神保町のシェア書店「ほんまる」のオープンの日。
橘川さんのグループの見学会。私の本棚も少し入れ替えをする。
左から。田原、仁上、片岡、地蔵、橘川の各氏。撮影者は私。
「ほんまる」の私の棚「アクティブ・シニア革命」。この理念にあう自著を中心に登録して並べた。「イコール」増殖版の知研責任編集の「アクティブ・シニア革命」も並べる予定。
見学の後、昭和の匂いの立ち込める喫茶「襤褸」(ぼろ)で懇談。橘川さんに「人物記念館ミュージアム」の構想図と「アクティブ・シニア」の企画図を手交。
終わって、岡山の白石島で地域協力隊の活動をしている片岡玲実奈さん(25歳)と、シェア書店「PASSAGE」2号店(1号店のビルの3階)でお茶。400人ほどの島での活動の様子を聴く。いくつかアドバイスも。
皆さんとのやり取りの中で京都と白石島に行く案が浮上。
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「名言との対話」4月27日。佐田の山「お前たちはお客さんに『相撲を見せてやっている』と思っていないか。『見ていただいている』という気持ちで土俵に上がりなさい」
佐田の山 晋松(さだのやま しんまつ、1938年2月18日 - 2017年4月27日)は、長崎・五島列島出身の大相撲力士。第50代横綱。享年79。
1956年初場所に初土俵。1961年初場所に新入幕を果たした。入幕3場所目の夏場所、前頭13枚目で12勝3敗を挙げて初優勝。1963年、出羽海親方の長女と結婚。1965年初場所に3度目の優勝を果たし横綱に昇進。大鵬、柏戸の両横綱と全盛期が重なった不運があった。私は攻め続ける姿勢が好きだった横綱だ。
大鵬・佐田の山戦は常に大相撲となった。佐田の山が突っ張りで激しく攻める。大鵬は下からあてがいながら応戦し、あと一歩のところで組み止められることが多かったが、敢闘精神あふれる相撲をとった。大鵬に善戦する姿は目に焼きついている。ユーチューブで久しぶりに大鵬戦を何番か見てみたが、闘志あふれる姿は爽やかだ。
「この柱、現在はコンクリート製ですが、私が若い頃は木製でした。部屋での稽古が終わった後、この電信柱に向かって何度も何度もテッポウを繰り返しました。この電信柱が私の基礎を作ったと思っています」「力士たるもの、はがき一枚出すにも着物で行け」
1967年11月場所では12勝3敗で5度目の優勝、1968年1月場所では13勝2敗で連覇を果たしたのだが、3月場所で序盤に3敗を喫するとあっさり現役を引退した。出羽海部屋の名横綱に見られた「引き際の潔さ」という伝統を受け継いだと言われている。
「引退して少しは楽になるかと思ったらとんでもない。ますます大変になった。こんなことならもう少し現役を続けていれば良かった」と後悔する口ぶりだったが、出羽ノ海部屋を立派にマネジメントした。師匠としては、三重ノ海を横綱へ育てたほか、子飼いの弟子からも関脇・出羽の花、小結・大錦、佐田の海、舞の海などの幕内上位力士を多数育成した。
二子山理事長が停年を迎えた1992年からは日本相撲協会理事長を3期・6年にわたり務めた。現役時代に苦杯をなめた大横綱大鵬が理事長にはなれなかったのとは対照的だ。引退後はライバルを圧倒したのである。一方、一代年寄の栄誉を担った大鵬は、白鵬という不世出の横綱を育てている。
こういうライバル関係で思い出すのは将棋の世界だ。「北海の美剣士」二上達也という天才棋士の時代には、大山康晴という突出した名人がいた。二上は9歳年上の大山康晴とは、通算で45勝116敗と苦杯をなめた。タイトル戦では20回対戦し奪取2・防衛0・敗退18であるが、大山の五冠独占を2度崩している。天才・二上達也の名前は、メディアでよく見たものだが、大山は自分を脅かすその二上を浮上させないように気合を入れて対局に臨んでいた。
二上の10人の弟子の一人が、2019年に大山康晴の通算勝利数を抜いた天才・羽生善治だ。1989年に弟子の羽生と初めて公式戦で対局し、負けて引退を決意する。二上は大山会長の後を継いで日本将棋連盟会長に就任する。7期14年の長期政権となり、大山の12年を超えた。二上は「最後にようやく勝った」と述懐している。
「見ていただいている」は、力士としての発言ではなく、歴史と伝統ある大相撲を率いる日本相撲協会理事長としての名言である。