重光葵記念館。パール下中記念館。成川美術館。玉村豊男。

一泊二日の旅。いずれ、報告を書くが、今日はメモ程度に記す。


重光葵(1887-1957年)は明治の外交官・政治家。大分県杵築出身。湯河原の別邸で逝去。69歳。平和の調停者。
「志四海」(向陽)という額があった。四海を志す。志が全世界を覆う。志を全世界に及ぼす。この言葉を外交方針とした。
1929年上海領事。1931年駐華公使満州事変)。1932年右脚切断(上海事変停戦協定・爆弾)。1933年外務次官(46歳・広田外相)。1936年駐ソ大使。1939年駐英大使(日独伊三国同盟の危険性)。1941年駐華大使。1943年外務大臣(東条内閣・小磯内閣・終戦を木戸幸一内大臣と話し合う)。1945年外務大臣(東久邇内閣・日本全権としてミズリー号上で降伏調印)。戦犯になる。1952年改進党総裁。1954年日本民主党副総裁、鳩山内閣副総理・外務大臣。1956年日ソ交渉(不調)、国連加盟総会演説(「日本は東西の架け橋になる」)。1957年死去。

  • 箱根のパール下中記念館

極東裁判で日本無罪論を展開したインドのパール判事(1886-1967年)と、パール判事と兄弟の交わりをした下中弥三郎(1878-1961年)の記念館。
パール判事は「極東軍事裁判において法の真理を守り、ひとり毅然と全員無罪の法理を瞭かにした」人物で、日本の恩人。
パール判事の碑文(ベンガル語)は「すべてのものをこえて、人間こそは真実である。この上のものはない」。
下中の碑文は「世界連邦 平和の道 外はあらし 国人すべて ここにあつまれ」。

成川實が20年間に日本画を4000点集めた美術品を展示する美術館。山本丘人の絵は200点。
平松礼二(1941年生)の企画展が開催中。この人は2000年から2010年にわたって文芸春秋の表紙画を描いた日本画家。

玉村豊男(1945年生)は「自分の人生そのももをアートとして表現したい」という想いから、このミュージアムをつくった。「水彩画原画展」をやっていた。
玉村豊男は、エッセイスト、画家、農園主、ワイナリーオーナーという肩書を持つ文化人。

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小涌園に宿泊。中国人、韓国人、イタリア人も多く、グローバル化している。温泉地は、外人と老人で満杯。
「ON泉OFF呂」(温泉お風呂)というポスターがあったが、なかなか面白い。