牧野記念庭園(牧野富太郎)を訪問

k-hisatune2008-07-20

世界的植物学者・牧野富太郎博士(1862年ー1957年)については、子供のころ伝記を読んだ記憶がかすかにある。学校に行かずに植物学を極めた大変偉い人という印象を持っていた。この名前は、朝倉文夫昭和天皇などの記念館で何度か目にしたていたから、遅かれ早かれ訪問する予定だった。
牧野富太郎が65歳で移り住んで天寿を全うするまで32年間にわたって研究を続けた自宅は、西武池袋線大泉学園駅から徒歩5分の地にあった。今は牧野記念庭園となっており、2189へーべの広さで、340種類の草木類が植栽されている。暑い日だったが、この庭園の木陰に入ると実に涼しい。
保存するために鞘堂に収められている書斎と書庫は8畳間と4畳間である。シーボルトの弟子であった伊藤圭介(1803-1901年)の命名した「よう條書屋」と名付けられた書斎で、牧野は一日中過ごし万巻の書を読みふけった。うず高く積まれた書物の間で本を読み調べものをする晩年の写真が飾ってある。その上に「学問は底の知れざる技芸也」という牧野の座右の銘と思しき言葉が木片に書かれていている。
となりの資料記念館陳列室では博士が探し求めた植物の押葉や竹の標本、植物に関する書物、そして博士愛用の日常品が展示されている。流れているビデオの映像を見ていると、逝去のときの新聞記事があり、「牧野博士 ついに死去す」とあった。「ついに」とはどういう意味だろうか。あの熱心研究に没頭していた博士がとうとうというような愛を感じるがどうだろう。この地は日本の植物学の聖地である。
博士は小学校を1年生で辞めている。後は独学で植物学を学び、ついに世界的学者になった。日本や世界中から集めた標本は比較する必要があるため、常に新しい文献が必要であり、東京に出た牧野は一番充実している東大に出入りする。そして「日本植物志図篇」という雑誌を創刊している。このとき牧野は26歳だった。「日本の植物を、日本人の手で研究した成果を外国に知らしめる」ことが発刊の趣旨だった。その後、東大の助手、そして50歳を過ぎて講師になり、大学で自由に研究ができる環境を得る。
77歳のときには「書斎を離れるのは食事の時と寝る時だけで、私は早朝から深夜1時過ぎまで本の中で生活している。書斎に居る時が一番生き甲斐を感じる」と述べている。まさに植物の研究に没頭した人生だった。博士は生涯において1600種類以上の新種を命名している。これはリンネに次ぐ業績である。
「花在ればこそ 吾も在り」
「楽しさや押し葉を庭の木で作り」
「我が庭に咲きしフヨウの花見れば老いの心も若やぎにけり」。
「植物に親しむことは、生命を愛する心を養う」と博士は言ったが、「私は草木の精である」という極めつけの言葉も残している。ここまで来ると何も言うことはない。ただうらやましく、そして尊敬するだけだ。