『図解コミュニケーション全集』を、クラウドファンディングで刊行するプロジェクト。

1990年から取り組んできた私のライフワークを 『図解コミュニケーション全集』という形で完成させたい。今どき、私レベルの著者の「全集」を出すような出版社はないから、多くの人々からの賛同と協力を得るという形で資金調達を行おうと考え、未来フェス事務局(橘川幸夫代表)のお世話で、「グリーンファンディング」の仕組みを使って挑戦することとなった。刊行は日本地域社会研究所という出版社が引き受けてくれることになっている。

当面、第一巻のファンドを募集する。出版経費の一部の50万円が目標。募集は、500円、2000円、5000円、8000円、10000円、20000円、40000円、100000円。それぞれ、対価を用意してみた。

申し込みは下記でお願いします。

52.196.90.38

●企画趣旨
「文章地獄と箇条書き信仰」に侵されたあらゆる組織の現場では誤解と曲解が入り混じったコミュケーション不全の状態にあります。

書き手・読み手双方ともにごまかしのきく文章と、大小・重なり、関係の不明な箇条書きによるコミュニケーションスタイルんは限界があります。私はコミュニケーションロスによって3割ほどの生産性を犠牲にしているのではないかと考えています。

それを「全体の構造と部分同士の関係」をあらわすことができる「図解」を使ったコミュニケーションで打破しようとするのは一種の革命です。コミュニケーション革命です。

あらゆる組織に必要な「経営」(マネジメント)にはインフラと情報が必要であり、それは道路と車の関係です。上下左右の高速道路の整備と走る車の性能の向上が組織運営のカギとなります。文章コミュニケーションは上司という信号機の妨害があり、時速30キロ経営となっています。図解コミュニケーションはいわばETCを装備して走るのと同じですから時速100キロ経営が可能になります。

たとえば、教育分野の国語算数理科社会英語という主要5科目も、図解コミュニケーションによて一変します。読解力と作文力で構成される国語には図解が有効であり、数学の文章問題などは図を描いて解くでしょう。理科は図と式で構成されており、因果関係を主とする社会は図で説明することによって理解の視界が開けます。
そして英語も、英作文に悩むことなく、図の中のキーワードを外国語に変換するだけで世界の人たちが分かり合えるのです。
また、ビジネス現場でもプレゼンテーションや企画には図解は欠かせません。

従来のコミュニケーションの基本ソフトは文章でした。ここに新しい基本ソフトとして図解コミュニケーションを用いることによって、アプリケーションとしての様々な分野に革命が起こるはずです。図解は新しいOSです。

1990年の最初の単行本の刊行以来、30年の間に、さまざまの分野に首をつっこみ、メディア界からの注文を必死でこなしているうちに、気がつくと「図解コミュニケーション」の世界は自然に体系化されてきました。そして100冊近い著書も手に入りにくくなっており、いっそ「全集」を刊行して、いつでも手に入るようにしようと決意するにいたりました。全集の出版となると、出版社の問題、金銭的負担などの問題もあり、クラウドファンディングというやり方で、第一巻の制作に挑戦することにいたしました。皆さんのご協力をぜひお願いしたいと想います。

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第一巻のタイトルと概要
 原論編「図解コミュニケーション原論」
 1990年発刊の 「コミュニケーションのための図解の技術」(日本実業出版社)は、ビジネスにおける「文章と箇条書きによるコミュニケーションの欠陥」を克服しようと「図解コミュニケーション」という言葉を初めて使った単行本第一作です。2002年発刊の「図で考える人は仕事ができる」(日本経済新聞社)は、日本人に蔓延する病である「考える力の欠如」をどう解決するかというテーマに挑み、図解ブームをまき起こした書です。2005年発刊の「合意術ーー深堀型問題解決のすすめ」(日本経済新聞社)は、産業界、官界、学界、言論界など日本全体の課題である「社会的合意形成の方法論の欠如」に図解コミュニケーションで立ち向かった書です。
以上、第一巻は「図解コミュニケーション」史上のエポックを演じた3冊の書で構成されます。

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●全集内容
全十巻、A5版、平均600頁。市販予定価格1冊3000円

第一巻 内容 原論編 「図解コミュニケーション原論」
第二巻 内容 技術編 「図解コミュニケーションの技術」
第三巻 内容 実践編 「よむ・考える・かく」
第四巻 内容 展開編1「ワークデザイン(仕事論)」
第五巻 内容 展開編2「キャリアデザイン(キャリア戦略)」
第六巻 内容 展開編3「ライフデザイン(人生戦略)」
第七巻 内容 応用編1「世界の名著」
第八巻 内容 応用編2「ビジネス理論」
第九巻 内容 応用編3「日本探検」
第十巻 内容 応用編4「ウェブ時代をゆく

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「名言との対話」3月28日。アイゼンハワー「リーダーシップとは、自分が誰かにやってほしいことを、その人に心からやりたいと思わせる術である」

ドワイト・デビッド・アイゼンハワー1890年10月14日 - 1969年3月28日)は、アメリカ合衆国軍人政治家

連合国遠征軍最高司令官陸軍参謀総長NATO軍最高司令官、第34代大統領を歴任した。

「努力しなければ何も得られない」を信条にする母親は、「溺れたくなければ泳ぎなさい」というような示唆に富む言葉で息子たちを厳しく教育した。

凡人に終わると思われたアイゼンハワーの人生は、3人の上司との出会いで大きく変わることになる。 副官をつとめたフォックス・コナー少将。反面教師のダグラス・マッカーサー陸軍参謀総長。心酔したジョージ・C・マーシャル陸軍参謀総長

ソ連というライバルの封じ込め政策と穏健な保守路線をとり、大統領としての8年間は、平和と繁栄の時代となった。外に向かっては国際主義的外交政策コンセンサス路線をとる温和な君主であり、内にあっては命令ではなく穏やかな説得というスタイルをとり舞台をまわす首相のように活動した。信頼できる大統領であった。

「物腰は優雅に、行動は力強く」をモットーとしたアイゼンハワーは、仕事を通じてだんだん大きくなっていくタイプの人だ。「アイク」と呼ばれた愛称ににみるように、自身も凡人を自覚し、課題に取り組む中で非凡の域に達した偉大なる凡人である。この点、偉大さを演じたマッカーサーとは対極にある。

ハーバードケネディスクール(行政大学院)学長で、クリントン政権の国家情報会議議長をつとめたジョセフ・S・ナイ『大統領のリーダーシップ』(東洋経済新報社)を読んだ。歴代大統領をリーダーシップの面から比較した本である。ナイはアイゼンハワーを漸進型の目標を持ち、取引型スタイルをとった大統領だとみている。アイゼンハワーや父ブッシュなどの取引型の方が変革型の大統領よりも成果をあげたと結論付けている。

平凡な軍歴から出発しトップにのぼっていったアイゼンハワーにはリーダー論の名言が多い。3人の師を見、自身の体験が土台になっており、なかなか味わい深い。

「リーダーシップの究極の資質が誠実さであることには疑問の余地がない」「指揮官はまず楽観的であることが重要である。指揮に自信と情熱と楽観の匂いがなければ、勝利はおぼつかない」「将軍になどなるものじゃない。将軍になったら、山のように心配の種を背負うことになる」

原爆の使用を提言する部下には「君たちは頭がおかしくなっているにちがない。あの恐ろしいものを10年もしないうちに、もう一度アジア人に対して使うなどということができるわけがない」と拒否している。

「もし問題が解決できないのであれば、むしろそれを大きくしてみよう」、「重要なのは、戦う犬の大きなではなく、犬の闘争心の大きさである」がアイゼンハワーの問題解決のやり方であり、闘いにあたっての信念だった。そして「リーダーシップとは、自分が誰かにやってほしいことを、その人に心からやりたいと思わせる術である」というように、人間関係を土台に説得と忍耐というスタイルで部下を動かし、そしてアメリカと世界を動かしたのである。

大統領のリーダーシップ

 

 

 

マスク会議。

マスク会議。

多摩市・多摩信金・多摩大。多摩大学総合研究所所長として出席。来年度から始まるBS多摩プラットフォーム推進協議会の会長に選任された。

1:BS多摩プラットフォーム企画運営委員会(最終回)。創業・経営相談。ビジネス支援キャラバン隊。支援施設創業者利用補助金。BS多摩プラットフォーム推進協議会の役員選任。事業計画。

2:BS多摩プラットフォーム推進協議会(令和2年度より)。民間ビジネス支援者等実施事業の認定。

3:多摩市地域経済牽引事業促進会議(基本計画と牽引事業計画の効果検証の有識者会議)。

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「名言との対話」3月27日。黒田善太郎「面倒で厄介な仕事、カスの商売、が実は金(きん)の商売である」

黒田 善太郎(くろだ ぜんたろう、1879年2月7日 - 1966年3月27日)は、富山県富山市出身の実業家

日本を代表するオフィス用品の総合メーカーであるコクヨの創業者であるコクヨノートやファイルなどの文具、デスクやチェアといったオフィス家具など、ビジネスに欠かせない商品を多数取り扱っているトップ企業だ。

富山から大阪に出た23歳の時に働き始めたのが、和式帳簿の表紙を作る店だ。持ち前の「改良精神」を発揮し頭角を現す。1905年に独立し、大阪市に「黒田表紙店」を開業し、「表紙は黒田の表紙でなければダメだ」と評判をとる。そして表紙製造請負から、帳簿と表紙の一貫生産事業へ展開していく。1913年には様式帳簿を販売。伝票、仕切書、複写簿、便箋の製造にも進出し、紙製品メーカーとして発展していく。

現在のコクヨのホームページを見ると、会社の歴史が整理されている。創業の時代(1905-1917年)。繁栄の時代(1918-10936年)。受難と再建の時代(1937-1953年)。基盤確立の時代(1954-1968年)。業容拡大の時代(1969-1978年)。積極投資と商品多角化の時代(1979-1988年)。スピード成長の時代(1989-1997年)。企業変革の時代(1998-2005年)。再成長への模索とアジア進出の時代(2006-2013年)。創業者の善太郎は、創業、繁栄、受難と再建、基盤確立の時代を疾走したのだ。1961年、社名を「コクヨ株式会社」に変更する。コクヨは、国の誉れという意味だ。国は出身地の富山、越中を指す。わずかな成功に初心を忘れないという戒めでもあった。

天職を全うするには人の信を得ることが最も大切である。人の信を得る最善の道は、自ら誠を似て実行することである。

商売の利潤というものは、追求するものではない。利潤は、その事業が社会に貢献することによって社会から与えられる報酬である。

50年の長い間には、自分の仕事のみすぼらしさと圧迫のはなはだしさに非憤の涙を絞ったこともあった。しかしそのつど、これが自分に与えられた天職だと自らに言い聞かせてきた。
 ひ孫の現社長まで一貫して同族経営であり、その間、財界を中心に華麗で膨大な閨閥をつくっている。例えば、ワコール創業者・塚本幸一の長男で2代目社長の塚本能交の妻も一族である。こういった戦略も創業者の将来に向けた布石だろう。富山大学にある黒田講堂は、黒田善太郎の寄贈によるものだ。
創業ビジョンである「カスの商売」とは、面倒でやっかいで儲からないが、世のため人のためになる仕事をやり続けようとする考えである。人が見向かない厄介でカスとみえる仕事は、本当は金(きん)を生む仕事なのだ。コクヨは現在では、中国、香港、インド、ベトナム、タイ、インドネシアなどにも進出している。国の誉れを指すコクヨの「国」は、黒田善太郎の志であった越中を越えて、日本にまでなったようである。


安宅和人『シン・ニホン』(NEWSPICS)

話題の書『シン・ニホン』 (安宅和人)を「読了。著者は50歳を越えたところ。

以下、参考になったところ。

  • Society5.0 :狩猟社会、農耕社会、工業社会、情報社会、創造社会。
  • Society5.0 とSDGsの交点。
  • 異人:起爆人種。参画人種。応援人種。無関心人種。批判人種。
  • 知的生産:抽象化。簡単な言葉。言語による思索・解くべき課題。つなぐ。カタチにする。組み合わせる。俯瞰。
  • 具体に向かい合うコツ:全体。構想。表現。多面。何度も。
  • 日本ではほぼすべての人が体系的かつ徹底的に論理的な思考や表現す訓練を受けたことがない。
  • 人を育てる:近代・現代に偉業を成し遂げた人物の話をして考えさせる。人間の物語を知る。
  • 手を使う。

以上は、私の「図解と人物」と同じ考えだ。

  •  20歳から80歳まで広げると労働力は3割増える。

現在の生産年齢人口は15歳から65歳だが、私の「新・孔子の人生訓」の「青年期・壮年期・実年期」によって、24歳から80歳にすると3割近く増えるはずだ。考え方を変えなければならない。

以下、参考。

  • 狭き門より、入れ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこから入っていくものが多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見出すものは少ない。(マタイによる福音書第7章)
  • 最頻死亡年齢男性88歳、女性92歳。
  • 世界人口50億人、日本人口4500万人が適正。

NEWSPICSパブリッシング編集長の井上慎平の「希望の灯を灯そう。」という、メッセージが最終ページに掲載されている。「失われた30年に失われたのは希望」「新たなシステムを試行する」「1冊の本が種火」。出版社は希望の発信源になるという宣言だ。この志に期待したい。

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「名言との対話」3月26日。室生犀星ふるさとは遠きにありて思ふもの  そして悲しくうたふもの  帰るところにあるまじや」

室生 犀星(むろう さいせい、本名: 室生 照道〈てるみち〉、1889年明治22年〉8月1日 - 1962年昭和37年〉3月26日)は、石川県金沢市生まれの詩人小説家

私生児として生まれ、実の両親の顔を見ることもなく、生まれてすぐに養子に出された。高等小学校を中退し、12歳で働き始める。文学を志し20歳で上京し、以後東京と金沢を往復する。北原白秋に認められ白秋主宰の詩集『朱欒(ざんぼあ)』に寄稿。同じく寄稿していた萩原朔太郎と親交をもつ。この二人は無名時代からの親友だった。

「愛の詩集」「抒情小曲集」などの抒情詩は詩壇を牽引した。30代からは小説に転じる。初期は「幼年時代」「性に目覚める頃」を書き、そして「あにいもうと」「かげろふの日記遺文」「密のあはれ」などがある。随筆、童話、俳句にもすぐれた作品がある。

1935年にあにいもうと」で文芸懇話会賞を受賞1941年菊池寛賞1958年の半自叙伝的な長編『杏っ子』は読売文学賞を、同年の評論『わが愛する詩人の伝記』で毎日出版文化賞を受賞。古典を基にした『かげろふの日記遺文』、1959年野間文芸賞を受賞した。この賞金から翌年、室生犀星詩人賞を創設している。

犀星という筆名は、犀川の西に生まれ育ったことからつけたものだ。「美しき川は流れたり そのほとりに我はすみぬ 春は春、なつはなつの 花つける堤に坐りて こまやけき木の情けと愛とを知りぬ いまもその川のながれ 美しき微風ととも 蒼き波たあてぇたり」。犀星が育った雨宝院は犀川左岸にあり、犀星はこの川の風情と、上流に見える山々の景色とを愛した。小さな命、弱いものへの慈しみにあふれた作品が多い。私生児だった犀星は、後に「夏の日の匹婦の腹に生まれけり」という句を詠んでいる。

 2005年に軽井沢に別荘を持っていた文人の記念館を訪ねた時に、室生犀星旧居を訪ねたことがある。2007年以降、何度か金沢を訪問することがあり、金沢三文豪と呼ばれる泉鏡花記念館、徳田秋声記念館、そして室生犀星記念館を堪能した。犀星の生家跡に立つ記念館は2002年8月1日に開館している。この日は犀星の誕生日だった。

2016年に前橋の萩原朔太郎記念館で、前橋文学館が編集した「萩原朔太郎室生犀星の交流」という小冊子を読んで、二人の飾らない交流がわかった。朔太郎は「「犀星といふ男は真に不思議な恵まれた男であり、生まれながら文学の神様に寵愛されたやうな人間である」と言い、犀星は「萩原と遊ぶとセンチメンタルといふ言葉を常に新しく感ずるとは不思議なり」と語っている。

 

「私をすくうてくれた女の人は、悉くはたらく場所にいた人達である」「 永く生きて来て気のつくことは此の生き抜く以外に何もないことなのだ」

 

「われ張りつめた氷を愛す、かかる切なき思いを愛す、われその虹のごとく輝けるを見たり、かかる花にあらざる花を愛す、われ氷の奥にあるものに同感す、その剣のごときもののなかにある熱情を感ず、われはつねに狭小なる人生に住めり、その人生の荒涼のなかに呻吟せり、さればこそ張りつめたる氷を愛す、かかる切なき思いを愛す」である。これは犀星の座右の銘だ。

「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの 帰るところにあるまじや」は人口に膾炙した詩の冒頭である。「よしや うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ そのこころもて 遠きみやこにかへらばや 遠き都にかへらばや」と続く。

地方から東京にでた無数の人々がこの詩で慰められたであろう。しかし、故郷には居場所はすでにないのだ。長淵剛の歌「とんぼ」では故郷を離れ、「死にたいくらに憧れた 花の都 大東京」に出たが、それが「東京のバカヤロー」に変わっていく。もう故郷には帰れない。これも犀星と同じ心境だろう。

 


 

帝国ホテルのラウンジで「元祖ザ・クラブ」の久しぶりのミニパーティ。

帝国ホテル17階のラウンジで「元祖ザ・クラブ」の久しぶりのミニパーティ。

もう、30年以上続いている同世代の宣伝、広報畑のビジネスマンの会だ。。

今日の参加者は、サントリー小学館ニッポン放送東京ガス、ワコール、カメラマン、JALの人たち。近況を聞くと、モロッコ、タイなど海外に出かけている人など活動家が多い。みんな元気だ。私からは新著『人生遅咲きの時代』を贈呈。

秋に、京都でワコールの初代社長の自宅で記念館になっている施設でやろうという話になった。この塚本幸一が住んだ京都の自宅にこのメンバーでお邪魔したことがある。息子の能交さんが参加している会のイベントで訪ねたのだ。京都の舞妓さんたちが大勢参加した華やかな会だった。よく考えられた建物と庭の美意識に感動したことを思い出す。

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「名言との対話」3月25日。川島芳子「私は男がきらいです。男はただ女を困らすばかりですから」

川島 芳子(かわしま よしこ、1907年5月24日 - 1948年3月25日)は、清朝皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女。

8歳のとき、粛親王の顧問だった大陸浪人で満蒙独立の総帥であった川島浪速の養女となり日本で教育を受けた。20歳で蒙古族カンジュルジャブ結婚。3年ほどで離婚した。 その後、芳子は上海へ渡り同地の駐在武官だった田中隆吉と交際して日本軍工作員として諜報活動に従事し、第一次上海事変を勃発させたといわれている。戦後間もなく中華民国政府によって漢奸として逮捕され、戸籍に養女としての登録がされていなく日本人であることが証明できずに銃殺された。享年33。日中双方での根強い人気を反映してその後も生存説が流布された。

 上坂冬子の労作『男装の麗人 川島芳子伝』(文春文庫)を読んだ。上坂冬子は、戦争に翻弄され、国と国との谷間に落ちた人々に強い関心を抱き、ノンフィクションを書いている作家だ。戦争とかかわって運命を狂わせた女性についての著作が多い。

川島芳子は「東洋のジャンヌ・ダルク」」と英雄視されたこともあったのだが、世界で最も有名な女スパイとして、女スパイの代名詞的存在となったオランダのマタハリになぞらえて「東洋のマタハリ」とも呼ばれた。

 川島芳子については「絶世の美貌。貴種の血。才気と頭脳。天才。おれ、などの男言葉。軍国少女たちのあこがれ。」という賛辞がある一方で、「理想はない。独走の繰り返し。虚言癖。自己顕示欲。男性遍歴。可哀そうな女性。」という見方もある。

芳子自身の詩をいくつか掲げる。

信州の松本高女時代「長い睫毛が林なら 潤んだ瞳は泉です 泉からころころと ころげる雫が涙なら 涙の主は誰でせう」

「行く末は日本も志那もこの通りなら 何で討ったり討たれるぞ 平和の光大陸に 日本も志那も同胞ぞ」戸いう詩と傍らに2つの骸骨が並んでいる資料がある。それが川島芳子の志だった。東海林太郎が歌った「キャラバンの鈴」の作詞は川島芳子だ。

「たてもの野外博物館松本市歴史の里」の展示棟に川島芳子記念室がある。没後50周年に、芳子が少女時代を過ごした長野県松本市の日本司法博物館内に、川島芳子の書や遺品などを展示した資料室「川島芳子記念室」が開設され、芳子の女学生時代の友人や関係者が芳子のゆかりの品などを寄贈した。記念室は毎年川島芳子が銃殺された3月25日頃の週末に「川島芳子を偲ぶ会」を開催し、長野県内外から多数の人が集っている。

日本人であったが中国人として生きた李香蘭、中国人であったが日本人として活躍した川島淑子。どちらも日中15年戦争のはざまで運命に翻弄された女性である。 辞世の句は「家あれども 帰り得ず 涙あれども 語り得ず 法あれども 正しきを得ず 冤あれども 誰にか訴えん」。獄中で語ったといわれる「私は男がきらいです。男はただ女を困らすばかりですから」は、男たちに翻弄されながら、謎めいた短い生涯を送った川島芳子の本音だろう。

男装の麗人・川島芳子伝 (文春文庫)

第1回「北高川柳の会」ーー宗匠は松田君こと「不良長寿」。

15時:荻窪。猪俣君を出版社に紹介。

17時から:上野。第1回「北高川柳の会」。宗匠は松田君こと「不良長寿」。彼の住む台東区は、柄井川柳が住んだ川柳発祥の地。蔵前に碑、上野広小路の常楽院(「俳風柳多留」の版元・星運堂に近い)、東照宮に川柳の句。

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「北畔」(きたはん)へ。この店はホヤやハタハタなどみちのく東北のメニューが多い。寺山修司が愛した店。BS-TBSで日曜日夜放映の「吉田類の酒場放浪記」でも取り上げられた。座敷の衝立は先代女将とと幼なじみだった棟方志功の作品だ。やはり上野の歓楽街は人が少ない。

以下、不良長寿の夕刊フジの「ビジネス川柳」入選作品を中心に。

 出る杭を 育てたあげく 追い越され

 丸投げを したいができぬ 五十肩

 黒板に 外出と書き 映画館

 大酒飲み おなかに一軒 家が建つ

 たまの墓参 祖父は怒って 蚊に化ける

 同窓会 あなたは誰の 繰り返し

 たばこ部屋 トップとヒラの かきねなし

最近作

 森友の 正体見たり 赤木メモ

 花見まで 奪ってしまう 新コロナ

 マスク越し あいさつされて あんた誰

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朝はヨガ:1時間

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「名言との対話」3月24日。岡村昭彦「今日は、どんな発見がありました?」

岡村 昭彦(おかむら あきひこ、1929年昭和4年)1月1日 - 1985年(昭和60年)3月24日)は、国際ジャーナリスト

東京医科専門学校(東京医大)を退学処分。日本共産党の活動家として活動、医師法違反などの罪で服役する。出所後は、三池闘争、部落解放同盟への参加などを行っている。1962年パナマ通信に入社後、ベトナム戦争の取材で従軍し、1964年に南ベトナムでの報道写真が米誌「LIFE」に特集掲載されて、注目を浴びた。この作品で芸術選奨アメリカ外人記者クラブ海外者写真部門賞などを受賞。1966年、1967年に相次いで刊行した「南ベトナム戦争従軍記」とその続編はベストセラーになった。フリーになって、ドミニカ、ビアフラなど第三世界を駆け巡り、戦争の犠牲者になる民衆の姿をカメラトペンで訴えた。1986年、「岡村昭彦集」が刊行された。死後の1989年には蔵書2万冊が静岡県立大学に納められた。後に「岡村昭彦文庫」が設けられた。

岡村昭彦は、私が所属するNPO法人知的生産の技術研究会のセミナーで2度講演をしてもらっている。強烈な個性であった岡村については、知研の先輩たちからよく聞いていた。残念ながら私がまだ入会する以前だったので、直接には本人には会ったことはない。当時岡村の「南ベトナム戦争従軍記」は読んでいる。講演録が残っているので読んだ。以下、岡村昭彦の写真観。

・写真の読み方をちょっとその写真のわきにつけてやればインターナショナルに通用する記号です。

・報道写真とは、証拠力の強い写真を撮ること。

・報道写真家というものは、詩人によく似た職業だ。

・国際ニュースの世界では、、、一つの主題を二十年間追求し続けた実績がないと、そのサブジェクトの専門家としては、発言権が認められません。

岡村昭彦にはライフワークが3つあった。個人シリーズ「われわれはどんな時代に生きているのか」。「How OKAMURA gets the story」。そして、ビアフラ独立戦争における自身の失敗の記録。

講演録を読みながら、影響を受けたのは、佐野常民の孫娘であった母だったことがわかった。幼いころから「今日は、どんな発見がありました?」と毎日聞かれた。発見がなかったと答えると「なんですって?発見のないような一日を過ごしてはいけません!」と怒られた。「昭彦さん、、、! 手段で迷っているときは、目的がはっきりしていないからですよ」。新しい発見をささがすという習慣が国際ジャーナリスト岡村昭彦を創ったのだ。

報道写真家、国際ジャーナリストになっていく30代の初めまでは、この発見のために、熱血のまま手あたりしだいに社会問題に首をつっこむ無頼の日々だったようだ。ようやく人生の目的が定まって、34歳でカメラという武器を手に入れ、遅い出発ながら縦横に活躍を始める。「今日の発見」と「目的と手段」という岡村昭彦の偉い母の問いかけは響く。これは教育の神髄ではないか。自分にも日々問いかけたい。

 

 

 

立川の女性中心の企業を訪問

大学で一仕事。松本先生と日程調整も。

午後、立川のけやき出版を訪問し、小崎奈央子社長と木村さんと事前打ち合わせ。会社情報 | 株式会社けやき出版

お二人と一緒に立川の(株)シーズプレイスを訪問。https://csplace.co.jp/

森林育代社長ら女性役員らとミーティング。けやき出版の新雑誌の企業紹介の図解の監修をやることになったので、その小手調べ。2時間ほど、楽しく過ごす。創業わずか数年で80人のスタッフを抱えながら、子育て支援、創業・就業支援、男女共同参画地域活性化の各種事業を展開している勢いのある企業だ。企業の現在像、将来の方向などへのヒントが提示できたと思う。

終了後、カフェで総括と打ち合わせ。私の各種原稿の編集を手伝ってもらうことになった。

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「名言との対話」3月23日。山川均「しかし最後に笑うものがよく笑うものだ」

山川 均(やまかわ ひとし、1880年明治13年)12月20日 - 1958年昭和33年)3月23日)は、在野の経済学者で、社会主義者社会運動家思想家評論家

岡山県倉敷生まれ。同志社に学ぶ。堺利彦荒畑寒村らと1927年昭和2年)に『労農』を創刊し、共同戦線党論を展開した、労農派マルクス主義の指導的理論家であった。山川は向坂逸郎らと共に社会主義協会において非武装中立論を説き、日本社会党に強い影響を与えた。山川は復興時非武装中立論を説いたのであり、ソ連の脅威を十分に認識した上での将来的な武装を認めていた。

社会主義運動の中心人物の一人であった本人が「青年時代の大部分を獄中で過ごした」というように、20歳から51歳で第一線の運動から引退するまで、常に監獄に入っている。そして30代後半からの論文などの著述も多い。波乱万丈の生涯だったとみえるが、単調で変化のない生活であり、通りいっぺんの凡人の歩んだ平凡な道であるといい、自伝には「ある凡人の記録」というタイトルを用いている。

不敬罪巣鴨の監獄に入るまでは無軌道でで思い上がっていた。監獄の独房生活で、自分は危ない岐路にたっている無知で無能な一青年に過ぎないと気がつく。社会主義も胃の腑の問題であり、経済の問題であるとわかり、経済学史から始めて代表的な書物を年代順に読み進む。監獄は勉強にいい。本人にとっては3年半の刑期は短かすぎたそうだ。

36歳での再婚の相手は、10歳年下の山川菊枝である。日本における婦人解放運動の思想的原点となった女性である片山内閣の初代婦人少年局長。夫・山川均没後22年生きて活躍した。『覚書 幕末の水戸藩』で大佛次郎賞受賞。死去の翌年に山川菊枝賞が設立され2014年まで続いた。その菊枝は『山川均自伝』の「あとがき」で次のように均を描写している。

「無口で、気むつかしく、ウイットに冨み、鋭利な皮肉を、うっかりしていると気づかずにすむほどさりげない、デリケートないいまわしでいったりする」「堺君はタタミの上で死にたくないというが、僕はタタミの上でも死にたくないよ、とよくいったくらい、英雄的ではありませんでした」「寸鉄殺人的な彼の舌の動きは、、、名人芸」

自伝の中には思想家、実践家が多数登場する。その人物論も興味深い。幸徳秋水は、鋭いキリが柔らかなもので包まれていた。堺利彦は、崇拝の対象とするには不向きな人だった。大杉栄は、非凡であった。説よりも人物が人をひきつけた。、、、。1908年の金曜会事件下獄記念で撮影した、28歳の山川、36歳の堺、23歳の大杉の3人の写真をみると、それぞれ一廉の人物であったことがわかる風貌だ。

山川均は言う。「最後の勝利をうるまでは、おそらくわれわれは何度も負けるだろう。あるいは負け続けるかもしれない。なぜならば、われわれが負けなくなった時は、われわれが最終的に勝つ時だから。われわれは負けることによっても強くなることができる」、そして「しかし最後に笑うものがよく笑うものだ」と。

山川均自伝―ある凡人の記録・その他 (1961年)

 

世田谷文学館「六世 中村歌右衛門展」ーー美と悪とナルシズム

世田谷文学館「六世 中村歌右衛門展」。

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六代目 中村 歌右衛門(なかむら うたえもん、1917年大正6年)1月20日 - 2001年平成13年)3月31日)は、日本歌舞伎役者屋号成駒屋。戦後の歌舞伎界における女形の最高峰。

歌右衛門生涯の当たり役は非常に多く、娘形から姫、片外し、傾城、世話女房に至るまで、あらゆる女形の領域をこなした。1979年(昭和54年)文化勲章。1996年(平成8年)勲一等瑞宝章(芸能界では初の勲一等生前叙勲)。享年84。

展示によれば、「女形」は江戸幕府の始まりである1603年と同じ400年以上の歴史を

を持っている。代表作の「京鹿子娘道成寺」は、15歳から舞い納めの1988年まで1000回以上演じている。「花ごろも 舞いおおせけり 涙かな」。この作品は女形の王様である。生涯では1200回以上舞っている。

三島由紀夫は、存在の力である「美」と魅惑する力である「悪」と化合する力である「ナルシズム」と、歌右衛門を語っている。三島の原稿が展示されていたが、」修正や追記が多かった。吉井勇の原稿は殴り書きで読むのに苦労する。

 兄福助の34歳での突然の死によって、次男にお鉢がまわっきた。歌舞伎界では長男と次男との差別は極めて大きいが、歌右衛門と歌舞伎界は幸運だったのかも知れない。

 「役者は得ですね。年をとってきて、よくなるというんですから。ちょっとほかとは違う」

「芸の道は行きつく先がありません。コツコツと石を積み上げていくように、舞台以外は何もないものと思っています」

「勉強が深いか浅いかが決定的なんだ。、、掘り下げが浅いから、舞台へ出てくるものが薄い」

「競うということは芸の向上にはなによりのことであって、落ち着いてしまったら止まるんです」

 図録「六世 中村歌右衛門」で三島由紀夫は語っている。

「、、歌右衛門の、百花繚乱の熟成期に立ち会ってをり、これこそ、前代の人たちも後代の人たちも知らぬ幸福だ」と思はせるものがある。

現代で一つの宿命を引き受け、それを生き抜くことは、思ふだに至難の業で、それだけでも敬重に値する。歌右衛門女方の宿命を身に引き受けることによって、貴重な宝石のやるな存在となった。

 橋本治は、大学入学から10年間歌右衛門を見続けている。三島のいう幸福を味わった人だ。三島のいう「幸福」を次のように語る。

私は歌右衛門を見続けて、ただ「すごい、、」とだけ言い続けていた。「生きた錦絵」、「完璧な美」、「美神」、、。

「全身が”おもしろさ”で狂うようになった経験」

歌右衛門が演らなかった女は「西洋の女」だけだったと言ってもいいだろう。、、「日本の女」を、すべて一人で演じてしまったと言ってもいだろう。

歌右衛門の六十年―ひとつの昭和歌舞伎史 (岩波新書)

図録:世田谷文学館『六世 中村歌右衛門展』

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梅棹忠夫著作集』第14巻の図解化15枚まで。

ジムでスイミング:1000m。

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「名言との対話」3月22日。福田平八郎「私の絵は分かり易く言えば、写実を基本にした装飾画と言えると思います」

福田 平八郎(ふくだ へいはちろう、1892年2月28日 - 1974年3月22日)は、大分県出身の日本画家

大分中学校在学中、絵画への志を立て、京都市立絵画専門学校別科に入学し、翌年京都市立美術工芸学校に入学しなおした。同校卒業とともに、京都市立絵画専門学校に入学、卒業した。在学中に第10・11・12回文展に入選。「君は自然を客観的に見つめてゆく「ほうがよくはないか」とアドバイスを受ける。卒業の翌年、1919年に第1回帝展で入選。27歳になっていた。2回も入選。3回では「鯉」で特選、そして宮内省買い上げとなり、一躍大画家に押しあげられる。1924年、母校京都市立絵画専門学校の助教授となる。

帝展、新文展、戦後日展へと、官展を中心に活躍しつづけた。後進の育成にもあたったが、1937年、絵専の教授を辞め、制作に専念する。

1947年帝国芸術院会員となり、1961年には文化勲章を受章した。またこの年大分市名誉市民に推され、1973年には小野竹喬堂本印象らとともに京都市名誉市民として表彰された。1973年、死去。享年82。

作品は、最初厳しい写実により出発し、次第に画面は自由に簡略化され、その作風は従来の日本画にみられない独自なものとして高く評価された。代表作―「鯉」「漣」「筍」「新雪」「雨」など。

生涯「水」の動き、感覚を追究していた。「描くのに水ほど興味があり、また水ほど困難なもはない」。「水には金属的な光がある」。代表作の「漣」(さざなみ)は池面に映る水面の模様を描写した作品である「釣りに行って釣れなかったおかげで絵がかけました」という苦労話を昭和天皇に語った。肌にも感じない微風が美しい漣(さざなみ)をつくっているのをみつけた。近代日本が生んだ名作のひとつだ。銀地の屏風に群青の冴える作品。風と光を感じる作品だ。

大分市には福田平八郎画伯の生家がある。大分市には「福田平八郎賞図画展(通称「福田賞」)という名称の賞がある。

「わたしはものを見るとき、形や線よりも先に色を強く感じてしまう」というカラリスト福田平八郎は花鳥風月を好んで描いている。一見すると平板だが、美しい色で写すという独自の表現に到達した。写生に徹した装飾画の画家となった。

週刊アーティスト・ジャパン no.46 (福田平八郎)