『梅棹忠夫著作集 第13巻 地球時代に生きる』を読了。年初から7巻目が終了。

梅棹忠夫著作集 第13巻 地球時代に生きる』を読了。7巻目が終了。

 「地球時代の日本人」。「地球時代の文明論」。「21世紀の人類像ーー民族問題を考える」。「国際交流の理論」。この巻も目の覚めるような理論を堪能した。

梅棹忠夫著作集 (第13巻) 地球時代に生きる
 

 次は「第12巻」の「人生と学問」を読むことにした。「日録 1971年1月」が目に留まった。1月1日から1月7日までの日録だが、酒の話ばかりだ。「酒はたのし、のむほどにブレーキがきかなくなり、盃をかさねる。前後不覚」「相手かわれど主かわらずで、したたかに酔う。そのうちにブレーキきかなくなる。また前後不覚」「夜、ひとりで盃をかさねる」「また二日酔い。われながら愛想がつきる。夢うつつで酒をやめようと決心。、、、しかし、目がさめたらまたのんだ」「のむほどにブレーキがきかなくなる」「昨夜の記憶はある。しかし酒はやめようとおもう。酒は研究生活によくない」「夜は(九州芸工大)小池新二学長にまねかれる。さて酒は?」。梅棹先生にして、こういう一面もあるのか、少し安心。

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「名言との対話」10月14日。石田博英「組織より、つながり」

石田 博英(いしだ ひろひで、1914年大正3年12月12日 - 1993年(平成5年)10月14日)は、日本政治家

衆議院議員(14期)、労働大臣(第141718222339代)、運輸大臣第47代)、内閣官房長官(第1617代)、衆議院議院運営委員長(第6代)。

 今回読んだ河野洋平との共著『自由社会は沈まず!』では、宿望であった石橋湛山内閣を三木武夫(幹事長)と一緒に成立させ、40を越えたばかりの年齢で官房長官として、病気退陣を仕切った時の経緯が書いてあった。政局の静穏円滑を求めるのが自分の仕事だと考えての大仕事だった。

秋田県大館市を訪問したとき、石橋湛山の足跡をみる機会があった。横山児童公園に横山助成先生記念碑があった。横山は大館生まれで帝国大学を卒業し、内務省局長、6府県の知事・警視総監、貴族院議員、東北興業総裁をつとめた人物だ。家族が基金を寄付し公園となった。石田博英がその会の代表だった。

昭和初期の建物である欅づくりの桜櫓館は、町長をつとめた桜場文蔵邸で、桜の名所と三階の展望台の櫓から命名された建物だ。安土城天守閣を模している。大館出身の石田博英が、この近くの狩野家を私邸としていたところが、「石田ロズカーデン」となっていた。ここでも石田の名前が残っていた。

盛岡の原敬記念館で、平成12年4月の「現代」で行った「20世紀最高の内閣」という企画があった。外務大臣幣原喜重郎、大蔵:池田勇人、文部:石橋湛山、通産:岸信介、運輸:後藤新平、郵政:田中角栄、労働:石田博英、建設:福田赳夫内閣官房後藤田正晴総務庁佐藤栄作防衛庁中曽根康弘環境庁大石武一国土庁松下幸之助、金融再生:高橋是清、そして総理大臣は原敬だった。

1957年からの第1次岸改造内閣では労働大臣。1960年からの第1次池田内閣三井三池争議の収拾のため、再び労相に任命。1964年第3次池田改造内閣において三度目の労相。1976年からの福田赳夫内閣では4度目の労相を務める。20世紀最高の内閣の労働大臣に擬せられたのは、20年にわたって何度も労働大臣をつとめた実績からだったのだろう。石田博英労働大臣の印象は私にもある。師の石橋湛山も文部大臣に選ばれている。

石田博英は長い議員生活で離党を1回経験し、除名も2回されている。しかし票数はほとんどかわらなかった。政党の組織などはあてにならない。日々の「つながり」が基礎票だ。浮動票ではなく、足腰の強さ。それが当時の自民党の強みだった。 

 

 

篠遠喜彦「楽園考古学」。大原誠「大河ドラマ、、、、」

人がいなくて書き残していた日をなんとか書き上げる。

10月4日は篠遠喜彦。人類学者。「楽園考古学」

   10月4日。篠遠喜彦「楽園考古学」|久恒 啓一|note

10月6日は大原誠。NHKディレクター「大河ドラマを作るには、時代を読まなくてはならない」

note.mu

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ジム:スイミング500m

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夜はラグビーワールドカップ予選最終戦スコットランド戦。21-14で勝利。4戦全勝で1位通過。肉弾相打つ迫力満点のラグビーを見ていると、サッカーが物足りなくなる。

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やなせ たかし(本名:柳瀬 嵩、〈読みは同じ〉1919年大正8年〉2月6日 - 2013年平成25年〉10月13日)は、日本漫画家絵本作家詩人。

製薬会社や三越の宣伝部員、雑誌記者、舞台美術、脚本家、演出家、放送作家、編集者などで生計を立てていた。本職は漫画家でありながら、そういう仕事はない中で、ひたすら漫画を描き続けていた。「ぼくの道」という詩がある。「荒れた砂丘を歩く 道は遠い 道に迷ったのかもしれない 不安をおさえてシャニムに歩く 鉛筆の林 ケシゴムの丘 ペン先の森 日はくれかかって空はまっくら それでもふしぎに心は楽しい この道が好きだから ぼくは歩いている 他になんにも方法がない 一足とびにあそこへいけない」。

数日前BSプレミアムの「100年インタビュー」で「やなせ・たかし」を流していた。アンパンマンは6500万部という途方もない作品だ。93歳、矍鑠とした話しぶりで、いいことを言う。どこかで聞いたことがある言葉だと思っていたら、先日読んだ本はこのインタビューを起こしたものだと気がついた。本人の語りを聴いて改めて感心した。「私には現在と未来しかない。楽しく、面白く、、」「気力、気迫」がないと派手な服は着られない」。帽子は200個ある。

40代後半まで代表作がなかった。手塚治虫なら「鉄腕アトム」、さいとう・たかをなら「ゴルゴ13」など、漫画家は代表作がないと認められない。仕事がこなくても、絶えず描いていなくちゃいけない。必ずつづけていて、運がやってきたら「パッ」とつかむ。根気が大事だ。「遅く出てきた人というのは、いきなりダメにはなりません」。

宮城まり子が歌った「手のひらを太陽に」という歌がある。いずみたくが作曲で、作詞はやなせである。「ぼくらはみんな生きている、生きているからかなしいんだ」「生きているからうれしんだ」。

『何のために生まれてきたの?』(PHP)。インタビューで構成された小さな冊子だが、なかなかどうしてやなせの人生哲学は「聞かせる」。

困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場や国に関係なく、「正しいころ」。これは絶対的な「正義」なんです。兵隊にとられ、学んだこと。戦争というのは、絶対にやっちゃいけない。戦争は殺人をしなかえればならない。正義とはひもじい人を助けることなんですよ。ひもじい人を助けるヒーロー、それがアンパンマンを描き始めた動機となった。しょくぱんま、メロンパンちゃん、カレーパンマン、キャラクターは食べ物に限定した。バイキンマンドキンちゃんなども。子どもにとって一番大事なことは食べることだから。アンパンマンは一番弱い。アンパンマンバイキンマンとの戦いは永遠に続く。その戦いの中で健康を維持しているという原則を話に入れてある。正義を行う人は自分が傷つくことを覚悟しなくてはならない。だからアンパンマンは自分の顔をあげるのだ。

アンパンマンのもとになる絵本は54歳、そしてテレビでアニメが放映されたのは69歳と、いうように、やなせたかしは遅咲きだった。朝6時に起きて、1時間の体操。腕立て伏せ、足踏み、スクワット、自転車をこぐ。歌いながら。朝食後は40分寝る。それから仕事にとりかかる。食事は白米を少なくしておかず中心。野菜スープ。旗は恥部よりちょっと上くらいの量。日曜日はウナギの日。

もともとは、大人向けの詩集や本を書く作家だったが、アンパンマンを描いたために、児童書の仕事をするようになった。アンパンマンのテーマソングは「なんのために生まれて なにをしていきるのか」である。子どもの頃から歌っていると、自然に考えるようになるのだろう。東日本大震災の後、一番多く歌われたのが「アンパンマンのマーチ」だった。アンパンマンのキャラクターは2000を超えていて、最もキャラクターが多いアニメシリーズとしてギネスの世界記録に認定されている。

香美市立やなせたかし記念館以外にも、アンパンマンミュージアムは仙台、横浜、名古屋、神戸、福岡と全国に五か所あるのには驚いた。

才能の薄い人間でも、屈せずに続けていれば何とかなる。大量に仕事がきたばあいには、かえってゆっくやる。一日一枚やってく。するといつのまにか片付く。絶望せずに根気よく。一滴の水でも注ぐ、」そういう仕事をやていく。そうすれば同調する人間が出てくる。

この本の最後の「100年後へのメッセージ」は「100年後の世界では、漫画的精神で、みんながなかよく、そして面白く、楽しく暮らせる世界になってほしい」だった。

「僕は先に死んじゃいますが、アンパンマンそのものは、ずっといきていくんじゃないかと思います」。作者のやなせたかしの命は永遠である。 

台風19号一色の日。BSプレミアムの「100年インタビュー」で「やなせ・たかし」。

台風19号一色の日。

 台風のニュースをテレビでみながら過ごす。BSプレミアムの「100年インタビュー」で「やなせ・たかし」を流していた。93歳で矍鑠とした話しぶりで、いいことを言う。どこかで聞いたことがある言葉だと思っていたら、先日読んだ本はこのインタビューを起こしたものだと気がついた。本人の語りを聴いて改めて感心した。

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「名言との対話」10月12日。ミヤコ蝶々「人間は苦労時代が本当の幸せなのです」

ミヤコ蝶々(ミヤコ ちょうちょう、女性、1920年7月6日 - 2000年10月12日)は、日本女優漫才師

 娘を芸人にしたいという父は、朝から三味線、洋舞、日舞、唄、漫才、文字の稽古、夜は芝居という生活を強いた。そして柳枝劇団では床山、お囃子、芝居の台本も書いた。そういう経歴なので何でもできた芸人になる。

 日本図書センター人間の記録シリーズはずいぶんと読んだが、『ミヤコ蝶々』は違う。男性の自叙伝は仕事中心であるが、蝶々さんの場合は本人が2回半という結婚をめぐる物語になっている。立派な職業を持ち成功した女性でも、過去を見つめるときには男と女の関係が最重要なテーマとなるのだろうか。

22歳で三遊亭柳枝と同棲、27歳で離婚。27歳で弟子で5歳ほど年下の南都雄二と結婚、42歳で離婚。学校に行っていない蝶々が「なんという字?」とたびたび聞くことからついた芸名だ。6年間の柳枝と12年間の雄二。二人の共通点は女癖の悪い所で、苦労を重ねる。そしてAさんとの8年の恋愛で結婚しそこねたこと、それが「半」という表現になっている。

35歳、ラジオ放送で「夫婦善哉」を始める。本職の漫才をやめて夫婦善哉に専念する。南都雄二との離婚後もコンビは継続。46歳、自伝「女ひとり」を出版。52歳、南都雄二死去。53歳、「女ひとり」を上演。55歳、20年続いた「夫婦善哉」終了。57歳、蝶々新芸スクールを開校し校長。2000年、80歳で没。2008年には生前の自宅の一部を改装した「ミヤコ蝶々記念館」がオープンしている。

 「あんたは立派すぎるぐらい、いい女房やと思う。しかし、ある意味で立派すぎて僕はしんどい」「あんたは男を甘えさせ過ぎる。、、、自分が居らんでもこの女は生きていける、しっかりしている、そんなら別れるか、、、となる」と語った南都雄二も、そしてAさんも同じ考えだった。できすぎた女の悲劇だろう。

私も「夫婦善哉」もよく見たが、「スチャラカ社員」の女社長役の蝶々の演技も覚えている。半生をかけた代表作「夫婦善哉」は20年続けた長寿番組だ。笑いの中で、「夫婦とは一つの道を歩くことが何でもないようで、一歩一歩踏みしめて味のある、でも一歩間違えば、難しいものだなァと、見る人の胸に何となく残す」のが、趣旨だった。この番組は蝶々が高く評価していた上沼恵美子が後任となった。

お金で愛は買えない。貧しかったからこそ愛が生まれた。地位と名誉と財産は、愛を引き裂くものだ。それがミヤコ蝶々の述懐だ。男と女、夫婦、そして人生とは難しいものだなあ。 

ミヤコ蝶々―おもろうて、やがて哀し。 (人間の記録)

ミヤコ蝶々―おもろうて、やがて哀し。 (人間の記録)

 

 

 

勁草塾文庫カフェの会で講演。テーマは「図で考えれば世界が見えるーー日本と中台韓朝の歴史教科書比較を中心に」。

勁草塾文庫カフェの会(主宰は斎藤勁先生:民主党政権官房副長官)で講演。台風19号の関係で当日キャンセルもかなりあったようだ。なんとかできてよかった。

テーマは「図で考えれば世界が見えるーー日本と中台韓朝の歴史教科書比較を中心に」。1時間の講演と30分の質疑応答。

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以下、終了後のアンケート。

・日中台韓朝の問題は図解で解決せよという後半の発言は確かにそうだと大変腑に落ちました。特に日本人(私も含めて)は」近代史の知識が欠落していると寺島会長も言っていますが、ワークシートとしてこのような図解がテーブルにあれば議論ができる余地があると感じました。非常に新鮮な講義をありがとうごあいました。

・図解でまとめる能力の醸成が公務員に必要と痛感。

・新鮮な感動を得られたうれしさ。すごい学びになりました。ありがとうございました。

・久々の「久恒節」を聞きました。ありがとうございました。一度研修の企画を考えて提案させていただきます。

・「図解はOS(基本ソフト)である」。もっと多くのアプリを開発できる。

・目が覚めました。なるほど、こういうことでしたか。

・まず「自分の仕事」から始めたい。

・新たな視点で考え直してみたい。

・「図解は世界の共通語」は、目からウロコ。話が面白く引き込まれました。

・今までいかに考えずに聴いていたかわかりました。

・大学で留学生に教えているが反応が悪い。図解で状況を打開できる気がしてきました。

・ものを考えるには、図解、鳥瞰が必要なことがわかりました。

・今日のお話でスッキリしました。

・図解のプラットフォームを使って立場、意見の違いを各自に書き込んでもらってはどうか。

・論理図をつくることがいかに重要かわかった。全体を把握することの重要性を改めて認識した。
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終了後、玉川大学の小酒井先生、力丸先生、多摩大の久米先生とビールで乾杯。
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午前は、学部の「立志人物伝」の授業。岡本太郎三島由紀夫

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「名言との対話」10月11日。仙谷由人「より正しいことを言っている方が、選挙で負ける」

仙谷 由人(せんごく よしと、1946年昭和21年)1月15日 - 2018年平成30年)10月11日)は、日本政治家弁護士

仙谷は東大時代は軟式テニス部に所属し、フロント(社会主義同盟)のシンパだった。在学中に司法試験に合格し中退。自治労の組織内候補として1990年に出馬し社会党の議員になる。1993年落選。1996年民主党から当選する。2009年8月に民主党が政権を獲得すると、鳩山内閣で行政刷新相として初入閣し、次に内閣府特命担当大臣(「新しい公共」担当)に任命された。次いで菅内閣官房長官を務め、優れた能力と多彩な人脈を駆使し的確な判断と指示を行い、高飛車な姿勢とも相まって「影の総理」の異名を取った。その後、法務大臣民主党代表代行などを歴任した。2012年落選。2年後に引退。小沢一郎を敵として活動する政治姿勢が私の記憶にある。

官房長官時代の「自衛隊暴力装置」発言が物議をかもした。また2000年に起きた中国との領土問題のある尖閣列島中国漁船衝突事件では、衝突シーンが映っているビデオ映像の公表が遅れ、那覇地検は仙谷の意に沿って処分保留のまま釈放するという決着を図ったことには批判も多い。行政刷新相として事業仕分けも推進している。

 2018年の自民党総裁選で善戦し敗れたばかりの石破茂衆院議員と対談し、今の時代は「より正しいことを言っている方が、選挙で負ける」として、石破の方が政策的に正しかったからこそ負けたとの持論を展開した。この言葉は民主党の代表選びや、自身の選挙での落選も踏まえての感慨だろう。

陰の総理・仙谷由人vs.小沢一郎 (徳間文庫)

陰の総理・仙谷由人vs.小沢一郎 (徳間文庫)

 

 

 

 

リレー講座:柯隆先生(東京財団主席研究員)「米中貿易戦争の政治経済学とチャイナリスクの制度分析」。

リレー講座。柯 隆先生(東京財団主席研究員)「米中貿易戦争の政治経済学とチャイナリスクの制度分析」。

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・中国建国70周年式典の軍事パレード:兵器は使えないおもちゃ。指導者たちは暗い顔。

・香港のトラブル:中国からの逃亡犯の引き渡し条例への講義。恣意的な運用拡大を恐れている。自由と法の秩序を守るために立ち上がった。1984年の中英の共同声明「50年間は一国二制度」。これは守られるはずがない。憲法すら守らない国だ。スコットランドのような連邦制にすべきだった・香港の中国化は進む。5番目の直轄地に。いずれ沈静化する。移民となって英連邦にいくだろう。国際金融センターはシンガポールに移る。英語、法の秩序、自由なマーケット、金融エリートの存在が条件。

アメリカとの同盟と経済の結びつきが深い中国。日本は悩ましい。米中貿易不均衡は産業構造の問題であり解決しない。貿易戦争の本質はハイテク戦争であり、覇権争いで長期化する。第五世代「5G」を巡る戦い。4G時代はスーパーコンピュータが情報処理していた。5G時代は、データ集のスピードが速くなる。その情報を処理するのは量子コンピュータ。日独米印中が先行しているが中国は国家プロジェクトであり完成形に近い。5Gと量子コンピュータの結合でアメリカの軍事情報のセキュリティが解読される恐怖。

・中国はどうなる?:物価と失業率が同時に上昇中。食品価格は8%上昇、とくに穀物。25%の関税。豚の飼料代、トンコレラによる殺処分、豚肉は半減。工場の海外移転で数千万人が失業。失業率は10%以上だ。自動車2018年マイナス2.8%、2019年1-8月マイナス13%。実態はゼロ成長かマイナス成長! 金融政策はとれない、財政政策も税収はマイナス30%で財源がなく公共工事もできなお。有効な手がない。

・アリババのジャック・マーやレノボのトップが引退。共産党による統制の強化の進行。中国指導部の「強制ひながら発展させる」という「チャンレンジ」はどうなるか?

・日本は?難しい立ち位置。日本には国際戦略がない。シンクタンクもない。人材を育てる教育機関に問題がある。教区改革をやらなければだめだ。日本の学生は動物園の動物、米中の学生はサファリパークの猛獣。

旭硝子(AGC)の例。4Gのアンテナは200m。5Gは200m。ビルや車のガラスに1枚のガラスをつけて間にアンテナを設置するという高付加価値戦略。人材育成!

・中国とどう向き合うか? 日本は理、中国は情。かみ合わない。日本人はものづくりに情熱。中国人は販売に熱心。

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多摩大総研ミーティング:道の駅、財団、城南信金、ブルー・グリーン賞、企業訪問、

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「名言との対話」10月10日。佐々淳行「危機管理のノウハウ」

佐々 淳行(さっさ あつゆき、1930年12月11日 - 2018年10月10日)は、日本の警察防衛官僚危機管理評論家

警視庁入庁。1969年の東大安田講堂事件、1972年のあさま山荘事件、1975年のひめゆりの塔事件等で主要な役割を果たす。1977年防衛庁に出向。1986年防衛施設庁長官。同年初代内閣安全保障室長になり、中曽根・竹下・宇野の3代の総理に仕えた。退官後は政界進出を勧められたが、危機管理をライフワークとしてフリーで活動した。

年譜をたどってみると、日本を震撼させたあらゆる事件と危機に立ち会っていることがわかる。佐々には「事件を呼ぶ男」「さすらいのガンマン」「ダーティー・ハリー」「縦社会を横に生きた男」などの異名がある。その仕事ぶりが見えるような異名だ。

生涯の師であった後藤田正晴には「後藤田五訓」というは官僚に対する訓示がある。どの仕事にも当てはまるものだ。1.出身がどの省庁であれ、省益を忘れ、国益を想え 2.悪い、本当の事実を報告せよ 3.勇気を以って意見具申せよ 4.自分の仕事でないと言うなかれ 5.決定が下ったら従い、命令は実行せよ。こういった訓示を実行したのが佐々である。その後藤田は佐々を「血刀下げて裸馬に乗って単身敵陣に斬り込んでいく奴」と評価してている。

佐々の代表作『危機管理のノウハウ』三部作(PHP)は、危機管理のバイブルだ。1979年のPart1「信頼されるリーダーの条件」。1980年のPart2「80年代・闘うリーダーの条件」。1981年のPart3「危機に強いリーダーの条件」。事故やハイジャックなど危機にあう可能性がある航空会社にいた私ももちろん読んでいる。そして佐々の講演会にもでかけて具体的で急所を突いた話に感銘を受けたことを思い出す。仙台時代には東北新幹線でおみかけし、挨拶し相手をしてもらったことがある。同じ成蹊高校出身の先輩として野田一夫先生のことが話題になった。

 佐々淳行は「危機管理」という日本語の創造者だ。湾岸危機の際にマスコミが常用し日本語になった。改めて『新・危機管理のノウハウ』という本を読んでみた。

 湾岸戦争では、本来「危急存亡」の問題を「損得勘定」ではかり「危機管理」ならぬ「管理危機」におちいったのではないかと述べている。危機管理(クライシス・マネジメント)における管理危機(マネジメント・クライシス)だ。自己管理できない組織は危機管理はできない。油断、驕り、沈黙、本末転倒、、によって危機が一層深まる。

 自己管理できないリーダーは組織管理ができない。よく管理された組織なしでは危機管理はできない。自己管理とは、まず日常の体の健康管理、そして平時は意図的悲観論者としてふるまい、非常時には意図的楽観者であろうとする自己統制できる心の健康管理のことだ。私たちも健全な肉体と健全な精神を維持する努力を続けたいものである。

 この本の中に「異常なし」という定期報告についての記述がある。自動的に報告が定点観測のようにあがってくる態勢が重要ということだ。部下や現場からの定期的な報告に接する中で危機の接近を感じ取りながら、危機管理が管理危機にならないように早め早めに手を打っていくこともリーダーの役割だ。この点は組織運営のキモでもある。

 

 

 

 

 

吉野彰の言葉

今年のノーベル化学賞は、旭化成名誉フェローの吉野彰さんが受賞した。 携帯電話パソコンなどに用いられるリチウムイオン二次電池の発明者の一だ。

文藝春秋2017年8月号に立花隆によるインタビューが載っている。リチウムイオン電池は、世界で年間10億個以上が生産・使用されている現代社会の基本的エネルギー源だ。それはすでに自動車、航空機にまで入りこんでいる。その基本特許を持っているのは旭化成である。吉野は二人の先達に影響を受けている。フロンティア電子論の提唱者で、1981年のノーベル化学賞受賞者の福井謙一。ポリアセチレンという伝導性高分子の発見者で、2000年のノーベル化学賞受賞の白川英樹。 ポリアセチレンを陰極、そしてコバルト酸リチウムを陽極にしてリチウム電池が生まれた。「自動車に乗せたエネルギー密度の高いリチウムイオン電池を社会全体で共用するクラウド充放電システムを作ればよい」と夢を語っている。

以下、吉野彰の言葉を拾ってみた。

「常にお客さまが、そして世の中がいったい何を求めているのかということを、日常生活から探り出すことと、それを達成する手段としての技術をどうやって繋げるかということです。でもその技術への繋がりは、何か新しい発見はないかと真剣に考えているときより、ヒマでボヤッといろいろなことを考えているときに、自然と浮かんでくるんですよ」。

「1995年のIT変革は情報分野で起こりました。私は、次の大きな変革はエネルギー分野で起こると思っています」。

「実際は、研究・開発のチャンスはたくさんあります。確かな目標と、たゆまぬ努力があれば未来に可能性が生まれます。私自身、これからも、第一線の研究者と同じ目線で、新しい研究分野(目標)に挑戦していきたいと思っています」。

「全英で、しぶこさんが勝たれましたよね。明るい話題で子供の人生が変わるきっかけになるといい」。

「この先10年間に起こる事を正確に洞察することは、この10年間の流れを正確に把握、総括したうえでその延長線上としてこれから先10年を見通すことである」

座右の銘は「みのるほどこうべを垂れる稲穂かな」

「今までと変わらないと思うが、私の言葉は重みを持つようになる。日本の産業が活性化するように発信していきたい」

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翌日10日の日経新聞の記事から。

「無駄なことをいっぱいしないと新しいことは生まれてこない。自分の好奇心に基づいて新しい現象を見つけることを一生懸命やることが必要」

「頭が柔らかくないといけない」「最後まであきらめない」

再生可能エネルギーの世の中をつくるため、リチウムイオン電池が環境問題に対する一つの答えになる。それが受賞対象となったと思う」

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「名言との対話」10月9日。輪島大士 「裸になったので、また裸で出直します  」

輪島 大士(わじま ひろし、1948年(昭和23年)1月11日 - 2018年(平成30年)10月8日)は、石川県七尾市出身で花籠部屋所属の大相撲力士、第54代横綱全日本プロレス所属のプロレスラー、タレント。

輪島はスーパースター、名横綱、天才力士、輪湖時代の主役、大卒初の横綱、黄金の左下手投げ、、と呼ばれたことでわかるように相撲界の至宝だった。通算で14回の優勝を果たしている。最後まで四股名は変えず、輪島で通したには珍しい。

花籠親方の長女である輪島の妻の証言を記した『真・輪島伝  番外の人』は2019年7月8日発刊の衝撃の書だ。以下、その内容。

八百長相撲の清算に使ったのです。相撲界での隠語で「チュウシャ」という。星の買取だけでなく、賞金も全て渡していたとの噂もあった。星の取引は負けて返すか、金で解決する。横綱は買取が常識だいわれている。遊びに忙しく稽古不足の真島は1場所に何番か白星を買っていたようだ。

「裸」発言は、引き継いだ花籠部屋が自身の不祥事などで消滅し裸になって、相撲界からプロレス界に転出した時の言葉である。当時はこの転身を不思議に思っていたが、裸一貫での出直しだったのだ。輪島なりの決意の言葉だが、成功はしなかった。

「番外」とは、拉致外というか、話にならないという角界の隠語である。番付けの外だから、悪い意味で使われる。実績は番付のトップだが、実像は番外だったのである。  

真・輪島伝 番外の人

真・輪島伝 番外の人

 

 

 

 

日田。

母といろいろ話をしながらドライブ。日田まで1時間。豆田町で日田名物のうなぎを食べる。

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いいちこ蒸留所は定休日。
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 「名言との対話」10月8日。高木仁三郎「科学者たちは、まず、市民の不安を共有するところから始めるべきだ」

高木 仁三郎(たかぎ じんざぶろう、1938年7月18日 - 2000年10月8日)は、日本の物理学者、専門は核化学

1961年、日本原子力事業に勤務。1965年東京大学原子核研究所助手。1969年東京都立大学理学部助教授。1972年マックスプランク核物理研究所客員研究員。1973年東京都立大学を退職し、反原発活動を展開していく。

 市民の立場から原発などの原子力の平和利用の危険性を指摘し、人間、科学、自然との共存を提唱するエコロジー運動の草分け的存在となる。生涯をかけて原発問題に取り組んだ。1974年プルトニウム問題を考える自主グループ「プルトニウム研究会」を組織。1975年原子力資料情報室専従世話人となる。(のちに、代表)。1988年、反原発運動全国集会事務局長。2000年、死去。享年62。著作に『わが内なるエコロジー』『プルトニウムの恐怖』『核時代を生きる』『市民の科学を目指して』などがある。

 1995年、『核施設と非常事態 ―― 地震対策の検証を中心に ――』を、「日本物理学会誌」に寄稿し、「地震」とともに「津波」に襲われた際の「原子力災害」を予見した。福島第一原発 は「老朽化原発」であり、「廃炉」に向けた議論が必要な時期に来ていると 指摘した。 加えて、福島浜通りの「集中立地」についても、「大きな地震が直撃した場合など、どう対処したらよいのか、想像を絶する」と 、その危険に警鐘を鳴らしていた。「原発は壊れない」建て前になっていて、そのような事態を想定して原発の安全や防災対策を論じることは避けられてきており、原発が被災した場合の緊急時体制や老朽化原発対策などを真剣に考えるという姿勢もまったくみられないことに警鐘を鳴らした。死去の翌年2011年3月11日に発生した東日本大震災でその警鐘が現実のものになった。

死去した2000年に次の時代の「市民科学者」をめざす個人やグループに資金面での奨励・育成を行ってほしいとの遺志により「高木仁三郎市民科学基金」が設立される。科学者としての専門性を持ちながら、市民の視点にたって諸問題の解決を目指そうとした。NPO・NGO・市民グループ等で活動しながら「市民科学者」を目指す人々を応援するため、日本国内およびアジアの個人・グループによる市民科学をめざす調 査研究・研修への助成を実施している。

「ことさらに安全、安全ということによって安全が身につくのではなくて、技術というものの一部に、人間の生命を大事にするような思想が自然と組み入れられていないといけない」と高木は科学思想を語っている。数年前に日本未来学会で出会った植田昌文さんの名刺には「NPO法人市民科学研究室」と書いてあった。高木の後継者の一人だろう。高木の遺志を受け継いだ「市民科学」の発展を祈る。