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高峰秀子「おいしい人間」--大女優は名エッセストだった

高峰秀子「おいしい人間」(潮出版社)を読了。

 

おいしい人間 (文春文庫)

おいしい人間 (文春文庫)

 

 神保町の古本屋街をブラブラして、本を買い込む。

その時の問題意識という意識という目があるからだろうか、向こうから本のタイトルが飛び込んできた。一つは「漱石の俳句」、もう一つは女優・高峰秀子のエッセイだ。

昨日の「名言との対話」で高峰秀子を書いたのだが、そこで彼女のエッセイが素晴らしいことを発見した。その目が「おいしい人間」を見つけた。本屋を巡る愉しみはここにある。

エッセイでは筆者の人柄、日常の生活、周囲の人物評などが出てくるので、楽しい。この人は女優であり、夫は映画監督であったので、著名な俳優などが出てくる。

丹下左膳を演じた大河内伝次郎については、次のように書かれている。

「優れた俳優は、物の教えかたも要領を得て上手い」「「が、大河内さんだけは本身を使う」「不器用な人で、おまけにド近眼」「「きびしく名刀のような人だった」、、。

司馬遼太郎「先生は美男である(いささか蒙古風)」。安野光雅「先生も美男である(いささかインディアン風)」。こういう対比や、人間性があらわれるエピソードを書く筆致は実に楽しい。

 

自分についてはどうか。

「年中無休、自由業」「白黒をハッキリさせたい性質(たち)の私」「女優の仕事は、そと目には華やかでも、私にいわせれば単なる肉体労働者である」「30歳のオバサン女房が夫をつなぎ止めておきには「美味しいエサ」しかない」「なんいごとにつけても、自分自身の眼や舌でシカと見定めない限りは納得ができない、という因果な生まれつきの私」「「食いしんぼう」「春先には蕗のとうの風味を味わい、夏には枝豆の爽やかな緑を楽しみ、秋には茸、冬には鍋ものと、ささやかでも季節そのものをじっくりと楽しめる、、」「私のヒイキは、なんといっても「内田百閒」だった」「私は、自分が下品なせいか、上品なものに弱い」「人づきあいはしない。物事に興味を持たず欲もない。性格きわめてぶっきらぼう」「独断と偏見の固まりのような人間」「どんな知人友人でも死顔だけは見ないことにしている」

 400本の映画に出演した大女優は、名エッセイストだったことを納得した。沢村貞子もそうだったが、「目」がいい。

 

 

「名言との対話」3月28日。色川武大「9勝6敗を狙え」

色川 武大(いろかわ たけひろ、1929年3月28日 - 1989年4月10日)は、日本小説家エッセイスト雀士阿佐田哲也という名前では麻雀小説作家として知られる。

色川武大という名前で純文学を書いた。1961年に「黒い布」で中央公論新人賞、1977年に「怪しい来客簿」で泉鏡花賞の翌年に「離婚」で直木賞、1982年「百」で川端康成文学賞、1989年「狂人日記」で読売文学賞を受賞。

一方の麻雀。阿佐田哲也という名前は、「朝だ!哲也だ!」に由来している。麻雀の玄人であったことがばれないよう、トップにはならず「いつも、少しだけ浮く」という麻雀を打っていた。後に麻雀の牌の並びが小説中に記載されている「麻雀小説」を発明する。自伝的小説『麻雀放浪記』シリーズで若い読者の圧倒的人気を得て脚光を浴び、麻雀ブームを生んだ。麻雀エンターテインメントグループ「麻雀新撰組」の局長に就任。麻雀メディアに大きな影響を及ぼす。阿佐田を尊敬する雀士達からは「雀聖」と呼ばれた。

「長く生きるというのは素晴らしいことなんだ。だけど長く生きるためには術(すべ)がいる。術をマスターしなくてはね」

「幹線道路を行くようなコースで競争したってしょうがない。自分だけの生き方を作らないとしょうがないだろう」

8勝7敗では寂しい、10勝を狙うと無理がでるから、「9勝6敗を狙え」がギャンブル人生から得た人生哲学であった。幸運が続くと危ないから不運を消化しておくとも語っている。二つの顔を持っていたこの人のギャンブラー哲学は聞く価値がある。

とちぎ歌麿館

 とちぎ歌麿館。

江戸時代中期の浮世絵師・喜多川歌麿栃木市のゆかりを中心とした記念館。

蔵を活かした記念館では歌麿とその時代の狂歌や浮世絵などの関連資料を展示している。

喜多川歌麿は1806年に没していることはわかっているが、生年はわからない。

栃木の豪商・善野家と親交があった。善野家で2007年から2010年にかけて3つの肉筆画が発見された。女達磨図、鍾馗図、三幅神の相模図。

 

有名な「雪月花」は、深川の雪、品川の月、吉原の花を題材としている肉筆画の大作だ。ここ栃木に滞在して描いたと想像される。本物は岡田美術館にある。

「雪」は、深川の茶屋の2階。芸者遊びをする女たち。

「月」は、品川の妓楼。前帯、打ち掛け。三味線・琴・胡弓を奏でる。手紙を書く。遊びをする女たち。

「花」は、吉原が題材。

3つ全てが女たちのみの肉筆画であり、珍しい。

 

 喜多川歌麿は版元蔦屋重三郎と近く、狂歌絵本に優れた手腕を示した。また美人画の大首絵では官能美あふれる表現で一世を風靡している。江戸を遠く離れた地方では江戸絵の名人としては歌麿があげられていた。「絵本太閤記」で幕府の禁忌に触れ牢屋に入れられた。

 

帰りに近くの 栃木市役所のロビーに展示されている大きな「花」をみた。f:id:k-hisatune:20170328071216j:image

 

 

 「副学長日誌・志塾の風」170327。

午後。

・杉本係長:戦略会議「入試」

・高野課長

 

夜は品川の大学院。

・野原さん

・滝川課長:46人。

修士論文基礎講座」の初回の講師をつとめた。テーマは「図解・修士論文の書き方」。

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以下、アンケート。

・今年の秋卒業の予定なので今論文を書いています。難しくて、書けば書くほど自分もわからなくなりました。今日は先生の講座を聞いて素晴らしい方法だと感じました。論文が書きやすくなるというより、論理的な考え方の訓練になると思いました。体験したいと思っています。すごく役に立ちます。

・去年も受講したのですが、論文に取りかかる前だったので、実感がありあせんでした。論文のためにデータを集めていますが、思うように進んでいません。再度受講したことによって、自分の論文の図解に取りかかる、マインドの切り替えに役立ちました。

・図解は文章を書く技術を超えて、考える技術であると感じました。ものごとの関係性をとらえるには長い文章だと大変に難しく、あやふやなことになると日頃から感じていました。ぜひこれから図解を学び、新しい関係性を発見していきたいと思います。

・図解にして全体の構造(システム)を文章に落とすだけで論文が書けるから難しさがない。全体の関連性、重なり、大きさなどがクリヤになり、仕上げるのも、計画段階で担当教授と話をしても理解しやすい。コミュニケーションロスも防げる。そういうことを学びました。先生のホームページのようなものを私もつくりたい。モチベーションが上がりました。

・表現に踊らされず、内容重視でいきたいと思います。

 

 

「名言との対話」3月27日。高峰秀子「現場で働く人間にとって、何より嬉しいのは、同じ現場の人間に慕われること」

高峰 秀子(たかみね ひでこ、1924年3月27日 - 2010年12月28日[1])は、日本女優歌手エッセイスト

天才子役スターから始まり、木下恵介小津安二郎など日本映画界の巨匠の作品に数多く出演。女優引退後はエッセイストとして活躍した。「わたしの渡世日記」では第24回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しているほどの名手でもあった。

熱心に本を読む人だった。高峰は小学校に通算して一ヶ月余りしか通っておらず、学校教育というものを受けることが出来なかった。答えは「劣等感ですね」だった。その劣等感をバネに勉強した人である。

 高峰秀子は「二十四の瞳」「喜びも悲しみも幾歳月」「名もなく貧しく美しく」などの映画の主演女優として活躍したのだが、人を見る目、本質をつかむ力がそれを支えていたのだろう。冒頭の「現場」の真実を言い当てる言葉には、高峰秀子の知性と人間性が垣間みれる。現場に問題があり、現場に仲間があり、そして現場に答えがあるのだ。

 

 

 

浜田庄司参考館--「私の陶器の仕事は、京都で見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」

栃木県益子の浜田庄司参考館を訪問。

「私の陶器の仕事は、京都で見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」

30歳で益子に入り20年経って50歳でほぼ完成の域に達した。

3万坪の敷地の中に立つ。1977年開館。益子は浜田の理想の陶郷であった。

陶磁器、漆器、木工、金工、家具、、、など浜田が16歳から生涯にわたって蒐集したあらゆる民芸がある。地理的には、日本はもとより、中国、朝鮮、太平洋、中近東、ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカ、、。歴史的には、紀元前から近現代まで。集めた生活工芸品は4千点に及ぶ。これらを人々に参考にしてもらいたいという意味で参考館と名付けた。これらの蒐集品は浜田の仕事の水準を落とさないように監視する役目も持っている。自分を感動させ、自分をはるかに超えているものに浜田は惹かれた。自分に語りかける物や自分の及ばない物に、浜田は昂奮した。この参考館は訪問者や芸術家が未来を準備すること助けるためにある。

最初絵描きになろうと考えていた浜田は15歳で「用の美」の工芸を目指すことになった。隣に住む木村荘八の蔵書の中からルノワールの「美術志望者が少しでも工芸に進めば工芸の質が向上する」という言葉を見つけたのである。「民芸」という言葉は、1925年頃に生まれた。当時浜田は31歳あたりだ。浜田は83歳で没しているから、70年近くの年月を工芸に励んだことになる。志を早く立てることの成果でもある。

「相手に聞く。土に聞き、釉に聞き、火に聞く」

「使いやすく、平凡で複雑な美しさに満ちている」

悠々たる大きさ、堂々とした形姿、地味ながらこくのある釉色、生き生きとした絵付け、温かく親しみに満ちた味わい、、、。

 

浜田庄司東京高等学校窯業科で河寛次郎と出会う。

卒業後は河井のいた京都市立陶磁器試験場に就職する。

知り合ったバーナード・リーチに誘われ、3年間イギリスのコーンウェルに滞在する。

関東大震災で混乱の中、日本に帰り、河井宅で過ごす。当時の河井寛次郎は方向感を失っていた。京都で知り合った柳宗悦河井寛次郎浜田庄司の3人組は日本の美の新しい方向を見いだした。

 

英国で田舎暮らしを知った浜田は、栃木県の益子に居を構え、作家活動に入る。

片足を都会に置き、必要な時はいつでも都会に出て共同体の一翼を担う。そういう田舎暮らしを楽しむ生活にあこがれた。田舎に家を持ち、しかも都会の活動から切り離されずにいられる益子を選んだ。寒い季節は焼き物の伝統のある沖縄(壺屋)に、暖かい時期は益子というように往ったり来たりを考えた。

健やかさと正しさを大事に考えた。そのために焼き物の伝統が生き続けている田舎に仕事を場所を探したのだ。益子焼きは1852年大塚啓三郎によって始められたた。まだ歴史は浅い。

「良い土から悪い物をつくるよりも、劣った土で良い仕事をする方を選ぶ」

土は粘着性と可塑性(肉体と骨格)を持ち、火に強い必要がある。一番単純な土が最良だ。

 

 

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 浜田は疲労を知らなかった。

「私はリズムに乗り、そしてリズムが私を運んでくれる」

 

浜田は中学生の頃亡くなった母から「お前はおしゃべりが過ぎる。慢心してはいけません」と枕元でたしなめられた。また「無尽蔵」(講談社)などを読むと、一級の文章家であることがわかる。話術、文章での優れた表現者だったのだ。感性と知性が豊かで均衡がとれた人であった。

 

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 左から浜田庄司(54歳)、柳宗悦(60歳)、河井寛次郎(58歳)。1949年の日本民芸協会全国協議会にて。民芸運動の主役たちが並ぶ貴重な写真。

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 「私の夢は如何なる既成の物指でも計ることのできない美しさの物に出会うことだ」と語っていた柳宗悦は、真の創造的批評家であったと浜田はいう。

 

河井寛次郎は絶えず種類や手法を一変した。河井は受け取る名人であった。人が集まる人柄。

・河井の浜田評「何処へ行っても、何をしていても一筋に立派な事と物を仕上げてくる」「何よりも先にゆるぎのない土台を置く。そしてきざすものを調べ、きざす物を整理し、きざすものを配列する」

柳宗悦。旧いものも新しいものも、今までなかった角度から切り返して、特別の新しさで美しさを見せた。直に観た。「物を作る自分達にとっては、いつも柳の厳しい眼を想うことによって、どれほど仕事の間違いを少なくさせて貰ったか知れない」

 

浜田庄司という人物は、益子焼の作風そのものという感じがする。

土台がしっかりしていて、ゆるぎがない。地味ではあるが、本物である。流行よりも不易を愛する。古今東西の工芸品をみながら、独自の物をつくることに迷いなく生涯を捧げる。京都の河井寛次郎とはまた趣の違う柄の大きな人であったと思う。

 

以下、読了した参考文献。

 「近代日本の陶匠 浜田庄司」(講談社カルチャーブックス)

浜田庄司 釜にまかせて」(日本図書センター

「無尽蔵」(浜田庄司

 

「名言との対話」3月26日。李承晩「一つになれば生き延び、ばらばらになれば死ぬ」

李 承晩(り・しょうばん、イ・スンマン 1875年3月26日 - 1965年7月19日)は、朝鮮独立運動家で、大韓民国の初代大統領(在任1948年 - 1960年)。

日本の植民地時代、アメリカを拠点に独立運動を展開した。戦後、大韓民国を建設し大統領に就任。北朝鮮金日成を意識しており、「北進統一」を掲げる親米反共主義者であった。1952年に李承晩ラインを宣言し、日本に強硬姿勢を取り、13年後の1965年の日韓基本条約まで、日本漁船拿捕が続いた。

李承晩には毀誉褒貶があるが、植民地、独立闘争、建国、朝鮮戦争、、、など幾多の困難に立ち向かった人であることは間違いない。民族が内部で争うことは筆舌に尽くしがたい悲劇であり、統一こそが民族を前に進ませる道である。内部対立の克服が繁栄への道である。それは民族、国家だけではない。あらゆる団体、組織にもあてはまる道理だ。ばらばらになれば生き延びられない。

 

 

 

 

九大法学部のクラス会。日本の歩みとともに歩き、翻弄された団塊世代の人生の軌跡がここにある。

10時半:仙台の阿部さんと息子の剛平君(多摩大2012年度卒)と新宿で。

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  •  ブレイン・ワークス社長の父親は「相伝選書」シリーズを刊行。裏山孟吉「生き甲斐は技能で切り拓く」。桜井みや子「それぞれの時を紡いで」。福田和弘「ほろ酔いゲタおやじの独り言」。
  • 息子は起業家。動画。10人。

 

 11時半:九大法学部のクラス仲間との同窓会。私は卒業以来だ。

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  •  外交官を目指したが断念。30歳まで日立造船に勤務。オリックスで60歳まで。佐倉市。古文書、、、。
  • 三井生命入社(現在は日本生命)。54歳で早期退職し、ジョイフルホンダに。妻の主宰する学習塾を手伝っている。
  • 日本鋼管(現在はJFE)。製鉄設備のプラントを担当。トルコ語をしゃべれる。3年ほどトルコで仕事。人事6年。出張等で40ヶ国以上。荻窪で3世帯。
  • 蝶理(現在は東レ傘下)。ニューヨーク、香港勤務。管理部門。人工透析の会社にいる。糖尿病が増える。
  • 近鉄航空貨物(エクスプレス)。大手町。物流施設。宅建資格。93歳の母の介護を11年。最初は大分の宇佐に毎週通っていた。子ども2人(男女)。孫は小4。64キロの体重は維持。
  • 麻雀に明け暮れ1年留年し愛媛県庁に入庁。人事、自治大学校、東京事務、土木事務所、、、。県庁マン35年。一般社団にも。子ども3人。6時起床で孫の子守。腱鞘炎。子どもは松山市役所、四国電力
  • 1年留年し勉強に励んだ。原島ゼミ。勉強が面白くなった。東洋信託銀行(三菱と合併、現在は三菱UFJ信託)。両親・恩師・同僚のおかげ。お返しの人生。人様のお役に。嘱託を3月で終了。
  • 探検部。日本航空。ロンドン、労務、広報、改革。大学に転身。宮城大、多摩大。「団塊坊ちゃん青春記」、、。

それぞれの人生航路と現状を興味深く聞く。バブルでの経営破綻、吸収合併による名称変更、介護問題、、、など。日本の歩みとともに歩き、翻弄された団塊世代の人生の軌跡がここにある。「団塊坊ちゃん青春記」を配る。次は博多で。

 

帰りに、銀行勤務であった原君とビールを飲みながら語り合う。

 

 「名言との対話」3月25日。佐伯勇「果報は練って待て」

佐伯 勇(さえき いさむ、1903年明治36年〉3月25日 - 1989年平成元年〉10月5日)は実業家近畿日本鉄道近鉄)の元社長会長名誉会長で、近鉄グループの総帥。プロ野球近鉄バファローズのオーナーでもあった。アメリカの大陸横断鉄道の2階建てドームカーを参考にした、世界で初めての2階建電車による特急車のビスタカーの生みの親でもある。近鉄中興の祖。

奈良の自宅は現在では上村松園ら3代の日本画家の松柏美術館になって解放されていて訪問したことがある。旧佐伯邸の伯泉亭で抹茶と茶菓を堪能しながら、美しい庭を鑑賞。

「社外の専門家の意見も十分に聞く。一つの意見に飛びつき足る事は絶対にしない。そして熟慮してひとたび決断すればいかなる決断も逡巡も許さず断行する。こうした覚悟で下した決断はまず十中八九成功する。トップの決断とその成功の積み重ねが社員との間の信頼関係を生むことになる」

「社外の専門家の意見も十分に聞く。一つの意見に飛びつき足る事は絶対にしない。そして熟慮してひとたび決断すればいかなる決断も逡巡も許さず断行する。こうした覚悟で下した決断はまず十中八九成功する。トップの決断とその成功の積み重ねが社員との間の信頼関係を生むことになる」

「運命の神は公平で、だれにでも一様に、公平に機会を与えてくれる。この機会をつかむか、つかまないかということが事業の成否の分かれ目になる。だからこそ、常に意欲し、常に用意しておることが大切なのだ」

問題にぶつかったら、それからあわてて考えるのではない。問題の把握と対処策は日頃から常に用意しておくことが大事だ。ひとりよがりで問題を暴き立てて性急に解決しようとして失敗することを戒めた言葉だ。時機を待ち、好機が訪れたら一気に抱負を実現する。それがものごとの実現のための急所であること教えてくれる。

大学改革ランキング全国1位。2学部1研究科とも史上最高の入学者数。

 

「副学長日誌・志塾の風」170324

多摩キャンパス

  • 杉田先生:情報交換
  • 杉本係長:戦略会議意見交換

九段サテライト

  • 大学運営会議:2017年度多摩大学事業計画。名誉教授・客員教授称号授与。教員人事。2016年度文科省「私立大学改革総合支援事業」選定報告(全国トップ。補助金獲得)。経営情報学部入試は定員の3割増に。グローバル学部は3年連続定員超過。大学院は定員を超える。3部門とも入学者は史上最高。全学組織・各部門委員長任命。各セクション報告。事務局報告。
  • 学長報告:改革総合1位。日本総研とのシナジー。フロントライン。シルバーの社会参画プラットフォーム。思想運動。食と農、教育、人づくり、子育て、老々介護、、、。

新宿の喫茶:宮地局長、川手課長、清水事務長、小林先生と懇談

 

京王プラザホテル新宿にて多摩大教職員懇親会。

毎年恒例。田村理事長、寺島学長をはじめとする全教職員合同の大懇親会。

学長、理事長の挨拶。永年勤続表彰。入職者紹介。退職者紹介。

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 退職者の挨拶。

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私は今回は中締めの挨拶を担当。

「2008年着任。2007年:定員割れ。新学部創設。院は四苦八苦。あれから10年。文科省の改革総合1位。再建の第一段階達成。2018年以降の大きな荒波を乗り切り開学時の勢いに向けて進もう」

 

帰りは樋口先生と喫茶で1時間ほど語り合う。

 

 

 

山本有三ふるさと記念館

山本有三ふるさと記念館。栃木市

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山本有三(1887-1974年)が、これほど有能で多彩な活動を送っていたとは知らなかった。大人物である。

三鷹の洋館である山本有三記念館には訪問したことはあるが、それほど強い印象は受けなかった。このふるさと記念館は、「蔵の街」栃木の日光へ続く列弊使街道に接している。蔵を記念館に改造した建物だ。f:id:k-hisatune:20170324081324j:image

山本有三は、この記念館に展示によれば、劇作家、小説家、教育者・文化人、政治家という4つの活動を行い、それぞれの分野で一流の価値ある仕事をしている。

路傍の石」の中の言葉がいい。

「たった一人しかない自分をたった一度しかない一生をほんとうに生かさなかったら人間生まれてきたかいがないじゃないか」

第六高等学校合格後の父急死による断念、第一高等学校学科試験合格後の体格試験での不合格を経て、第一高等学校文科に入学したときは、すでに満22歳になっていた。一高での落第、2年終了で東京帝国大学逸文学科入学などで、同級生に多くの優れた友人を持つことになった。近衛文麿土屋文明芥川龍之介菊池寛久米正雄、新関良三、三井光弥、、、。落第を含む変則的な人生にも、そういう効能がある。そして有三は生涯にわたってその縁を生かしている。

二度目の結婚で得たはなは、近代的なセンスと文学的素養があり、有三にとって理想の人であった。はなは生涯にわたり、妻と秘書の一人二役を精魂込めてはたした。はなの助力がなかったら、あれほど幅の広い勝津派不可能だっただろう。

山本有三の思想の核には、自然的事実としての生存闘争と、道徳的善の要求がある。題材に応じて戯曲と小説に書き分けたのである。

有三の教養小説は、人間の外的成長に内的発展をからませて、主人公が何らかの人生の知恵に到達する過程を描く小説だ。「路傍の石」、「真実一路」などがそれである。現実の社会を一大劇場に見立てて、普通の人の群像を登場させ、人生の喜怒哀楽を描く。左右のあらゆる主義も単なる社会現象として著述する視野の広い作風である。

明治大学文科専門部文芸科長に招聘されたとき、教授陣は山本有三の厚みのある人脈が動員されている。里見弴、岸田国士横光利一土屋文明久保田万太郎小林秀雄獅子文六萩原朔太郎、谷川徹郎、長与善郎、舟橋聖一今日出海、、、。「人をつくる」「人物を養成する」「子どもを育成する」という表現を好んだ。教育方針は「作家を作る」ために、「自ら会得させる」「芽を伸ばさせる」ことを重視し、見学、座談という体験学習にも力を入れた。

吉祥寺の家では、家族と仕事場を隔てるシャッターつき階段も用意したのも興味深い。

戯曲「米・百俵」では、小林虎三郎を題材に「人物さえ出てきたら、人物さえ養成しておいたら、どんな衰えた国でも、必ず盛り返せるに相違ない」ことをテーマとしている。

国語改革についても功績がある。GHQが日本語のローマ字化を目指す案を持っていたが、山本有三に「日本語の問題は自分たち日本人の手で解決するから口を出さないでもらいたい」と拒絶している。「国民の国語運動連盟」は、日本国憲法の口語化を実現した。国語審議会の「常用漢字表」の主査委員長となり、「当用漢字表」案を提出する。当用とは「当面使用すべきもの」という意味である。参議院議員に出馬したのは「国語研究所」をつるためだった。。「新しい国家を築きあげてゆこうとする時、文化人みずからが引っ込んでいて、どうして、本当の文化国家を建設する事ができましょう」。参院では「緑風会」を田中耕太郎らと結成している。有三命名のこの名前は、参院を理性の場にしたいという念願ならであった。仮名交じり文ではなく、漢字交じり文を主張し、耳で聞いてもわかる文章、文体を作りあげようとした。また山本有三は国語教科書を責任編集している。山本有三は文壇的存在よりも、社会的存在になっていく。

「今ここで死んでたまるか七日くる」が辞世となった。猛烈な仕事師であった山本有三らしい。

山本有三は幅の広い活動を生涯行ったが、私の見るところ、この人は教育者であった。教育者的資質が、様々な方面に生かされたと思う。

 

 

知研岡山のお二人を野田先生に紹介。

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 昼食は、赤坂プリンスのクラシックハウスにて。

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 「名言との対話」3月23日。川上哲治「中途半端だと、愚痴が出る。いい加減だと、言い訳がでる。真剣にやれば、知恵が出る」

「リーダーは人をリードできるだけの人物に早くならなくてはいけないと思う」

「チームの目標にどうやっていくかと考える選手たちをうまく育てていくことですね。だからものの考え方の基本というものが相当大きな問題になってくるような気がします」

「チームのためにやることがおれのプラスになるというようなことをかぶらせながら率いていくリーダーでなければ、なかなか選手をうまく働かすことができないという時代になっていくんじゃないでしょうか。根底はデータ、セオリーだと思いますけどね」

プロ野球では監督が代わるのは弱い時なんです。新しい監督というのは経験もないうえに弱いチームを引き受けなければいけないんですから非常に過酷なんですね」

「“勝負”の二字には、文字通り“勝ち”と“負け”しかない」

「勝負に強いか弱いかは、執念の差」

「組織のリーダーは、自らが良く思われたいという我執、とらわれの気持ちを捨てねばなりません」

「ときに部下や周囲の不興を買うことがあったとしても、大義を表現するために成すべきことを成す。そういう強い信念を持った人間でなければ、リーダーは務まりません」

「周囲からどう評価されるか、という不安や心配から自らを解き放って、自分の想念を「無の境地」に置けば、問題の所在が良く見えるようになります。あとは、その問題を淡々と解決していく。こうすると自分も楽になるし、不思議なもので、だんだんと勘も冴えてくる」

「成功する人とは、この冷や飯を上手に食べた人であるといってよい」

「疲れるまで練習するのは普通の人。倒れるまで練習しても並のプロ。疲れたとか、このままでは倒れるというレベルを超え、我を忘れて練習する、つまり三昧境(さんまいきょう=無我の境地)に入った人が本当のプロだ」

巨人軍の4番打者のとき「ボールがとまって見える」という境地にまで達した川上哲治は、日本一9連覇という空前絶技の偉業を成し遂げ、監督としてもその境地に達した。ここにあげた言葉を眺めると、人間集団を率いるマネジメントの大家であったとの感を深くする。

教授会。大いなる多摩学会理事会。BS多摩企画運営委員会。NPO法人知的生産の技術研究会総会。

「副学長日誌・志塾の風」170322

  • 9時半:高野課長:湘南の入学式、山梨、教職員懇親会、、、。
  • 9時45分:ラウンジ:今泉先生、彩藤先生。グローバルスタディズ学部の安田学部長。
  • 10時:学部運営委員会:教授会前の執行部の打ち合わせ
  • 10時40分:教授会:2016年度最後の教授会。

冒頭に私から学部長退任の挨拶。

「5年前の2012年3月に学部長就任の挨拶で以下を述べた。『尊敬する人は二人。野田一夫先生と寺島実郎先生。野田先生が創り、寺島先生が現学長の多摩大の再建が私に与えられた天命。皆さんと一緒に全力を挙げたい』。それから5年経ち再建の第一段階は終了した。今後は、経営情報学部の人づくりとグローバルスタディーズ学部と大学院にも力を入れ、多摩大全体の底上げをはかっていきたい。」

 

学部長報告の中で「2016年度私立大学等改革総合支援事業結果」の図を説明。

全国1位となったことを、この図を使って、入試・就職・後援会などあらゆる場面で使うことをお願いする。(入試パンフへの掲載は間に合ったとの報告)

 

  • 13時:「大いなる多摩学会」理事会。私は理事・副会長として挨拶。

入会状況。

研究プロジェクトの進捗。

ホームページ。

大いなる多摩学会

学会誌。

29年度総会。

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  •  14時:多摩信用金庫の長島部長と懇談
  • 15時:「ビジネススクエア多摩」企画運営委員会。

平成28年度運営報告。中期計画(案)。29年度事業計画。私は委員長。

 

  • 18時半:NPO法人知的生産の技術研究会総会。代々木。私は理事長。

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  • 19時半:近所のすし屋にて懇親会:近藤さん、伊藤さん、高橋さんと懇親。
  • 帰宅は23時前。

「名言との対話」3月22日。中山晋平「らしく、、、というのはいい言葉だよ。誰でもその人らしく振る舞えばいいのさ」

中山 晋平(なかやま しんぺい、1887年明治20年)3月22日 - 1952年昭和27年)12月30日)は、日本の作曲家。多くの傑作といわれる童謡流行歌新民謡などを残した。作品は多岐にわたり、童謡823曲、新民謡287曲、流行歌468曲、その他学校の校歌・社歌等217曲あり、判明しているだけで1795曲ある。

 新民謡(創作民謡)では、野口雨情、西条八十北原白秋等の作詞で多くの曲をつくった。晋平が苦心したのは民謡や民謡調の歌のはやし言葉だった。「証城寺の狸囃子」では「ポンポコポンのポン」、「東京音頭」の「ヤットナー、ソレヨイヨイヨイ」、「波浮の港」の「ヤレ、ホンイサ」、、、など枚挙に暇がない。

「しゃぼん玉」は、作詞した野口雨情が生後まもなく死んでしまった長女に捧げた鎮魂歌だったとも云われている。 我が子の死を悲しみ、はかないシャボン玉にそれを託し、最後に「風風吹くなシャボン玉とばそ」と我が子の魂が天国で幸せにという気持ちを込めた詩に、中山晋平が、優しく曲をつけている。

 中山晋平は楽器なしで作曲したようで、仕事場は文人並の書斎だった。

職業に真剣に取り組むと、その職業らしい人になってくる。立ち振る舞い、目つき、そして人生観なども長い時間を経ると影響を受ける。しかし晋平の「らしく」は、日常の振る舞い、多くのエピソード、そういうものが人の個性を形づくるという意味だろう。「その人らしく振る舞えばいいのさ」は、肩の力を抜いて、気負いを捨てて生きることを肯定してくれる。しかし同時に「自分らしく」どう振る舞うべきか、という決断を試されるという逆の面もある。「自分らしく」を常に自分に問いかけよう。