読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

太田俊明「姥捨て山繁盛記」(第8回日経小説大賞受賞作)

太田俊明「姥捨て山繁盛記」(日本経済新聞出版社)を読了。

 

姥捨て山繁盛記

姥捨て山繁盛記

 

 第8回日経小説大賞受賞作である。

高齢化。政権交代。ダム。認知症。雪山での自殺。施設。

ワイン。庭園写真美術館。奇跡の村。自給自足経済。

世代を超えた結束。使命感。、、、

「数珠つなぎにうまくいく時のわくわく感がある」「映画的で楽しく読める」「一見、夢物語風だが、社会的な視点が据えられている」などが審査員の評だ。

社会問題と生き方をリンクさせた健全な筋書きの小説だ。

著者は1953年生まれ。東大野球部の遊撃手として東京六大学野球で活躍。卒業後は総合商社、テレビ局に勤務し、2013年定年退職。

受賞インタビューでは、60歳の定年後、日経小説大賞をターゲットにして毎一作づつ書いていこうと決めたと語っている。昨年は最終候補にあがっている。

定年後の過ごし方として、なかなか興味深い。

「書斎の窓から見える景色は毎日同じでも、物語を書き始めればその世界に入っていくことができます。雪の舞う箱根路を疾走するランナーの高揚感、ぶどう畑を見下ろす峠に一人佇(たたず)む認知症を患った男の喪失感、江戸の町の喧噪(けんそう)の中を分厚い本を抱えて速足で歩く男の使命感。いくつもの人生を疑似体験できるのは、小説を書く醍醐味です。」

 

「副学長日誌・志塾の風」170313

多摩キャンパス

  • 杉田先生
  • バートル先生:大学院
  • 樋口先生
  • 高野課長:改革総合資料。リレー講座9年間のまとめ。
  • 杉田先生:人事委員会打ち合わせ

永山

  • ゼミの卒業たちと歓談。

 

「名言との対話」。3月13日。大山康晴「賞はごほうびではなく、激励のしるしである」

大山 康晴(おおやま やすはる、1923年大正12年)3月13日 - 1992年平成4年)7月26日)は、将棋棋士。主な記録としては、公式タイトル獲得80期(歴代2位)、一般棋戦優勝44回(歴代1位)、通算1433勝(歴代1位)等がある。十五世名人、および、永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将という、5つの永世称号を保持。倉敷市および青森県百石町名誉市民・名誉町民。

「一時の栄光を求めるより、長く続けることが大切」 「人が真似できない芸を持つことが一流の条件である」 「無冠となって、気持ちが軽くなった。あとは、どうして立ち直ろうかと、その点にしぼってゆけばよいと自分を慰めた」 「立ち直るためには、一刻も早く以前の立場を忘れることである」 「こんどは、新しいものを身につけなければいけない。」 「五十の手習いという。私の場合もそれと同じで、五十歳で再出発をしなければならないということであった。」

もらう賞はごほうびではない。激励にこたえてさらに磨きをかけていこう。そういう人には誰もかなわない。この心構え、恐るべし。29歳で名人位に就いた天才棋士という華やかな経歴にももちろん尊敬の年を覚えるが、むしろ、50歳で無冠になってからの大山の心構え、心掛け、そしてその後の棋士としての生き方に興味を覚える。若い時代の黄金の輝きとは違った、燻し銀の重厚な輝きこそ偉大である。大山の50代以降の仕事と人生への対処は、現代に生きる私たちに大いなる勇気を与えてくれる。

五十嵐健治洗濯資料館(白洋舍)

五十嵐健治洗濯資料館。

洗濯業界の最大手・白洋舍の創業者を記念した資料館を訪問。

f:id:k-hisatune:20170314061553j:image

白洋舍は、平成26年度で、売上げ465億、営業利益10億、経常利益11億、従業員は2000人規模。

一度講演で訪れたことのある下丸子のキャノン本社の向かいにの広い敷地の事業所の一角に資料館がある。

五十嵐健治(1868-1878年)はわが国の初のドライ・クリーニングの技術を開発した人物。敬虔なクリスチャンとしてとしての信仰生活が、事業展開を支えた。

 f:id:k-hisatune:20170314062752j:image

小説家の三浦綾子が序文を書いている自伝「恩寵の木漏れ日」(同信新書)には、波乱に満ちた人生の軌跡が誇張なく淡々とした筆致で綴られている。

高等小学校をで学業を辞めざるをえないので、「実業について立派に立身出世をして、五十嵐家を再興してみせる」と決心を固め上京する。

その後、勝利した日露戦争に18歳で軍夫となり、戦後の三国干渉に憤激しロシアに入国するために諜報を目的に北海道に渡る。だまされて開拓地の監獄部屋で働かされるが、寝間着一枚で70キロを走り続け脱出。「どんなつらい仕事でも監獄部屋の仕事にくらべては遊んでいるようなものだ」。

たどり着いた小樽の旅人宿で働き、そこでクリスチャン行商人・中島佐一郎から洗礼を受ける。「キリストの愛を味わせるたえに、生まれてから19年の間、もろもろの試練を賜った」。「いかに善き生活を「なさんかということが大切であると思うに至った」。

函館の洗濯屋の水くみ仕事を手伝う。そして牧師を志し、上京するが神学校に入れず、三井呉服店(三越)に入社する。「10年辛抱しよう。そしてその間に独学で勉強し、聖書も学び、30歳になったら伝道のご用を始めよう」。この10年間、一日3時間以上の読書の時間を持てた。「人の信用を受けるのも、不信用を招くのも、平素の心がけ一つである」と、信仰のおかげだと述べている。

「計画魔」であった五十嵐は三越で10年働き、「クリーニング業こそ、神と人に仕える天職である」と信じ、30歳で独立し白洋舍創業する。「人の好まぬ営業の方が自分には適するらしい。、、、当時は清掃業か洗濯業であった」。ひとさまの垢を洗う仕事は「神から与えれた聖業である。よし、この洗濯業に生涯を打ち込んでやっていこう」。

白洋舍の事業自体は、時代の追風や逆風の中で発展していく。爆発事故の災難が襲ったときには「主、その愛する者をこらしめ、すべてその受けたもう子を鞭打ちたまえばなり」との聖書の一節から励まされている。「学術を基礎として技術を磨き、科学的に、合理的に経営するにあらざれば、真実の発展を見ることはできない」。

ドライクリーニングと洗濯が完全に行われたなら、衣服の消耗は少なくとも1割以上防止できると考えた。関東大震災では大損害を受けた。「人生はひっきょう難関の連続である」

基督教新報者らしいのは、「洗濯」に関する雑誌「家庭と洗濯」「お台所」などを発行して啓蒙につとめたり、安全への啓蒙活動に熱心だったり、「白洋舍化学研究所」を設立するなど啓蒙家としての側面があることだ。「家庭安全協会」を設立するなどして、晩年には産業安全功労者として勲三等瑞宝章をもらっている。洗濯業の社会性を意識していたのだ。

社長退任後は、福音伝道に専念しようと、夜間神学校で聖書を学び、66歳ではギリシャ語を学ぶ。戦後は日本中を旅し、福音を語った。95歳の生涯であった。

参考資料

三浦綾子「夕あり朝あり」(新潮文庫

五十嵐健治「恩寵の木漏れ日」(同信新書)

 

「名言との対話」。3月12日。江崎玲於奈「新しい分野を見つけることです。そうすれば二流の人間でも一流になれる」

江崎 玲於奈(えさき れおな、「崎」は清音、1925年大正14年)3月12日[1] - )は、日本物理学者である。国外においてはレオ・エサキLeo Esaki)の名で知られる。1973年(昭和48年)に日本人としては4人目となるノーベル賞ノーベル物理学賞)を受賞した。文化勲章受章者、勲一等旭日大綬章受章者。

1992年、筑波大学学長。2000年、芝浦工大学長。2006年、横浜薬科大学学長。

「すぐれた科学者は一芸に秀でた人間というよりも、むしろあらゆる視野を兼ね備えた教養人です。この幅広く、多角的な視点を持つということが、創造性の原動力になるのかもしれません」

「いつも歩く道を離れ、未踏の森に飛び込み、新しいものを探れ」

「人間が成功する条件というのは、個性的なタレント(才能)、それを磨くためのハードワーク(努力)、そして人知を超えたチャンス(運)。この三つの組み合わせであると思います」

ノーベル賞受賞者には、激戦の戦場を避けて、新しい分野に挑戦した人が意外に多い。頭ではない、目のつけどころが勝負である。人が手をつけず未開の沃地が開けており、ライバルは少ない場所はどこか。そこでは努力が報われる可能性が高くなる。

 

大学院学位授与式。博士2人。修士24人。

 

「副学長日誌・志塾の風」170311

品川キャンパス

・学長と懇談。「万葉歌の世界」を手交。

大学院学位授与式。博士2人、修士24人。

f:id:k-hisatune:20170311213450j:plain

  • 寺島学長:知の再武装。努力できる人たち。全体知。つながり、ひろがり、ふかさ。人的ネットワーク。中年の危機。使命感と出会い。これから10年、ものすごい変化。生身の人間力
  • 田村理事長:経営実学。仕事で活かす。
  • 徳岡研究科長:論文は一つの大仕事。仕事だけでは仕事さえも出来なくなる。知をつなげていく知。知の交差点。人生100年、3つの仕事。エクスプローラー(探検家)。インディペンデント・プロデューサー(自営業)。ポートフォリオ・ワーカー。
  • 坂西同窓会副会長:同窓会の3つの窓。同期。先輩・後輩。先生たち。
  • 福本院生代表:社会に役立てて。
  • 村上修了生代表:食肉業界の新ビジネスモデル。やり抜く力。知恵を力に変えていく。
  • f:id:k-hisatune:20170311213436j:plain

・理事長と懇談

・謝恩会にも参加

 

「名言との対話」3月11日。石牟礼道子「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。、、、、上から順々に四二人死んでもらう。奥さんに飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に六九人、水俣病になってもらう。あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか」

石牟礼 道子(いしむれ みちこ、1927年3月11日 - )は、日本作家熊本県天草郡河浦町(現・天草市)出身。水俣実務学校卒業後、代用教員、主婦を経て1958年谷川雁の「サークル村」に参加、詩歌を中心に文学活動を開始した。

冒頭に掲げたのは昭和43年から始まった水俣病患者互助会と新日本窒素(チッソ水俣工場との補償交渉でチッソからゼロ回答があったときの、患者たちの吐いた言葉である。石牟道子「苦海浄土 わが水俣病」にある。石牟礼道子はそれは「もはやそれは、死霊あるいは生霊たちの言葉というべきである」と記している。因みに鎮魂の文学「苦海浄土」は第1回大宅壮一ノンフィクション賞を与えられたが、石牟礼道子は受賞を辞退している。

何もなかった状況に戻って、失われた日常を取り戻すことが、患者や家族たちの本当の願いだ。それがかなわないから補償という次善の策になった。それでも償おうとしないことに当事者も、そして石牟礼も怒りを持つのだ。3月11日は、奇しくも東日本大震災の起こった日である。原発の災禍に見舞われた人たちの姿がだぶって見える。石牟礼道子の仕事は尊い

多摩大インターネット放送局「T-Studio『名言との対話』:第14回は「水木しげる」。第15回は「花森安治」。

T-Studioの「久恒啓一の『名言との対話』」。

NHK朝の連続テレビ小説の主役級の二人を取り上げた。

第14回「水木しげる」:妖怪漫画の第一人者。太平洋戦争時、激戦地ラバウルで爆撃を受け、左腕を失う。おおらかに、好きな漫画の道で一生を食いきった。

www.youtube.com

第15回「花森安治」:戦後の日本女性の暮らしを変えた「暮らしの手帖」の名編集長。

www.youtube.com

「副学長日誌・志塾の風」170310

  • T=Studioで橘川さんと「トレンドウオッチャー」の収録:日本未来学会などの話題で30分。
  • 中庭先生:来期の就職についての意見交換。「事業構想論」のまとめの冊子、これはよくできている。
  • バートル先生:大学院の入試体制
  • 高野課長:資料「私立大学全国改革ランキング2016」が完成。「多摩大学:全国1位」のPR資料、この資料1枚をあらゆる場面で使っていこう。
  • 来年度の名刺の発注

 

「名言との対話」3月10日。石井桃子「五歳の人間には五歳なりの、十歳の人間には十歳なりの重大問題があります。それをとらえて人生のドラマをくみたてること、それが児童文学の問題です」

石井 桃子(いしい ももこ、1907年3月10日 - 2008年4月2日)は、日本の児童文学作家翻訳家。数々の欧米の児童文学の翻訳を手がける一方、絵本児童文学作品の創作も行い、日本の児童文学普及に貢献した。

児童文学の第一人者であるが、本人の名前は知らなくても、この人のつくった本を見ていない人はいないだろう。児童文学では作者は読む子どもにとっては関心はない。「ノンちゃん雲にのる」「熊のプーさん」「「うさこちゃんとうみ」など編集、翻訳、創作した児童向けの本は生涯で300冊ほどになる。

30才前後から100才まで、実に70年間にわたって間断なく本を出し続けているのだ。90才を超えて「熊のプーさん」の作者、A・Aミルトンの自伝の全訳にとりかかり、5年をかけて2003年に「ミルトン自伝 今からでは遅すぎる」を96才で完遂する。次にエレーナ・エスティスの「百まいのきもの」の全面と改訂に着手し、2006年に刊行。このとき99才!

企画展では「こどもの目でおとなの技倆でその人はそれを書きはじめる」という本人の言葉にも出会った。架空の世界を現実と思わせる論理と表現力がなければ児童文学には取り組めない。そして、人は児童という人生の初めにも、それぞれの問題を抱えているのだ。そういうやさしい、やわらかい目線を生涯にわたって維持し、ドラマを組み立て続ける。100年を生きた石井桃子は、作家・創作者、翻訳者、エッセイスト・評論家、読書運動家、編集者と5つの顔があるが、その対象はすべて子どもだった。実に見事な人生だ。

 

 

安岡正篤「人物を創る」--小学と大学

f:id:k-hisatune:20170310060700j:plain

安岡正篤実「人物を創る」のオーディオブックを聴き終わった(読了)。

人間学講話シリーズ。「小学」と「大学」を講義。 本も注文。

小学は、日常の立ち居振る舞いを論じたもの。聖人の善行や箴言、実践的教訓。

大学は、経学(思想)を学ぶ。修己治人。「論語」「孟子」「中庸」とあわせて四書。三綱領「明徳」「親民」「至善」。八条目「格物」「至知」「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」。

 

「副学長日誌・志塾の風」170309

  • 事務局との定例会議:本日から杉田次期学部長も参加。学科交流。SGS人事。大学院入学者。非常勤教員。事業計画。予算。職員採用。、、、。
  • 一般入試三期:本部詰め。安田SGS学部長、太田SGS入試委員長、下井先生、栢原入試委員長、森島入試課長らと言葉を交わす。
  • ラウンジ:杉本係長より来年の戦略会議の件。
  • 常見先生:「青春記」談義

 

「名言との対話」3月9日。梅原龍三郎「葬式の類は一切無用のこと。弔問、供物の類はすべて固辞すること。生者は死者のためにわずらわさるべきにあらず」

梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう、1888年明治21年)3月9日 - 1986年昭和61年)1月16日)は、日本の洋画家。ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術琳派南画といった日本の伝統的な美術を自由奔放に取り入れ、絢爛な色彩と豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を展開。昭和の一時代を通じて日本洋画界の重鎮として君臨した。

日本近代洋画を代表する梅原龍三郎は20世紀初頭にフランスの国民的画家となっていたルノワール(1841-1919)との出会いから、終生彼に師事していた。20歳で渡仏した梅原は南フランスのルノワールの自宅・アトリエを訪問し親しくなる。その時「さあさあ奮発せん。私は彼に見られるに値する。私は彼の芸術をあまりに愛する。彼はそれを知らねばならぬ。」と自身を励ましている。

5年間の留学中、世界的巨匠に学ぶという得がたい経験をする。そして帰国後も梅原は日本にルノワールを紹介し、またルノワールと手紙のやりとりを続けている。37歳の年齢差であったルノワールと梅原の師弟関係は、魂の触れあった美しいものであった。

「個性がないと絵もそれを見る人間の目を引かない。個性を出した絵でないと人を打たぬし売れもしない。とはいっても、私はどんな小さな作品でも商品だと思って描いてはいないけどね」

梅原は帰国後、東洋(桃山・琳派・南画)と西洋(油彩画)の美の融合を目指し、絢爛な色彩と豪放な筆さばきでで装飾的な独自の画境を拓き、日本洋画界の重鎮となった。

家族だけの葬儀ですますことを遺言した偉人はいるが、その理由まで記した人はみかけない。遺言における葬儀の指示には、その人の人生観があらわれる。

 

 

 

湯浅八郎記念館(国際基督教大学博物館)

湯浅八郎記念館。

国際基督教大学博物館にある、初代学長の湯浅八郎(1890-1981年)の記念館を訪問した。

同志社普通中学を卒業後、少年移民として単身で渡米。カリフォルニアの果樹園で働く。カンザス州立大学に入学し昆虫学を学ぶ。天涯無縁の苦学生としてイリノイ大学で博士号を取得。イリノイ州博物調査局に勤務。結婚し文部省在外研究委員となり。ドイツ・フランス・イタリアに留学後帰国。

34歳、京都帝国大学教授。45歳、同志社第10代総長。57歳、同志社第12代総長に再任。63歳、国際基督教大学初代学長。72歳、理事長。

湯浅八郎の大学人としての経歴は見事なものであるが、もう一つのライフワークがあった。それは柳宗悦が提唱した「民芸」である。39歳、京都第1回民芸展をみて感動し民芸品の研究と収集を開始する。その後も、民芸品関係の仲間と研究を続け、81歳では京都民芸協会の会長になっていいる。亡くなった年に民芸品コレクション7000点を大学に寄贈した。そのコレクションを展示しているのが、湯浅八郎記念館だ。この民芸品は、酒やたばこをやらないで、講演料と原稿料で集めたものだ。

買った湯浅八郎「若者に幻を」(国際基督教大学同窓会・91歳で刊行)で、湯浅のエッセイを読了すると湯浅の人生観がよくわかる。

 

若者に幻を

若者に幻を

 

湯浅は徳富猪一郎(蘇峰)と徳富健次郎(蘆花)のすぐ上の姉の子である。

猪一郎は新島襄を神のように考えていた。そして健次郎は癇癪持ちであったことを述べている。同志社国際基督教大学に関与しすることになったことに納得する背景がある。

  • 構想は恒に、スケールは宇宙大に、スクジュールは永遠の枠のなかで
  • 民芸に関する柳宗悦の言葉:「見テ 知リソ」。「知リテ ナ見ソ」
  • 民芸道。民芸道人。
  • 50年もしたら、おそらく日系市民が、アメリカ大統領候補者として、花々しく登場するであろうことを予言してはばかりません。
  • 恩人をもつことは人生の最大の幸福である。
  • 京大を去り、同志社に骨を埋める覚悟をきめてからは、私たちの受難史は始まったのであった。
  • (91歳)の私としての究極的な結論であるとか主張ではありません。なぜなら私は、人間の無限ともいうべき可能性を信じ、私自身にもまだまだ成長円熟を期待するからです。

この本で、湯浅はアメリカ社会の国際感覚の成人化に深い感動を覚えている。昔日の「アメリカ・ファースト」とか、「アメリカに不可能なし」といった若気のいたりともいうべき稚気は、跡方もなくなっており、アメリカは成人したと語っている。その後のアメリカは、ブッシュ時代の「アメリカ・ファースト」の奢り、トランプの「アメリカ・ファースト」といわざるを得ない弱体化など、変化してる。まだまだ成人化には至っていないようだ。

また、この本の中で述べられている新島襄の教育観は参考になった。私立大学の存在意義を示している。

「一国を維持するは決して二、三英雄の力にあらず、実に一国を組織する教育あり智識あり品行ある人民の力に依らざる可からず、是等の人民は一国の良心とも言ふべき人々なり、而して吾人は即ち此一国の良心と言うべき人を養成することを務めんとす」(同志社大学設立の旨意)

「其学生独自一己の気象を発揮し、自治自立の人民(立憲国民)を養成するに至っては是私立大学特性の長所たるを信じぜずんばあらず」

http://books.rakuten.co.jp/rb/14714445/

「副学長日誌・志塾の風」170308

  • EZCastProを201教室で試す。
  • 今泉先生にEZCastProの使い方を教えてもらう。テレビ投影。
  • 杉田先生:人事関係を中心に相談
  • 志賀先生:「万葉歌」
  • 杉本係長
  • 由利課長

「名言との対話」3月8日。水上勉西方浄土などはなくて、永遠にここは地獄である。それなら、地獄の泥を吸って滋養となし、私は長生きしたい」

水上 勉(みずかみ つとむ、みなかみ つとむ、1919年大正8年)3月8日 - 2004年平成16年)9月8日)は、日本男性小説家

ある編集者が「文壇へわらじ履きで登場してきた観がある」といったそうだ。中学をやっと出て、後は多くの職業遍歴を重ねている。日本農林新聞、報知新聞、学芸社、三笠書房日本電気協会、小学校助教、虹書房を起業、文潮社、日本繊維新聞、東京服飾新聞、洋服行商人。「霧と影」「不知火海沿岸」「海の牙」を経て中山義秀から「お前、人間を書け。人間を書くしかないぞ」と諭されて、「雁の寺」を書き、42歳で直木賞を受賞する。その後、亡くなるまで膨大な量の作品を書き続ける。

自伝を読んだ。20数年間電燈がなかったほどの貧乏。禅寺へ小僧として出家。食べ物の差別と兄弟子たちからの隠微な集団的いじめ。脱走。禅宗坊主の虚偽世界。京都府庁の雇として満蒙開拓少年義勇軍の募集と自らの応募。奉天で中国人虐待の生活。肺病となって帰国。多くの女たちとのこと。まことに不幸な日々である。壮絶な前半生の記録だ。

「若州一滴文庫」は水上が故郷の若狭に私財を投じて建てた文庫で、故郷の田園のど真ん中に広い敷地を買い取り、自分おの集めた本や資料、自著や生原稿のすべてを収めている。それをふるさとの子どもたちに「本を読め」という思いをこめて贈った。私家版の水上勉記念館である。

水上勉がたどり着いたのは、冒頭の地獄論の心境である。生きることと死ぬことを対立的に考えず、今、ここにあることが生命の全体だとも語っている。壮絶な人生を生きたこの苦労人は、「ただひたすら生きよ」と教えてくれる。

 

 

文科省「私立大学等改革総合支援事業」の選定発表--4つすべて選定は多摩大を含む9大学。

文部科学省「私立大学等改革総合支援事業(平成28年度)」の選定が発表された。

多摩大は、今年度4つのタイプ全てで当該事業に選定された。昨年は3つのタイプが選定され、トップ5大学の次にランクされていた。

4つのタイプは「教育の質的転換」、「地域発展」、「産業界・他大学等との連携」、「グロ-バル化」である。

 全国の私立大学等の約8割の716校が申請し、1つ以上選定されたのは457大学。4つ全てに選定されたのは9大学のみで、多摩大学以外は下記のとおり。

東北福祉大学国際医療福祉大学東京都市大学芝浦工業大学武蔵野大学金沢工業大学長崎国際大学福岡工業大学

理工系と医療・福祉がほとんどで、文科系では多摩大と長崎国際大学のみ。

学内ガバナンス、教職員の協働などが機能していないと点数がとれないので、この選定には大きな意味がある。大学改革の総合指標といえる。

詳細は、文部科学省のホームページ参照。

http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2017/03/07/1340519_01_2.pdf

 http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/shinkou/07021403/002/002/1340519.htm

 f:id:k-hisatune:20170308061834j:image

 

「名言との対話」3月7日。「苦しみを去って楽しみを求むる道はいかん。答えて曰く、学問なり」

 中江 藤樹(なかえ とうじゅ、1608年4月21日慶長13年3月7日) - 1648年10月11日慶安元年8月25日))は、近江国滋賀県)出身の江戸時代初期の陽明学者。近江聖人と称えられた。

中江藤樹の門下生に、熊沢蕃山がいる。その弟子が大潮平八郎であり、佐藤一斎、幕末の藤田東湖吉田松陰などに受け継がれていった。戦前の小・中学校の修身の教科書には「近江聖人、中江藤樹」の名前が必ず出ていた。藤樹の思想は、戦前までの日本には確かに受け継がれてきた。

内村鑑三が英文で書き西欧社会に紹介した名著「代表的日本人」には、西郷隆盛上杉鷹山二宮尊徳日蓮と並んで中江藤樹も紹介されている。

 「父母の恩徳は天よりもたかく、海よりもふかし」

「このたから(真理)は天にありては、天の道となり、地にありては、地の道となり、人にありては、人の道となるものなり」

「天地の間に、己一人生きてあると思ふべし。天を師とし、神明を友とすれば外人に頼る心なし」

それ人心の病は、満より大なるはなし。」

藤樹の屋敷に藤の巨木があったことから、門下生から「藤樹先生」と呼ばれるようになる。塾の名は、藤樹書院という。

朱子学を学んだ後に王陽明の「知行合一」説に傾倒し、わが国で初めて陽明学を唱えた中江藤樹は生涯、民間にあって身を終わっている。盗賊を感化し、また山で薪をとる者も、田畑を耕す者も、遠村から老若男女が訪れて市井の聖人・藤樹の話に聞き入った。

中江藤樹は人の道を説く学問の楽しみを庶民に伝えようとしたのである。