パークライブラリーで秋を楽しむ、「後ろ姿探検隊」。深呼吸学部の講義を真面目に受講。

メンズ・ヨガ:先週は大阪に行っていたので久しぶりに1時間集中。

長池公園でパーク・ライブラリーというイベントがあり参加した。公園を読書空間にしようという素晴らしい企画。秋晴れの天気も相まって、事前広報をしていないのに、人が集まっていた。「図書館まつり」で数冊無料で入手。犬を連れた近所の人と雑談の時間。写真は「後ろ姿探検隊」の視線で。

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夜はYAMI大学深呼吸学部の12回目。3時間という長丁場。23人。橘川さんの講義も佳境に入っている。

時のたまねぎ。三島と全共闘高倉健天皇社稷昭和維新の歌「権門上に倣れども国を憂うる誠なし、財閥富を誇れども社稷を憂う心なし」。「達人伝」。個別性と普遍性の振り子。日本映画ははみ出し者、義理と人情がテーマ、フランスはすけこまし、アメリカは警官と軍隊、イギリスは詐欺者と精神病。音の芸術は黒人、空間の芸術は白人。蒼天航路(漫画)。美智子皇后「お返しします」。京都の呉服屋は天皇の情報機関。大本教出口王仁三郎となお。エスペラント語植芝盛平の合氣道。前田比良聖。亀岡。明智光秀の地。正倉院を荒らした信長。神習教。桜神宮。五百羅漢字。病疫と江戸っ子。病疫と火事から逃れて3代目。曼殊沙華。墓に植えると毒を恐れて犬がこない。4学科説明会。11月24日に三島でイベント。旅芸人一座。行く年来る年で一文字。11月10日、デジタルエンターテイメント研究会。現代の論語。人と会ってきただけ。柳田国男「お変わりありませんか」。ドラッグ。天狗。カルト。病疫と文化。、、、、

私からは「西田幾多郎の井戸。日本について、新渡戸稲造二宮尊徳森嶋通夫林房雄」 など。f:id:k-hisatune:20201024235039j:image

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「名言との対話」10月24日。八千草薫「まあまふうふう」

八千草 薫(やちぐさ かおる、1931年1月6日 - 2019年10月24日)は、日本の女優

 大阪府出身。47年に宝塚歌劇団入団し、1952年『源氏物語』の初演で可憐で無垢な若紫を演じ、絶大な評判と人気を博した。清純で可憐な娘役として一世を風靡し、雑誌企画の「お嫁さんにしたい女優」で何度も1位に選ばれた。

宝塚退団以降、1972年『男はつらいよ 寅次郎夢枕』、2002年ドラマ『東京物語』、2009年『ディア・ドクター』など話題の映画ドラマに多数出演した。

2003年、『旭日小綬章』を受章、04年、『阿修羅のごとく』で『第27回日本アカデミー賞』で優秀助演女優賞。主な出演作品には、ドラマ『岸辺のアルバム』『妻が浮気をするとき』など。

 1997年紫綬褒章受章(66歳)「いつもなんか、正直な気持ちで芝居をしたいと思っていまして。本番に入る前には「素直な気持ちになって」って自分で言い聞かせてやるんですけどね」
2003年旭日小綬章受章(72歳)「私あまり理屈でいろいろ考えるタイプじゃないと思うんですね。なんか感覚的、動物的っていうのか、動物的嗅覚というか、そういうので役を捉えちゃうところがあるんですね」

2013年( 82歳)「時々つらいことや悲しいことがあっても、 それを楽しく少し気分を変えてやればいいんじゃないかなと思って。そういうつもりで、いつも楽しく暮らしております」

映画は、1951年の「宝塚夫人」から、2015年の「ゆずり葉の頃」まで、テレビドラマは、1960年「愛妻物語」から、2019年の「やすたぎの刻」まで、膨大な仕事量だ。

亡くなる直前の2019年の新緑の季節に刊行した『まあまあふうふう。』は、八千草薫の人生観、仕事観をつづったもので、私も読んでみた。中国の「馬馬虎虎」(まあまふうふう)の「いい加減」にいう意味のタイトルだ。20歳年上の映画監督の谷口千吉と26歳で結婚し、谷口が95歳で亡くなるまで50年を過ごしている。「馬馬虎虎」も夫のアドバイスだった。

『まあまあふうふう。』。日々の暮らしでは「ま、いいか」「ユーモアを添えて」、、。芝居のことは「欲がないからこそ丁寧に」「私らしさに執着しない」「ちょっとだけ怠けない」、、。歳をとることでは「何も遺さずに」「迷惑をかけるようになったら、、」、、、。「あとがき」では「小さなところで、幸せに、楽しく」。読んでいて自然体のゆっくりした人柄を感じ、こちらも幸せな気分に浸れる。また、夫婦での朝の散歩での会話を大事にしていた。私も同じように思っている。

遺作となった「やすらぎの刻」でも八千草薫らしい演技が記憶に残っている。八千草薫という女優は「良い加減」に人生を全うした人だ。

 

まあまあふうふう。

まあまあふうふう。

  • 作者:八千草 薫
  • 発売日: 2019/06/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

合同歌集『紫苑』(選者 久恒啓子)ーー「命つきるまで、人生を、日常を、家族を、現代社会を歌い続けていこうではありませんか」

21人の合同歌集『紫苑』を読んだ。「歌はいい」と改めて感じる歌集だった。

選者・久恒啓子の「はじめに」は、「年を重ねると人生から学びとった深い想いを詠えるはずです。それらを表現して、命つきるまで、人生を、日常を、家族を、現代社会を歌い続けていこうではありませんか」とのメッセージだ。

久恒啓子「風のいとなみ」から。(「子」は私です)

・憶良らも旅人も梅香の宴より「令和」と決むとはゆめ思ふまじ

・「韋駄天の」ドラマに映る東京高等師範(こうし)亡き父の通ひし登り坂見ゆ

・今際のことは思はず明日のみを考えよと子に言はれたりさうかも知れず

・次の世もこの二男一女の母でゐたし古きアルバム捲りつつゐて

・「出身は福澤諭吉の中津」と子カメルーン中津江村かと聞かれ

・「啓坊」と幼名にて起こす盆休み古稀同窓会に帰省せし子を

近藤恭子「一粒の真珠」から。(「夫」は私です)

宇野千代の着物の柄を描くように濡れし舗道に桜散り咲く

・母危篤の知らせに駅へ急ぎ行く空はこんなに何故青いのか

・来年も見られるかねと言う母の髪にふわりと花びら散りく

・紫のネオンをまとう東京タワー貴婦人のごと街を見下ろす

・読みさしの本重ねたる枕辺に今朝くずれ落つ子規も茂吉も

・良き歌を詠みたし今日も一粒の真珠のごとき言葉を探る

・眠られぬ夜などなしと言う夫の艶やかな顔うらやみて見つ

・携帯で見えない人と繋がる夫目の前のわれと係りもなく

・「うん、うん」と条件反射の生返事夫は手元の活字を追いて

・隣室より聞こゆる夫のしわぶきに編む手をやめて耳をすましぬ

・発表会にわたしが歌う「アヴェマリア」口遊(ずさ)みいる休日の夫

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植山恵美子・万葉集の庶民に光をあてし師の訪ひし歌の地文献あまた

植山ヒロ子・白鷺の舞ふ下り水面(みのも)の影うつし後継者なき田をゆっくり歩む

岡野公子・友の家捜しあぐねてふと見あぐつるし柿ありここぞ友の家

尾坐新子・大樹なるあふちの花房ゆらぎをり万葉集の師送りゆく道

黒川厚子・投票をすませて庭の草取りす雑念もともに抜き去りてゆく

後藤マサエ・ルノワールの「浴女たち」とふ乙女らの肥満度に吾の安堵をしたり

佐田正子・去年逝きし老いの空家に真白なる鉄線咲きぬ仏花のごとく

自見則子・此処にいたよと玄関口に足跡を残して帰り行きたり子らは

田中清美・仕合せはささやかくらゐでちやぅどいいたとえば笑ってごはん食べたり

恒成美代子・『豆腐屋の四季』の舞台の消え失せて松下竜一の下駄の音聞こゆ

友松扶美子・文化の日に祝われる人は二十六名短歌学びいる啓子氏もいる

長岡玲・夫の古希祝ってくるるは教え子ら離れ住む子は知るや知らずや

中島陽子・朝の床手足の動き確かめて今日のひと日を大事に生きむ

不二夫かかつよ・柚子ちぎり香り散らして落ち葉掃くこの一時を惜しむ日も来む

古田たきえ・才あらば仕上げて見たし亡き夫の描きし油絵の未完成品

水野妙子・熊本の地震は大地を切り裂きて行く手に伊方原発がある

三原養子・少女のごとき微笑み見する横松さんの遺影の「前に涙ぬぐひぬ

山本玲子・郷土史を語る友逝く糟糠の妻に感謝の言葉なきまま

横松知子・亡き夫の著書読みふけり居て真夜三時活字が夫の声にかわり来

「おわりに」。後藤マサエ「いつも的確に短歌の批評を頂き、頭脳明晰の上豊かな情感を持ち合わせて、またこの合同歌集の選者として本を組んで頂いた久恒啓子先生へお礼申し上げます」。

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「立志人物伝」の5回目の授業。「敵・ライバル」がテーマ。

岡本太郎ピカソを中心に講義。他は、三島由紀夫川端康成ゲイツとジョブス。大鵬柏戸。 以下、前回4回目の課題レポートから。


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昼休み:樋口先生と久米先生。大森拓也先生

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「名言との対話」10月23日。宋美齢「もしわたしを捕まえようとしたら、あなた、すぐこれでわたしを撃ってね」

宋 美齢(そう びれい、ソン メイリン1898年3月4日(1898年2月12日1901年など諸説あり) - 2003年10月23日)は、中華民国の指導者蔣介石の妻。

客家の宋耀如の娘たちは 「宋氏(家)三姉妹」と呼ばれた。長女宋靄齢は孔子末裔で財閥の孔祥熙夫人。次女宋慶齢は、孫文夫人中華人民共和国副主席三女宋美齢は、蔣介石夫人。孔祥熙宋慶齢はともに日本で孫文の秘書をつとめ、ともに日本で結婚式をあげている。中国では宋家の三姉妹について、1997年の映画『宋家の三姉妹』の影響から「宋靄齢は金を愛し、宋慶齢は国を愛し、宋美齢は権力を愛した」と評されることがある。

宋美齢アメリカのウェスリアン女子大学卒業。 1927年蒋介石と結婚。 1930~32年国民政府立法委員。 1938年婦女協会新生活運動理事長。第2次世界大戦後訪米してアメリカの対国府援助引き出しのために活躍した。 1946~50年国民党執行委員。 1950年国府の婦女反共抗俄 () 連合会会長。 1969年党第 10期中央評議委員。1975年蒋の死後、後継者は異腹の蒋経国となり、主としてアメリカに滞在し政治活動を行った。

1943年のアメリカ下院での抗日の演説、そしてカイロ会談での蒋介石の通訳として活躍した。アメリカと蒋介石を結んだ功績は大きいものがある。1981年には宋慶齢が危篤となり、中国は帰国しての見舞いを誘ったものの、断っている。

1936年 12月西安事件では、張学良軍に捕らえられ、監禁されていた蔣介石の解放に向けて自ら西安に飛び、側近に「もしわたしを捕まえようとしたら、あなた、すぐこれでわたしを撃ってね」語った。張学良との会談を行い蔣介石の解放へ向けた折衝を行い救いだした。そして蔣介石に張学良軍や中国共産党軍との「統一戦線」の構築(国共合作)による抗日を訴えて実現させている。宋美齢は覚悟の人だった。その宋美齢は106歳のセンテナリアンであった。

私は中国の上海と広州の孫文記念館、神戸の孫文記念館、中国青島の蒋介石の旧居、台湾の国立国父紀念館(孫文記念館)、中正紀念堂(蒋介石記念館)、北京の宋慶齢故居などを訪ずれたことを思い出すが、宋美齢は、波乱万丈の劇的な生涯を記す回顧録も残すことを拒否している。

 

 

3冊の新刊本が到着ーー『名言の暦 平成命日編』『憲法改正』『紫苑』

今日はやけに新刊本が届く日だった。

まず、本日発行の私の『名言の暦 平成命日編』が10冊。

次に猪俣範一氏の『憲法改正』が8冊。

最後に、母・久恒啓子選『紫苑』という歌集が19冊。21人の合同歌集で妻の「一粒の真珠」50首も入っている。

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憲法改正』では、本の中の「特別寄稿」と表紙の「推薦の言葉」を書いている。これは初めての経験だ。以下、「特別寄稿」の「知の沃野に立つ」。

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猪俣範一さんは、60歳までは大企業の幹部として国内外で活躍したビジネスマンでした。退職後は1人で別荘に住み、それまでの鬱憤を晴らすようにゴルフ、釣り、麻雀という遊びに没頭する余暇を楽しむ趣味人として時間を重ねました。そしてここ数年にわたって目的をもって体系的に読書を重ね、この本の刊行をもって、「憲法改正」という分野に、一つの旗を立てるまでになりました。

膨大な資料を読み込み整理し理解し、その上で自分なりの考えをまとめ、そして体系的に文章を書いていく。このような1冊の本を書き下ろすという作業には、強い知的体力が要求されます。この段階を突破した今、彼の眼前には豊かな沃野が広がっているでしょう。その道を歩むたのしさをさらに求めていくことになるでしょう。

この本の結論ともいうべき第8章の「国民の・国民による・国民のため」の憲法改正では、さまざまな議論のあるこの問題の解決への具体的なアプローチが示されています。その論述には現代日本の大きな課題である「社会的合意形成」に踏み込もうとする気概を感じることができます。この本を材料にして憲法に関する議論が深まることを期待しています。

猪俣さんの力作の誕生は、人生100年時代をいかに生きるか、このテーマに立ち向かおうとする一つのモデルのさきがけとなったのではないでしょうか。長く親交を重ねてきた友人として嬉しく思っています。 

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大学

・授業準備

・総研ミーティング

・久保田先生

・山本さん

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「名言との対話」10月22日。緒方貞子「国の内外を問わず、自分で歩いてみることを、若い世代にすすめます」

緒方 貞子(おがた さだこ、1927年昭和2年〉9月16日 - 2019年令和元年〉10月22日)は、日本国際政治学者

聖心女子大英文科卒。ジョージタウン大学国際関係論修士課程修了。カリフォルニア大学バークレー校博士課程修了。国際基督教大学准教授。上智大学教授、外国語学部長。この間、50歳前の1976年から国連日本代表部公使、外務省参与なども断続的に経験している。

そして1991年64歳から国連難民高等弁務官としてクルドサラエボルワンダなど長い間世界の難民支援活動に取り組み、その後2002年にはアフガン復興支援国際会議の共同議長、そして日本の国際協力の総本山であるJICA(国際協力機構)の理事長を2003年から2011年まで長く務めた人である。

緒方貞子という生き方』という本があり読んだが、この人の働く姿には魅力があり、頭が下がる思いをする。国連難民高等弁務官以降の緒方貞子の足跡を追うと、難問と大問題との格闘の歴史であるとの感を深くする。
あらゆる国々の首相や大臣、あらゆる機関のトップ、こういう人たちと毎日会いつづけ、世界の様々の機関や大学での講演を重ね、現地で難民と接していく。国際紛争や内紛で生じた数百万人の難民を保護するために、問題を解決しようと時間と労力と人脈を駆使していく。国連難民高等弁務官事務所の本部はスイスのジュネーブにあり、職員総数は2000人。4分の3は現地で活動している。任務は、保護と救済である。

2002年には小泉純一郎首相に更迭された田中真紀子外相の後任に擬せられたが、本人は断っている。2003年(76歳)から2012年3月末まで緒方貞子がトップをつとめていたJICAは1.2兆円の規模を持つ日本の重要な世界貢献の本拠である。政府開発援助(ODA)の二国間援助の中心的役割を果たしている。2011年の東日本大震災では世界各国から援助の手が差し伸べられたが、それは緒方JICAの果してきた世界への影響の一端を示すものだと思う。緒方貞子理事長在任中にJICAの専門家派遣事前研修に数年間私も講師という形で関与したことに誇りも感じる。

曽祖父は犬養毅、祖父は外相、母は犬養道子安藤和津の従妹。日銀理事だった夫は、緒方竹虎の三男。竹虎の祖父は緒方洪庵と義兄弟の盟を結びその姓を名乗った。名門の出である。貴種性が宿っているのだろう。

国連難民高等弁務官就任以降の活躍に、世界各国からの感謝が栄典という形で贈られている。以下のように並べてみると、日本の文化功労者文化勲章の光も色が褪せる感がある。1993年 : イタリア金の鳩平和賞。1994年 : 自由賞(自由主義インターナショナルより)。1995年 : フィラデルフィア自由賞1997年 : マグサイサイ賞平和・国際理解部門。2001年 : 文化功労者。2001年 : インディラ・ガンディー賞。2001年 : ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章。2001年 : レジオンドヌール勲章コマンドール。2001年 : イタリア共和国功労勲章カバリエーレ大十字。2001年 : スウェーデン北極星勲章コマンデール第1等級章。2001年 : ロシア友好勲章。2002年 : フルブライト賞。2003年 : 文化勲章。2004年 : 東京都名誉都民。2005年 : 世界市民賞。2008年 : オラニエ・ナッソー勲章グラントフィシエ章。2009年 : 第3回後藤新平賞(後藤新平の会主催)。2011年 : 聖マイケル・聖ジョージ勲章デーム・グランド・クロス(GCMG)。2011年 : キルギス共和国ダナケル勲章。2012年 : 地球市民賞(大西洋評議会)。

緒方貞子は「小さな巨人」とも言われている。天命に沿って使命感を持って60代から10単位という長い時間を問題解決に捧げ、少しづつ前進していく姿は神々しい。以下、「私の仕事--国連難民高等弁務官の十年と平和の構築」(緒方貞子草思社)から。

  • 中央からの柔軟な調整と、現地における実施機関の対応能力の強化が、問題解決の鍵か。
  • 経済制裁は、弱い人を苦しめる。
  • 日本は、経済大国から人道大国になってほしい。
  • 体系的に理解するというのは、答えを持っているということではなく、何が問題なのか質問ができる、ということではないでしょうか。
  • 湾岸戦争後、国連平和維持協力法を成立させ、国際協調主義的な姿勢を示し、アンゴラカンボジアモザンビークゴラン高原、リワンダ、などに自衛隊を派遣した。その後、90年代の不況によて日本の指導者層は内向きになっていった。
  • 人間は仕事を通して成長していかなければなりません。その鍵となるのは好奇心です。常に問題を求め、積極的に疑問を出していく心と頭が必要なのです。
  • 日本人は意識的に世界各地にある厳しい状況に関心を寄せ、身を置く努力をしなければならないのではないでしょうか。
  • コンセンサスというのは、自然に形成されるものではなく、強力なリーダーシップで引っ張って初めて、形になるものなのです。

影響を受けた緒方チルドレンは世界中にいて、緒方貞子に学んだ現場主義を実践している。緒方貞子は内向きになっていく日本の指導層にも警鐘を鳴らし、そして若い世代には「国の内外を問わず、自分で歩いてみること」を提唱している。何でもみてやろう、何でもしてやろう。安住をやめて、激動する世界を知ろう。そして広がりをもった国になって、世界から尊敬される日本になって欲しいという願いである。 「緒方貞子という生き方」は強いメッセージとなって生き続けるだろう。

 

 

 

図解塾の第5講は、「私の仕事」の発表会。

図解塾の第5講。「私の仕事」の発表会。 

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  • 久恒啓一の図解塾:自分の仕事を図解する】。今日は受講生が創った自分の仕事の図解をみんなでシェアしながら相互アドバイス。みなさんの発表と久恒先生のフィードバックをお聴きして、私のこの図をゼロから創り直すことを決意いたしました。このままでは、ただ膨張しているイメージで、どこに向かおうとしているかわからないことに気づいたからです。また次回で入門編を終える図解塾の今後について。さらに技術を学んだあとで、大きなプロジェクトに有志で取り組もうという話になりワクワクしてきました。いくつかのテーマが提示されましたが、どれも面白そう。私の頭もはやく図解脳になれるよう修練しなくては。
  •  本日もありがとうございました!柳生さんのお子様が無事に誕生されますように!以下、本日の感想です。冒頭に久恒先生がお話しされていた技術(誰しもが訓練すれば一定レベル)↓道場("道"学んだ事を日常や人生で活かす)↓鍛錬(刀を叩き、水につける、千日、万日)↓プロジェクト、図解革命(SDGsなど)↓図解革命、各業界の発表↓世界に発表、誰もやった事ない事が、新しい"時代"や"技術"へ繋がっていき、サイクルになっているのかなぁと感じました。講義を終え、いろいろ考えていると"教育の目的は、社会の役に立つこと"という理念は、皆様の発表や個人が得意としていたり極めていく部分をまめ、次の世代に紡ぎ、またその繰り返しのマンダライゼーションサイクルなのかな…などと色々考えてしまいました。皆様の図解を学びさせて頂きながら、自分のプロジェクトや企画している事に落とし込み、分かりやすい図を創って行きたいと思います。至らない点が多々あり、お恥ずかしいですが来週、発表させて頂ければと思います。今後とも宜しくお願い致します。本日もありがとうございました。
  •  本日もありがとうございました!図を発表したことで、皆様に応援してもらえた実感があり興奮して話してしまいました。ご意見をいただき、新たな視点をいただけました!思いつかない事でした。ありがとうございます!頭を柔軟にさらに図を進化させていきたいと考えております。意見をいただことは緊張しますが学びが大きいですね!私が先日ズームで行った起業講座では、参加者に図を描きながら自分自身を振りかえっていただきました。参加者がキラキラしながら自分の好きなことを思い出してくださり感動。(まだキーワードがメインですが)胸が熱くなり、これは必要とされている技術なんだと確信しました。参加者は図があると発言しやすそうでした。頭で考えると言うより、まず紙に書き出す。それだけでも癒やしがおきたそうです。久しぶりにワクワクした感覚を思い出したとのこと。次回はキーワードを関連付け、一枚にまとめ上げることで頭の中が整理されていくように挑戦してもらおうと思います。人に伝える図は、もしかしたら小学1年生の娘でもわかるような図が出来たら完成度の高い図なのかもしれませんね。娘に説明してみようかと思いました。図解を拝見し、皆様が日々頑張っておられることを垣間見れたことで、皆様の人生を垣間見れた様に感じとても親近感が湧いてきました。特に葛藤されている部分を教えていただいたり、図の中に生い立ちや性格が盛り込まれていると特に引き込まれました。生い立ちと、仕事の図があるとなぜその仕事をしているのか、ということに繋がるように感じます。または、今の仕事のどこにやりがいがあるのか記入すると、性格なども浮かび上がるなと感じました。今はオンライン化が急速に進んでいますので、親近感を持ってもらうことで、オンラインでもコミュニケーションが円滑に進むのではと感じています。あと一回ですが、楽しみにしております!
  • 久恒先生、皆さま、本日もありがとうございました。宿題発表の口火を切らせて頂きましたが、「具体的に何について語っているのか」ひと言有ったら、聞く人にとって続く説明がより分かり易かったと反省。続く方々の出し物を聴きながら更に感じました。図の出来栄えもまだBusyで、一気に慌てて描いた感丸出しとなりました。①明瞭に示したい箇所を先に描くなどの段取りが大事。②見出しか、説明の言葉か区別する(アンダーライン)、③読まずとも解るシンプル/キャッチ-な言葉を選ぶ、④繋いだ矢印は何を意味するか言葉を添える…貴重なご意見ありがとうございました。さらに磨きを掛けて行きます。
  • 久恒先生、みなさま。お疲れ様でした。コメントいただけまして光栄です。

    〇感想・皆さんの前でプレゼンをして、コメントいただけたのはすごいヒントになってよかったです。ありがとうございました。・プレゼンしながら、自分でも「あ、ここはこう直さなきゃってことがわかりました。作ってから一度寝かすとやっぱりいいのかも。・ハッピーな結論に落ち着くような修正ができそうでよかったです。・自分の得意分野に関わるプロジェクトなら、仕事と両立できそうでいいなあと思いました。

  • 今夜もありがとうございました。【今回の記憶に残った点】現在の仕事を書いていくことで、部分の大きさがわかる。どれが大きいのか、大きくしたいのかがわかってくる。太い矢印細い矢印を使い分けている=考えた痕跡がある。言葉も韻を踏む。【次回へ向けて】残り後1回、一週間。仕事の中で思い浮かんだ単語を書き出し、箇条書きではなく矢印でつないでいきたいと思います。SDGsの図解化や図解道場、興味があります。次回もどうぞ、よろしくお願いします。

  • ありがとうございました。みなさんの仕事図が素晴らしかったです。また、お話されているのが楽しそうで良い時間でした。言葉の重みづけ、矢印に字を添える、同じ言葉を使わないほうが良い。単語をわかりやすく。勉強になることばかりでした。考えて図解して、言葉にして、みんなから意見をいただいて、図を直して、言葉にして、、、、と、図はどんどん進化していくことがわかりました。また、次回もよろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、みなさま、本日も有難うございました。みなさんの仕事、人生のお話を聴くのはお話しぶりも含め、それだけで十二分に味わい深いものですが、それを図解を媒体にしてやる、というのがまた新鮮な時間でした。つい、自分の思う「いい図」を描こうとしちゃうのですが、久恒先生の「図解に正解はない」「図は進化し続けるもの」という自分を成長させるツール・技術であることを再認識しました。また、同時に、図解することにより、相手の方により伝えようとすることでもう半分(以上の)意義が産まれ、伝えようとする内容が向上していく循環が産まれていくんだなと、当たり前のことではありますが、、改めて思いを深くしました。自身の発表については、つい、書いているときの楽しさだけが先走り、内容を誰かに伝えるということが正直二の次になっている、また、それが最近他の局面でもよく感じているのですが、自分の気質に拭い難くあるものだ、ということを、こちらも痛感しました。英語でも(ないし、英語の方が)伝わるでしょ、とか、これが肝だ!ということを発見した!という思い込みと自己満足に終わっていては、そこで停まっているに等しい、ということを強く認識した次第です。また、引き続き、図解塾については、皆出席できるかどうかは不明・不確定ではありますが、少なくとも半年程度は修行を続けたいと考えております。SDGsをみなさんと図解していくプロジェクトは楽しそうです!

  • 横浜都心でリフォーム工事を請け負っていて、地元の工務店の様な機能をしています。講義をお聞きしていて、図にしていると5年前のプレゼンの資料があるのを思い出して切り継して提示しました。これは私の仕事といううよりも仕事のアピールであったので、提示にずれは有りますのは次回の改良で表したいと思っています。又、仕事の内容を絞り込みたいと思いながらの5年間なので意識がかなり成長していますので次回と言う事でお願いし致します。来週のテーマ「私の仕事」については、年齢的にも今後の振り方を考えるためにも「良い機会を得た」と思っています。「タイム課題」を攻略して、「近い将来」を考える良い機会となりそう。久恒啓一先生の図解塾次の塾参加の事ですが、参加するしないについては考えさせてくださいね。当方の時間捻出に課題があります。参加の日程だけでもありません。事前にテーマについて作図する時間がないと付いていくのに難があります為。「図解」についてはお気に入りです。
  • 第5講の感想。◇10月17日に参加した「知的生産の技術研究会」の研究会について、少し報告させていただきました。報告しながら思ったのは、塾生のみなさんとしては、久恒先生が発表された約40枚の図解をじっくりご覧になりたいだろうなということ。 久恒先生、zoomセミナー特別編として開催していただけないでしょうか。ご検討をよろしくお願いいたします。◇次に、仕事の図解について、表現方法がみなさん違っていたので勉強になりました。どうもありがとうございました。 発表された図解には、現状の人間関係または携わっている仕事や活動の関係性を表した図、問題点を含んだ図、過去から現在そして目指しているところの関係を表した図など、伝え方が様々だったので、作成途中の私には刺激的でした。 セミナーはあと1回。それまでにfacebookに提出させていただきますので、みなさん、ご意見等をいただきますようよろしくお願いいたします。

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9時―10時:大学でひと仕事。

11時半。いつもの新宿の「らんぶる」で橘川さんと待ち合わせ。今後の相談。

昼食。カツカレー発祥の店をめざしたが、水曜日は休みだった。

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「2丁目テラス」という青空レストランでジンギスカン御飯。

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地下のジャズ喫茶「DUG」でコーヒ。DIGも。
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「名言との対話」10月22日。宮地伝三郎「なわばり」

宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 - 1988年10月21日)は、日本の動物生態学者。

広島県尾道市出身。森戸辰夫、井伏鱒二藤原弘達らを輩出した福山誠之館を出て、東京帝大を卒業後、京都帝大理学部講師となる。1935年にヨーロッパ各地に出張し、国際生物科学連合総会や国際海洋生物会議に出席して見聞を広め、川村多実二教授が組成した関東州・満州陸水生物調査に加わって、その報告のまとめに当たった。1942年に理学部動物学科教授に就任して、自由な論議による自主性を重視したグループ研究をすすめ、放流基準密度の算定に関してのアユの生態研究、稚魚育成の場として藻場の研究、中海水系や琵琶湖の総合調査などを主宰した。理学部長なども歴任した。その間、12年にわたって日本学術会議会員となり、日本自然保護協会理事、日本生態学会会長を務め、京大霊長類研究所、日本モンキーセンターを創設、ニホンザルの生態研究を行い、共同研究を指導した。
退官後には日本モンキーセンター所長、淡水生物研究所所長、関西文理学院院長などを務めた。日本の湖沼や内湾の低生動物群集組成を精査し、湖沼や内湾の特性や類型区分を、初めて示した。
以上のように、京大の動物生態学の興隆に重要な役割を果たした。 後進の研究体制を支援する体制を確立し、多くの研究者を育てたことも特筆される。今西錦司を中心とした伊谷純一郎などによるニホンザルの研究、およびそれを含む哺乳類社会の研究なども宮地の元で行われたもので、日本モンキーセンターの設立に大きな力になった。停年退官後のポストは九州大学助教授であった森下正明が引き継いだ。森下は私の九大探検部時代の顧問だった先生だ。

日本の動物生態学に大きな刺戟を与えた『動物の生態』『動物生態学』(共著)のほか、『アユの話』は1960年に毎日出版文化賞を受賞した。「なわばりの社会」の章では、 「友釣りはアユの縄張り争いの本能を利用した敵釣りだ」と教えている。なわばり理論は、今西の種による棲み分け理論に発展していく。他には『サルの話』『俳風動物記』などの一般向け著書や、随筆・自伝的随想を集めた『生物学の視座から』などがある。

ダムで河川の氾濫を制御してコンクリート護岸で水流を押さえ込むやり方は、洪水を防ぐが川自体は生命力を失い衰えていく。川の生態系は乱れ、川魚の王者・天然アユの遡上数がどんどん減っていく。宮地は、それを「洪水のない水害」と表現した。

宮地伝三郎の動物の同一種にみられる「なわばり」理論、今西錦司の異種による「棲み分け」理論という動物生態学の流れは、梅棹忠夫の「文明の生態史観」を生み、民族学文化人類学)へと成長し、やがて人類の民族による棲み分け理論ともいうべき比較文明学へと発展していったように思う。壮大なスケールで発展していく学問の姿を具体的にみる思いがする。

 

『名言の暦 平成命日編』 を22日に発刊ーー「真・日本人」を求める探検の記録

『名言の暦 平成命日編』 を明後日の22日に刊行。取り上げた366人の人物はどういう人たちか。「真・日本人」と呼びたい。本当の日本人、本物の日本人。「真・日本人」を求める大いなる探検の旅の記録。

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名言の暦 平成命日編

名言の暦 平成命日編

  • 作者:久恒 啓一
  • 発売日: 2020/10/22
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
 

以下、「まえがき」から。

 私の「名言」シリーズは、2017年の「偉人の命日366名言集」、2018年の「偉人の誕生日366名言集」、2019年「平成時代の366名言集」に続き、4冊目となります。

今回は、平成時代の2冊目ですが、平成時代は1989年からの30年という短い期間であったこと、その2冊目であったことなど、人選については難航しましたが、何とか完成までこぎつけるできました。

このシリーズは、「名言集」として編まれていますが、その名言は、その人らしい言葉、私自身が感動したり、心を動かされたものが中心です。次に「人物論」としての意味がありますが、人は自分のレベルでしか人を語ることはできないということであり、しかも一日一人というやり方なので、理解が浅薄になっている感は否めません。

また、毎朝書いていると亡くなった人への「弔辞」を書いている気分になることがあります。そういえばイラストレーターの河原淳さんの趣味は文章修業も兼ねて弔辞を書くことでした。また作家の川端康成は「弔辞といえば川端さん」との定評があった名人だったこともこのシリーズで紹介しています。

 人物を書くにあたっては、必ず私の歩みとからめて対象をとらえるようにしたのも特徴でしょうか。会ったこと、読んだ本、影響を受けたこと、、、、、。つまり自分史としての意味もでてきました。小論の最後には私自身の感慨を述べることにしています。その部分だけを切り取れば、私の信条や思想になる可能性もあるかも知れません。

 毎日書き続けるには読書が欠かせません。一日一冊の読書習慣が定着しつつあります。「名言との対話」を書くために、必要に迫られて、読むべき本を、毎日少しずつ読んでいます。リビングのソファ横のサイドテーブル、トイレの棚、風呂場が私の読書空間になっています。テーブルとトイレには5冊ほどの本を常時積んでいます。夕刻にはテレビをみながら本をめくっていきます。トイレでも前の日の続きを読み進めることにしています。そして風呂では、1冊の自伝などに線を引きながら読み終える。書くに値するフレーズや心に響く箇所をマークしていく。この過程は、積ん読、乱読、精読が入っているといってよいでしょう。

 そういった準備のもとで、毎日の早朝の時間は、その日が命日の一人の人物と正面から向き合う時間となります。この人はどう生き方をしたのか、何をやろうとしたのか、その人から何を学ぶか、、、。ありがたいことに学問、文化、芸能、企業、スポーツなどに関する知識が副産物として身につくことです。

 2005年から「人物記念館の旅」を始めて15年経ちました。900館以上の記念館をたずねています。この旅は「巡礼」です。巡礼とは自己発見の旅です。このシリーズはその延長線上にあり、毎朝心が洗われる感じがしています。

取り上げた対象は近代・現代の日本人が中心であり、「平成時代」の2冊に登場する人たちは長寿が多いのが特徴です。日本人の寿命が急速に伸び、「人生100年時代」が射程に入ってきましたが、その生き方のモデルは長寿先進国の日本にしかありません。特に平成時代に亡くなった人にはそのモデルが豊富にあります。

 名前は知ってる、事績も理解していると思っても、一人一人の人生模様はそう単純なものではないことを日々実感しています。また「平成時代」には、なかなか人がいなくて名前すら知らない人も取り上げることが多くなっています。ところがそれがまた実に面白いのです。本を読む、調べるなかで、驚いたり、発見があったりする毎日です。感動が積み重なって心の中に少しずつ堆積しつつあります。それが朝起きる理由となって、朝が待ち遠しく感じます。

 2020年の今年は、1945年の敗戦以降の「戦後編」に挑戦中です。昭和、平成、令和の時代を生きた人々が対象です。この「戦後編」を含めて5年続くと、取り上げた人物は1800人以上となります。この人たちはどういう人たちなのか。私は「真・日本人」と呼びたいと思っています。本当の日本人、本物の日本人です。「真・日本人」を求める大いなる探検の旅の記録です。

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「名言との対話」10月20日平尾誠二「規律とは自由を獲得するためのものだ」

平尾 誠二(ひらお せいじ、1963年昭和38年)1月21日 - 2016年平成28年)10月20日)は、日本ラグビー選手。

 日本代表選手であったほか、日本代表監督、神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督兼任ゼネラルマネージャーなどを歴任し、ミスター・ラグビーと呼ばれた。

 大学3連覇。社会人7連覇。ワールドカップ3回出場。2013年のWCでジンバブエを破り初勝利をあげる。インタビューに応えていた映像では、宿沢監督は「プライドと自信を得た」と語り、平尾主将は「初勝利は大きかった。自信になった」と語っていた。

 2015年1月16日の「徹子の部屋」の映像をみた。神戸製鋼の社員の平尾は建材の営業マンで、アルミ部門に変わったばかりだった。ビジネスマンとしての仕事をこなしながらのラグビー生活だった。この点は宿沢と同じだ。同志社大学の大学院で「コミュニティとスポーツ」というテーマで研究を始め、夕刻と土曜日に先生の指導を受けていた。才能のある素材を発掘し、日本代表にしていこうとする平尾プロジェクトにも意欲を示していた。

徹子の部屋」でさっそうとした雄姿を見せたわずか1年半後の2016年10月に、53歳という若さで死去する。 「感謝の集い」の映像では、800人が集まったから惜しむ人が多かったことがわかる。親友であった山中伸弥先生は「本当にありがとう。君を治すことができなくてごめんなさい」と弔辞を述べている。

 2019年のワールドカップでは、平尾が指導していたであろう日本チームは、前回で得た自信を武器に予選を4戦全勝で勝ち抜き、ベスト8戦で南アに敗れた。にわかファンの私も大相撲でいえば「敢闘賞」的な活躍をしたと思った。

 2017年4月6日発行の『平尾誠二 人を奮い立たせるリーダーの力』(マガジンハウス編)を読了。 以下、語録から。

・関わるすべての人間が、「チームは自分のもの」とい答えらえるチームは間違いなく完成度の高いチームである。

・リーダーシップの質は、求心力のレベルにある。

・リーダーには美学が必要である。

・もっとも遠くにいる人間に向かって話すこと。

・自分のもつ可能性や創造力を引き出してくれるリーダーかどうかに反応するのである。試合の前に試合は終わっている。

・ゲームに必要なのは状況を切り開くイマジネーションに富んだパスだ。

・教えるとは、相手を納得させ、行動を変えさせ、さらにその行動をこれから先もずっと続けさせることである。

・単なる戦力の違いだけではない、そこに自信があるかないかという大きな差がある。

・スポーツ・インテリジェンス

平尾誠二の言葉の中では、「規律とは自由を獲得するためのものだ」「自由を行使するには、おのずと厳しい自己節制が要求される」という言葉に共感する。平尾誠二はビジネスマンとしての仕事はきちんとこなしていたのだ。この点は優秀な銀行マンだった宿沢広朗の「銀行が必要ないと言えば、ラグビーに賭ける覚悟はある。ただ、両方やっていないと、価値がないんじゃないかと思う」と同じである。自由であるためには、自己をマネジメントすることが必要だ。自由にふるまっているとみえる仕事師は、実は自己節制の人なのだ。

平尾誠二 人を奮い立たせるリーダーの力

平尾誠二 人を奮い立たせるリーダーの力

  • 発売日: 2017/04/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

「大岡昇平の世界展」(神奈川近代文学館)ーーー「おーい、みんな、、、、」

先週の神奈川近代文学館で開催中の「大岡昇平の世界展」の報告。

大岡 昇平(おおおか しょうへい、1909年明治42年)3月6日 - 1988年昭和63年)12月25日)は、日本小説家評論家・フランス文学の翻訳家・研究者。

京都帝大仏文科卒。帝国酸素、川崎重工業などに勤務。若き日に小林秀雄中原中也らと出会い、スタンダール研究家として知られた大岡は、1944年、35歳で出征し、フィリピンのミンドロ島に赴くが、マラリア熱で一人残され、翌年米軍の俘虜となり、レイテ島収容所に送られる。九死に一生を得て帰還。

1949年、戦場の経験を書いた『俘虜記』で第1回横光利一賞を受ける。小説家としての活動は多岐にわたり、代表作に『武蔵野夫人』『野火』(読売文学賞)『花影』『レイテ戦記』(毎日芸術大賞)などがある。1971年、芸術院会員に選ばれたが辞退した。
企画展では「知識人である大岡が、一兵卒として体験した戦争。その透徹したまなざしが描き出した作品は、人間の根源的な問いを内包する、優れた世界文学として読みつがれています。戦後75年を迎える今、大岡作品が伝えるメッセージを改めて見つめ直す機会となれば幸いです」と趣旨を説明している。

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 師表としたスタンダールに従って「自分とは何か」を考え続け、還暦を過ぎたあたりから「幼年」「少年」「わが師わが友」という自叙伝を書いている。相場師で財をなした父への反発、母が芸妓であったことを知った衝撃などが記されている。漱石への傾倒を経て、高校時代にランポーを読んだことがきっかけで小林秀雄を家庭教師にしてフランス語を習得した。24歳で死んだ富永太郎と30歳で亡くなった中原中也の詩作品と生涯は終生のテーマとなった。また、大学卒業後に桑原武夫から勧められてスタンダール研究も生涯のテーマとなりスタンダリアンとなった。青山二郎との交友で通称「青山学院」の一員となる。

文体を持っていなかった大岡は 「俘虜記」は特異な体験を翻訳体という新しい表現で書こうとしてできた作品で、人間社会と日本社会の縮図への風刺を意図した。「野火」では飢餓、殺人、人肉食、神など、極限状態の人間を描いた。そして「武蔵野夫人」で人気作家となる。

1953年アメリカ留学し、1年2ヶ月を欧米で過ごす。

1960年代からは人気作家となった。恋愛小説、推理・裁判小説、歴史小説、そして文芸批評では先鋭で辛辣な文章を発表した。「ケンカ大岡」と呼ばれるほどの文壇有数の論争家となった。以下、論争相手と対象となった作品をあげてみる。 井上靖の『蒼き狼』。海音寺潮五郎の『二本の銀杏』や『悪人列伝』。松本清張の『日本の黒い霧』。、中原中也の評価について、篠田一士と。江藤淳の『漱石アーサー王伝説』。森鷗外の『堺事件』。

 この作家は私の「人物記念館の旅」でも何度か登場する。2017年に北九州市小倉の松本清張記念館で「1909年生まれの作家たち」という企画展が行われておりこの記念館を再訪した。「中島敦太宰治大岡昇平埴谷雄高、そして松本清張という並べれた作家たちの生きた時代に興味を持った。1909年という年は、伊藤博文が朝鮮で暗殺された年であり、文学誌スバルが創刊された年でもある。年譜をみると、彼らの少年時代は大正デモクラシーの時代で、自由主義教育、大正教養主義の盛んな時期で、教育の現場では「綴り方」が行われていた。この同年生まれの5人の作家の全集が並べてあった。中島は3巻、太宰は12巻、埴谷は19巻、大岡は23巻、そして清張は実に66巻と圧倒的な仕事量だった」。

 2018年に 山口県湯田温泉中原中也記念館を訪問した時の記録。「中原中也を語る 大岡昇平」展をやっていた。2歳年下の友人大岡昇平からみた中原中也像が語られている。強要される。歴訪癖。なぐる(4尺9寸5分の中原が、5尺5寸5分の大岡をなぐった)。からむ。毒舌。茶目。酒に弱い。不幸。いつも自分の感覚しか語らない。「人間は誰でも中原のように不幸にならなければならないものであるか」「生涯を自分自身であるという一事に賭けてしまった人」「伝説を作る趣味」「生涯すべてを自己の力を通して見、強い、独創的な自分、弱い、雷同的な他人という簡明な対立から世間を眺めた」

企画展で買ってきた『成城だより』を読んだ。「赤い鳥」の少年投稿家、旧制成城高校の一期生であり、自由と童心の人。褒めているのは、新田次郎大西巨人高橋義孝大野晋遠藤周作渡部昇一は批判されている。ゴルフ。88から115までのスコア。優勝からビリまで。「自分をコントロールする興味」だそうだ。

この中公文庫には「作家の日記」がついている、1957年11月から1958年4月までの日記だ。物忘れがひどくなってから「日記」をつけるようになった。それを材料に膨らませた作品である。1958年1月20日は圧巻。「おーい、みんな」から始まる詩は鬼気迫る絶品だ。三島由紀夫は「作家の日記」書評で、「私は鬼気を感じた」と記している。「あんなひどい目に会わしておきながら、また兵隊なんていやな商売をつくろうとしている奴んところに化けて出てやってくれ」「二度とおれ達みたいな、あんな目に、子供や孫は会わせたくない」。

大岡昇平の作品はまだまともに読んでいない。何から読もうか。

成城だより-付・作家の日記 (中公文庫)

成城だより-付・作家の日記 (中公文庫)

  • 作者:大岡 昇平
  • 発売日: 2019/08/22
  • メディア: 文庫
 

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午前:大学。

午後:ジム:45分のウオーキング。前後にスチレッチ、バス。

夜:デメケンのミーティング

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「名言との対話」10月19日。上野季夫「1年生のつもりで天体物理学の勉強に取り組みたい」

上野季夫(1911年2月26日ー2011年10月19日)は天体物理学社者。京都大学教授。100歳のセンテナリアン。

第二次世界大戦が終わった翌年の1946年7年余りの軍務を終えて京都大学宇宙物理学教室へ戻る「1年生のつもりで天体物理学の勉強に取り組みたい」という強い思いで研究活動を再開した。当時星の大気モデルの研究において懸案となっていた「opacity table」を早速作成し、再びその研究成果が国際的に脚光を浴びることになる

1950年代半ばライフワークとなる輻射輸達論の基礎となる確率論的手法に関する研究を開始。1957年にはフランスに留学し、2年の間に10編もの論文を発表し「輻射輸達問題の確率論的解析」の第一人者として「世界のウエノ」となった。

1960年にはアメリカの応用数学者ベルマンに招かれランドコーポレーションで共同研究を始めた。

1971年に京都大学を退官し、アメリ南カリフォルニア大学教授を3年間務めた後金沢工業大学に移り13年間つとめた。金沢工業大学を退官後京都コンピュータ学院情報科学研究所所長として活躍した。

 研究者としての面。輻射輸達論の世界的権威。輻射輸達論は「放射伝達論」ともいわれ地球環境問題を科学的に実証する重要な研究分野として注目されているこの問題が起こることをいち早く察知し人工衛星データを用いて地球環境問題に精力的に取り組んだ。生涯400編以上論文発表

教育者としての面。京「本質を見抜く目と純粋な魂を持たれた真の科学者」は、京都コンピュータ学院の長谷川靖子学院長をはじめ教え子も多く彼らは上野の百歳を記念して2011年3月にシンポジウムを開催している。その人柄を慕う後輩たちは百歳のお祝いのシンポジウム。誠実で高潔な人柄のナなせるわざだろう。これが特筆すべきところだ。

そういえば、還暦を迎えた柳田国男は、「還暦祝賀会は呑気な江戸の町人隠居のやること」であり、お祝いなぞしてはならん。これを機会に共同研究をやるならよろしい」と弟子たちにはっぱをかけている。またその影響受けた梅棹忠夫は、還暦記念として比較文明学シンポジウム「文明学の構築のために」が開催しており、梅棹は「生態系から文明系へ」という基調講演を行った。

百寿記念シンポジウムの開催は、100歳でもなお前を向き続ける精神の表明だ。還暦、古稀喜寿、米寿、白寿、百寿、、。こういった節目には単なるお祝いをすべきではない。上野季夫のセンテナリアン人生からは、「 1年生のつもりで取り組む」精神を学びたい。

 

 

 

大阪中之島:安宅英一、李秉昌(イ・ビョンチャン)、沖正一郎、安藤忠雄。ZOOM未来フェス。

大阪市立東洋陶磁美術館。 以前から行きたかった美術館だ。

総合商社安宅産業は経営危機から1977年に伊藤忠商事救済合併されたが、残っているのは会長だった安宅英一(1901ー1994年)がつくりあげた東洋磁器の1000点に及ぶ安宅コレクションだけである。安宅コレクションは曲折あって今は大阪市立東洋磁器美術館になっている。安宅産業を吸収合併した住友グループ21社から寄贈されたことを記念して大阪市が設立したもので、1982年に開館。中国、韓国、日本の陶磁器の展示。日本のものは浜田庄司の作品が多い。

韓国陶磁の李秉昌(イ・ビョンチャン)コレクション。李秉昌(1915-2005年)の韓国301件、中国50件。外交官として来日。東北大学で経済学博士号。協和商事の設立。1999年、375点を大阪市に寄贈。「これらの陶磁器を日本にとどめ、研究し、美術館に展示することによって、在日同胞の子孫達が祖国の文化を学び、矜持を持てるように取り計らうべきだ」。見学者からは韓国語の会話が聞こえた。「韓国陶磁の美しさを伝える文化使節」の役割を担っている。

沖正一郎コレクション。鼻煙壷壺コーナー。鼻煙壷収集家。沖 正一郎(おき しょういちろう、1926年10月22日 - 2016年2月20日)は、東京商大卒。伊藤忠商事出身。1981年から1993年まで初代ファミリーマート社長を務めた。他に良品計画会長、日本フランチャイズチェーン協会会長等も歴任した。30代から陶磁器鑑賞に凝るようになった。2008年には大阪市立東洋陶磁美術館に、コレクションの鼻煙壷1200点を寄贈。

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国宝「油滴天目」茶碗。内外の油滴は釉薬の中の鉄分が結晶したもの。油滴天目の国宝はこれのみ。豊臣秀次西本願寺、三井家、若狭酒井家、安宅産業へと所有者が移り、最後はこの美術館。油滴のきらめきが素晴らしい。
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「子ども本の森 中之島安藤忠雄の設計。2020年7月開館。テレビでみて行きたいと考えていたが、今回機会を得た。大阪市立東洋陶磁美術館の隣。予約が必要で中には入れなかった。子ども達が本を探したり、読んでいる姿をみることができた。
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大阪都」を巡る選挙の動き。大阪市役所の前で。
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大阪都」を巡る選挙間近。大阪市役所、地下鉄の車内でもポスター。

 

香雪美術館と国立国際美術館は休館だったのは残念。

 

新幹線からの富士山。

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13時から始まった「未来フェス」をスマホで聞きながら大阪中之島を動き回った。自宅に戻ってもこのイベントは続いている。中学生を含む70人の老若男女の5分間の自己主張は壮観だ。「リアル」とは何か。

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「名言との対話」10月18日。長部日出雄「あまり語られることがなかった歴史的事実に新鮮な興味を感じる人が増えてくれれば、筆者としてこんなに嬉しいことはない」

長部 日出雄(おさべ ひでお、1934年9月3日 - 2018年10月18日)は、日本小説家評論家

 青森県立弘前高等学校入卒業。1953年 - 早稲田大学文学部哲学科に入学するも中退。1957年 -に『週刊読売』記者となる。大島渚永六輔野坂昭如筒井康隆小林信彦らをいち早く評価し、彼らと交友する。退職し、雑誌『映画評論』編集者、映画評論家・ルポライターを経て、作家となる。1973年 の『津軽じょんから節』と『津軽世去れ節』により、第69回直木賞を受賞。1979年 -の『鬼が来た-棟方志功伝』により、第30回芸術選奨文部大臣賞を受賞。1986年 の『見知らぬ戦場』により、第6回新田次郎文学賞を受賞。1989年 - 映画『夢の祭り』を原作・脚本・監督で製作。2002年 -の『桜桃とキリスト もう一つの太宰治伝』により第29回大佛次郎賞・第15回和辻哲郎文化賞を受賞。紫綬褒章受章。

 この作家の経歴をみると、「津軽」、「棟方志功」、「太宰治」と出身の青森に関わる土地や人物が多い。今まで縁がなかったが、『日本を支えた12人』(集英社文庫)を読んで力量に敬服した。』を読んだ。日本史上の12人を取り上げた人物伝だ。このうち、聖徳太子行基聖武天皇明治天皇、都田左右吉。太宰治小津安二郎美智子皇后陛下の章を読んだ。いずれも切れ味のいい内容で、納得感がある。

以下、長部日出雄の説。

聖徳太子は実在しなかったという説に反対する。憲法17条が、明治維新五箇条の御誓文につながる。

・唐風の大友皇子と国風の大天海人皇子の戦いで、国風側が勝ち、天武天皇の時代となる。大友皇子が勝っていれば、二重言語の国となり、唐の冊封体制の一小国になっていただろう。「古事記」は大和言葉で編纂された。国文学と式年遷宮創始者

・奈良・東大寺の世界最大の鋳造仏である大仏建立の立役者・行基玄奘、道昭、行基。当時の人口500万。自主的な寄進というやり方(知識)で実現させた。

・寄せた眉の間に漂う深い憂いと悲哀の色がある興福寺の阿修羅像は、聖武天皇の妻の光明皇后の肖像とみて間違いがない。

明治天皇。5000万人。十万首の和歌。「あさみどり澄みわたりたる大空の広きをおのがこころともがな」「むかしよりためしまれなる戦におほくの人をうしなひしかな」。明治神宮は10万の近い樹木と10万人以上の勤労奉仕で造られた。元首と象徴を兼ねた。象徴天皇制は2千年の歴史を持つ天皇制の蘇りである。

太宰治。石原美知子という妻を得て、口述筆記の手法で小説家としての力量が増している。「津軽」と「お伽草子」が双璧。

本居宣長と世界一の映画監督・小津安二郎は同族の家系である。「東京物語」が最高傑作。

美智子皇后。「読書は、人生の全てが、決して単純でないことを教えてくれました。、、」「伝統と共に生きるということは、、」「国の大切な折々にこの国に皇室があって良かった、と国民が心から安堵し喜ぶことの出来る皇室でありたい、、」。昭和後半から平成の時代に、両陛下の存在は幸運だった。

この本を読む中で、日本の歴史の知らなかった事実の存在と独自の解釈に目を覚まされた感じがする。長部の言うとおり、私も「新鮮な興味を感じる人」の一人になった。

 

日本を支えた12人 (集英社文庫)

日本を支えた12人 (集英社文庫)