人物論とビジネスや現代での活用などにも興味が強くありましたので、その方向性でも学んでいこうと思います。本日の動画に出てきました三島由紀夫岡本太郎司馬遼太郎ですが、特に司馬遼太郎歴史観が戦争体験にあり、非常にシビアな人間観察の元になっているのは手塚治虫などにも通じる所があるとおもいました。映像にも出てきた秋山好古、真之兄弟も軍部上層部ではなく、現場指揮官、軍師として活躍をした人物であり、乃木希典を能力に欠けると断じるあたりは先生のおっしゃっる日本人観の代表例だと感じました。ただ、第二次世界大戦においては、既に昭和20年以降では軍をまとめるだけの人材が既に居なかったのではないか、司馬遼太郎が見た、実感した日本軍は既に衰退期に入っていたのではないかともおもいました。また、岡本太郎は映像には出てきませんでしたが、彼の独創性の形成要因の中には幼少期における複雑な家庭環境があるのではないかとおもいました。芸術的才能を発揮する人物には魯山人岡本太郎の様に生い立ちが複雑なである方が多い気がします。この辺りも今後、授業で注目していきたいと思います。三島由紀夫の防衛論は国防軍と訳されていましたが、実際にはアメリカ軍だと話をしていました。国防軍イコールアメリカ軍の認識が当時、一般的だったのか、意図された訳かは不明ですが、国防に対する意識の違いがメディアで論ぜられている時点で現代よりも意識は高かったのだと強く感じました。また、十数年前に金閣寺を読んで、意味が全く分からなかった事を思い出しました。今なら多少なりとも理解できるのではと思いました。先生のおっしゃった文化が伸びる時は経済が伸びている時、ミケランジェロボッティチェリ、ラファエルの時代もメディチ家の勢いがあり、ルネサンス勃興の時代、日本の戦後はある種経験できた人生は羨ましいなとも思いました。

・本日学んだことは3つあります。 1つめは、人生100年時代のライフデザインです。60歳定年の会社で人事部に在籍していた20代の頃、50代後半の人間は「終わった人」でした。定年までひっそりと会社人生の終活をして、60歳以降は再雇用で下働き要員とされる、そんな人たちを数多く目にし、「自分は絶対にああはなるものか!」と思い、彼らのことを見下していました。孔子の人生50年時代の考え方に毒されていたのです。しかし、会社を離れフリーランスとなり、40歳になった今になって思えば、50代後半などまだまだ未熟者・鼻たれ小僧です。人生100年時代のライフデザインの定義でいえば壮年期。実年期の80歳までを働き盛りとすれば、まだまだ現役で活躍する時間は残っている。 現在、会社を顧客とする商売をしていますが、60歳で職業人生を終わりと考える顧客が多いことに違和感を覚えていました。それが今回、人生100年時代のライフデザインを学んだことで、違和感の理由が明確になり、60歳で引退をする必要はないということに確信を得ることができました。 ちなみに、私は生涯現役であることを志しています。100歳まで生きるとすると、職業人としての人生はあと60年。これからも色々なことへ挑戦をする時間がある、とうれしくなりました。 2つめは、人生は豊かさ(自由の拡大)への旅である、です。以前勤務していた会社においては、年齢の割には高給とりでした。しかし、月平均の残業時間が100時間超。あるときなど、1ヵ月の総労働時間が400時間を超えたこともありました。お金はあったため経済的自由はありましたが、時間的自由はなく、もちろん精神的自由もない。最終的には心身を壊し、肉体的自由までもがなくなってしましました。その結果、社会復帰するまで半年の休養を余儀なくされました。あのとき、人生は豊かさ(自由の拡大)への旅である、を知っていれば、体を壊す前に会社を辞め、人生について真剣に考えていたと思います。現在は比較的、経済的自由・時間的自由・肉体的自由、そして精神的自由のどれもが平均的に満たされていますが、今回、人生は豊かさ(自由の拡大)への旅である、を学んだことを契機として、今後の人生について、今一度真剣に考えます。正直言って、現状は刺激にかけると感じているのです。 3つめは、偉人たちに共通する本物の条件です。偉人の一覧表をみたとき、同じ日本人であるにもかかわらずその名をきいたことのない偉人が複数いました。高校では日本史を選択していたにもかかわらず、です。そのことは素直に反省し、この講義の中でしっかりと学べばよいのだ、と心をいれかえ、強い意思をもってこの講義に取り組むことを決意しました。 そして、講義の中で、「新たな共通する条件を、8つめの条件を私が見つけ出したい」という意欲もわいてきました。 本物の条件が私の中にもあるとわかれば、それは大きな自信になります。本物の条件についても学びを深めて、自分と共通する部分も探していこうと決心をした次第であります。 なお、私は二宮尊徳について深く調べることを予定しています。私は二宮尊徳のことを、元祖経営コンサルタントであると認識しています。私もコンサルタント要素のある仕事をしている、二宮尊徳と自分とではなにが違うのかを明確にし、将来の仕事に活かしていく所存であります。 最後に、半年後の修了をひかえ、修士論文を作成中です。現在私が試みているのは、文章と図解が融合した論文の作成です。この講義の中で図解についても学び、論文にもいかしていきます。

・学生の時以来、日本の歴史及び人物について深く考えたことがなかった為、日本人として知らなかったことを新たに発見した思いです。文明の生態史観や人生100年時代のライフデザインは、今までなんとなく捕まえていたことを図で理解することで、間違えて記憶していたことに気づかされI ました。人生の豊かさを表現する課題に関しては、まさに目からウロコを得たように1枚の図の威力を感じました。[人物記念館の850館の旅から]では、人物を7つの分野に分類しているところは、大変新鮮に感じました。幕末•明治から平成までこれだけ多くの偉人がいたのかと改めて感心させられました。日本人として知らないことが多いのは、恥ずかしい限りです。また、youtubeの人物紹介では私本人にとって懐かしい思い出でもあり、当時は
かなりショッキングな話題になった三島由紀夫や[太陽の塔]の岡本太郎はまさに偉人にふさわしい人物である。さらに岡本太郎大阪万博太陽の塔を作成している時に、同時並行でメキシコで壁画を描いていたことは、はじめて知りました。気がつかないということは、恐ろしいことで、いつも通勤で通っている渋谷駅から井の頭線に乗り換える通路にその壁画が飾られているとは、思ってもいませんでした。(壁画の写真を掲載します。)司馬遼太郎は好きな作家の一人で、龍馬が行く、坂の上の雲は何度か読み返した作品です。名作です。もう一度読みたい気がしてきました。まさか栃木の佐野で戦車に乗っていたなんて、あまり知られざるエピソードです。日本への回帰からこの作品が生まれてきたことは偶然ではないと思っています。留学生も多いこの講義では、日本とは何か、日本人とは何か、もう一度深く掘り下げて考えてみる必要がありそうです。

・今回の講義で学んだ事、印象に残った事は、国が一番栄えた時に偉人が生まれると言うことです。幕末から明治にかけての動乱期には、まさしく、今の時代の私達が想像もできない境遇の中に身を投じた人たちの決死の覚悟が伺えます。翻って、まもなく平成の時代が終わりを告げようとしている中、先人たちに胸を張って生きているかと問われれば、頭が下がる思いです。今回の講義で、偉人がどういう経緯で偉人と呼ばれるまでに至ったか知る事で、今後の糧としたいと思います。

 

以下、留学生。

・(イタリア人)今日の授業を聞いて考えたことは次の通りです。1. 日本の文化を深く理解するために影響を与えた偉い人物を知る必要があります。どうして有名になったのか、何をしたのか、考え方は何だったのかなどを知ることで、今の日本人の習慣や考え方が分かりやすくなります。2. 日本語の勉強を始めて6年、日本に住み始めて2年半になりましたのに、恥ずかしくてたまらないことは日本の歴史上や芸術の偉い人についてはほとんど何も知らないことです。もっと勉強したいと思います。3. 先生がおしゃったように、歴史は年号を覚えるものじゃなくて、偉人の人生から学ぶべきものです。なぜなら、歴史は人々が描いたものなので、できごとより人のほうがは大切だと思います。

・(以下、中国人)第一目の「立志人物論」授業を受けて、日本の歴史と社会文化に前より強く学習意欲が湧きました。日本の偉人といえば、夏目瀬石とか福沢諭吉とか宮崎駿とか数人しか知りませんでしたが、今回の授業を通じて、各領域における日本偉人の名前を習得しました。例えば、渋沢栄一岡本太郎司馬遼太郎などの名前を初耳です。今後もっと詳しく教えていただいたら、日本社会と文化の理解に対して、大いに役に立つと思います。留学する前、北京で様々な偉人記念館を訪れました。例えば、中国近代の国父孫文奥さん宋慶齢の記念館とか中国南宋詩人文天祥の記念館とか。多くの記念館は昔偉人暮らした場所にあります。様々な記念館を訪ねて偉人の履歴と事跡をみると勉強になるとともに、偉人が所属した時代の社会と文化も深く理解できました。この授業をきっかけとして、日本、特に東京の偉人の記念館や美術館を訪ねます。今日、先生から紹介された岡本太郎記念館と夏目瀬石記念館はすごく興味がああり、来月に時間あれば、行くつもりです。もし、他の人も興味があれば、ぜひ私に連絡してください。一緒に楽しんで行きましょう!(^^)/

・ 今日久恒先生の授業を受けて頂いて、日本人の偉人にある粘り強く頑張る気持ちや日々の鍛錬など私は器量の大きさを感じました。特に岡本太郎から「自分は駄目だと思う時、駄目な方向を選べ、あえてエネルギーを得ることができる。」という話を聞かせてもらいました。ちょっと変わった話ですが、逆に考えると、危険な道を選び、抜け道を捨て、どうせ失敗すると思ったら精一杯頑張ることが可能になります。結果として成功することは多いのではないかと思います。

・偉人の影響力は深いし、広いし、長いです。死んだあとものちの人々に大きな影響を与えます。今回映像を見た中で、岡本太郎は面白い人だと思いました。小学一年生で学校を退学したという話は当時でもそうですが、今ではありえないことだと思います。また彼は家族の関係が複雑で母、父、愛人が同じ家に暮らすのは異常だと思いました。私は偉人とか天才の人は凡人とはどこか違う考え方をしているのだと思います。中国では常規を破るということわざがあります。学校では空は青、リンゴは赤などを常識と教えますが、芸術においてそのような常識を破り自分の描く情景などを作品にすることで見る者に様々な影響を与えます。天才と呼ばれるひとには人柄などが悪い人がいますが、しかし彼らの作品は後の人々に大きな影響を与え、彼らの人柄を隠します。この授業を通して彼らの共通点探して勉強したいと思います。

・今日の授業はいろいろなことを思い出しました。古中国にことわざがあります。「铜を镜とすれば、衣冠を正せる。古を镜とすれば、兴亡の理が见える。人を镜とすれば、过失を知ることが出来る」だから、私は日本の歴史で有名な人物に興味を持っています。日本の偉人の事跡や名言をもっと知りたいと思います。そして、この授業を勉強します。今回の講義で、人生にはさまざまな段階があり、各段階には自分の使命があります。世界には相対的な自由だけがあり、絶対的自由はありません。歴史で有名な人はすべて異なる人生の軌跡を持っていますけれども、後世の人びとに賛美されています。彼らの過去を学ぶことによって、自分の精神をもっと豊かにすることができます。特に私は松下幸之助のような有名な企業家に対して興味を持っています。これからは先生の授業や自分の勉強を通じて、日本の歴史、偉人や文化などをもっと理解していきたいと思います。

・以前、人生の豊かさといえば、精神的と物質的の豊かさしか考えなっかたが、今回の講義を受けて、豊かさの定義を改めて理解しました。今の私にとって、どうすれば経済的自由と時間的自由をうまくバランスするのが、一番重要なことだと思いました。“売れなくても構わない、好かれなくても良い、認められなくても良い、成功しなくても良い”を言った岡本太郎さんが、自分なりにの道に生きていて、太陽の塔みたい偉大な作品を制作しました。そして、偉人たちの話を聞いて、彼らが残してくれた知恵、それは現代においても十分使えるヒントがたくさん詰まっていると思います。

・本日の講義を受けて偉人は深さ、広さ、長さ、つまり体積で影響力を測れることを認識しました。偉人の知恵や名言は後世の人々に影響を与えます。私も悩んだ時に偉人の名言を探して元気をもらいます。芸術家の岡本太郎の「なんでもいいから、まずやってみる。それだけなんだよ」という名言がある。非常にシンプルな言葉ですけど、確かにおっしゃった通りです。動かなければ、現状が変わりません。とにかくやってみると面白いアイデアなどが出てきます。後半のグループディスカッションで日本の方と意見を交換したり、知らない歴史を解説してくれたり、非常に勉強になりました。歴史を暗記することが苦手で、歴史があまり好きではないですが、先生の講義を受けて、人物から勉強すると、歴史が面白くなったと実感しました。7つの分野に分けられる偉人の中で、恥ずかしいですが、知らない人が大多数で、自分ももっと勉強しようと思います。

・久恒先生,春学期で色々な教えていただきますので心から感謝しています、今日の授業もありがとうございます、秋学期も先生の「立志人物論」の講座を受けられて、すごく嬉しい。皆さんと一緒に先生の指導の下に進歩と成長を楽しみにしています。初回の講座感想:中国では「昔方志半人物」という説がある。日本史、アジア史、世界史の発展にも大きな人物たちの影響と役割が不可欠である。経営学の学習者としての私は、leaderの養成教育において、歴史学、そ大人物の志、精神、学びた。今回の講義で、「人物記念館の850館の旅から」で、人物を7つの分野に分類しているところは、大変新鮮に感じました。近代多くの偉人がいたのかと改めて感心させられました。7つのgroup を分けて、人生のplanning,人脉,性格,修养,内涵,やる気、人生の本質的なイノベーション、人生の归属7つの分野で大人物達を紹介していただきました、日本近代大人物たちは、江戸幕府の藩文化の体現である。慶応義塾大学創立者福沢諭吉は日本の近代の教育と文化に貢献した。留学生として、この講義では大人物の志を勉強通して日本の政治经济文明根源を掘ること、また日本人の方々と一緒にgroup で交流して、日本の文化を勉強したい。この講座を通して、大人物たちの志を学び、自分の将来の就職、起業、人生計画に生かしたい。

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23時過ぎに、自宅到着。

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「名言との対話」9月21日。辺見じゅん「人の生き方にば『直向き(ひたむき)な生』と『諸向き(もろむき)な生』とがある」

辺見 じゅん(へんみ じゅん、本名:清水 眞弓(しみず まゆみ、旧姓:角川、邊見)、1939年7月26日 - 2011年9月21日)は、日本歌人ノンフィクション作家

私小説風から童話・詩歌まで幅広い作品を手がける。1984年、『男たちの大和』で新田次郎文学賞を受賞。1988年、『闇の祝祭』で現代短歌女流賞を受賞。1989年、『収容所からきた遺書』で講談社ノンフィクション賞を受賞。1990年、『収容所からきた遺書』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。1998年、『夢、未だ盡きず』でミズノスポーツライター賞を受賞。以上、様々の賞を受賞していることからわかるように、ノンフィクションにおいては、丹念な聞き取りを元に構成されているとして評価が高い。

荻窪の「幻戯山房」は、角川書店創業者の角川源義が住んだ場所で、住居跡は有形文化財として保存対象になている。角川の名前をもじって「幻戯山房」と名付けられていて、すぎなみ詩歌館という名称もついている。大出版社の創業者ではなく、俳人としての角川源義を顕彰した記念館だ。訪問したとき、作家の辺見じゅんは、角川源義の娘だったと知った。角川春彦・歴彦は異母弟である。辺見じゅんは偉大な父のつくった複雑な家庭環境にあったことで、冷静かつ批判的に家族をとらえる一方で、親子の愛情について私小説風の作品では細やかに描写している。現代短歌女流賞を受賞してる歌人でもあり、「みんなみの ニューブリテン島の 蛍の樹 遺書に記して 二十一歳なりき」 などの歌がある。歌集は7冊上梓しており、幻戯山房では源義の俳句と一緒に並んでいた。

 「直向きと諸向き」。どちらを選ぶかはその人の生き方によるのだが、性格が底流となる宿命のようなものだろう。辺見じゅんは、直向き(ひたむき)な表現者とみえる。自分はどうだろうか。

 

「邪馬台」の「読書悠々⑲」-- 平成に亡くなった女性編「高野悦子」「石牟礼道子」 「夏樹静子」「須賀敦子」「大橋鎮子」「 朝倉摂」

「邪馬台」秋号が届く。

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 読書悠々⑲ 平成に亡くなった女性編(久恒啓一

 

もうすぐ「平成」が終わる。平成の30年の間に亡くなった女性の傑物たちの人生を書物を参考に追う。 

 

・2月9日。高野悦子「興業という、文化から程遠いところで仕事をしていますが、志だけは高く持ってきました」

高野 悦子(たかの えつこ、1929年5月29日 - 2013年2月9日)は映画運動家、岩波ホール総支配人、映画プロデューサー、放送作家、テレビドラマ演出家。

 高野悦子岩波ホールと「映画の仲間」」(岩波書店)を読了。 45年間の歩みを年ごとに記録したこの本は、日本映画と世界映画との優れた交流史になっている。

「受賞・受章歴」として1971年以来の賞と章の記録が載っているが、実に50に及ぶ賞と章を毎年のように受けていることがわかる。目を引くのはポルトガル、イタリア、フランス、ポーランドキューバなど外国政府からの褒章が多いことだ。また、映画、評論、地域。女性、文化、など実に多彩な分野の賞と章の名前がみえるのは、映画を軸に幅の広い活動が多くの人に感銘と影響をを与えたから違いない。

1981年の第10回森田たまパイオニア賞の受賞理由は、「岩波ホール、そしてエキプ・ドシネマという芸術的拠点を創立、世界に誇る文化センターとした」である。同じ年の第29回菊池寛賞の受賞理由は、「岩波ホールを拠点として世界の埋もれた名画を上映するエキプ・ド・シネマ運動の主宰者としての努力」であった。

高野悦子は1929年満州生まれ。満鉄社員の父と金沢師範で教師をしていた母の三女だ。

日本女子大に入学し、指導教授の南博から与えられた課題「映画の分析調査」を行った縁で東宝株式会社文芸部で仕事をする。撮影所に配置転換を願い出るが許可されない。1958年、28歳でパリの映画大学イデックに入学する。最優秀で卒業し、映画監督とプロデューサーの資格を取得する。帰国後、映画監督になりたかったが、当時の映画界では女性監督は無理で、脚本や演出の道を歩んでいく。

義兄の岩波雄二郎が岩波ホールをつくり、そのホールの総支配人をやらないかと声をかけてくれる。高野悦子38歳の時である。その後、1974年に、世界の埋もれた名画の発掘・上映運動(エキプ・ド・シネマ)運動を開始する。もう一人の日本映画界の女性の恩人・川喜多かしこと二人で立ち上げた運動である。「岩波ホールを根拠地に、世界の埋もれた名画を発掘・上映する運動」と定義された運動が、その後の豊かな実りつくりあげていく。エキプというフランス語には、志を同じくする友だち、同志という意味が込められている。

この本のなかで登場する日本映画史上に残る名映画の名前、著名な監督や女性監督、大女優、そして映画界を支えた各界の有力者たちのとの交流を時間順に述べてあり、日本映画界を中心に世界中の映画界の歩みも手に取るようにわかる。歴史のなかで果たす個人の役割の大きさを改めて感じる。エキプ・ド・シネマロードショー作品リストがこの本に載っているのだが、このリストを眺めるだけで、高野悦子の仕事ぶりがわかる内容になっているのが素晴らしい。「積み重ね」ということの凄みを感じる。

岩波ホールをつくり、支えてきた人たちの仕事ぶりや人柄などを示すエピソードが散りばめれており、納得すると同時に愛情をもってまわりの人と仕事をしていたことに感動をおぼえる。

「よいものはかならすわかってもらえる」「私の上映作品の選び方は、『心に響く映画』というのが常だった」「私にはひとつのテーマしかない。『映画の世界で働いている女性』ということである」「すべての女性運動は平和運動をもって帰結する」(座右の銘

この日本映画史を創り上げていく過程で知り合った人々も、時間の経過とともに消え去っていくが、高野悦子は彼らの仕事を背負って、スピードをゆるめることなく、さらに歩をすすめていく。そしてまた本人が斃れる日がやってくる。これが人間の歴史だ。

「昔、映画監督を志した者として、映画興行は私の性に合わなかった。岩波ホールの仕事を始めてすぐに胃潰瘍になったのも、嫌なことをしているからだと思った。しかし、私は映画の生みの親ではないが育ての親になることができる。劇場が名画を育てる創造の場であることの発見は、私を大いに勇気づけた。」これは1985年、創業15周年の年の項に書かれている言葉である。天職を意識した瞬間である。

高野悦子は2013年の2月9日に亡くなっているが、「岩波ホールと『映画の仲間』」(岩波書店)の発行日は2月27日である。そして「あとがき」は2013年1月である。大腸がんにおかされて余命わずかの日々に、この分厚い本を最後まで書き終えたのである。この本の幕があがった1968年の最初のページと、そして「あとがき」にもホール開きの日の野上弥生子の「小さなホール」という講演のなかの言葉が紹介されている。「この小さなホールを、可愛い小さいが、どこにもないような独特の花園に育てあげてもらいたい」。

冒頭の「志だけは高く持ってきました」は、文化功労者の授賞式での高野の言葉である。女性のロールモデルはなかなかいない。この人には、師匠、友、仕事量、志、構想力、修養、日本など、私の考える偉人の条件がすべてあてはまる。高野悦子は高い志を一生をかけて実現した偉大な聖人である。 

 

・2月10日。石牟礼道子「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順番に、水銀母液ば飲んでもらおう。、、、上から順々に四二人死んでもらう。奥さんに飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に六九人、水俣病になってもらう。あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか」

 石牟礼 道子(いしむれ みちこ、1927年3月11日 - 2018年2月10日)は、日本の作家。

熊本県天草郡河浦町(現・天草市)出身。水俣実務学校卒業後、代用教員、主婦を経て1958年谷川雁の「サークル村」に参加し、詩歌を中心に文学活動を開始する。熊本に根をはりつつ世界に開かれた詩人、作家、運動家だった。享年90。

冒頭に掲げたのは昭和43年から始まった水俣病患者互助会と新日本窒素(チッソ水俣工場との補償交渉でチッソからゼロ回答があったときの、患者たちの吐いた言葉である。石牟道子『苦海浄土 わが水俣病『』にある。石牟礼道子はそれは「もはやそれは、死霊あるいは生霊たちの言葉というべきである」と記している。因みに鎮魂の文学『苦海浄土』は第1回大宅壮一ノンフィクション賞を与えられたが、石牟礼道子水俣病患者を描いた作品で賞を受けるのに忍びないと受賞を辞退している。1969年の『苦界浄土』から始まって、『神々の村』『天の魚』の三部作シリーズが完成するのは2004年である。2002年には水俣病をテーマに現代文明を批判する新作能『不知火』を発表した。

何もなかった状況に戻って、失われた日常を取り戻すことが、患者や家族たちの本当の願いだ。それがかなわないから補償という次善の策になった。それでも償おうとしないことに当事者も、そして石牟礼も怒りを持つのだ。石牟礼道子の誕生日の3月11日は、奇しくも2011年の東日本大震災の起こった日である。原発の災禍に見舞われた人たちの姿がだぶって見える。原発事故に水俣と同じ構造をみていたのである。

石牟礼道子は小説、エッセイ、伝記、シナリオ、能、狂言、詩、短歌、俳句、、など文芸のあらゆるジャンルに優れた作品を書いたが、晩年に一番親しんだのは世界最短の短詩、俳句であった。以下、石牟礼道子句集『天』と全句集収録の句から。

死におくれ死におくれして彼岸花    祈るべき天とおもえど天の病む    毒死列島身悶えしつつ野辺の花  いかならむ命の色や花狂い  さけがけて魔界の奥のさくらかな  花ふぶき生死のはては知りざりき  彼岸花 棚田の空の炎上す  あめつちの身ぶるいのごとき地震くる  わが道は大河のごとし薄月夜

「わたくしは水俣病がなければ、自分がそこに生まれ育った世界をこれ程ふかぶかとのぞたであろうかと思う」

死去の翌日の2018年2月11日の朝刊を手にすると、日経新聞の「春秋」、東京新聞の「筆洗」、朝日新聞の「天声人語」、毎日新聞の「余録」も、石牟礼道子の死と『苦海浄土』を取り上げていた。石牟礼道子の仕事は尊い

 

・3月19日。 夏樹静子「この本を、私に心身の健康を取り戻して下さった平木英人先生に捧げます」 

夏樹 静子(なつき しずこ、1938年12月21日 - 2016年3月19日)は、日本の小説家、推理作家。

大学3年時に江戸川乱歩賞への応募(最終候補)がきっかけとなって、NHKテレビで人気の「私だけが知っている」のレギュラー執筆者になる。結婚して沈黙の後、1969年に『天使が消えていく』で江戸川乱歩賞の最終候補に残る。以後、ミステリーを量産していく。弁護士朝吹里矢子シリーズ。検事霞夕子シリーズ。長編小説。中・短編小説。アンソロジー。エッセイ・ノンフィクション。翻訳。また、作品は日本テレビ・TBS・フジテレビ・テレビ朝日テレビ東京などでテレビドラマになっているから、この人の名前はよく知られている。ミステリーは300本ほど書いている。1984年の『妻たちの反乱』はベストセラーになった。

趣味の囲碁ではドライアイを和らげるためにグリーン碁石を開発し普及した。これで日本棋院から大倉喜七郎賞を授与された。2007年、日本ミステリー文学大賞を受賞。

二冊目の単行本『見知らぬわが子』では、7編の短編が収められており私も読んだ。ここには夏樹ミステリーのルーツがある。家庭を媒介とする男女の葛藤のドラマであり、女性と母性の視点が特徴だ。

夏樹静子は福岡に住んでいた。夫君は石油の出光の関係者で新出光の会長であり、夏樹の本名は出光静子である。

1997年の『腰痛放浪記 椅子がこわい』は、日本での心療内科が広まるきっかけをつくったと言われている。54歳の夏樹静子は1993年からの約3年間腰痛に悩まされた。「遺書」「死」「真暗闇」などの言葉が踊る。その克服の記録である。多くの読者の共感を得て、今なお売れ続けている作品である。良い評判を聞くとすぐにかかり絶望するという遍歴と放浪を重ね、最後に行き着いたのは自身の心の問題であり、夏樹静子を捨てて本名に戻るというミステリー仕立てになっている。

この本の中で、私の知り合いが3人登場していて驚いた。彼女が二ヶ月入院した中津市の病院長川嶌真人先生(50前後)は私の母の友人。JALの塩田年生福岡支店長(夫の親友)は私の広報課長時代の広報部長。九大教養部心理学科の藤原勝紀教授(50歳)は私の九大探検部時代の先輩。

内科と心療内科の医師である平木英人は「典型的な心身症」という診断を下し、自律訓練法森田療法、絶食療法などで、自身の心では支えきれなくなったワーカホリック夏樹静子から別れ、出光静子への再生を図り、ようやく平穏な日々が訪れる。そしてまた本の執筆が始まる。冒頭の感謝の言葉には、万感の思いが凝縮されている。

 

・3月20日須賀敦子「書くべき仕事が見つかった。いままでの仕事はゴミみたいなもんだから」 

須賀 敦子(すが あつこ、1929年1月19日] - 1998年3月20日)は、日本の随筆家・イタリア文学者。

18歳で洗礼を受ける。24歳で渡欧、以後日欧を往き来する。32歳ペッピーノと結婚。34歳、谷崎潤一郎春琴抄』『蘆刈』のイタリア語訳を刊行し、以後日本文学のイタリア語版を刊行していく。谷崎作品のほか、川端康成『山の音』、安部公房砂の女』などをイタリア語翻訳刊行する。長く大学の非常勤講師を務めた後に、53歳、上智大学国語学助教授。60歳、比較文化学部教授。

須賀敦子の名は、ビジネスマン時代に同僚の女性から名前を聞いてはいたが、本を読むまでには至らなかった。今回『須賀敦子を読む』を読んで、須賀自身のエッセイに興味が湧いた。

翻訳を長く仕事とし、生前はエッセイを書いた。翻訳は自分をさらけ出さないで、責任をとらずに文章を書く楽しみを味わえたから須賀は好きであり、いい仕事をし、イタリア共和国カヴァリエール功労賞を受章している。2014年には、イタリア語から日本語への優れた翻訳を表彰する須賀敦子翻訳賞が創設された。また、エッセイでは女流文学賞講談社エッセイスト賞を受賞している。2014年にはイタリア語から日本語への優れた翻訳を表彰する須賀敦子翻訳賞が創設された。

少女時代から「書く人」になりたいと願った。書くということは「息をするのとおなじくらい大切なこと」という須賀は、『ミラノ 霧の風景』から始まる完成度の高いエッセイ群によって、たどってきた時間を生き直したと『須賀敦子を読む』の著者・湯川豊はいう。信仰と文学の一体化を実現する小説の道を発見した須賀敦子が語った「書くべき仕事が見つかった。、、」は、死の直前の1998年2月4日の言葉だ。「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」(孔子)を彷彿とさせる。孔子の言う道は真理という意味であるが、須賀敦子の場合は自分の進むべき道であったろう。

 

・3月23日。「「私は『暮らしの手帖』一冊全体を『戦争中の暮らしの記録』だけで作りましょう、と提案しました。臨時増刊、特別号、単行本などにするよりも、定期の『暮らしの手帖』に載せたほうが、よりたくさんの人に手に取ってもらえ、読んでもらえる。しかも、雑誌もよく売れ、営業的にプラスになると思ったからです」

 大橋 鎭子(おおはし しずこ、1920年3月10日 - 2013年3月23日)は、日本の編集者、エッセイスト。暮しの手帖社社主・社長。雑誌『暮しの手帖』を創刊した。

日本興業銀行日本読書新聞を経て、戦後の1948年に花森安治を編集長とした『暮しの手帖』を創刊。1954年から「商品テスト」をはじめた。広告をもらわない自立した雑誌であった。この企画で工業製品の品質改善の菊きっかけとなるほど影響力があった。「婦人家庭雑誌に新しき形式を生み出した努力」について菊池寛賞を受章した。この雑誌は主婦の支持を集め100万部に迫るほど人気があった。

2016年度前期放送のNHK連続テレビ小説とと姉ちゃん』は、大橋らをモデルとして『暮しの手帖』(劇中では『あなたの暮し』)の創業の軌跡を描くフィクション作品として制作され、大橋がモデルのヒロインを高畑充希が好演したことは記憶に新しい。「とと」は父という意味で、家族を養う「ねえちゃん」という意味だ。私も毎朝、この主人公の人生ドラマを共感しながら見た。

大橋鎮子は2002年には東京都文化賞を受賞している。「暮しの手帖社を設立し、雑誌「暮しの手帖」を今日まで作り続けてきた努力」と「人々の出会いや、日々の暮しを美しい文体でつづったエッセイ「すてきなあなたに」は読者に静かな共感と深い感動を呼び起こした」がその理由である。

単行本『すてきなあなたに3』の「あとがき」には、エリザベス・サンダーズ・ホームで育ったアメリカ兵と日本人女性の間に生まれた孤児たちが養子縁組でアメリカに旅立っていくのを見送る設立者・沢田美喜が夜空に向かってハンカチを振る姿の描写が語られている。こういう心あたたまる日々の感動をエッセイで残したのだ。「三月の章」には、「雨と傘と「なくしたスカーフ」「姿勢が大切」「神戸散歩」「チョコレートの帽子」「フルーツスープ」「春のアドバオス」「ズックの靴」などのエッセイが並んでいる。

冒頭の言葉は、大橋鎮子がヒットを生む企画力と時代をつかむ営業力を兼ね備えた経営者であったことをうかがわせる。

 

・3月27日。 朝倉摂「劇場空間は生き物なのです。それに応えるべく、劇場空間が喜んでくれるような仕事に挑みたいといつも思っています」

朝倉 摂(あさくら せつ、1922年7月16日 - 2014年3月27日)は、日本の舞台美術家・画家。父は彫刻家の朝倉文夫。妹は彫刻家の朝倉響子

彫刻家の父・朝倉文夫の「他人の子を育てている自分が、自分の子供を育てられないことはあるまい」という考えから、学校へは一切通わず家庭教師より教育を受けた。朝倉文夫の作品に、二人の少女の有名な裸像があるが、それは娘二人をモデルにしたものである。まだまだ当時はモデルのなり手がなかったために朝倉文夫は娘を使ったのだ。

長女の摂は日本画の道に進み、1953年には上村松園賞を受賞するなど才能を開花するが、1960年代からは舞台美術に関心を持つようになる。歌舞伎、前衛演劇、オペラ、舞踊、映画など幅広い分野で活躍。大胆で新鮮な舞台で話題を提供した。JAL時代、1980年代に広報の仕事をしていたとき、舞台装置を海外に運ぶ案件で接触したことがある。その当時には舞台美術の朝倉摂の名はよく知られていた。また小田急線の唐木田駅前で見かけた少女像は凜とした雰囲気がありなかなかいい。誰の作品かとみたら、作者は妹の彫刻家・朝倉響子だった。

朝倉摂によれば、 絵画や彫刻は時間と空間を平面や立体に閉じ込めて永遠の時間を描く芸術であり、演劇・映画・音楽は時間そのものを描こうとする。その空間を受け持つのが舞台美術だ。舞台美術家の仕事は、戯曲の持つ意味をビジュアルに観客に伝えるかを考えることである。だから舞台美術は「時間」に対して明確なコンセプトを持つ必要がある。

舞台美術のアイデアは、古典絵画、シュールレアリズムの絵、廃屋、などあらゆるものがヒントとなる。材質への徹底したこだわり。階段はタテに動くことができるので無限の広がりを示すことができる。こういうところに、朝倉の仕事への姿勢がみえる。

主な作品としては、蜷川幸雄演出秋元松代作「近松心中物語」、市川猿之助演出梅原猛作「ヤマトタケル」、蜷川幸雄演出唐十郎作「下町万年町物語」などがある。

絵画では、1950年:サロン・ド・プランタン賞。1953年:上村松園賞。1972年:講談社出版文化賞絵本賞。舞台美術では、1980年:テアトロ演劇賞。1982年:日本アカデミー賞優秀美術賞(『悪霊島』)。1986年:芸術祭賞(『にごり江』)。1987年:紫綬褒章。1989年:朝日賞。日本アカデミー賞優秀美術賞(『つる -鶴-』)。東京都民文化事業賞。1991年:紀伊國屋演劇賞(『薔薇の花束の秘密』ほか)。1995年:読売演劇大賞優秀スタッフ大賞(『オレアナ』ほか)。2006年には文化功労者となった。

若い頃から一貫して、「芸術家の行為はレジスタンスです」、「すべてに闘わないとだめ」といった姿勢を貫いた朝倉摂は、常に若々しいエネルギーに満ちた前衛の人であった。草分けとなった舞台美術という分野を創り上げた朝倉摂は、生涯現役で、生き物である劇場を喜ばせる仕事を天職としたのである。

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品川の大学院で運営委員会に出席。

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「名言との対話」9月19日。中内功「若い会社というのは、たいがい、いかがわしいもんや。それでええんや。おまえら、もっといかがわしくなれ!」

 中内 㓛(なかうち いさお、1922年大正11年〉8月2日 - 2005年平成17年〉9月19日)は、日本実業家ダイエーを創業し、会長・社長・グループCEOを務める。日本チェーンストア協会会長、日本経済団体連合会副会長、自身が設立した学校法人中内学園流通科学大学)学園長、理事長、財団法人中内育英会理事長を歴任した。

 1945年8月投降後、マニラの捕虜収容所を経て11月に奇跡的に生還する。中内が流通革命を実現させた背景には、アメリカの豊かさを垣間見た従軍体験があった。「人の幸せとは、まず、物質的な豊かさを満たすことです」との信念は、そこで生まれた。

1957年、主婦の店「ダイエー薬局」(ダイエー1号店)を開店。物価の国家統制の残滓を打ち破る「価格破壊」路線は喝采を浴びた。それは価格の決定権を消費者に取り返すことだった。ダイエー・松下戦争、ダイエー花王戦争などを経て、1972年には三越を抜き、小売業のトップになる。1980年には1兆円を売り上げる。リクルート、忠実屋、ユニードなどの買収、福岡ダイエーホークスの誕生、流通科学大学の創立など天下を圧する勢いで走り、1991年には経団連副会長に就任する。しかしバブル崩壊のあたりから「消費者が見えんようになった」と中内は言うようになり、ダイエーは凋落を始める。2001年に退任。「ネアカ、のびのび、へこたれず」を座右の銘とした一代の風雲児は2005年に83歳で没した。

 「売り上げだけが日本一というのではあまり意味がない。それは手段であって本当の目的はそれを通して新しいシステムを作ることだ」「15分で役員会を説得できない事業なら、やってはいけない」「変化こそ、機会の母である」

 200年代の初頭に、大阪の国立民族学博物館に館長の梅棹忠夫先生を訪ねたとき、企画展を巡っていたら、中内功を見かけた。後で梅棹先生にそのことを伝えると「寄ってくれたらいいのに」と会えなかったことを残念がっていた。晩年の中内は、自宅をはじめ全ての財産を奪われ、自らが建てた大学の理事としての収入数十万で生活していたというから、会わせる顔がなかったのだろうか。また、テレビで藤山寛美と対談を見たことがあるが、自分の意見を押し通す中内と、人情路線の寛美はかみ合っていなかった。

冒頭の言葉は苦境にあったリクルートでの講演の時の言葉である。新しいことをやる人は、何かいかがわしさがある。新しい分野、誰もやらなかった領域、そういう所に次の時代が待機している。いかがわしさを持ち続けよ、それが「時代の先を行く者は必ず石をぶつけられる。イエス・キリストだってそうだ。私は流通革命というはりつけにあって、常に石をぶつけられてきた」と述懐した革命家の遺言である。

 

 

 

『週刊朝日』でのインタビュー記事が話題になっている。

週刊朝日」でのインタビュー記事が話題になっている。

・Yahooブログ!「引き際の美学」

 https://blogs.yahoo.co.jp/ajramai/28723460.html

・AERAdot  じっくり味わいたい著名人の「引き際の言葉」

 https://toyokeizai.net/articles/-/238276

あいさつに慣れた人は、多くの“引き出し”をつくる工夫をしている。『偉人の命日366名言集』など、言葉に関する著書が多い多摩大学久恒啓一副学長。スピーチ当日が命日か誕生日の偉人や著名人を見つけ、名言やその人にまつわる話をしている。
「心に響く話をするには、磨き抜かれた真実の言葉じゃないとダメ。名言、格言、箴言、金言など人々に長く影響を与えたものがそれに値します。辞めるときに残す言葉で、その人の印象は後々まで違う。あの人の言葉は良かったなと印象づけると大切に思われますが、そつのない平面的なあいさつでは、惜しまれない人になってしまいます」
スピーチ当日にまつわる人の話題に触れるようになったのは、学部長に就任してあいさつの場が増えてから。入学式、卒業式、保護者会、学生のオリエンテーション……。こうした場で魅力的なスピーチをする人が少なかったため、自分はインパクトのあるスピーチをしようと心がけたという。います」
「聞き手の年齢層も考えます。例えば、付属高校の行事のあいさつならば、本田がこう言っているとかサッカー選手の話を入れると、真剣に聞いてくれます」
久恒さんが、よい言葉の代表例として紹介するのが、井伏鱒二(敬称略、以下同じ)の言葉だ。
「井伏は、『この杯を受けてくれ。どうぞなみなみ注がしておくれ。花に嵐のたとえもあるぞ。さよならだけが人生だ』という言葉を残しました。漢詩の翻訳ですが、オリジナルよりもいいと言われています」
名言の多い政治家としては福田赳夫元首相をあげる。「1972年の自民党総裁選で田中角栄に負けたとき『総理・総裁は推されてなるもので、手練手管の限りを尽くしてかき分けてなるものではない。いずれ近い将来、日本国がこの福田赳夫を必要とするときが必ずやってくる』と言いました。敗戦の弁として潔さと自負心が感じられます」
スピーチの日はまちまちだから、365日分のネタを用意しているという。毎日、誰かしら著名人の命日か誕生日がある。○月×日が誰に関係ある日かを気をつけており、毎日書くブログで、その日が命日や誕生日の人の人生を弔辞のように記している。
旅行や出張時は、その地の人物の記念館を訪れる。東京の「美空ひばり記念館」や、大阪の「司馬遼太郎記念館」など、著名人の記念館は全国1千館以上。著作や直筆の手紙があり、人物像が丸ごとうかがえる。すでに850館近く訪れた。
「時代ごとに広く影響を与えた偉人がいますが、もっと偉いのは長く影響を与え続ける人。さらに偉いのは死後も影響を与える人です。近代では福沢諭吉がその一人で、教育者として影響を与えています。経済人だと渋沢栄一。会社を500社もつくり、社会貢献事業もしました」(久恒さん)
企業や組織のトップが難しいのは、後進に道を譲るタイミング。創業者や実力者として実権を握るほど、やめどきを誤りやすい。「引き際が肝心といわれますが、うまくいく人はなかなかいません。早すぎるか遅すぎるか、どちらかです」と久恒さん。長く居座りすぎると様々なひずみが生まれるのは、相次ぐスポーツ団体の不祥事からも明らかだ。
経営者と違い、従業員は役職定年や定年退職が一足早く訪れる。久恒さんは退職時のあいさつについて、「定年なんて他人が決めたことで、老いたと考えてはダメ。退職のスピーチは『これから○○をやります』と宣言するといい。それが後輩を元気づけることにもなります」と助言する。
三井物産の設立に関わった益田孝は66歳のとき、『老いの身に余る重荷をおろしては、また、若返る心地こそすれ』と言って退職しました。しかし、その後の余生24年間で、茶人としても名を成しています」(久恒さん)

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・9月の学部運営委員会:学部の幹部教員による会議。秋の陣が始まった。

・松本先生:総研

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「名言との対話」9月20日土井たか子「山が動いた」

土井 たか子(どい たかこ、土井 多賀子1928年11月30日 - 2014年9月20日)は、日本の政治家法学者衆議院議員(12期)、日本社会党委員長衆議院議長社会民主党党首などを歴任した。日本における女性初の衆議院議長、政党党首。

土井たか子は、衆議院選挙に出るときは、社会党の成田知己委員長から、「次の総選挙が間近です。ついては、決断してくだい」といきなり言われる。140あった議席が90に激減する。その90番目で当選。

1983年に飛鳥田一雄委員長が辞任するときには、土井たか子を推す声もあったが、「女の人の世話になるほど落ちぶれてはおらん」となった。1986年の衆参同日選挙では110人が85人に減り、石橋政嗣委員長が「ここまでくれば土井さんしかないだろう」と対立候補の上田哲をくだして委員長に就任。1989年(平成元年)の参議院選挙では、社会党は社公民路線で改善議席の倍以上の議席を獲得し、自民党過半数を割った。参院与野党逆転。このとき、土井ブーム、マドンナブームと呼ばれた。1990年総選挙でも「おたかさんブーム」で、139議席と従来より51議席増やすが、公明党民社党が距離を置き、自公民路線に舵を切る。1991年の地方統一選挙で敗北し委員長を辞任。

1993年総選挙で細川護煕首班の非自民・非共産連立政権となり、土井たか子衆議院議長に就任。議員指名には従来慣行の「君付け」に代わり「さん付け」を用いて話題になった1996年、社会党社会民主党に改名。党首に就く。

趣味はパチンコとカラオケ。好きな球団は阪神だった。生涯独身。

中曽根康弘は、「非常に生一本な、理念を重んずる、そして真一文字に進んでいく、立派な社会党の党首だと、そういう風に敬意を表していましたね」と評価している。「ダメなものは、ダメ!!」という土井の言葉にも支持があった。

原理、原則、基本を大事にする人であった土井たか子議員会館の部屋には書家・金子鴎亭に書いてもらった、「山の動く日」という書が掲げてあった。それは与謝野晶子の詩の一部だった。与謝野晶子が雑誌『青踏』創刊号巻頭に寄せた詩の冒頭は次のようであった。

「山の動きく日来(きた)る。かく云へども人われを信ぜじ。山は姑(しばら)く眠りしのみ。その昔に於いて 山は皆火に燃えて動きしものを。人よ、ああ、唯これを信ぜよ。すべての眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる」「一人称にて物書かかばや。われは女(おなご)ぞ」。

毎日「山の動く日」という書を眺めていた土井たか子は、1989年の参院選挙で社会党が躍進したとき、「山が動いた」との名言を吐いた。土井たか子の政治家人生をを眺めると、男性優位社会の中で周囲から勝手に環境をつくられて、その都度反発しながらも、「やるっきゃない!」と清水の舞台から飛び降りている。人生を一言であらわすこういった短いが端的にそのときの状況をあらわす名言は、日本古来の歌や句と同様に、命が長い。 

やるっきゃない!―吉武輝子が聞く土井たか子の人生

やるっきゃない!―吉武輝子が聞く土井たか子の人生

 

 

「2018年夏の世界--構造変化の確認」

寺島文庫リレー塾2018年後期が始まった。

統一テーマは「世界の構造変化と正対する日本の視座」。初回の本日は寺島実郎さんの「2018年名夏の世界--構造変化の確認」。

・「17世紀オランダからの視界」(「世界」連載中)は、2019年に単行本(上下)になる。歴史の鏡を磨く。知の再武装

・2018年7月の「ビッグヒストリーにおける人類史」(宇宙史から)。2108年9月の「グローバルヒストリーへの入り口を探って」(地球史から)。2018年10月の「アイスマンの衝撃」。

・モンゴル3部作:2018年1月「モンゴルという衝撃」。2018年3月「ロシア史における「タタールの軛」とプーチンに至る影」。2018年5月「大中華圏とモンゴル、その世界史へのインパクト」中華史の相対化。西洋史観・中華史観・モンゴル史観からの脱却。

・2500年前に宗教が出現。ユダヤ教から一神教であるイスラム教、キリスト教。インドのブッダ、中国の孔子

・2001年9月11日の「同時多発テロ」は転換点。20世紀はアメリカの世紀。21世紀に入りアメリカが世界を束ねる力が減少、その痙攣がトランプ現象。

・2008年9月15日の「リーマンショック」から10年。原油価格はマネーゲームによる乱高下。現在70ドルあたり。アメリカが世界一の原油天然ガス産出国。イランの増産。

・世界同時好況:世界3.9%成長。マイナス成長ゾーンは2017年から無くなった。米国2.9%と好調、欧州減速気味。米中貿易戦争、中東の混迷(イラン、イスラエル)で不安あり。0.5ポイント減速の可能性。日本は1.0。19年は0.9。20年は0.3(消費増税の影響)。

アメリカ経済の好調:西海岸シリコンバレーのGAFA+M。東海岸ウオールストリートのマネーゲーム。南部ヒューストンのエネルギー要素。食と農も万全(食糧自給率130%)。2016年1.5%、2017年2.3%、2018年2.9%、2019年2.7%。デジタルエコノミーGAFA+ M(株式時価総額4兆ドル)、中国のテンセント、アリババの0.9兆ドルでニューセブンシスターズで合計4.9兆ドル(545兆円)。石油メジャー4社で1兆ドルに過ぎない。プラットフォーマーズ。データリズム。

・株式時価総額で日本の上位5社(トヨタ・ドコモ・ソフトバンク三菱UFJKDDI)の合計で62.4兆円にしか過ぎない。2018年、トヨタ23.8兆円、ドコモ10.9兆円、ソフトバンク10.2兆円、、8位のキーエンス、。ファーストリテイリング5.2兆円、オリエンタルランド4.4兆円、日立3.8兆円、新日鉄住金2.1兆円、東レ1.4兆円。東レと日立は経団連会長企業。株価の高さの要因の一つはGPIF年金資金など公的資金の65兆円の投入。無ければ3割ダウン。もう一つが外資アメリカの出口戦略の金利上昇で日本の株に異変か。ジャパンリスク。

第四次産業革命=IT(平準化技術)XFT(金融)。デジタル専制。企業も個人もIOTへの対応が必要。知の再武装を。知の3段階:流動性知能(記憶力)。結晶性知能(課題解決力)。唯識性知能(意識・宗教。共感。利他)。

・中東:イランとトルコの巨大化。アメリカのイラクでの失敗による中東からの後退で100年前の昔の地図が出現。イランはペルシャの復活、トルコはオスマンの復活

・中国の強大化と強権化:6月12日の米朝会談で中国は北朝鮮に首輪をつけた。アメリカによる南北統一の直前に軍事介入の可能性。兄・叔父の殺害は中国の介入を恐れてのこと。朝鮮自治区の扱い。香港には民主化勢力はいなくいなった。台湾の統合へ向けて着々、エrサルバドルが断行・欧州唯一のバチカンが次か。残るは19ヶ国で外交的孤立へ。周金平の三期以降には正統性が必要。経済的実績と政治的実績(東アジア。香港・台湾・北朝鮮)。

原子力の技術基盤を持ちこたえられるか:廃炉にも専門家、技術が必要。中国は80基8000万キロワットを目指し、ロシアは原子力に重点で12ヶ国34期基を輸出。IAEAにおける中ロのプレゼンスアップ。アメリカはSMR(30万キロワット以下の小型原発)の方向。湯川秀樹「太陽エネルギーは核融合だ。原子力だ」。日本も本気で立ち向かうべきだ。国家が責任を持つべきだ。

・ジェロントロジー高齢化社会工学):異次元の高齢化は社会的コストの増大。高齢者の社会参画の設計。プラットフォームの形成。高齢者の責任。美学。新しいテーマ。仕事の質を変化させる。カセギからツトメへの転換。高度観光人材など、プロジェクトを一つづつつくっていく。 

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大学にて。

・ミーティング:人事案件で宮地局長、杉田学部長と。

・高野課長、山本さん「ジャスダック上場企業の大学ランキング22位」。

・授業準備

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「名言との対話」9月18日。立川孟美「人さまと恩ある御縁を得て、その都度いただく仕事をとにかく誠実にやろうとだけ思い、歩いて来たと思う」

立川孟美(1915年7月12日〜1997年9月18日)は、立川ブラインド工業創業者。

1938年、(有)立川工業所を創業。1947年、株式会社に改組し、立川ブラインド工業株式会社と社名を改称する。1964年 - 家庭用の間仕切り「アコーディオンカーテン」新発売。1982年6月 - 店頭市場ジャスダック)に株式公開。1987年10月 - 東証2部上場。2015年7月 - 東証1部に指定替え。「建築物内外の生活環境の改善による社会貢献」を経営の基本方針として、「より快適な居住空間づくり」のためにお客様の満足と厚い信頼を得られる製品開発を目指してきた

家庭、業務用のブラインドや天窓、ファブリック製品などを製造するメーカー。ブラインド最大手であり、アイテム数が多い。他には天窓、傾斜窓やロールスクリーンやラインドレープ、バーチカルブラインドなどのファブリック製品、アコーデオンカーテンなどの間仕切り、住宅用オーニング、カーテンレールなどを扱うが、採光、遮光という用途を持った商品に特化しているのが特徴である。多品種・短納期のオーダー生産にこだわりを持つ。

2017年度現在。売上高は、連結  401億577万円。業員数は、連結1168人。立川孟美は、1987年の東証2部上場までは存命。

冒頭の言葉に以下が続く。「それが良かったといえば、そういう事になる。強いて特筆に価する事は、私が一切の投機的な匂いの強い仕事には手を出さなかったことだろう。投機的行為は、父親の失敗でこりていた。地味でいい、着実な、汗を流せば成果が得られる仕事だけを手がけて来たという自負がある。私は、ブラインド以外は何も知らない。成功の秘密と問われれば、「ブラインド一筋だったから」としか答えようがない」。

立川孟美は、投機のような運に頼らず、人の縁を大事にして、汗をかきながら小さな仕事を誠実に仕上げ成果を積みあ上げていった。「ブラインド」という一つのテーマを真摯に追い続けた人の姿がみえる。