東京多摩地区にゲリラ豪雨

ゲリラ豪雨で、自宅の目の前の多摩川は氾濫していないが、「東京多摩」という文字がテレビニュースなどで氾濫しているため、同情の問い合わせがある。
夜は雷の閃光と大きな音と豪雨で驚かされたが、特に被害はなかった。今回も改めて思ったが、多摩という名前で呼ばれている地域はずいぶんと広い。

本来の多摩地域は、令制国武蔵国多摩郡に当たるが、現在は三多摩が多摩と呼ばれる。多摩川と秋川の合流地点よりやや東の米軍横田飛行場付近から西が西多摩地域、それより下流の多摩川の南側が南多摩地域、北側が北多摩地域である。それぞれの中心地は、青梅、八王子、府中だったからなかり広範囲だ。

西多摩郡は現在の青梅・福生羽村あきる野市あたりを指していた。旧郡役所は青梅町にあった。
南多摩郡は現在の八王子・町田・日野・多摩・稲城市あたりを指してた。旧郡役所は八王子市にあった。
北多摩郡は現在の武蔵村山東大和・東村山・清瀬・東久留米・西東京・昭島・立川・国立・小平・国分寺・小金井・府中・三鷹・武蔵野・調布・狛江市及び世田谷区の西部(旧 砧村・千歳村)の区域を指していた。旧郡役所は府中町にあった。

さて、万葉の時代には着るものは絹と麻しかなかった。綿はもっと後から入ってくる。絹は上流階級が用い、庶民は麻を使っていた。この多摩の摩という文字はこの地域が麻が名産だったことを示している。

全国に数万といわれる万葉集の歌の歌碑があるといわれている。その一つが狛江にある万葉仮名で書かれた「万葉歌碑」である。漢字の当て字で表現される万葉仮名は音で表記されていたが、後にこれが平仮名になっていく。

たまがわにさらす
てづくりさらさらになにそこのこの
ここだかなしき

たまがわにさらさらとさらす手づくりの布のように、さらにさらにどうしてこの娘がこんなに可愛いのだろう、という意味で、万葉の中では有名な歌である。碑文をしたためたのは元老中だった松平定信で1805年(文化2年)に建立されたが、洪水で流された。そして1923年(大正12年)に再建されたという大きな歌碑である。

この歌は、万葉集の中の東歌(あづまうた)で、これらはみな作者未詳の「読み人知らず」の歌である。

ちなみに租庸調という物納課税があったのだが、
租は稲、庸は労役の代わりに布などを納める人頭税、調は産物だった。
麻で織った布を多摩川で晒して調として納めていた、ここから調布という名前がついたとも言われる。

狛江の歌碑は朝日新聞で紹介されていたので、訪れてみたい。