知研の八木会長と福島事務局長とミーティング。

 武蔵境駅で、知研の八木会長と福島事務局長とミーティング。引継ぎがテーマ。

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武蔵境の往復でNHKラジオアーカイブスの4回にわたる「湯川秀樹」編を聴いた。日本人初のノーベル物理学賞者という華々しい経歴の人であるが、その素顔は意外だった。子ども時代から世界的学者への道を淡々とふり返る語りだ。孤独。厭世観。人と付き合いたくない。老子荘子の徒。科学の到達点が原子力。悪魔と天使の技術。天使の向こうに悪魔がいる。人類は制御できるか。個人の話から始まって最後は科学と人間、そして原子力社会の展望までを聴いた。感性が豊かでありながら、激せず、淡々とした語り口は心に響く。半世紀ほど前の録音だが、現在を予言していることに感銘を受ける。

湯川秀樹の記念館は、大阪大学総合学術博物館湯川記念室と京都大学基礎物理学研究所湯川記念館史料室がある。今年は訪問したい。

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「名言との対話」1月18日。福原麟太郎「(随筆は)知識を書き残すことでなく、意見を吐露することでなく、叡智を人情の乳に溶かしてしたたらせることである。争うためでなく、仲よくするためである」。

福原 麟太郎(ふくはら りんたろう1894年10月23日 - 1981年1月18日)は、日本の英文学者、随筆家

広島県立福山中学校(現・福山誠之館高校)を卒業後、東京高等師範学校英語科に入学し、研究科卒業。1929年、文部省在外研究員として英国のロンドン大学ケンブリッジ大学に留学。帰国後、東京文理大学助教授に就任し、1939年に教授。1940年「叡智の文学」を刊行する。日本英文学学会会長、東京教育大学文学部長を歴任し、退官後は共立女子大学教授や中央大学教授をつとめた。

1961年、「トマス・グレイ研究抄」により第十二回読売文学賞。1963年、「英文学を基盤とせる随筆一般」により日本芸術院賞。1964年、芸術院会員。1968年、文化功労者福山市名誉市民。

梅棹忠夫の「日本探検」を読んだとき、その最初が「福山誠之館」だった。福原は備後福山の藩校・福山誠之館の出身である。福山藩はペリー来航時の筆頭老中の阿部正弘らを輩出する。また黄葉夕陽村舎を率いた儒学者漢詩人、教育者であった菅茶山という大文化人も住んでいた。2018年にはこの菅茶山記念館を私も訪問したことがある。この誠之館という藩校の後継の学校は、森戸辰夫、井伏鱒二藤原弘達宮地伝三郎が出ており、加えて官界や実業界にも人材が多い。東京にも誠之舎と呼ばれた育英寄宿舎があり、福山と東京は直結していた。彼らは治国平天下意識の中央志向であったから、中央で活躍する人材を輩出したのである。その代表の一人が福原麟太郎だ。

小説家の井伏鱒二によれば「あのころ僕たちのほうでは、秀才というのは高等師範に行ったんです。僕は上級生から、この学校には麟さんという秀才がいたという話を聞かされていました」と述懐している。

『人生十二の知恵』という人生案内の作品について、本人は「この通題はまことにきまりが悪い。しかしどれにも、智恵を求めようという心持があることだけは汲んでいただきたい」として、「志」「魅力」「金銭」「失敗」など12の章で、深い学識と人生経験が温厚な語り口ににじみ出る文章を書いた。必読のエッセイといわれる。たとえば、この本には「人生全体の建築の上でいうと、何か成功で何が失敗であるかは、よく解らないものだ。人生が失敗であったとか、成功であったということに、どんな意味があるのかとも言ってみたい。死んでしまえば万事終わりで、人はその一生を、何とかして過ごしてきたということなのだ。誰も大した生き方はしていない」などがある。

福原は随筆家として高名だった。「知識を書き残すことでなく、意見を吐露することでなく、叡智を人情の乳に溶かしてしたたらせることである。争うためでなく、仲よくするためである」と言い、また「作者の肉体の臭いを出さないで、人間の臭いを嗅がせよう」とエッセイの秘訣を開陳している。随筆とは、知識をひけらかすことではなく、学識と経験に裏打ちされた叡智と、誰もが膝を打つ人情の機微の混合体をつくる作業なのだ。今日は「叡智と人情」というキーワードをもらった。

参考「梅棹忠夫著作集 7 日本研究」

 

 

 

 

 

 

 

NHKカルチャーラジオ「声でつづる昭和人物史」で「東條英機」を聴くー「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」

 

NHKカルチャーラジオ「声でつづる昭和人物史」で「東條英機」の2本を聞く。東條の肉声で開戦時の「大詔を拝し奉りて」と「先陣訓」を聞く。解説は「昭和史を語り継ぐ会」を主宰するノンフィクション作家の保坂正康。この「聴き逃し」は好きでよく聞く番組だ。

「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励してその期待に答ふべし、生きて虜囚を受けず、死して罪過の汚名を残すことれ」(「本訓 其の二」、「第八 名を惜しむ」)。

島崎藤村に添削を依頼していたとかでリズム感のある名文であるが、「生きて虜囚の辱を受けず」は、覚えやすく、軍人だけでなく、銃後の国民をもしばった悪名高い言葉だ。この後、国民に真実を知らせることなく、常勝と偽った「大本営発表」を続けていき、日本史上初の敗戦を迎える。

これを機会に保坂正康という誠実な印象のあるノンフィクション作家についてみてみたい。保坂は北海道生まれ。同志社大学卒業後に電通PRセンターに入社、その後に物書きを志して5年間の編集者生活を送り、フリーとなる。1972年に三島由紀夫事件をきっかけに書いた『死のう団事件』で作家デビュー。2004年、個人誌『昭和史講座』の刊行で第52回菊池寛賞受賞2017年、『ナショナリズムの昭和』で第30回和辻哲郎文化賞受賞。2018年、北海道新聞文化賞受賞。

1979年から1980年にかけて、『東条英機天皇の時代』(伝統と現代社) 上下巻を刊行している。番組の中で保坂は東條の関係者200人ほどにインタビューをしたと語っている。模範的軍人、完璧主義者、、。東條の妻は開戦の2日前に夜中に正座し皇居に向かて涙し嗚咽していた東條の姿をみたと語っている。「戦争をしたくない」から首相として阻止せよという天皇の意思を実現できなっかたことを詫びていたのだろうとしている。

NHKカルチャーラジオ「声でつづる昭和人物史」の人物リストは以下だ。いつのまにか、かなりの数を聴いている。残りも聴くことにしたい。

2017年度
吉田茂(首相)、浜口雄幸(首相)、犬養毅(首相)   高橋是清(首相・蔵相)、尾崎行雄(政治家)、斎藤隆夫(政治家)   近衛文麿(首相)、東条英機(軍人・首相)、東郷平八郎(軍人・海軍)宇垣一成(軍人・外相),野村吉三郎(軍人・駐米大使)、山本五十六(軍人・海軍)、下村宏(内閣情報局総裁)、東久邇稔彦(皇族・首相),幣原喜重郎(外交官・首相),秩父宮(皇族)、高松宮高松宮妃(皇族),三笠宮(皇族),鈴木貫太郎・タカ(首相・夫人)佐藤達夫(法制局長官)、金森德次郎(国務大臣),片山哲(首相),芦田均(首相)石橋湛山(首相), 湯川秀樹(物理学者),渡辺和子(ノートルダム清心学園理事長),中村茂アナウンサー,沢田美喜(エリザベス・サンダース・ホーム園長)

2018年度
吉野源三郎(編集者)、鈴木大拙(仏教学者), 西田幾多郎(哲学者),古橋広之進(水泳選手), 吉岡隆徳(陸上短距離選手),柳田国男 (民俗学者),渋沢栄一(実業家),松下幸之助 実業家 終戦迫水久常・加瀬俊一・細川護貞)、永井隆被爆者、医学博士),物集高量(文筆家), 服部四郎言語学者)、松本清張(作家), 金田一京助言語学者),三浦綾子(作家)平塚雷鳥(婦人運動家),神近市子(婦人運動家), 市川房枝(婦人運動家)、永井荷風(作家),谷崎潤一郎(作家), 坂口安吾(作家)大佛次郎(作家)

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午後:出版関係。

日本地域社会研究所を訪問:「あとがき」を書くこと。鮎研、知研ミーティングの件

・旧知の女性編集者の阿部さんと情報交換:企画案の交換。

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「名言との対話」1月17日。竹鶴リタ「私はあなたの夢を共に生き、お手伝いしたいのです」

竹鶴 リタ(たけつる リタ、1896年明治29年)12月14日 - 1961年昭和36年)1月17日)は、ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝1894年明治27年) - 1979年(昭和54年))の妻。通称:リタ。

イギリス・スコットランドグラスゴー郊外で医師の長女として誕生する。グラスゴー大学に留学していた竹鶴政孝と出会う。両家に反対されながら、1920年に来日。夫の政孝が寿屋を退社し、北海道の余市に大日本果汁を設立し、余市蒸留所を開設したため、余市に居住した。

 この女性は2014年から2015年にかけて放映されたNHK連続テレビ小説「マッサン」で、ニッカウヰスキーを創業する竹鶴政孝を演じた亀山政春の妻・エリーとして有名になった。外国人の嫁は歓迎されず、苦しい思いをする。エリーは日本の言葉と文化を勉強し、マッサンを助けていく。初の外国人の起用となったシャーロット・ケイト・フォックスの清楚な魅力とその健気な姿は視聴者の心を打った。わたしもこの番組はよくみた。

政孝はグラスゴー大学留学時に、自分は「スコットランドに残っても構わない」とリタに恋心を打ち明けたのだが、、リタは「私はあなたの夢を共に生き、お手伝いしたいのです」と伝えた。夫となる人の「日本国産ウヰスキーづくり」という大きな夢を実現するために共に生きようと決意したのだ。来日した1920年大正9年である。その時代の国際結婚だから、その苦労は並大抵ではない。リタの内助の功が無ければ夫の成功は成しがたかっただろうことは、テレビドラマでよくわかった。

リタは従業員や余市の市民に愛されたようで、リタの名前のついたものは多い。蒸溜所開設時に事務所および研究室は「リタ・ハウス」となった、キリスト教徒としてリタの葬儀を行った教会の幼稚園は「リタ幼稚園」と命名された。リタの出生地との姉妹都市締結と功績を称えて余市の道路の駅前から市役所の区間は「リタ道路」と名付けられた。その他、このテレビ番組に合わせて、ニッカバー・リタ、ニッカ アップルブランデーリタ30年、リタハイボールなどが誕生している。このようなネーミングをもらうことによって日本人・竹鶴リタは永遠に日本に生きることになった。

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

秋学期授業の最終回。ラウンジで懇談。プロジェクト。知研。立川。

 ・秋学期の授業の最終回。前回の「この授業を受けてどうかわりましたか?」という問いのアンケートでは、「計画を立てる」「継続する」「本を読む」が受講生全体の流れだった。今回のアンケートは「春休みの計画」を書いてもらった。計画を立ててもその通りにはいかないが、立てないよりなるかにはるかにマシだ。「計画、実行、総括」の繰り返しで少しづつ前に進む。

・昼休み:ラウンジで歓談:趙先生、久米先生、樋口先生と。

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 ・ 岩澤さん:図解の処理と文章の打ち込み。1巻、2巻、3巻。

・来週からの人と会う日程が決ってきた。

 ・高橋さん来訪

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立川:所用。

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「名言との対話」1月16日。古川ロッパ役者となりて五年目の春、いざ、はり切って進まんかな」

古川 ロッパ(ふるかわ ろっぱ、古川 緑波とも、1903年明治36年)8月13日[1] - 1961年昭和36年) 1月16日)は、1930年代の日本の代表的コメディアン

祖父は東京帝国大学総長をつとめた加藤弘之男爵という家系。長男以外は養子、という家訓にそって古川家の養子となる。「緑波」(リョクハ)は小学校3年時に自らつけたペンネームである。後年、舞台活動では「ロッパ」、筆名は「緑波」と使い分けた。

小倉中学、早稲田中学、早稲田第一高等学院、早稲田大学文学部と進む。中学時代から映画雑誌を刊行したり、「キネマ旬報」にも投稿、高等学院時代には「キネマ旬報」の編集同人となり、早大在学中に菊池寛の誘いで文芸春秋社に入社し、雑誌「映画時代」の編集者となる。早熟で、映画好きで、文章力があった。

宴会の余興芸がこうじて、自ら演技したものまねを「声帯模写」と命名している。菊地寛や小林一三に喜劇役者への転向を勧められ、1932年に宝塚劇場でデビュー。菊田一夫脚本の作品がヒットする。同時期に活躍したエノケンと並び「エノケン・ロッパ」と称される。エノケンの芸風と対照的な知的な雰囲気が受けた。歌手としても多くのレコードを出している。

1935年ころからは「古川緑波一座」を弾いて大いに人気を博す。特にホワイトカラーに受けた。エノケンブルーカラーに人気だった。ロッパは、座付き作者、俳優、台本作家などに一流の才能を集め名プロデューサーだった。この5年間が黄金時代だった。戦争の時代には国家の干渉を受けたが、ひるまず低級喜劇、滑稽芝居の道を歩んでいる。戦後は「ロッパ・エノケン」の合同公演などで当たりをとったが、時代の変化についていけずに人気は落ちていった。一方でラジオはもとより、黎明期にあったテレビのパイオニアとしても活躍している。

美食家・健啖家で「ロッパ食談」「悲食記」がある。読書家、日記魔でもあった。ネーミングのセンスあり。ハリきる、イカすなど造語の名人。菊池寛はクチキカンと揶揄するなどセンスは抜群。幅広い交友。麻雀やポーカー。、、、、

こうやって古川ロッパの生涯をたどると、ものすごいエネルギーの持ち主だったと感じる。あらゆる分野への旺盛な好奇心で次々にものにしていく姿は圧巻だ。

 死の直前まで休みなく書き続けた日記は「古川ロッパ昭和日記」の名で刊行されている。昭和の喜劇史、風俗史としても貴重な作品だ。ロッパ自身も戦時中には自宅消失時にも防空壕に埋めておいて難を逃れるなど大事にしていた。この点は空襲時には日記を抱えて避難していた永井荷風や、盛岡に日記を転居させていた原敬とも通じる。

古川ロッパ昭和日記』という本が4巻でている。ロッパはその日の出来事を事項別にメモしたノートに記し、その翌朝、ノート類をもとに日記に付けていた。日記の総量は400字詰め原稿用紙3万枚以上というから、本100冊分に相当する膨大な量だ。1年4冊ほどだ。1934年1月1日から死の直前の1960年12月25日までロッパの日記は、その日の行動を挙げていく。舞台の感想、新年の決意、金の苦労、食い物談義、酒バカの様子、仕事への意欲などが垣間見えて興味深い。少し読んでみよう。

「昭和八年度は、活躍開始の記憶すべき年だった。、、、「笑の王国」は、今年何うなるか、古川緑波は何うなるか、昭和九年こそ自重すべく、ます/\ハリ切るべき年である。」は、昭和9年の「前年記」。昭和十年は、浅草から丸の内へといふ、僕にとっての一大転機の年として記念すべき年であった。」は昭和11年の前年記から。

以下、昭和11年の元旦から。短い間に、役者修業もし、ショウマン的苦労もした。 すべては、これから。準備は出来た! これから出帆である。 役者となりて五年目の春、いざ、はり切って進まんかな。」「 京都の客は、女が多く、よく笑ふ。但し、ニュース的神経はなく、たゞ可笑しいものが可笑しいと云った型なり。宝塚はインテリ風、京都は一口に素直と云ふべきか――さて名古屋は何んなものか。」「ホテルへ帰り、仕事するつもりが徳山・岸井・三益乗込みで話し込んでしまひ、一時になった。それから原稿紙出して仕事にかゝる。」「昨夜はそれでも十枚ばかり書いた、ねたのは四時近い、今夜徹宵で書き上げる気だ。」

私も毎日ブログを書いているので参考になる。ロッパの日記では、必ず前年の総括をして、新年の抱負を簡潔に述べている。この点は私と同じだ。計画、実行、総括のサイクルが回っている。そして31歳の年から57歳の26年間、毎日その日その日の行動記録を日記として書き綴ったのは、自分が歴史をつくっているという意識があったからだろう。26年間というと阿久悠日記を思い出す。阿久悠も亡くなる70歳まで26年間、毎日日記を書いていた。私はまだ15年。ロッパの日記は青空文庫でも読めるので読んでみよう。

 

 

 

 

 

修論。総研。選集。

大学。

・大学院生(JTB勤務)の修士論文の副査として会う。テーマはツーリズム。

・松本先生。総研の事業計画

・「選集」の進行の打ち合わせ。

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「名言との対話」1月15日。野村徳七「船は沈むが、株は沈まない」

第二代野村 徳七(のむら とくしち、1878年明治11年8月7日 - 1945年(昭和20年)1月15日)は、日本の実業家

 両替商として20代前半で大阪に1907年に野村商店を立ち上げる。アメリカのモルガン商会をみて、あそこまでいくには銀行が必要だと考え、1918年大阪野村銀行大和銀行、現在のりそな銀行)を立ちあげる。1925年、証券部を独立させ野村証券を設立する。一代で野村財閥をつくった。

日露戦争第一次世界大戦、など三度の大仕手戦をやり、すべて勝利を収めた。日露戦争後には「私が命をかけて考えたことだから、けっして間違ふ筈はない」として勝利している。第一大戦では日本が地の利を得るとして相場を張った。三度目の勝負に大勝利をおさめ、野村徳七は日本で数人の大富豪になった。10年に一回チャンスが訪れ、勝負する。その後は疲れを癒すとして欧米、東南アジアなど海外に足を向けている。

以下、野村徳七の名言から。

「船は沈むが、株は沈まない」「人材を養い、有為の人物を備え、適材を適所に配するは、資本力以上の大いなる財産である」常に一歩前進を心掛けよ。停止は、退歩を意味する。「決断、実行したあとは笑って遊べ」むしろ多くの人に変わって合理的に危険をおかすことにこそ、企業家の本分がある」

茶号を得庵として、多くの茶会を催した。茶道具を中心とする古美術の収集でも知られ、それらは野村美術館に収納されている。私の「人物記念館の旅」にも、企業の博物館、創業者の記念館も意識的に視野に入れていこう。

野村証券の田淵義久(小田淵)にはJAL広報課長時代に接したことがある。当時の山地社長と田淵社長との対談をホテルで企画した。このとき野村證券は日本トップの利益をあげていた。山地社長からは「よく、この人をつかまえたね」と言われた記憶がある。田淵社長にはゆったりした大人物との印象を持った。

『事を成すには、狂であれ』の著者の福井保明は、小説だから、「実際に野村徳七なら、こう考えていたであろう」と思わせるに足る嘘話を含めて、虚実織り交ぜて書いたとしている。そして「危険を恐れず新しい領域に挑戦せよ」と野村がいい続けた。それを伝えたいと前書きに描いている。この本の中での野村徳七の姿と言葉を以下のように描いている。

新商品、新機軸をつくり売る。誰もやっていない事、誰も扱っていない商品、それを世に出すために苦しい道を歩む。野村の道はこの道や。命をかけて瞬時に判断する。営業は口やない。誠心誠意。株は調査研究を深くして、度胸で勝負するという事ですのや。株式は科学や。負けたら素裸になるだけや。新卒を雇って研修を重視。抜擢と若返り。「数字は人格や。数字を上げん奴は人格がないんと同じや」。戦後の野村證券でもこの言葉はよく使われた。 「給与、報酬は常に業界一。一体感のある経営や」。

貴族院議員時代に、高橋是清大蔵大臣と会話を交わしている姿も出てくる。「財政均衡論の名のもとに何もしなかった結果、悪質なデフレというか恒常的な不景気に陥った」「景気の腰を折るような増税はせず、公債発行で乗り切る。、、税収が増えてくれば、放っておいても財政は均衡する」。この本は2019年12月3日発刊だから、現在の日本への警鐘になっている。

野村徳七は「相場は狂せり」という言葉も発している。天才とも言われたこの狂人は狂した相場にまさに命を懸けた人だ。

事を成すには、狂であれ ─ 野村證券創業者 野村徳七その生涯

 加藤典洋「大きな字で書くこと」(岩波書店)ーー自分のなかに二つの場所をもつこと。二人の感情をもつこと。

 加藤典洋「大きな字で書くこと」(岩波書店)を読了。

加藤 典洋(かとう のりひろ、1948年昭和23年)4月1日 - 2019年令和元年)5月16日)。2019年5月16日に死去した、評論家、文学者の加藤典洋の最後の本。11月19日発行。加藤 典洋(かとう のりひろ、1948年昭和23年)4月1日 - 2019年令和元年)5月16日[1]

自分の人生に現れる友人、知人、などとの邂逅をたどりながら書いたエッセイ。加藤典洋の最後の言葉だ。父、多田謡子、橋本治、青山毅、中原中也、ブロック、寺田透安岡章太郎、久保卓也、森嶋通夫村上春樹、、こういう自分史の書き方もあるのだと思った。彼らとの関係で、彼らの生き方や言葉、自分の感慨、受けた影響などを記すという方法だ。いつか試してみたい。 

大きな字で書くこと

大きな字で書くこと

 

 ・調べものをしているうちに、これまで知らなかった人の、読んで心を動かす言動に触れることがある。

・未知の領域の文献渉猟の楽しみの一つに、これまで知らなかった人物にふれることがある

・自分は何も知らない、と感じらる瞬間をもてる人は幸運である。自分が小さく感じられるが、それは世界を大きく受け取る機会でもあるからだ。

・自分のなかに二つの場所をもつこと。二人の感情をもつこと。、、、自分の中に、もう一人の自分を飼うこと。ふつう生活している場所のほかに、もう一つ、違う感情で過ごす場所をもつこと。それがどんづまりのなかでも、自分のなかの感情の対流、対話の場を生み、考えるということを可能にする。それは、むろん、よく生きることのためにも必要なことである。

・原爆は広島と長崎に落とされたのではない。日本に落とされたのだ。原爆は日本に落とされたのではない、世界に落とされたのだ。

・国連を外交の基軸に据え、国連の再建を通じ、アジア諸国ともアメリカとも有効裡に平和外交を追求する道である。

・事実上、有事指揮権という名の交戦権を米国に差し出している。、、こういう国は軍隊組織の海外派遣など行うべきではない。戦闘が起こっても、国は関知しない。そんな条件で送り出された隊員は、悲惨である。

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・ヨガ

・八王子事務所。

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「名言との対話」1月14日。ハンフリー・ボガート「夕べどこに行ったの?「そんな昔のことは忘れた」、今夜は会えるの?「そんな先のことは判らない」

ハンフリー・ディフォレスト・ボガートHumphrey DeForest Bogart1899年12月25日(翌年1月23日に出生届) - 1957年1月14日)は、ニューヨーク出身のハリウッド映画俳優

第一次大戦に従軍した後、演劇の道に入り、映画にも出演する。「化石の森」では、ギャング役で人気を博した。1930年代はギャング映画を多く演じた。40代に入って、「マルタの瞳」、そして「カサブランカ」などで暴力的・反道徳的を売りものにするハードボイルド・スターの地位を不動のものにした。ボギースタイルと呼ばれた「ソフト帽にトレンチコート」はダンディズムの極致といわれ、あこがれの的となった。

後年は演技派としての実力も示し、1951年の「アフリカの女王」でアマデミー賞主演男優賞を受賞している。

亡くなった後でもボガードの人気は衰えず、40年後の1999年のアメリカの映画団体AFIの「映画スターベスト100」では、男優の1位に輝いている。

 ボガートは生涯で4度結婚している。1926年、舞台女優のヘレン・メンケルと結婚し、翌年に離婚。1928年、舞台女優のメアリー・フィリップスと再婚、1937年に離婚。1938年、共演したメイヨ・メソットと3度目の結婚、離婚。1945年、45歳で共演した20歳のローレン・バコールと4度目結婚し、ようやく落ち着き、長男、長女を授かっている。

ハンフリー・ボガードの映画の中のセリフで最も有名なのは、「そんな昔のことは忘れた」「そんな先のことは判らない」だろう。昨日も明日もない。自分には今日が、今があるだけだ。実にカッコいい。

日本の名女優・杉村春子「きのうも明日もないわ。今日をしっかり生きるだけ」と通じる。名脇役だったエッセイスト・沢村貞子も「昨日のことは忘れ、明日のことは心配しないで」と言っている。過去に拘泥しない、未来も考えない、そして今現在を真剣に生きる。そういう心構えは、ハードボイルドライフを送る人も、超高齢化社会を生きる人にとっても、ひとつの生きる指針だ。

 

 

東京富士美術館の「ルネ・ユイグのまなざし フランス絵画の精華」展。

 東京富士美術館。「ルネ・ユイグのまなざし フランス絵画の精華」展。混んでいた。創価学会の会員が多いようだ。カフェで読んでいるペーパーや会話からわかる。美術館は教育施設だ。

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八王子。創価大学と牧口記念会館の間に位置する東京富士美術館には何度も訪問している。今回の主眼は「ルネ・ユイグ」(1906-1997年)という人物が目当てだ。

美術史と文学を学んだ後に、ルーブル美術館に入職する。31歳の史上最年少でルーブル美術館絵画部長に抜擢された。壁面一杯に絵画をかけるというやり方から、観る人の目線に沿って物語的に並べるという展示方法を編み出した。またナチスによる美術品略奪から人類の美の 至宝である4000点に及ぶ美術品を守り抜いた。この中には「モナリザ」も入っている。

この美術館創立者である池田大作SGI会長との長い友情によって、東京富士美術館の開館にあたり尽力し、名誉館長となった。3回にわたりこの美術館で開催したフランス絵画展を主導した。

東京富士美術館は、フランスが誇る美術館の一部となるでしょう」

 「書くことが知性の言語であるとしたら、芸術、特に絵画は魂の言語である」

「フランス絵画史の特徴は「連続性」と「多様性」である」

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同時開催の「時代を拓いた女性フォトグラファー」展も興味深かった。この系統をたどるのも面白いかもしれない。

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ジュリア・マガレット・キャノン(1815-1879):テニスンダーウィン、カーライルなどの著名人を撮影。

フランシス・ベンジャミン・ジョンストン(1864-1952):アメリカの宮廷写真家。

イモージン・カニンガム(1883-1976):92歳から90歳上の人々を撮影。「After Ninety」が出版。

ジョージア・オキーフ:近代写真の父アルフレッド・スティーグリッツ(1864-1946)の妻。

ソニア・ノスコイアック(1900-1975):

ローラ・ギンルピン(1891-1979):ネイティブアメリカンの撮影。

ドロシア・ラング(1895-1965):社会問題のドキュメント写真。

マーガレット・バーク=ホワイト(1904-1971):Life誌初の女性カメラマン。女性従軍記者。

リー・ミラー(1907-1977):マン・レイに入門。助手・愛人。ソラリゼーションを開発。ヴォーグ専門の従軍記者。20世紀を代表。

ゲルダー・タロー(1910-1937):ポーランド人。キャパの公私のパートナー。報道写真家。ヘミングウェイとも交流。

クリス・イーノス(1944-):ボストン

ロッテ・ジャコビ(1896-1990):ポーランドアインシュタインの写真。

ペレニス・アボット(1898-1991)

イヴ・アーノルド(1912-2012):モンローと親しい。

ルイーズ・ダール=ウォルフ(1895-1989)

インゲ・モラス(1923-2002):オーストリア。インゲ・モラス賞。アーサー・ミラの3番目の妻。

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梅棹忠夫著作集「日本研究」の「大本教」を読了。日本発の世界宗教エスペラント語、、、、。

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「名言との対話」1月13日。舟橋聖一「俺も後世に残るような小説は一本もないだろう」

舟橋 聖一(ふなはし せいいち、1904年明治37年)12月25日 - 1976年昭和51年)1月13日)は、日本小説家 

 1938年明治大学教授。1948年日本文芸家協会理事長。1950年文部省国語審議委員。1964年『ある女の遠景』で毎日芸術賞。1967年『好きな女の胸飾り』で野間文芸賞。1969年横綱審議委員長。1975年文化功労者。1976年に71歳で死去。2007年には小説『花の生涯』(後に初のNHK大河ドラマ)の縁で彦根市舟橋聖一文学賞を創設。

12月25日、クリスマスの日に生まれたため、聖一と名付けられた。しかしキリスト教には縁がなかった。

15歳年下の末弟のシナリオライター(脚本家)和夫が書いた『兄・舟橋聖一の素顔』(近代文藝社)は、肉親からみた聖一の姿を公平な視点で描いている。没後1年ほど経たった時期の作品である。脚本としてみても秀逸であり。また人物論としても傑作だと思う。

所有欲が強い。一流好み。猜疑心。煩悩の人。完全主義者。几帳面。蒐集癖。欠陥だらけ。癇癪持ち。金銭にがめつい。挫折のない勝利者の人生しか認めない。尊大。蔵書4万冊。、、、兄の真実に迫ったのであり、作家論の資料としても貴重である、と和雄は書いている。

医学の生兵法で片眼を失明。晩年には両眼とも失明状態になったが、口述筆記で執筆を続けた。終生のライバル意識を燃やした相手は、作家の丹羽文雄である。同じ1904年生まれ。舟橋は東大、丹羽は早大。野間文学賞争いで、『花の生涯』は丹羽文雄の『蛇と鳩』に僅差で敗れ、悔しがった。1975年に舟橋は文化功労者になり丹羽に先んじた。しかし丹羽は舟橋が没した翌年に文化功労者文化勲章を同時受賞している。舟橋は初めて賞をもらったのは60歳の還暦のときであり、かなり遅まきだった。東小結の舟橋に対し、丹羽は西の関脇あたりにいたという和雄の見立てだ。このライバル関係は、71歳で没した舟橋に対し、丹羽はその後29年生きて100歳の長寿を達成している。

NHK大河ドラマの『花の生涯』は1963年4月から12月にかけて放映された。井伊直弼尾上松緑で、淡島千景も出演していた。中学生だった私は、この番組を見る中で井伊直弼への悪印象が晴れたことを思い出す。その原作者が舟橋聖一だったのだ。

その舟橋にしても「俺も後世に残るような小説は一本もないだろう」と、ある時期に和雄に語っている。昭和の小説では谷崎潤一郎の『春琴抄』を抜くものはないというのが聖一の認識だった。谷崎の『細雪』も還暦を過ぎてからの作品である。後世にまで古典として残るということは大変なことだ。舟橋聖一は60代後半から『源氏物語』、『太閤秀吉』の執筆に邁進したが、両方とも未完に終わっている。還暦から10年余、舟橋は後世に残る作品を完成できなかったようだ。丹羽文雄はどうだろう?

兄・舟橋聖一の素顔

山本太郎。中曽根康弘。山極壽一。北康利。

文藝春秋2020年2月号を読了。山本太郎「消費税廃止。最低賃金1500円。奨学金チャラ。法人税所得税の改革、」。中曽根康弘「政治家は小さな家に住んでいなければならないんだ」。ジャレド・ダイヤモンド(82歳):もっとも生産的だったのは70歳代でした。エルンスト・マイヤー:101歳で亡くなる直前に他界するまで26冊の本を刊行。その半分は80歳を過ぎてから。マックス・テグマーク「AIで何ができるかを理解し、うまく活用できる人が生き残る。山極壽一「複線的人生」。北康利「私の本は父親の命日か月命日を発刊日にしている」

文藝春秋2020年2月号[雑誌]

 ジム:スイミング400m

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 「名言との対話」1月12日。村井順「人生は頂上のない山のぼり」

村井 順(むらい じゅん、1909年明治42年2月5日 - 1988年(昭和63年)1月12日)は、日本の内務警察官僚実業家

内務省入省し主に警察畑を歩いた。吉田茂との縁が深い。1946年、第一次吉田内閣の総理秘書官。1952年、初代内閣調査室長。1962年、東京オリンピック組織委員会事務局次長。退任の後を相談すると、吉田茂から「日本独自の警備会社を創るべきだ、、武士の商法で結構だ。、、誠実一本で貫くことだ」とアドバイスを受ける。

1965年、51歳で退職金を全部投げ出してやるつもりの背水の陣で日本初の民間警備会社である綜合警備保障をを創立。「武士の精神」で「専門と熱意」を武器に日本初の警備会社を経営することを決意する。早稲田大学の紛争の警備で信用を得て、大阪万博で全体の75%を引き受ける。

綜合警備保障株式会社は、2019年3月現在で本社以外に10地域本部、64支社、37支店、253営業所を持つ大企業になっている。社員数は連結で37417人。テレビCMで女子レスリングの伊調馨を起用したコーポレート・ブランドの「ALSOK」と言った方が通りがいいかもしれない。綜合警備保障が経営理念とする「ありがとうの心」と「武士の精神」は、村井順の精神を引き継いでいる。この会社の基本路線は、「立派な警備」「黒字経営」「社員待遇」の順に優先すべきであり、それが武士の商法だという。

役人を辞め起業した村井は「傷ついてまた傷ついて強くなる」と言っているから経営者として経営は困難を極めたのであろう。また個人的にも大阪万博の激務で脳出血で倒れて車椅子の生活になっている。その結果、村井の企業観は「企業を支えるものは、結局は人間の力であり、またその信用である」となった。

村井順の『武士の商法』では敗戦後のアメリカの政策も論じている。日本の歴史と日本人の道徳を否定し日本人の精神力を破壊した。それが日本病とも呼ぶべき道義心の退廃につながったと分析し警鐘を鳴らしている。

この人の生涯を眺めると、明治時代に大蔵省を辞め実業に身を転じた渋沢栄一を思い出す。その渋沢は「限りない資本を活用する資格とは何か。それは信用である」と語っている。道徳と信用というキーワードは二人に共通する。

 「人生は山登り」とはよく言われる言葉だ。頂上に着けば、後は下山になる。しかし村井順は「人生は頂上のない山登り」であるという。日々道徳を高め、信用を積み重ねていく限りなき道程である。これが村井順の人生観である。

 

武士の商法