「本物に接しなさい」。「まあだだよ」。

NHKの聞き逃し配信で「ラジオ深夜便」の「明日へのことば」を聴いた。オーダーメイド紳士服店経営の安積登利夫さん。「テーラー一筋 73年」。13歳から86歳の今日まで。小僧。9割貯金。職人。技術(いい仕事)。出会い(広岡、、)。運がいい。本物を知らない(洋服、寿司)。お客さんの満足。人づくり(東京洋服アカデミー校長)。死ぬまで。、、、。

聴きながら思ったのは、迷いがない人生、一筋に追いかける仕事、いい仕事が次の仕事を呼ぶ、人生を肯定、ということだ。聴いている方も明るい気持ちになる。「技術」「出会い」「本物」「人づくり」というキーワードがあった。

中でも「本物」という言葉が印象に残った。3000件あったテーラー店は、現在では180店、その原因はという問いに、「本物を知らないから」という明快な答えだった。体にぴったり合った本物のスーツを着たことがないから、出来あいですますようになった。鮨でも回転ずしではなく、本物の鮨を食べたことがない人が多い。本物に接しなさい、という力強いメッセージだ。

夜、テレビで黒澤明監督の「まあだだよ」をみる。2回目だ。漱石門下で阿房列車が代表作の内田百随筆を原案に、戦前から戦後にかけての百閒の日常と、彼の教師時代の教え子との交流を描いている。1993年公開で、巨匠黒澤明の遺作となった。 内田百を演じた松村達雄の演技は味があってとてもよかった。百閒は教え子たちに慕われ、家までプレゼントされている。仙台の土井晩翠も同じ経験をしていていて、それが晩翠草堂になっているエピソードを思いだした。どちらも「いい先生」だったのだ。

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 コロナウイルス。今週金曜日の大学の行事が延期。そろそろ周りに影響が出始めた。

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「名言との対話」2月19日。埴谷雄高「(ライフワークは)完成しなくていい」

埴谷 雄高(はにや ゆたか、1909年明治42年)12月19日 - 1997年(平成9年)2月19日)は、日本の政治思想評論家小説家。本名般若 豊(はんにゃ ゆたか)。

日大予科中退。1931年に共産党に入党し、翌年検挙される。1945年「近代文学」創刊に参加し、人類や宇宙の全存在を問う長編小説「死霊」の連載をはじめる。ほぼ全編を、物語でなく観念的議論によって進行する世界文学史においても未曾有の形而上学的思弁小説であり、この一作で比類ない評価を受けた。1986年「死霊 全5章」で日本文学大賞を受賞。1995年「死霊」第9章を発表。50年の歳月をかけた大作であり、全12章を予定していたが4分の3の段階でついに未完におわっている。

映像の記録「ETV特集 埴谷雄高 独白『死霊』の世界」をもとにつくった「あの人に会いたい」で本人の映像と言葉をみた。「人類そのものを変えようとして書いているわけですよ」、そして根源と究極を問う。存在とは何か、自分の意味を問うことは宇宙を問うことだ。、、、。

話をするときに手に持っているもので机やテーブルを叩く癖があり、メガネを200個以上も壊したというエピソードもうなづける気迫の人という印象を受けた。1998年、『埴谷雄高全集』刊行開始し、2001年に完結。

死後、亡くなった2月19日を「アンドロメダ忌」と有志が命名した。埴谷が宇宙に強い関心を持ち、寝る前にオペラグラスでアンドロメダ星雲を眺め、思いを巡らせていたことにちなみ、本人がその名前を希望したとされる。

思想面でもスターリン批判など多様な論争を展開し、戦後世代に大きな影響を与えた。安部公房高橋和巳辻邦生倉橋由美子北杜夫加賀乙彦、立花隆、 などの新人作家の才能を発見して育成している。組織のなかでは、しばしば、罪があって排斥されるのではなく、排斥する気があってから罪がつくられるのだ」は、現実の社会に関与した人の鋭い目を感じる。

「あの人に会いたい」という番組では、「死霊」というライフワークについては、完成しなくていいと語っていて驚いた。300年後に誰かが気づいてリレーしてもらえばいいという考え方だった。それを精神のリレーと呼んでいる。そういう考え方もあるのか。ライフを人生ではなく、長い時間を意識した生命という意味にとらえた人の言葉だ。ライフワークという言葉の意味するものを広げてもらった。

「諸文明における宗教の層序学」

梅棹忠夫著作集」の以前つくった荒メモ図解を、再度本文と見比べながら仕上げていく。数枚の図が描けた。最後は「諸文明における宗教の層序学」に取り組んだが、これは簡単ではない。明日には、完成させたい。

 近所のヨガ教室で1時間。今日は8人だった。私以外は全員が若いお母さんだ。

「名言との対話」2月18日。和田夏十 「亭主は事業の一部にしか係わりのない仕事をしているにすぎないけれど、主婦は全体を取り仕切るから、これはもう事業である」

和田 夏十(わだ なっと、1920年大正9年)9月13日 - 1983年昭和58年)2月18日)は、兵庫県姫路市出身の脚本家

映画監督・市川崑の妻。本名は市川 由美子(いちかわ ゆみこ)。「和田夏十」(わだなっと)というペンネームは、東宝撮影所時代に共同執筆するために考案したペンネームだ。「和田」は茂木がNHK和田信賢アナウンサーのファンであることから、「ナット」はイギリスの二枚目俳優ロバート・ドーナットのファンだったことに由来している。しだいに妻専用の名前になっていった。

2018年に渋谷の市川崑記念室を訪問した時、市川崑の足跡には、妻の和田夏十が欠かせない人だったことがわかった。東京女子大英語専攻部を卒業し東宝撮影所に通訳としてつとめていた和田は、脚本の校正を頼まれたがきっかけで結婚した。結婚して市川崑が発見したのは、妻のシナリオ書きの能力だった。

・あの人はシナリオでも何でも書くのが早いんですよ。ほんとうに神業みたいに早いんです。

・ここのセリフをちょっと変えたいなと夏十さんに言ったら、サラサラっと書いてくれた。1行か2行のセリフでしたが、僕は神の啓示であったのかといまでも思うほど、素晴らしいセリフだったんですよ。この人はこんなのを書けるんだと思った。

ビルマの竪琴」でシナリオ賞。「炎上」でシナリオ賞、キネマ旬報脚本賞。「野火」でシナリオ賞。「破戒」で毎日映画コンクール脚本賞。「私は二歳」でシナリオ賞。「太平洋ひとりぼっち」でシナリオ賞。「私は不器用でもありますので、一作毎に全力をこめて書くということしか今のところできないのです」とも言っているが、以上の受賞歴からわかるように優れた脚本家だった。

市川崑の映画作作品が称賛されると、市川は「それは、夏十さんの功績です」と答えるのが常だった。また市川は「僕が日本映画に誇れるとしたら、和田夏十という素晴らしいシナリオライターを世に出したこということじゃないか。ほんとうに、そう思っています」と語っている。オシドリ夫婦だった。こういう夫婦もあるもあるのか。

和田夏十は亡くなる5年前に、自分の一生を第一章はケオス(混沌)、第二章の前半は亭主とシナリオ、後半は病気と亭主、そして第三章は透明としている。そして一生を振りかえって、自分の腹に落ちるのは「酔生夢死」という言葉だといいう。酒に酔ったような、夢を見ているような心地で死んでいくという意味だ。

記念室では、和田夏十の主婦をこなしながら脚本を書くすさまじい姿が印象に残っている。自分用の書斎はない。食堂、応接、台所などどこででも仕事をしている。『和田夏十の本』で編集をした谷川俊太郎は霊前に捧げた「魂の戦場」という詩の中で、「、、なじんだ椅子にまっすぐに座り 愛する者にも鋭い批評を忘れなかったひと ひんやりと小暗い台所に立って 日々を倦きずに満たした人、、」と描いている。

44歳で乳がんをは発症。18年間の闘病生活を送る。この間も「東京オリンピックなどの作品も手がけている。62歳で逝去。

「亭主は事業の一部にしか係わりのない仕事をしているにすぎないけれど、主婦は全体を取り仕切るから、これはもう事業である」と和田は語る。主婦という事業にとって亭主もシナリオ書きも一部に過ぎない。自分は家庭全体をマネジメントいるという考えだった。だから、ジェネラルマネジャーとして脚本家、母、妻という役割をこなしていけたのだろう。

 

和田夏十の本

 

原阿佐緒。兄弟妹会。坂口安吾。

 大原富枝『原阿佐緒』を読み終わった。ついでに書棚にあった書を手に取る。『原阿佐緒自伝・黒い絵具』。『涙痕ー原阿佐緒の生涯』。小野勝美編『原阿佐緒文学アルバム』。

原阿佐緒

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東京丸の内のKITTEの「過門香」で兄弟妹会。弟夫婦は、先日あのダイヤモンドプリンセス号で船旅をしたそうだ。

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「名言との対話」2月17日。坂口安吾「人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神に恵まれていない」

坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年明治39年〉10月20日 - 1955年昭和30年〉2月17日)は、小説家評論家随筆家

 新潟生まれ。東洋大学文学部印度哲学倫理学科卒業。同人誌「言葉」を創刊。1931年に「青い馬」に発表した短編「風博士」が激賞され、新進作家として認められる。戦後、1946年4月に発表した『堕落論』によって安吾時代の寵児となった。『白痴』などで新文学の旗手として脚光を浴びる。

 安吾は小説よりもエッセイが面白いと言われる。坂口安吾堕落論・日本文化私観』(岩波文庫)を読んだ。安吾の思想が直接に響いてくる。安吾の視線は本質にグサリと突き刺さる。本当のことを書いている。実に魅力がある。以下、『堕落論』『続堕落論』の言葉から。

武士道は人間の弱点に対する防壁。日本人はただ運命に従順な子供であった。特攻の戦士は幻影。人間の歴史は闇屋になるところから始まる。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。人は正しく堕ちきることが必要なのだ。堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。天皇を冒とくしながら、盲目的に天皇を崇拝しているのである。未亡人は恋愛し地獄へ堕ちよ。復員軍人は闇屋となれ。人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神に恵まれていない。すべては堕落するところから始まる。

 他のエッセイにも、人生の本質をえぐる厳しい目がある。

人生とは銘々が銘々の手でつくるものだ。人生はつくるものだ。自分だけの独自の道を歩くのだ。自分の一生をこしらえて行くのだ。単純明快、より良く生きるほかに、何物もありゃしない。文化の低いほど人は狭い垣を持つ。自我の確立、人間の確立なくして、生活の確立はあり得ない。

 宮本武蔵は平凡でありボンクラだ。西行や実朝の歌や徒然草は三流品だ。我事に於いて後悔せず、という、こういう言葉を編みださずにいられなかった宮本武蔵は常にどれくらい後悔した奴やら、、、。 尾崎咢堂は人間という大事なことを忘れている。小林秀雄には鑑定家の目しかない。、、、逆に勝夢酔や宮沢賢治には高い評価をしている。

 「偶然なるものに自分を賭けて手探りにうろつき廻る罰当たりだけ」には、物の必然などは一向に見えないけれども、自分だけのものが見える。自分だけのものが見えるから、それが又万人のものとなる。芸術とはそういうものだ」。

安吾賞という賞がある。新潟市がゆかりの安吾生誕100周年を記念して2006年に創設した賞だ。宣言書によると「世俗の権威にとらわれずに本質を提示し、反骨と飽くなき挑戦者魂の安吾精神を発揮する現代の安吾に光を当てたい。、、現代の世相に喝を入れる人物や団体に「安吾賞」を贈ることをここに宣言する。」とある。 キャッチフレーズは『出でよ、現代の安吾だ。「生き方が安吾的だ」ということで野田一夫先生が選考委員会委員長に選ばれている。第1回の受賞者は演劇の野田秀樹安吾と同じように名声に背を向けて新しいことに挑み、人々に元気を与えた。野田秀樹は、安吾の没後10カ月で生まれ「生まれ変わり」を自称していると野田先生。2回以降は、野口健、瀬戸内寂聴、渡辺謙ドナルド・キーン荒木経惟若松孝二会田誠。草間彌、佐藤優、と続いている。この賞は人選がいい。受賞者は「現代の安吾」たちだ。

「堕ちよ、堕落せよ」と安吾はいう。しかしまた、人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神に恵まれていないという。すべては堕落するところから始まる、そのことによって真実の人間になれる、という高らかな宣言が『堕落論』 であった。

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

 

 

カラダの日

・カラダの日。ジムで2時間過ごした。ヨガ1時間。ウオーキング30分。ストレッチ15分。バス15分。

・ 「全集」関係の資料作り。

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「名言との対話」2月16日。石水幸安「白い恋人たちが降ってきたよ」

石水 幸安(いしみず ゆきやす、1917年8月12日 - 1985年2月16日)は、北海道の実業家

石屋製菓創業者である。北海道深川市一已町生まれ。東亜商業学校を卒業し、戦前は南満州鉄道株式会社に勤務した。戦後、妻の郷里の広島を経て、北海道に引き揚げる。1947年澱粉加工業を始め、後に駄菓子生菓子の製造に従事。

1967年より高級菓子製造に路線を転換し、1971年最初のヒット作「シェルター」を世に出す。1976年に「白い恋人」を発売する。翌年、全日空が始めた「でっかいどう。北海道」で知られる北海道旅行の促進キャンペーンに使われ、「白い恋人」は一気に全国区へと駆け上がっていった。私は1975年の年末から数年JALの札幌空港支店(千歳)に勤務していたから、全日空の広告と白い恋人の登場のインパクトはよく覚えている。

品質保持等の観点から、販路を道内に限定する方針を取っていたことも、郷土土産の定番としても定着することに繋がった。土産品の単品売り上げでは、三重県赤福餅に次いで全国2位とされ、業界紙が選んだ「20世紀を代表する土産品」では白い恋人が1位になっている。

2017年に創業70周年を迎えた石水製菓は、2019年4月期の売上高はグループで188億85百万円、従業員は1000名という企業に成長している。企業理念は「しあわせをつくるお菓子」だ。チョコレートエンターテイメント施設「白い恋人パーク」という札幌市内にある企業ミュージアムでは製造ラインが見学できる。チョコレートの歴史を学べる資料、オリジナルスイーツが味わえるカフェ、自分だけの「白い恋人」作りが楽しめるようにもなっていて人気がある。

白い恋人」というネーミングは、石水幸安が雪の降り始めた外から帰ってきてふと口にした「白い恋人たちが降ってきたよ」という一言が決め手となったというエピソードがある。1968年にフランスのグルノーブルの第10回冬季オリンピックの記録映画『白い恋人たち』は日本でも公開された。フランスの英雄、ジャン=クロード・キリーが、アルペンスキー男子滑降、男子回転、男子大回転で金メダルを獲った大会だ。フランシス・レイが作曲した美しいメインテーマ曲は、私も20代の頃に赴任していた北海道のスキー場でよく流れていた。そのイメージに重なる商品名は味の良さに加えて、告知に大きな影響があったのだろう。ユーチューブで久しぶりに「白い恋人たち」を聴いた。青春の思い出が甦ってきた。

 

 

   
   

『長寿と画家』ーーゴヤ。ターナー。ドガ。モネ。ルノアール。ムンク。マティス。ルオー。ピカソ。シャガール。若冲、北斎。大観。守一。太郎。

  河原啓子『長寿と画家』(フィルムアート社)を読了。

長生きした画家15人の「名画」と「生き方」を最晩年から読み解いた本だ。西欧の画家と日本の画家を対象に、老境を考えるという趣旨である。著者は、アートジャーナリスト、アートドキュメント作家という肩書だ。

私は画家たちの言葉を抜き出しながら読んでみることにした。

フランシスコ・ゴヤ。82歳没。聴覚を失い半生を無音の中で過ごしたため、凝視することに集中し、画家の感性は研ぎすまされていく。「おれはまだ学ぶぞ」。

ウィリアム・ターナー。76歳没。30歳からの40年間でイギリスとヨーロッパ大陸を30回ほど旅行した。「色彩は光から生まれる」。「太陽は神だ」「わたしは無に帰る」。

エドガー・ドガ。83歳没。晩年は視力を失い彫刻に取り組んだ。「自分を舐めている猫のような、身づくろいをしている女性たちを表現したい」。「何もやりとげず、何も完結しなkった」。「有名かつ無名になりたい」。

クロード・モネ。86歳。「絵を描くとはどうしてここまで辛いのか!私は苦しみ、痛みを感じている」。「発見に至るには、しつこい観察と省察しかない」。「ああ、絵とは何たる拷問だろうか! まったく私はつまらぬ人間です」。「光はあまりにも早く過ぎ去ってしまう。私はそれをとらえたいのにいったいどうしたらいいんだ?」。「まだまだ満足できないんだ。私は傑作を制作した。、、、できない、うまくいかない。身を着るような苦闘だ」。

オーギュスト・ルノアール。78歳没。「僕はあいかわらず、実験で苦しんでいます。僕は満足できず、身を削る思いです。この気違いじみた状態が、早く終わってくれればと思います」。「裸婦ほど素晴らしい創造物はない」。「芸術は人々の真実の歴史だ。人生と理想を見出させてくれる」。

エドヴァルド・ムンク。80歳。「私は突然に死んだり、自分で意識もせずに死んだりしたくない。私はこの最後の時をも体験したいのだ」。

アンリ・マティス。84歳没。「50年以上、一瞬たりとも仕事を休んだことはありません」。「私はたえず制作しているか、さもなければ、制作の準備にかかっています」。「質が落ちたからといって、絵を描くことをあきらめねばいけないのか?どの年齢にもそれなりの美があるーーーいずれにせよ、私はいまも仕事に興味と喜びを感じている。私に残されたのはそれだけだ、、」。

ジョルジオ・ルオー。86歳没。「30年間、世の流行を追わないからって、どんなに呪詛と反対の叫びを聞いてきたことか」。「神ヨ、我を哀れみたまえ」。

パブロ・ピカソ。91歳。「結局、すべては自分に返ってくる」。「考えることは一つだけ、仕事だ」「呼吸するのと同じように描く、仕事をしているときにはくつろげるんだ」。

マルク・シャガール。97歳。「分け隔てなくなく、世界は一つだという古の人々のような感覚を取り戻すことに憧れを抱いていました」。「唯一のもの それは私の魂の中にある国。私はパスポートもなく 自分の家に入るようにそこに入る」。

伊藤若冲。84歳没。「千年具眼の徒を俟つ」。

葛飾北斎・89歳。「絵に限らず、自分の能力のなさを自覚して、自棄するときこそ上達すりときなのだ」。

横山大観。89歳没。「ソクラテスも死んだ。釈迦も死んだ。僕も死ぬ」。「無窮を追う」

熊谷守一。97歳。「石ころ一つとでも十分暮らせる」。

岡本太郎。84歳没。「年とともにますますひらき、ひらききったところで、ドウと倒れるのが死なんだ」。「自分は絵描きじゃない」。

長寿と画家  ──巨匠たちが晩年に描いたものとは?

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 「名言との対話」2月15日。大西良慶「ゆっくりしいや」

大西 良慶(おおにし りょうけい、1875年明治8年)12月21日 - 1983年昭和58年)2月15日)は、北法相宗京都清水寺貫主を務めた。

15歳で得度し、奈良法隆寺などいくつもの寺で修行を積んだ後、39歳で京都清水寺の管長となった。1965年清水寺を本山とする北法相宗を設立、初代の管長に就任する。法相宗以外の諸宗にも造詣が深く、日本宗教者平和協議会会長など仏教界の要職を歴任した。入滅まで現役の貫主であった。

1976年鹿児島県に生まれて話題となった日本初の五つ子の名付け親である。1983年、107歳で天寿を全うした。当時の男性長寿日本一でもあった。

『ゆっくりしいや』(PHP)では、最後に、清水寺貫主森清範は「書画は人なり」と「春風を以て接し、秋霜を以て自ら粛む」という言葉で大西良慶を語っている。北法相清水寺宗務長の松本は、「ゆっくりしいや」との言葉は味わいのある人生訓として深い真理を秘める、と述べている。そしてインタビュアーの野々村は、「仏様である」との感想を語る。接する人たちに大きな影響を与える人である。それが長い年月にわたって続いたから、影響を受けた人は多く、またその影響は次の世代にも及ぶだろう。こういう人を「偉い人」と呼ぶのだ。

この本では、「ゆっくりしいや」以外にも、「人間、あまり偉くならんでもええやないか」「目で笑うのは上等、鼻で笑うのは下等、口で笑うのはあり合わせの笑い方、本当におかしかったら抱腹絶倒、ハラをかかえて笑う」などが印象に残った。

また、「平凡から非凡になるのは、 努力さえすればある程度の所まで行けるが、 それから再び平凡に戻るのが、難しい」という名言もある。自身は非凡になってそのまま精進を重ね続くのが習性となっており、、「ゆっくりしいや」と人に語るが、自身はゆっくりできない性分になっているのだろう。

ゆっくりしいや

ゆっくりしいや

 

ニッポン放送「戸田恵子 オトナクオリティ」に出演収録。

ニッポン放送三菱電機プレゼンツ 戸田恵子 オトナクオリティ」への出演依頼があり、有楽町のニッポン放送本社スタジオで1時間ほどで収録をしてきた。テーマは「人物記念館」。

女優・戸田恵子が大人のクオリティ・オブ・ライフ(上質で豊な生活)をエンジョイするための「人・モノ・コト」にフォーカスする番組です。
大人の会話が弾むプチトリビア、大人が生活に取り入れたくなる情報をお届けする30分

https://www.1242.com/otokuri/

15年ほど続けている私の「人物記念館の旅」(本日現在で920館)は、成熟したオトナの旅であり、クオリティの高い旅だという視点からインタビューに答えた。オトナクオリティの旅だ。戸田恵子さんは女優、声優、ナレーター、歌手、タレントとして大活躍している女性。とても楽しかった。

ニッポン放送では、3月8日14時―14時半に放送予定。全国放送。

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 福沢諭吉宮城まり子を中心に、以下の名前を出しながら楽しく会話。

坂本九山本周五郎小林正樹渋沢栄一大山康晴松井秀喜星野仙一北島三郎吉行淳之介葛飾北斎平櫛田中松本清張土井晩翠アンパンマン。また、今年から始めた企業ミュージアムも以下を紹介。帝国データバンク、日銀貨幣博物館。世界のカバン博物館。カルタ館。

ニッポン放送 日曜14時00分~14時30分 

 ■STVラジオ 日曜9時30分~10時00分■東北放送 日曜9時30分~10時00分■北陸放送 日曜17時00分~17時30分■静岡放送 土曜17時00分~17時30分■東海ラジオ放送 日曜11時30分~12時00分■ABCラジオ 土曜23時00分~23時30分■中国放送 日曜11時00分~11時30分■九州朝日放送 日曜17時30分~18時00分 

スタジオでは武井壮江本孟紀さんを見かけた。

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大学:力丸さんにパソコンを診てもらう。

新宿:橘川さん

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「名言との対話」2月14日。山本周五郎「苦しみつつ働け、苦しみつつなほ働け、安住を求めるな。この世は巡礼である」

山本 周五郎(やまもと しゅうごろう、1903年明治36年)6月22日 - 1967年昭和42年)2月14日)は、日本小説家

4年前の2016年2月14日の「名言との対話」2月14日には山本周五郎を書いた。

  • 「人間がこれだけはと思い切ったことに十年しがみついていると、大体ものになるものだ」。頼山陽に「十年一剣をみがく」という漢詩の一節がある。不遇な生涯への不平を剣で払うといういみが込められているが、何事であれ十年の歳月を投入して自身の技を磨けという趣旨に使われる。一流の芸術家などを調べると1万時間を費やしているという研究もある。毎日3時間を10年続けると1万時間に達する。このくらいのペースで何かに打ち込むとものになるという。結婚生活も1年続くと紙婚式から始まる。2年では藁婚式、3年は草婚式、4年で花婚式、5年で木婚式、7年で銅婚式、そして10年では錫婚式となる。錫は錆びない、柔らかい性質を持ち、長く使うと表面に落ち着きがみられるという特質があるから名付けられた。少し落ち着いて長く続ける基礎が固まったということだろう。私が長く続けている知的生産の技術研究会でも30歳あたりから多くの偉い人の講演を聴いたが、「新聞の切り抜きを10年続けると本が書ける」というアドバイスを聞いたことがある。40歳に時に初めての単著を書いたが、この勉強会に入って10年経ったところだった。私のブログ「今日も生涯の一日なり」も毎日書き続けて本日で4157日となった。10年以上となったが、確かに最近は「十年一剣をみがく」という心境になっている。10年という年月は長い。途中で環境も変わるし、興味も変化していく。内外ともに移ろっていく。この中で軸足を定めてただひたすらに技を磨いていくのは生やさしいことではない。しかしそれをやっていかねばどうにもならないのは確かだ。

それから4年経った。この間、山本周五郎に関する記述がブログに多くなる。今から振り返ると、この程度の紹介では山本周五郎のことは表現できない。今日は、この4年間で書き綴った情報を並べてみることにする。

2016年2月19日大村智先生ノーベル賞受賞者)の愛読書は、司馬遼太郎山本周五郎だ。

 山本周五郎ほど箴言の多い作家は珍しい。『青べか日記』は箴言で成り立っている。人生作家。説教酒で煙たがられた。山本周五郎の人生の指針「苦しみつつ、なおはたらけ安住を求めるな この世は巡礼である」(ストリンドベリイ)「人の偉大さはなにを為したかではなく、なにかを為そうとするところにある」。山本周五郎は、小学校卒業後に東京木挽町山本周五郎商店に徒弟として住み込み、店主にお世話になった。ペンネームはそこから取った。直木賞などもすべて辞退している。この人の人生観には興味が湧く。9月末から神奈川近代文学館で始まる「山本周五郎展」は見逃せない。山本周五郎『泣き言はいわない』(新潮文庫)を読了。 

『間門園日記(まかどえんにっき)-山本周五郎ご夫妻とともに』(斉藤博子)--「苦しみつつ働け、苦しみつつなほ働け、安住を求めるな。この世は巡礼である」。『間門園日記(まかどえんにっき)-山本周五郎ご夫妻とともに』(斉藤博子)(深夜叢書社)を読了。神奈川県近代文学館で開催されている企画展を訪問する準備として、山本周五郎に関する本を読んだ。 横浜市の旅館・間門園には山本周五郎が創作の場として独居していた離れ家があった。そこで2年弱、秘書として仕えた著者の日記である。山本周五郎61歳から63歳で、著者は27歳から29歳。素顔の山本周五郎がわかる本だ。山本周五郎の日常と人生観がよくわかる。そこに絞ってピックアップしてみたい。・いわれてからするのは用ではない。・僕は物書きですから全部作品の中でいいます。・食べ物だけは「ぜいたくさせてね」・女性の出産より苦しいよ。・人生は点のように短いものだから一日を大切にするんだよ。僕の人間を見る眼を良くみておきなさい。・恵まれなかった生涯と合わせてベートーベンの作品が好き。・家庭に入ったら働いてはいけない(収入を得るな)男が駄目になる。・人間は弱いから温かい環境にいては仕事ができない。仕事を別に持って独居している。・日本酒は醸造だから体に悪い。飲むならウイスキーに。保証人の印だけは押してはいけない、お金を貸すならあげるつもりで貸すこと。・より多くの人に意味がわかって読んでもらえる本が良い。ヘミングウェイをみなさい。・女優には会わない。将来性のある男の人には話をする。・自分の作品には挿絵はいらない。・食生活で健康の90%は維持できる。・時代物を書いているつもりはない。本当のことでなければ書かない。・日本の作品は僕と島尾敏雄を読めば良い、あとは外国の作品を読みなさい。日本は島国で視野が狭いから。・人間関係ができるとその人を通じての仕事を尊重する。・酒をうまいと思って飲んだことはない、誇張していえば、いつも毒を飲むような気持ちだった。・相手のためになること、正しいと思うことは立場を無にしていうこと。・多くの人に読んでもらえる安い価格の文庫を好む。・作家を志す者は毎日書け。書く習慣をつけること。同業者が集まっても得るものがない。そんな時間があったら下町を歩いた方がよい。・お金は貯えるものではない。お金は使うためにある。・座右の銘はストリンドベーリの書「青春」より。「苦しみつつ働け、苦しみつつなほ働け、安住を求めるな。この世は巡礼である」・文壇で現役でなけれな生きていたくない。・僕には一生書き切れないテーマを持っているので時間がない。・五十を過ぎたた「ながい坂」を読んでごらん。僕の書いたもののなかで最高の作品だよ。・山本質店では物干しにござを敷いて勉強した、僕のように総て独学の作家はもう出ないでしょう。・僕の人生は失敗しなかったことが失敗だった。・政治は庶民のことは何もしてくれないから関心を持ってはいけない。

神奈川近代文学館で、没後50年記念の「山本周五郎展」が開催中だ。童門冬二が師匠と仰ぐ作家・山本周五郎1903年ー1967年。享年64)は直木賞を始め、あらゆる賞を辞退している。それは、作家は良き小説を書けば良いという人生観からきている。そして山本は純文学と大衆文芸の差は認めなかった。この作家に興味があるのは、丁稚奉公をした「きねや」の主人で父と仰ぐ山本周五郎(洒落斎)の名前を、ペンネームにしたという逸話があるからだ。物心両面で若き日を支えてくれ、「今でも本当の父と思ってゐます」と遺族に書いているように、実の父親以上に敬愛していたのだ。そのきねやは1923年の関東大震災で焼失し休業となる。このとき、文筆で身を立てようと決心する。山本周五郎座右の銘は「苦しみ働け、常に苦しみつつ、常に希望を抱け。永住の地を望むな。此世は巡礼である」。このスエーデンンの劇作家・ストリンドベリイの「青春」の言葉は、「ひどく予を鞭撻し、また慰められた」と述懐している。文学の仕事というのは、「そのときに、どういう悲しい思いをしたか、その悲しい思いの中から彼がどういうことををしようとしたかということを探究するのが文学の仕事だ」と語っている。周五郎の作品7つが教科書に載った。ひとつの作品が中学、高校のいずれにも採択為れた例は少ない。山本周五郎の小説は、生き方の教科書だ。また、ラジオ東京テレビ(TBS)では山本周五郎アワーがあり茶の間の人気を集めていた。1988年に創設された山本周五郎賞は物語性の強い作品に与えられている。第1回の山田太一から始まり、吉本ばなな宮部みゆき篠田節子江國香織京極夏彦熊谷達也天童荒太、恩田睦、伊坂幸太郎原田マハと、なかなかいい人選をしている。面白いのは、「文壇酒徒番付」(1964年1月)が貼ってあり、何と山本周五郎は東の横綱に鎮座していた。張出横綱井上靖源氏鶏太大関高橋義孝壇一雄吉田健一水上勉だった。最晩年の『ながい坂』は、人生の長い坂を一歩一歩登っていく主人公の姿に周五郎の理念の影を見出すことができるとあり、ショップで上下巻を購入した。

山本周五郎『ながい坂』(上巻)を読了。周五郎の自叙伝であり、共感を呼ぶ自己形成小説の絶品。山本周五郎『ながい坂』(上)(新潮文庫)を読了。最晩年の『ながい坂』は、人生の長い坂を一歩一歩登っていく主人公の姿に周五郎の理念の影を見出すことができる作品。総ページ数は1000頁を超える長編小説。志を持つ主人公をめぐる物語だが、登場人物の口を借りて周五郎の特徴ともいうべき人生訓が随所に散りばめられている。清廉潔白な主人公が泥にまみれながら成長していく物語。志を達成するかどうか、下巻を読みすすめたい。 「下巻」の文芸評論家・奥野健男の解説から。心して読みたい。・自分の屈辱の運命をはねのけ、その下積みから這い上がって、まともに生きようとする人間の姿を描きたい。作者は一揆とか暴動とか革命とかいうかたちでなく、圧倒的に強い既成秩序の中で、一歩一歩努力し上がってきて、冷静に自分の場所を把握し、賢明に用心深くふるまいながら、自己の許す範囲で不正とたたかい、決して妥協せず、世の中をじりじりと変化させてゆく、不屈で持続的な、強い人間を描こうと志す。・学歴もないため下積みの大衆作家として純文壇から永年軽蔑されてきた自分が、屈辱に耐えながら勉強し、努力し、ようやく実力によって因襲をを破って純文壇からも作家として認められるようになったという自己の苦しく苦い体験をふまえての人生観である。・既成秩の内部における復讐と内部からの改革の物語なのだ。・「おのれの来し方の総決算として『ながい坂』にとりかかりました。「私の自叙伝として書くのだ」とたいへんな意気込みでした。、、、そうです『ながい坂』こそ、山本さんの『徳川家康』であったのです。」(木村久に典)・日本文学においてこのくらいロマンティシズムを抑えた立身出世小説を、このくらい社会との関連において綿密に積み重ねられたビュルドウングス・ロマン(自己形成小説)をほかに知らない。・それはそのまま今日の会社員、公務員などのサラリーマンの世界に通じている。自分のつとめている企業を全宇宙とし、その中で下積みから努力し、認められ責任ある地位につき、それをよりよく勇気をもって改革し、社業の発展に自己の理想と全人生を賭けるサラリーマンの切実な心情をと生き方がここに描かれている。・『ながい坂』の主人公の生き方は、山本周五郎の作家、売文業者としての生き方、処世術の自叙伝だと思う。こういう細心な生き方をしながら、ついに裏街道や挫折から浮びあがることのできない貧しい庶民のあきらめに似た哀歓を、絶品ともいうべき短編にうたいあげている。 
山本周五郎『ながい坂』(下)を読了。奥野健男が巻末の「解説」で次のように述べている。「作者は一揆とか暴動とか革命とか言うかたちで爆、圧倒的に強い規制秩序の中で、一歩一歩努力し上がってきて、冷静に自分の場所を把握し、賢明に用心深くふるまいながら、自己の許す範囲で不正と戦い、決して妥協せず、世の中をじりじりと変化させてゆく、不屈で持続的な、強い人間を描こうと志す。」 「おのれの来し方の総決算として『ながい坂』にとりかかりました。「わたしの自叙伝として書くのだ」とたいへんな意気込みでした。」「学歴もないため下積みの大衆作家として純文壇から永年軽蔑されてきた自分が、屈辱に耐えながら勉強し、努力し、ようやく実力によって因襲を破って純文壇からも作家として認められるようになったという自己の苦しくにがい体験をふまえての人生観である。」 以下、私が共感する主人公の三浦主水主の考えや言葉。奥野健男のいうように、著者の人生観だと思う。人間はその分に応じて働くのが当然である。 人も世間も簡単ではない、善悪と悪意、潔癖と汚濁、勇気と臆病、貞節と不貞、その他もろもろの相反するものの総合が人間の実体なんだ、世の中はそういう人間の離合相剋によって動いてゆくのだし、眼の前にある状態だけで善悪の判断は出来ない。 「人間のすることに、むだなものは一つもない」と主水正は云った。「眼に見える事だけを見ると、ばかげてイタリ徒労だと思えるものも、それを繰返し、やり直し、つみかさねて行くことで、人間でなければ出来ない大きな、いや、値打ちのある仕事が作りあげられるものだ、、、」「人間は生まれてきてなにごとかをし、そして死んでゆく、だがその人間のしたこと、しようと心がけたことは残る」 いちばん大切なのは、その時ばったりとみえることのなかで、人間がどれほど心をうちこみ、本気で何かをしようとしたかしないか、ということじゃあないか、、」 人間はどこまでも人間であ利。弱さや欠点を持たない者はいない。ただ自分に与えられた職に責任を感じ、その職能を果たすために努力するかしないか、というところに差ができてくるだけだ。 しかし、今日まで自分は自分の坂を登ってきたのだ、と彼は思った。」「そして登りつめたいま、俺の前にはもっと険しく、さらに長い坂がのしかかっている」と主水正はまた呟いた、「そして俺は、死ぬまで、その坂を登り続けなければならないだろう」

三重野康日銀総裁は読書家である。読書日記をつけていて年平均80冊という。私の2017年の読書日記は84冊であるから、同じようなペースである。三重野は伝記と古典を好んだ。また山本周五郎は若い頃から愛読していた。山本周五郎にはファンが多い。ノンフィクションの沢木耕太郎もそうで、最近『山本周五郎名品館』全4巻の傑作短編アンソロジーを編んでいる。 

(神奈川県知事)は「釈尊マルクス・周五郎」を尊敬するとユーモアも混ぜながら、山本周五郎を語ることもあった。山本周五郎は偉そうな口をきく人間を心底嫌っていた。ご都合主義の「革新」イデオロギーよりも、人間の真実への「保守」を尊んだと長洲は書いている。革新知事だった長洲知事は次第に保守に傾いていく。最近、沢木耕太郎が「文芸春秋」で「山本周五郎との三度の出会い」という一文を書き、「山本周五郎名品館」四冊を編んでいることを知った。

「名言との対話」12月23日。早乙女貢会津武士の末裔としての血の意識が痛切に私の運命を支配している」。早乙女 貢(さおとめ みつぐ、1926年1月1日 - 2008年12月23日)は、日本の歴史小説時代小説作家戊辰戦争で賊軍の会津藩士であった曾祖父はアメリカにわたる。その娘の祖母から旧満州会津精神を叩き込まれた。15歳あたりで作家を志して「会津」を書くことを意識する。敗戦後、中国旧満州ハルピンから九州博多に引き上げる。1948年、上京し山本周五郎の知遇を得て師事する。1969年、「僑人の檻」で直木賞を受賞し、その後は、時代小説・歴史小説を主軸としながら、現代小説、ミステリー、歴史エッセイ、評論、紀行など多彩な創作活動を展開した。大衆文学研究賞特別賞を受賞した2003年刊行の「わが師 山本周五郎」(集英社文庫)を読んだ。尾崎四郎が「曲軒」とつけたように狷介で扱いにくい周五郎に可愛がられて、文学修行と人間修行をする。本名は1月1日生まれの太閤秀吉に因んだ鈴ヶ江秀吉である。ペンネームは若い娘に貢ぐという意味だ。師は執拗にこの名前の変更を促した。作家は作品で勝負すべきで、名前は平凡でいいという考えだったが、早乙女は応じていない。この本では身近で観察できた弟子は師の思想、日常を語っている。師を語ることは弟子自らを語ることになる。私も周五郎のファンであり、二人の作家を理解する貴重な書であった。早乙女貢は師の山本周五郎が没した3年後からこの鎮魂の書ともいうべきライフワークが始める。「会津士魂」は1970年から18年かけて「歴史読本」に連載し、62歳で7000枚13巻の長編として完結し、吉川英治文学賞を受賞する。その後、「続会津士魂」8巻も書き、2001年に33年間の歳月を費やして75歳でついに完結する。周五郎は「書かずにいられないもの」があるなら、どんな偉大な作者も及ばない独自の価値があると語っている。早乙女の場合、それが「会津」だった。早乙女貢は、敗者の側から歴史を丹念に検証していった。それを支えたのは怨念であった。

 山本周五郎は20代の前半4年間を帝国興信所(帝国データバンクの前身)で過ごしている。

 

 

 

 

 

 

山本周五郎は20代の前半4年間を帝国興信所で過ごしている。

「カルタ館」ーーたかがカルタ、されどカルタ

企業ミュージアム訪問の第3弾で、神保町の奥野かるた店「カルタ館」を訪ねた。

1階がかるた店。2階がカルタ館。カルタの世界がこれほどまでに広く、深いとはおもっていなかった。カルタを巡る歴史と地理、過去と現在がよくわかる優れたミュージアムだ。

カルタ館をつくったのは奥野一香商店2代目の奥野伸夫だ。「遊びのよろこびと皆さまとの、出会いの道しるべとなれることを願っております」ということで作ったスペースだ。2009年にオープンしている。

カルタの起源は、古代エジプト、中国説。それが欧州に伝わり、南蛮貿易で日本へ。平安時代には貴族たちは貝の内側に絵と文字を描いたものを持ちるいることもあり、それは「貝おおい」、「貝合わせ」と呼ばれた。今でいう神経衰弱だ。

1543年の種子島への鉄砲伝来が契機となって、1573年から91年、船員たちのカードゲームが日本に入った。日本の伝統的な貝合わせとポルトガルのカードゲームが融合して、現在のカルタになった。三池住貞次(ミイケジュウサダツグ)たちが日本で初めてつくり始め、天正カルタと呼ばれ、「よきものは三池」と重宝された。三池地方に住む貞次という人なのだろうか。

カルタはかけ事として面白く人々は熱中したようだ。1597年、長曾我部元親家中の士分に禁止令がでる。1618年、佐竹藩江戸詰侍8名が江戸城中でのカルタが重役に見つかり追放される。1640年、オランダ商館長・カロンが閣老の牧野内匠頭信成から調達の依頼を受ける。1648年、かるた禁止令。1722年、カルタ、賭博用品の禁。1787-1793年、寛政の改革で抑圧される。文化1804-1817年に木版いろはかるたが登場。

江戸中期の上方の「いろはかるた」が江戸へ流れ「江戸いろはかるた」が」登場する。「犬も歩けば棒にあたる」などのかるたは、「犬棒カルタ」と呼ばれている。この庶民のカードゲームは、庶民が熱中したちうことからわかるように、当時の識字率の高さを証明すものだ。

明治初期には、歌カルタ(源氏物語古今集漢詩、、)が滅亡する。1875年、西洋カルタブームが起こる。1887-1896年、子ども用かるたが登場。1898-1906年黒岩涙香が1904年に競技用かるたのルール統一し、東京かるた会が発足する。1941-1945年あたりには、戦時中であり国威発揚のために、陸軍省海軍省、文部省が後援した愛国百人一首、愛国カルタもでてくる。1945-1954年、幼稚園向けカルタが出てくる。、、、、

1階の店に張り出しているカルタ年表を眺めると、カルタも日本の歴史とともに、盛衰を重ねてきたことがわかる。一大絵巻を見ているようだ。

日本のカルタ発祥の地である福岡県大牟田市には、市立三池カルタ・歴史資料館がある。1991年開館で、大牟田の歴史資料とともに、古来のカルタからタロットやトランプも含め、内外の1万点を集めている。

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カルタは、「耳で聞いて、目で見て、体を動かして札を取る」遊びだ。「かるた時間」を持ちましょうというのが、このカルタ店のメッセージだ。

 この日は、 百人一首展をやっていた。漫画「ちはやぶる」で若い人にも人気がある。国際化も進んでいrるようで、2019年の世界大会ではフランスチームが優勝している。今では社団法人全日本かるた協会も存在している。

このカルタは、現在では驚くべき広がりを見せている。いわさきちひろ「どうわかるた」。「感染症カルタ」、かるたで学ぶ感染症宮沢賢治 木版歌留多。鼻の版画いろは歌留多。膝栗毛滑稽双六。武井武雄 幼児標準カルタ。川上澄生 とらむぷ絵。万葉かるた。俳諧かるた。陽明文庫旧蔵百人一首。漢字博士No.1。馬場雄二のことば合わせ。四字熟語合わせ。慣用句かるた。ことわざかるた。世界史かるた。バードゲーム。花おりおりかるた。上野界隈かるた。、、、、。「育脳」の世界だ。

たかがカルタ、されどカルタ、である。実に面白かった。

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「名言との対話」2月13日。鮎川義介「事業は創作であり、自分は一個の創作家である」

鮎川 義介(あゆかわ よしすけ 【通称:あいかわ ぎすけ】1880年明治13年)11月6日1967年昭和42年)2月13日)は、日本実業家政治家 

 山口県生まれ。日産コンツェルン創始者東京帝国大学工科大学機械科卒のエンジニア。芝浦製作所入社後、戸畑鋳物を設立。久原鉱業社長に就任、同社を日本産業改組日産コンツェルンとして再生させた。また、関東軍要請をうけて日産本社を満州へ移転、満州重工業開発会社に改組し、満州重工業開発株式会社総裁貴族院議員、帝国石油株式会社社長石油資源開発株式会社社長、参議院議員などを歴任した。

終戦後、日立製作所日産自動車、日立金属、日本水産などを擁する新興財閥・日産コンツェルンGHQによる「財閥解体」の対象となり、鮎川自身も準A級戦犯容疑者として20カ月間、巣鴨拘置所に収監された。獄中、鮎川は日本の復興策について考えを巡らせ、日本再生の「カギを握るのは中小企業である」との結論に至った。

容疑が晴れて出獄すると、一転して中小企業の指南役を買って出た。1952年には、ベンチャーキャピタルである中小企業助成銀行を設立する。さらに1953年には、中小企業の育成・振興を政治の側から進めるべく参議院議員となり、56年には「日本中小企業政治連盟」を結成し、総裁を務めた。

以下、『鮎川義介 日産コンツェルンを作った男』(堀雅昭)にみる鮎川語録から。

「俺は絶対に金持ちになるまい。だが大きな仕事はしてやろう。願わくは人のよく行い得ないで、しかも社会公益に役立つ方面をきりひらいて行こう」「金持ちが決して幸福なもんではない事を知ってからは、むしろ金持ちにならないで、彼ら以上に羽翼を伸ばしてみたい。その方策はあるまいかと考えるようになったのです」「日産の場合はデモクラシィを基盤とする独裁であったというのが正しい見方であろう」「民主主義を財界に現す方法として、一番適切なものは公衆株だと思う、、、理想は全株を民主化することによって企業運営の公正化を期すことにある」「犬喰わずがある。それを私は好む。、、、人のやらないことばかりやってきた。そして悦に入っているわけだ。そういう損ばかりするクセがある。、、」

極め付きは、「事業は創作であり、自分は一個の創作家である」という言葉だろう。エンジニアとして優れた能力を持つ鮎川義介は、徹底した合理主義で、経済の民主的化を推進した人といえる。ベンチャーを起こし、倒産寸前の大企業を再生させ、三井・三菱に匹敵する財閥を一代で築いた稀代の名経営者である。財閥は解体されたが、自動車、電機、水産など多くの分野のリーダー企業は今も繁栄している。忘れられた経営者であるが、この人のことはもっと深く調べる必要がある。

鮎川義介《日産コンツェルンを作った男》