産経新聞に書評。チャプリン『独裁者』。

本日19日の産経新聞の「書評」に『100年人生の生き方死に方』が取り上げられた。
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人生100年時代。本書は医学や文学、美術などの分野で活躍し、90歳以上で亡くなった81人の箴言(しんげん)を紹介する。107歳まで生きた彫刻家の平櫛田中(ひらくしでんちゅう)は「六十、七十は鼻たれ小僧、男ざかりは、百から百から」と残した。亡くなる直前まで制作を続けた大家らしい。

さすがに長く生きているだけあって、どれも味わい深く含蓄がある。ついつい納得。「出る杭(くい)は打たれるが、出すぎた杭は誰も打てない」(起業家、堀場雅夫

多摩大学副学長の著者は全国にある偉人の800以上の記念館を訪ね、資料や書籍を入手して言葉を集めた。その行動力もすごい。(久恒啓一著/さくら舎・1400円+税)

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チャプリン「独裁者」をDVDで観た。特に印象に残ったシーンは、以下の二つ。

・世界征服を夢見て風船の地球儀で遊ぶ独裁者の姿。

・最後の6分間の感動的な演説。

申し訳ないが、私は皇帝などなりたくない。 それは私には関わりのないことだ。 誰も支配も征服もしたくない。できることなら皆を助けたい、ユダヤ人も、ユダヤ人以外も、黒人も、白人も。 

私たちは皆、助け合いたいのだ。 人間とはそういうものなんだ。 私たちは皆、他人の不幸ではなく、お互いの幸福と寄り添って生きたいのだ。 私たちは憎み合ったり、見下し合ったりなどしたくないのだ。

この世界には、全人類が暮らせるだけの場所があり、大地は豊かで、皆に恵みを与えてくれる。 人生の生き方は自由で美しい。 しかし、私たちは生き方を見失ってしまったのだ。 欲が人の魂を毒し、憎しみと共に世界を閉鎖し、不幸、惨劇へと私たちを行進させた。

私たちはスピードを開発したが、それによって自分自身を孤立させた。 ゆとりを与えてくれる機械により、貧困を作り上げた。

知識は私たちを皮肉にし、知恵は私たちを冷たく、薄情にした。 私たちは考え過ぎで、感じなさ過ぎる。 機械よりも、私たちには人類愛が必要なのだ。 賢さよりも、優しさや思いやりが必要なのだ。 そういう感情なしには、世の中は暴力で満ち、全てが失われてしまう。

飛行機やラジオが私たちの距離を縮めてくれた。 そんな発明の本質は人間の良心に呼びかけ、世界がひとつになることを呼びかける。

今も、私の声は世界中の何百万人もの人々のもとに、絶望した男性達、女性達、子供達、罪のない人達を拷問し、投獄する組織の犠牲者のもとに届いている。

私の声が聞こえる人達に言う、「絶望してはいけない」。 私たちに覆いかぶさっている不幸は、単に過ぎ去る欲であり、人間の進歩を恐れる者の嫌悪なのだ。 憎しみは消え去り、独裁者たちは死に絶え、人々から奪いとられた権力は、人々のもとに返されるだろう。 決して人間が永遠には生きることがないように、自由も滅びることもない。

兵士たちよ。 獣たちに身を託してはいけない。 君たちを見下し、奴隷にし、人生を操る者たちは、君たちが何をし、何を考え、何を感じるかを指図し、そして、君たちを仕込み、食べ物を制限する者たちは、君たちを家畜として、単なるコマとして扱うのだ。

そんな自然に反する者たち、機械のマインド、機械の心を持った機械人間たちに、身を託してはいけない。 君たちは機械じゃない。 君たちは家畜じゃない。 君たちは人間だ。 君たちは心に人類愛を持った人間だ。 憎んではいけない。 愛されない者だけが憎むのだ。 愛されず、自然に反する者だけだ。 

兵士よ。 奴隷を作るために闘うな。 自由のために闘え。 『ルカによる福音書』の17章に、「神の国は人間の中にある」と書かれている。 一人の人間ではなく、一部の人間でもなく、全ての人間の中なのだ。 君たちの中になんだ。

君たち、人々は、機械を作り上げる力、幸福を作り上げる力があるんだ。 君たち、人々は人生を自由に、美しいものに、この人生を素晴らしい冒険にする力を持っているんだ。

だから、民主国家の名のもとに、その力を使おうではないか。 皆でひとつになろう。 新しい世界のために、皆が雇用の機会を与えられる、君たちが未来を与えられる、老後に安定を与えてくれる、常識のある世界のために闘おう。

そんな約束をしながら獣たちも権力を伸ばしてきたが、奴らを嘘をつく。 約束を果たさない。 これからも果たしはしないだろう。 独裁者たちは自分たちを自由し、人々を奴隷にする。

 今こそ、約束を実現させるために闘おう。 世界を自由にするために、国境のバリアを失くすために、憎しみと耐え切れない苦しみと一緒に貪欲を失くすために闘おう。

 理性のある世界のために、科学と進歩が全人類の幸福へと導いてくれる世界のために闘おう。 兵士たちよ。 民主国家の名のもとに、皆でひとつになろう。 

ハンナ 聞こえるかい
元気をお出し

ご覧 暗い雲が消え去った 太陽が輝いてる
明るい光がさし始めた
新しい世界が開けてきた
人類は貧欲と憎悪と暴力を克服したのだ

人間の魂は翼を与えられていた やっと飛び始めた
虹の中に飛び始めた 希望に輝く未来に向かって
輝かしい未来が君にも私にもやって来る 我々すべてに!
ハンナ 元気をお出し!

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8月19日。伊谷純一郎「人は誰だって快楽を求める。しかし君、男子たるもの歓喜を求めにゃいかんよ」

伊谷 純一郎 (いたに じゅんいちろう、1926年5月9日 - 2001年8月19日)は、日本の生態学者、人類学者、霊長類学者。

霊長類研究の創始者である今西錦司の跡を継ぎ、日本の霊長類研究を世界最高水準とした学者である。高崎山ニホンザルの生態研究を行い、著作『高崎山のサル』(1954年)で毎日出版文化賞を受賞した。その後、1950年代末からアフリカにおいてチンパンジーやゴリラの生態を追い続け、これら霊長類の世界に大きな社会構造が存在することを世界に先駆けて解明した。世界ではじめて野生のサルの餌づけに成功したことでも知られる。1984年に「人類学のノーベル賞」と称されるトーマス・ハックスリー記念賞を日本人として初めて受賞した。

 後年、調査対象を霊長類からヒトにまで拡大し、焼畑農耕民族や狩猟民、遊牧民などの生態を研究した。京都大学にアフリカ地域研究センターを設立し、人類学や生態学といった領域にとらわれない学問研究の流れ(生態人類学)を作った功績も大きい。

 「従容として群れを去る」というサルたちの教えに従って定年退官する直前の1990年に出した『自然の慈悲』というタイトルの第一エッセイ集には、「出自を異にする巨大な雄たちの共存を支えているには、生活を共にするもう少し若齢の雄たちとのど同性行動だ」という報告をした弟子の山際寿一君という人物が登場する。この山際寿一は、現在の京大総長の若き日の姿である。

生涯をフィールドワーカーとして過ごした伊谷は、志賀直哉ヘミングウェイの、簡潔、的確な文章を模範としてフィールドワークの観察記録の描写法とする。このフィールドワーカーは、西行芭蕉、蕪村ら旅の俳人の人生に思いを馳せる。アフリカでは「月湖西にわたり月虹東野に浮かぶかな」という句も詠んでいる。

歓喜」は 20歳の頃、生涯の恩師・小田規矩之助先生(眼科医)から言われた言葉である。それは知的エクスタシーとでも表現すべきものだろう。伊谷純一郎は、肉体的快楽ではなく、知的歓喜の世界を求め続けた旅人だったのだ。 

 

自然の慈悲

自然の慈悲

 

 

 

久恒啓一の「名言との対話」第34回のゲストは梅澤佳子先生「しなやかに」。

久恒啓一の「名言との対話」第34回。ゲストは梅澤佳子先生「しなやかに」。

 「レジャーの環境やプログラムサービス開発が専門の梅澤佳子教授の座右の銘は「しなやかに」。弾力に富み柔らかくたわむだけでなく瑞々しさも含む言葉には、どんな厳しい場面でも折れない強さが隠されている。そしてその強さは品格に繋がっている。「人生100年時代」を生きる学生の精神的な支柱に、シルバー世代が心の世界を開花させるためにも大切にしたい言葉」


久恒啓一の名言との対話第34回梅澤佳子教授2

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「名言との対話」。8月18日。金大中「この世で一番恐ろしいのは自分の眼である。鏡の中に現れる自分の眼こそが一番恐ろしい」

金 大中(キム・デジュン、朝鮮語김대중1925年12月3日- 2009年8月18日)は、韓国政治家市民活動家。第15代大統領(在任:1998年 - 2003年)。

 創氏改名でつけた日本名は豊田大中。略称は「DJ」。カトリック教徒で、洗礼名はトマス・モア。 

 汗と涙にまみれながら海運業を起こした青年実業家は、経済を生命体だと理解していた。そのまま続けていたら財閥の仲間入りを果たしたかもしれない。1961年、1954年以来落選と登録取り消しがあった5回目の挑戦で初めて議席を得る。その後も辛酸に満ち満ちた政治家生活を送る。朴正煕(パク・チョンヒ)大統領とは終生のライバルだった。心身強健なこの「鉄人」は、自動車事故を装った政権による暗殺未遂で股関節に障害を負って歩き方がぎこちなくなった。

1973年、日本滞在中の韓国野党の前大統領候補・金大中は九段のグランドパレスホテルで白昼堂々と拉致される。そして6日目に自宅に帰る。日本の主権が韓国の公権力によって侵害された事件である。その時の生々しい体験は『金大中 わが人生、わが道』に詳しく語られている。この年は私は大学を卒業し、東京に就職した年で、この事件はよく覚えている。グランドパレスはよく使うが、ここで金大中拉致事件があったのだなと思うことがある。この事件以降も、長く野党の議員であり、論客であった金大中は、時の政権からの圧迫と懐柔にさらされ続ける。副大統領のポストまで提示されたことがある。政権与党にとって危険人物だったのだ。

1992年の大統領選挙で敗北し引退を決意するが、再起し1998年には「準備された大統領」をキャッチフレーズに戦い、 民主的政権交代が韓国史上初めて実現し、大統領に就任する。アジア通貨危機直後の就任であった。金大中は21世紀の最初の四半世紀には、アメリカ、日本、中国、ドイツに続く人口7千万人を擁する世界経済五大強国になる、それを高句麗時代になぞらえて「広開土時代」と呼ぶ構想を持っていた。危機を脱した韓国はIT先進国になった。

日本の小渕恵三内閣総理大臣日韓共同宣言を発表し、韓国でそれまで禁止されていた日本文化開放を推進する。北朝鮮に対しては「太陽政策」を推し進め、平壌金正日との南北首脳会談を行った。その功績で、2000年にはノーベル平和賞を授与された。10回以上もノーベル平和賞候補であり、ようやく実現したのだ。

85歳での死去の前に「必ず政権交代を果たしてほしい。私は年老いて病気で先が長くない。あなたたちがしなければならない」と言い遺していた。この金大中の「遺言」を受けて文在寅は政界入りを決意し、8年後の2017年5月9日の大統領選挙に当選して第19代大統領に就任した。文大統領は金正恩との南北首脳会談を行うなど、金大中の遺志を継いでいる。

金大中のニックネームは「忍冬草」だった。ニンドウと読む、スイカズラの一種である。春を準備するために冬場を耐え忍ぶことからついた名である。金大中の死線を何度も越えてきた人生行路を眺めると、ふさわしいニックネームだと納得する。この人はその都度、圧迫と誘惑を戦い抜いた人である。毎日見る鏡の中の自分の眼だけは、自分の人生の折々の姿を冷徹に、ごまかしなく見ている。自分の眼はごまかせない。自分は自分の眼に恥じない生き方をしてきたか?

 

 

金大中自伝―わが人生、わが道

金大中自伝―わが人生、わが道

 

 

 

 

井上貴美子『102歳の平穏死』--平穏死は、大往生の思想である

『102歳の平穏死--自宅で看取るということ』(井上喜美子)を読了。 

102歳の平穏死

102歳の平穏死

 

 『100年人生の生き方死に方』の感想がぼちぼち手に入ってるが、この本は素晴らしい感想とともに送られてきて、読みやすくその日のうちに一気に読み終わった。

102歳で理想の平穏死を遂げた義父の看取りを時間を追って具体的に描いた本だ。著者の誠実な人柄と、人間とその死に対する深い観察で、自身が少しづつ成長していく姿がよくわかる優れた体験記である。

「平穏死」という言葉は最近耳にするが、この本を読んで考え方がよくわかった。無用な苦しみからの解放という意味で、むしろ本当の意味の尊厳死ではないかと思った。

時折、この本であらわれる感想は体験者ならではの感慨がこもっている。「人は、やろうと思うこと、やるべきことがないと、老いていくものだ」。そして「家族のことに思いを馳せながら、苦しみもなく、天寿をまっとうできれば、非常に幸せな死に方ではないだろうか」。それをどう実現するかが、大きなテーマだ。

死の間際に「仲良し時間」があらわれる。「今まで、ありがとうございます。お世話になりました」と著者が言うと、予想もしない言葉が返ってきた。「こちらこそ、ありがとう。お世話になりました」。「あまり、いい嫁ではなかったのですが、、」「そんなことはありませんよ」、、、。そして二人はニコニコしてお互いを長い間、じっと見つめ合っていた。ここがこの本のクライマックスだ。

点滴を外し、延命処置をやめる平穏死には年齢が大きくかかわるようだ。71歳、80歳だったら、平穏死はなかなか選べないだろうと著者は思う。この義父の場合は100歳を超えているので、次第に平穏死へ向かうことができただろうが、なかなか年齢による線引きは難しい。

私の尊敬していた上司も、延命はせずに家族全員が賛美歌を歌う中で、皆と手を取り合って70歳の若さで死に赴いたと聞いている。この例も平穏死を自ら選び取ったということなのかも知れない。

十分に生きて、最後は苦しまず、安らかに、穏やかに家族にかこまれて逝くことができることは大きな価値のあることである。平穏死は、まさに大往生の思想なのではないか。90代に入った母のことを考えるにも大いに参考になったし、自分の死生観にも影響があった。この本の中で触れられている「平穏死」の本も読むことにしたい。

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 大学にて。

・松本先生(地域活性化センター長):人事。

・高野課長(学長室):人事。

・渡辺さん(学長室):戦略会議「学生」の方針。

・バートル先生(国際交流センター長)

・森島課長(入試課):スケジュール

・山本さん(学長室):T-Studioの34階の名言との対話。

・樋口先生と電話:さくら舎

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聖蹟桜ヶ丘の赤坂飯店で知研の八木会長と食事。

・シン(真・進・新)知的生産の技術

・『100年人生の生き方死に方』を贈呈 

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 「名言との対話(平成命日編)」8月17日。柳原良平「つかめる夢はつかんだ。さらに夢をつくろう」

柳原 良平(やなぎはら りょうへい、1931年8月17日 - 2015年8月17日)は、日本イラストレーター漫画家アニメーション作家、エッセイスト

1950年代初頭にトリスウイスキーの広告に登場した切り絵の3等身の「アンクルトリス」は人気があり、高度成長時代にふさわしい国民的キャラクターになった。この作者が柳原良平だ。「サントリー天国」「サントリークオータリー」や、新聞に連載された「新入社員諸君。一歩踏み込め!」「沈着・冷静・果断」「一日一日を大事に使えば、必ず立派な人間になれる」など山口瞳のビジネスマンを励ます文章とマッチした絵は人気があった。私もモーレツビジネスマン時代には、こういった絵や言葉に親しんでいた。

柳原はイラストレーター、デザイナー、漫画家、アニメーション作家、エッセイストなどの仕事を存分に楽しんでいる。生涯で装丁を手がけた書籍は300冊以上。大胆なデフォルメの切り絵と必要最小限の線、そして白目の中の黒目で顔の表情の変化を的確に表現する手法だった。

この人はこども頃からの「船キチ」でもあり横浜・山手の自宅兼アトリエは海の見えるモダン建築だった。「船の画家」と呼ばれ、船会社や船の名誉船長、海のパビリオンの名誉館長、海洋関係の財団の理事など、多彩な肩書きを持っていた。東京に出るときは、夕暮れの銀座を画廊をのぞいてから食事をしながら飲み、そしてなじみの店を一巡している。

関係者の証言を眺めると、「鋭い観察眼。旺盛な仕事量。締め切り厳守。期待以上の作品」と仕事への評価は高い。船長姿でウイスキーをぐいぐいあおってバタンと倒れる姿が目撃されるなど、愉快でおおらかな人柄で慕われていた。

広島県尾道市に「「アンクル船長の館」(2009年閉館)があった。また横浜みなとみらい21地区にある横浜みなと博物館内に常設展示室「柳原良平アートミュージアム」が018年に開設されている。

冒頭の言葉は『柳原良平の仕事』の中で2001年のインタビューのタイトルである。この最後に「あと30年はがんばらなくては」と語っている。この時柳原は70歳だから、100年人生を見すえていたことになる。実際には84歳で没するが、その心意気や、よし!

 

柳原良平の仕事 (玄光社mook)

柳原良平の仕事 (玄光社mook)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日経。読売。道新。河北。京都。

 本日の日経新聞に『100年人生の生き方死に方』の大きな広告が出ていた。明日17日は、河北新報に広告がでる予定。出版社が力を入れてくれているだろう。

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「名言との対話」8月16日。沢村貞子「目立ちたがらず、賞められたがらず、齢にさからわず、無理をしないで、昨日のことは忘れ、明日のことは心配しないで---今日一日を丁寧に--肩の力を抜いて、気楽にのんきに暮らしてゆこう」

沢村 貞子(さわむら さだこ、旧字体澤村1908年11月11日 - 1996年8月16日)は、日本女優随筆家

東京・浅草生まれ。日本女子大中退。在学中に新築地劇団に入団し、左翼演劇運動に参加し治安維持法違反で2度逮捕。日活に入社し、デビュー。生涯に350本以上の映画に出演し、幅広い役柄と個性的な演技で名脇役女優として活躍した。自分の中にある部分をふくらませて、違う人間になれる女優という仕事に楽しさを見いだしていた。役は女学生、令嬢、酌婦、妾、女教師などなんでもやったところから始まった。女優は姿態と能力、加えて努力と運と考えて精を出した。主役はつぶしがきかない。沢村は脇役であればは健康で長生きしていれば、そのうちまわりが居なくなるという。沢村貞子の脇役志願は正解だったようだ。私も主にテレビドラマへの膨大な出演作品で沢村貞子の演技を楽しませてもらったくちだ。

この人は脇役という難しい立ち位置で独特の地位を得たが、一方でエッセイストとしても素晴らしい作品を残している。1977年には『私の浅草』出日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しているなど、本格的なエッセイストでもあった。多くの本のタイトルに「わたし」がつけられているように、食事や食べ物など日常生活の中での見聞や感想の納得感が身上だった。本人が言うように毎日の暮らしを大切にした下町の女だった。

1989年(平成元年)、NHKのドラマ『黄昏の赫いきらめき』を最後に81歳で女優を引退。その後は横須賀市に隠居し、執筆活動に励みながら毎日湘南の海を眺めて過ごした。87歳で没。生前の希望どおり、沢村の遺骨は先立った夫の遺骨とともに相模湾散骨された。

『私の脇役人生』を読んだが、冒頭に掲げたこの本の中にある脇役と老後の心構えに共感を覚える人が多く、それが晩年の「老い」をテーマとした4つのエッセイ本に結実している。名脇役と名エッセストの二つの役をこなした沢村貞子の生涯は見事である。 

わたしの脇役人生 (ちくま文庫)

わたしの脇役人生 (ちくま文庫)

 

 

 

 

 

終戦記念日--NHKスペシャル「ノモンハン 責任なき戦争」

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 終戦記念日の夜、NHKスペシャルは「ノモンハン 責任なき戦争」をみた。

NHKのPR:「モンゴル東部の大草原で、日ソ両軍が激戦を繰り広げたノモンハン事件ソ連軍が大量投入した近代兵器を前に、日本は2万人に及ぶ死傷者を出した。、、情報を軽視した楽観的な見通しや、物量より優先される精神主義など、太平洋戦争でも繰り返される“失敗の本質”が凝縮されていた。しかし軍は、現場の将校には自決を強要した一方で、作戦を主導した関東軍のエリート参謀たちはその後復帰させ、同じ失敗を重ねていった。、」

このドキュメンタリーは考えさせられた。、、曖昧な意思決定。重大な越境爆撃方針を参謀本部に計らず関東軍の独断。縁故・情実人事。大元帥の意向無視。若手の意向を阻止できない上司。現場の独断を止められない中央。2万五千のうち8割の2万人が死傷というほぼ全滅の惨状、未曾有の敗北。ソ連軍は5万7千のうち2万五千が死傷。圧倒的な物量に負けた。責任は参謀本部関東軍の司令官・参謀でなく現場の将校に押しつけて自決を強要。、、、、、。

情報軽視、精神主義、無責任体制。日本敗戦の失敗の本質の原型がみえる。明治憲法天皇の持つ無限責任は、補弼する人たちに人を得なければ、巨大な無責任に転落する危険性を秘めていた。責任がどこにあるか、はっきりしないというあいまいな意思決定が蔓延していた。その危険が顕在化した戦争だった。日本は2年後の大東亜戦争も開戦から終戦まで、この体質で突き進んでいる。その結果が310万人の死者と敗戦である。始めるときも、終わるときも、責任の所在ははっきりしない。戦後も「1億総懺悔」という曖昧な責任になる。戦犯を含む戦前の指導層の復活、、、。日本人自身での総括はいまだ行われていない。

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今日は多摩丘陵病院で人間ドックで検診。

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 「名言との対話」8月15日。丸山眞男自由は置物のようにそこに『ある』のではなく、現実の行使によってだけ守られる、いいかえれば日々自由になろうと『する』ことによって、はじめて自由でありうるということなのです」

丸山 眞男(まるやま まさお、1914年大正3年3月22日 - 1996年(平成8年)8月15日)は、日本政治学者思想史家

戦時中兵役に就いた丸山は参謀部情報班に転属し、連合通信のウィークリーをもとに国際情報を毎週報告。入手した情報を「備忘録」と題するメモに残している。8月6日、司令部から5キロメートルの地点に原子爆弾が投下され、被爆する。後に「上官の意向をうかがう軍隊生活は(大奥の)『御殿女中』のようだった」と座談会で述べている。1946年に雑誌「世界」に「超国家主義の論理と心理」を発表。日本型ファシズムと日本政治を分析した。1950年(昭和25年)6月、東京大学法学部教授に就任。戦後民主主義オピニオンリーダーとしてアカデミズムとジャーナリズムを架橋した。丸山の学問は「丸山政治学」「丸山思想史学」と呼ばれた。

ベストセラーとなり、大学生必読の書となった岩波新書『日本の思想』 (1961年)は、大学時代に私も読んだ。普及の速い外来思想と持続する伝統思想の対応(対決ではない)を全体としてとらえ、そのなかで個々の思想を位置づけながら、日本近代化における思想の機能を解明しようとした書である。丸山は無限の包容性とそれ故の雑居性を特徴とする日本の、思想の全体構造の発展をとらえようという難題に挑んだのだ。丸山眞男の分析は鋭く、一気に本質に迫っていく。寺島実郎が雑誌「世界」に書き続けている「17世紀オランダからの視界」と、それに先立つ20世紀を検証した論考と戦後日本を総括した論考は、この丸山のテーマを広い視界から深掘りしようし、全体図を描こうという試みであろう。

 丸山眞男の言葉から、現代にも通ずる警句をピックアップ。

「政治から逃避することが逆に政治に影響を及ぼす、という逆説

「「専門バカ」のインテリはたしかにいる。しかし「専門」さえもたない「インテリ」評論家の知性とは一体何だろう。むしろ庶民バカの方がまさること数等である」

伝統的な血縁・地縁の「である」社会から、他人との関係をとり結ぶ「する」組織への移行が日本の近代化であるのだが、その二つはごった煮になっていて、本音と建て前が共存し、その葛藤が延々と続いていると丸山はいう。

自由を賞揚する、自由を擁護する。その先に自由を行使することがある。権利の行使を怠っていると、いつのまにか自由ではなくなっていることに気づくはめになる。権利の上に眠らず、権利を日々行使し続けよ、自らを鍛えよ。丸山眞男のメッセージだを受けとめたい。

 

日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

細田守監督のアニメーション映画『未来のミライ』

細田守監督のアニメーション映画「未来のミライ」をみた。

先日、東京ドームシティのギャラリー・アーモで、「未来のミライ展--時を越える細田守の世界」をみてきたので、その仕上げである。

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細田守

1967年生まれ。」12歳、小学校卒業時にアニメーション監督を将来の夢として記す。中が校では画家を志し、風景画に熱中。15歳、文化祭で2分半のペーパーアニメーションをつくり上映。16歳、角川映画少年ケニヤ」の宣伝用イベントに先のアニメを応募し合格。上京を勧められるが学業を優先。18歳、金沢美術工芸大学に入学(油絵)。23歳、東映動画東映アニメーション)にアンメーターとして入社。28歳、演出家になる。33歳、スタジオジブリに出向。34歳、東映アニメーションに復帰。

38歳、『時をかける少女』(動員数18.6万人)。41歳、『サマーウオーズ』(動員数123万人)。43歳、スタジオ地図設立。44歳、『おおかみこどもの雨と雪』(344万人)。47歳、『バケモノの子』(459万人)。2018年50歳、『未来のミライ』。

「二千年、三千年の間に培われた普遍的な美を、アニメーション映画に応用できるんじゃないだろうか」

「いままでに見たことのない表現をつくりたい」

「自分でわかっているものは、わざわざ映画にしてもつまらない。自分でわからいことを映画によって解明したいということがあるのかもしえれない」

「どの作品もつねに、新しい何かを生み出そうという思いでバッターボックスに立っていますよ」

「時間をテーマにしたものは、作品そのものも時間の中でより多層的になっていく」 

細田守の世界――希望と奇跡を生むアニメーション

細田守の世界――希望と奇跡を生むアニメーション

 

  

細田守 ミライをひらく創作のひみつ

細田守 ミライをひらく創作のひみつ

 

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「名言との対話」。8月14日。山口小夜子「意図を排除して自分を無にすることから、本質に触れる」

山口 小夜子(やまぐち さよこ、1949年9月19日 - 2007年8月14日)は、日本ファッションモデル。

モデルを志した山口小夜子は、当時はハーフ、西洋化がキーワードであり、なかなか採用されなかったが、最後に「そのままでいい」と山本寛斎に見いだされデビューする。1972年にはパリコレクションに起用され、次いでニューヨークコレクションにも出演した。1973年資生堂の専属モデルとなる。人形師、茶会、、など日本を題材とした背景の中で神秘的な魅力を放つCMは話題になった。

黒髪のおかっぱ、切れ長の目、深紅の唇。山口小夜子のぞくぞくするような美しさは、世界中に「ジャパネスクブーム」をまき起こした。1977年にはアメリカのニューズウィーク誌の「世界の6人のトップモデル」の1人に選ばれている。この年には「SAYOKOマネキン」が世界中のショーウィンドを飾り、当時の日本人に勇気を与えている。

山本寛斎、髙田賢三、イブ・サンローラン、ジャンポール・ゴルチェら一流のファッションデザイナーに愛され、セルジュ・ルタンス、横須賀功光などトップクリエイターのミューズ(美の神)となってイマジネーションを与えるなど、山口小夜子は「日本人であること」を強く意識して時代の先端を走り続けた。

ファッションモデルだけでなく、衣装デザイナー、ダンスパフォーマー、エッセイスト、そして演劇に出演するなど表現者として多彩な活動を世界を舞台に展開した人だ。アジアン・ビューティ、東洋の神秘、スーパーモデルなど賞賛のこ声にあふれていたが、この人の私生活は謎に包まれている。

いくつかのインタビュー映像を見たが、質問にはつねに一呼吸おいて、言葉を選びながら答える姿が印象的だ。、、着ることは、生きること。気持ちがいい着方が個性。自分をなくす、そこから入り、本質に触れる。心が体を着ている。地下鉄でも、家でも、空気でも、光でも着ることができる、、。禅問答のようなやりとりが多い。

2007年に57歳で急性肺炎で独死する。2015年には「山口小夜子 未来を着る人」という展覧会が開催されており、また秋にはドキュメンタリー映画「氷の花火 山口小夜子」が公開されるなど、今なお山口小夜子は生きている。コシノジュンコは「モデルを超えた人だった。いつも一人。心の中は一人という感じの人だった」と死後に追想している。冒頭の言葉も何やら神秘的だ。「禅」の香りがする。そういえば1975年の資生堂の香水は「禅」という名前がついていたことを思い出した。最初から最後まで謎に包まれた人である。

 

 

「平成時代」--年齢・寿命・未婚・給与・小遣い・外国人

 毎日書いている「名言との対話」は、今年は「平成命日編」に挑戦し、平成時代の30年間に亡くなった人物をとりあげて書いている。彼らは実は「昭和」の人である。

平成は、「昭和の戦後」の終焉の時代ではないか、という印象を持っっている。このブログで、時々「平成時代」についても記していこうと思う。

・日本人の平均年齢:1990年(平成2年)は37.6歳。2015年に46.4歳。8.8歳上昇。

・平均寿命:1990年男性75.92歳、女性81.90歳。2015年男性80.79歳、女性87.05歳。5年ほど伸びている。

・65歳以上の高齢者のいる世帯:1990年で26.9%。2015年に47.1%。夫婦のみ・単身世帯は半数以上。

・生涯未婚率:1990年男性5.58%、女性4.33%。2015年男性23.7%、女性14.06%。

・女性未婚率:1990年20代後半40.4%、30代前半13.9%。2015年20代後半61.3%、30代前半34.6%。初婚年齢1989年25.8歳、2016年29.4歳。

・民間給与:1997年に467万円でピーク。2016年に422万円で1990年の425万円とほぼ同じ。

・小遣い:1989年は5万3000円、1990年7万7725円(ピーク)。2017年は3万7428円でピークの48%。

・在留外国人:1989年98万4455人。2016年末238万2822人。2.4倍。

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・書斎の片付け

・カラオケ:高齢者グループのエンターテイメントに。

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「名言との対話」。8月13日。下河辺淳「国土の上に絵を描くことはしても紙の上に文章を書くことはしない」

下河辺 淳(しもこうべ あつし、1923年9月30日 - 2016年8月13日)は、日本都市計画家建設官僚

 経済企画庁の総合開発局長、後に国土庁事務次官として日本の国土開発(「全国総合開発計画」の「一全総」から「五全総」まで「国土の均衡ある発展」をうたったすべての計画)を担った日本という国のプロデューサーだった人である。「ミスター全総」、「開発行政のドン」と呼ばれ、「御大」といわれるほどの影響力があった。

退任後、政府のシンクタンクである総合研究開発機構(NIRA)の理事長に就任、1992年からは東京海上研究所の理事長を務めた。1994年には国土審議会会長や国会等移転審議会委員なども歴任した。約1万4千キロの高速道路網や地方の工業拠点整備を進める新産業都市構想を打ち出した。

 1995年から1996年には首相の諮問機関である阪神・淡路震災復興委員会の委員長を務めた。1995年の沖縄少女暴行事件、米軍用地強制使用を巡る代理署名問題など国と沖縄の対立時には、普天間飛行場返還でアメリカと合意した橋本内閣の密使として、太田昌秀知事との橋渡し役を担った。

本人が書いたものは少ないが、インタビューではなかなか味のある発言が多い。

あるインタビューでは、「新幹線より豪華列車でゆっくり旅」、「豪華なホテルよりお坊さんの話を聴けるお寺」が流行る、地方の時代を予言している。

阪神淡路大震災時直後の山根一真のインタビューでは、『予想せざる事態』ではなく、『免責される限界を超えた』とし、『踏み固めていく』しかない。『技術者が口にする確率論と、個人が経験する世界とのギャップが大きい』、と述べている。

別のシンポジウムの発言を読んだが、未来への示唆に富んでいる。

・人口問題:20世紀は日本の人口が四千万人から一億三千万人近くへと九千万人口が増えた時代だが、海の近くに全部住んでくれたため山が荒れなかった。九千万人を収容した大都市は刑務所のようになった。三千五百万人の巨大都市・東京は世界に例がない。また人口が四千万人まで減っていって人間と国土の関係が回復するだろう。

・情報化社会:仕草、化粧、言葉、音楽、画像、符号といった六つの情報メディアが、人間に備わっており、人間が発する情報と、自然が発する情報とで、会話が成り立っていた。しかし、自分で情報処理が殆どできない、か弱い人間になってしまった。人間が自分で情報をつくったり、感じたりすることが殆どできない。これから大問題になる。

高齢化社会:本が世界の中で一番良い国になる条件は、年寄りが増えること。歴史、伝統、自然、人間、を知り尽くした人がリーダーであるべき世紀が来る。「良く年寄りの意見を勉強しなさい」と言えるような高齢化社会。年寄りが少ない子どもの面倒をみる社会。高齢化社会というのはもっともっと明るく語られるべきだ。

下河辺淳は、ヘリコプターで日本全土をくまなく、数え切れないくらい、空から見て回っていたと、父から聞いたことがある。また、ビジネスマン時代にNIRAの理事や官僚の後輩の人たちと接触したとき、下河辺伝説をよく聞いたものだ。冒頭の「描くのであり、書くことはしない」という意味は、国土の上に絵を描くことが自分の仕事であり、それを見てくれという決意を示す言葉と受け止めたい。

 

静かな男の大きな仕事 (福原義春サクセスフルエイジング対談)
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また、95年の沖縄少女暴行事件や米軍用地強制使用を巡る代理署名問題などで国と沖縄県の対立が深まる中、米側と普天間飛行場返還で合意した橋本内閣の密使として、当時の大田昌秀県知事らとの橋渡し役を担うなど沖縄問題にも関与した。
95年の沖縄少女暴行事件や米軍用地強制使用を巡る代理署名問題などで国と沖縄県の対立が深まる中、米
1996年の米軍普天間飛行場返還合意に絡み、橋本龍太郎内閣の「密使」として沖縄県側との橋渡し役を務めた
95年の沖縄少女暴行事件や米軍用地強制使用を巡る代理署名問題などで国と沖縄県の対立が深まる中、米側と普天間飛行場返還で合意した橋本内閣の密使として、当時の大田昌秀県知事らとの橋渡し役を担うなど沖縄問題にも関与した。