土日は中津の実家に滞在。清張、鴎外、同級生、、、


土日は、郷里の中津に滞在。

土曜日は、母と一緒に小倉に出て、松本清張記念館を再訪する。

その後、鍛治町の」森鴎外旧居を訪問。明治32年6月から35年3月まで住んだ家である。ここで原作以上といわれたアンデルセンの「即興詩人」を書いた。クラゼヴィッツの「戦論」もここでの翻訳である。八幡製鉄の開所は1901年だったことは記憶にあったが、鴎外はこの陸軍第12師団軍医部長として開所式に出席している。鴎外の身長は161.2センチだったが、当時の日本人男子の平均は155センチだったから大柄だった。鴎外は、ここを起点に九州各地を精力的に旅行し、主な史跡はほとんど見て回っている。出張するときに、日記の行数が極端に増えた。古い文献、古美術品、そして人々との出会いを楽しんでいる。後に小倉を離れるときには、見送りが1000人を超えたという。
風通しのよいこの家で鴎外が使っていた八畳間には、「天馬行空」という書が架けてある。源高湛(みなもとのたかやす)といういみなで書いた鴎外の書の写しである。豊前の発明家・矢部良一の死後、その父におくった直筆の書である。

夕食は、同級生たちと1年ぶりに会った。瀬口、久持、羽生、藤田君らと清美ちゃん、ももちゃんの2人の女性陣と、11月に別府で開催する大同窓会の準備をさかなに「安べえ」で盛り上がる。そしていつもの「詩織」で得点の出るカラオケで点数を競い合う。最高点がでた。帰宅は午前になった。
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日曜日は、亡くなった横松宗先生の自宅を訪ね、母の親友の奥様と談笑する。中津の生んだ偉人を調べるのに、横松先生が残した書き物が重要だということが改めてわかった。立派な書庫で先生の集めた膨大な書物のなかで先生をしのぶ。

夕食は、内尾、瀬口の両君とイタリアン。安心院ワインを飲みながら、楽しく歓談する。医者の内尾君は電話で呼び出されいったん病院に戻り、また加わる。

帰省するたびに、小中高の仲間が集まってくれるのが嬉しい。